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「新興宗教」考

私の生涯の宿題のひとつは、「宗教(神仏)と無関係な道徳の確立は可能か」、というもので、その具体的な内容を考察したいと思っているのだが、先に、その前提である、「宗教と無関係な道徳」の可能性を考えると、それはある意味では「通俗道徳」であり、「公徳心」であり、その土台は「社会という存在そのもの」である。つまり、神仏ではなく「社会」そのものを尊ぶことが公徳心である。もちろん、神仏への信仰と公徳心は両立するし、それどころか、お互いを強化するだろうが、私が言うのは、「神仏への信仰」無しでの公徳心であり、今の「通俗道徳批判」の風潮に逆らって、それこそを「通俗道徳」と名付けたい。まあ、それが嫌みなら「基本道徳」でもいいし「公徳心」という使い慣れた名前でもいい。

前に書いた、「西洋ではキリスト教を信じなくなった結果、モラルが完全に失われた」という話だが、これは当然の話である。土台となる存在無しで建築はできない。つまり、これまでの西洋社会の道徳は土台となる存在(ユダヤ・キリスト教)が虚構だったために、その虚構性が全体の共通認識となった結果、キリスト教道徳全体が「空中楼閣」だったと認識され、崩壊したわけだ。
では、日本の場合はどうか。仏教を信じている人間の数は非常に少ない(仏教思想に好意を持っている私のような人間は多いだろう。)と思うが、その反面、怪し気な新興宗教の信者は驚くほど多いと私には思える。私はそれらの新興宗教の教義が分からないので、単にその教祖たちの風貌の下劣さを見るだけで反発を感じるし、仄聞する教祖の人格も下劣な印象なので、なぜ彼らがあれほどに信者を集められたのか、不思議でならない。
教祖の印象は別として、その信者たちは案外穏健で善良だろうと私には思える。教団の強引な金集め以外には、彼ら信徒が悪質な行動を取った例はほとんど無いからだ。例外がオウム真理教だろうか。
新興宗教というのを、どの時点から「新興」とするのかと問うなら、たとえば英国国教会など、強引そのものの作り方をした「新興宗教」で、国王が(愛人と結婚しようとして)今の王妃と離婚するためだけに作ったようなものである。(カソリックは離婚ができなかったからだ。)そういう無茶苦茶な宗教を英国人の大半が信じたという事実から見ても、宗教が伝統宗教か新興宗教かということ自体は、あまり根本的な問題にはならないだろう。問題は教祖の人格と教義と教団の行動である。ほとんどの新興宗教は「教祖の神格化」を行っているので、内部にいるとほとんど無意識のうちに洗脳されるのだろう。で、教義自体は実はどの教団でも大差はないのではないか。おそらく「通俗道徳の勧めによる現世利益」が中心だろうと思う。せいぜいが、仏教系かキリスト教系か、あるいはまったく新しい系統かという違いだけだろう。
統一教会が邪教とされているにしても、キリスト教系新興宗教である、という点では英国国教会とそれほど差は無いわけだ。あと50年も教団が継続したら、「伝統宗教」となる可能性すらあるのである。単に「勝共連合」の金集め組織が、そうなるわけだwww
さて、宗教による、あるいは宗教によらない「通俗道徳の勧め」によって、社会が安全平和になるなら、はたして通俗道徳は否定されるべきなのかどうか、というのが私の提起する問題だ。何度も言うが「立身出世主義」などを通俗道徳と呼ぶのは不適切であり、それは道徳でも何でもない。また仮に「立身出世して自分の家族を、いや社会全体を良くしよう」とするなら、それこそ本物の道徳的思想だろう。「立身出世主義」でない人間が出世できないのは社会が悪いとするなら、それは性格的に恋愛ができない人間が存在するのは社会が間違っている、というのと同じ話である。
まあ、恋愛云々は、いずれ書こうと思っていた思考テーマが頭をもたげただけであるwww

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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