Who has seen the wind?
Neither I nor you:
But when the leaves hang trembling,
The wind is passing through.
Who has seen the wind?
Neither you nor I:
But when the trees bow down their heads,
The wind is passing by.
詩は、解釈を要する文芸だ。
読んだままに感じる感興も大切だが、その一方で、様々な角度から読み解く努力もまた、詩を楽しむための必須のプロセスだと思う。
忖度と似ているようにも思える。が、全く違う。
思い切った言葉を使えば、詩を読み解くには、それなりの「教養」が要るということでもある。
教養とは学歴や知識ではなく、思考を楽しむ姿勢だ。
英語の詩を読むことは、解釈をあれこれ考えることの喜びを教えてくれる。
英語という障害を超えなければならない分だけ、日本語の詩をそのまま読む時よりも、多大な思考を費やさなければならない。で、それだけ、詩を読む者の経験は豊かになる。
私自身、中学生の頃から、日本語の詩よりも、英語の詩になじむ時間のほうが長かった。
私が英語の詩に拘泥した理由のひとつは、告白すれば、ポップミュージックの歌詞を翻訳することで、楽しみながら受験知識が身につくことを期待していたからでもある。
結果をお知らせするなら、たいして学力がついたわけではなかった。
とはいえ、私が英語の詩や歌詞を自力で翻訳する作業から与えられた果実は、偏差値よりずっと大きなものだった。
試みに、中学生の時に大好きだった Who has seen the wind を、自分なりに翻訳してみることにする。
誰が経済を回しているのだろう
あなたも私も回してない
でも、なじみの店が看板をおろす時
経済は空回りをしている
誰が経済を見たのだろうか
あなたも私も見ていない
ただ、ホームレスの寝息が止まる時
経済は通り過ぎている
なまぐさい翻訳になってしまった。
こういう一方に偏向した解釈はよろしくない。
正しい訳は、それぞれ辞書を引きながら考えてみてほしい。
正しい解釈は、自分の頭脳を正しく駆使した人にだけ、正しく授かるはずだ。だと良いのだが。
(文・イラスト/小田嶋 隆)