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「等価交換」思想(生贄の思想)と倫理の相克

先に、考察の出発点として、とあるツィートを引用しておく。

(以下引用)

「犠牲を捧げ力や救済を得る」という「生贄の論理」は古代宗教に広く見られる。旧約聖書でアブラハムに子イサクを捧げよと命じた猶太の神、イエスという人物が犠牲になる事で世界が救済されたとする教義、原始仏典にも記録がある古代バラモン教の動物供犠、子供を犠牲にした古代中東のモレク崇拝等々。

(以下考察)

この「生贄の論理」というのは「交換の原理」であり、「交換の原理」は基本的に「等価交換」である。商業の土台だ。ただし、「生贄」というのは「求める利益の代償として生命を捧げる」ことであり、その生命はたいてい非権力的存在だ。権力者自身が犠牲になることはまず無い。キリストも非権力者だったから十字架にかけられたのであり、後の「キリスト教」はその死を利用して自分たちの宗教の権威付けをしたわけである。
つまり、「彼の死によって世界が救われた」と強弁したのだが、キリストが死んだ時点では単なる「罪人」として死んだだけである。一個人の死が人類全体と「等価交換」されたとする壮大なフィクションがキリスト教である。
で、実はこの生贄の原理、あるいは交換の原理というのが実に下種な思想であり、そこには「無私の善意」が存在しない。あくまで何かと何かを交換しないと成立しない、「商人的思想」なのである。商人がタダで商品を施せば商売にはならない。しかし、はるかな昔から、「自己犠牲」という行為は崇高な行為として人類の精神を高めてきたのである。そういう意味ではキリストが自らの信念のために死を受け入れたのは自己犠牲である。だが、それは「生贄」ではない。ここに「キリスト教の欺瞞」がある、というのが私の考えだ。つまり、本来のキリストの思想と「キリスト教」はキリストの死の時点で大きく変質している。「キリスト教」の中にユダヤ教が入り込んだわけだ。我が子を犠牲にして自分が救われるという悪質な生贄の思想の換骨奪胎が、「キリストの死という生贄で人類が救われた」という思想にほかならない。

商業は「合理性」が土台である。それだけに、合理性に欠けると判断される行為を排除する。自己犠牲や慈愛や慈悲(無私の善意や施し)など、愚の骨頂だ、となるわけだ。そこに、精神の退廃の萌芽がある、と私は見ている。
倫理や道徳は精神的な美が商業的合理性より人間として優れたあり方だ、とするのである。要するに、人間社会での「合理性」とはほとんどが「合利性」つまり、利益になることの謂であって、そういう「合利性」が現代世界を蔽っているのは言うまでもない。それがいかに「残酷な社会」を作っているかも言うまでもないだろう。善意や慈悲はどこに消えたのか。


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