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「体(てい)」と実態

まあ、私自身、「嘘と演技」の重要性を「生活の技術」という記事の中で書いているので、この記事筆者のほぼ同類だが、読んでいると気持ち悪いwww 世間に受け入れられやすくなることと、それが自分の心術(心の在りよう)を爽やかにするか不快にするかは別物だ。私は嘘や演技が苦手で嫌いだからこそ、その重要性を誰よりも理解しているのだろう。
ちなみに、下に書かれていることの実践見本が「弱キャラ友崎くん」というライトノベル、およびその漫画化、アニメ化に見事に描かれている。
私は、他人に誤解されても動じることなく堂々と平然と生きる人間が大好きだ。言葉より行動で自分の実態を示せばいい。

(以下引用)長いので、あるいは途中省略するかもしれない。

いろいろ役に立つ「体」の運用について


 
saize-lw.hatenablog.com
 
つい先日、「体(てい)」というキーワードで実践的な内容を見事に言語化しているブログ記事を見かけた。昔は、こういう面白くてためになるブログ記事、有用だけど一部の人たちの嫌悪や反感を買いがちなブログ記事には大勢のブロガーが言及記事を次々にアップロードしたものだった。残念ながら2023年にはそんなブロガーはほとんど存在しない。はてなブックマークの100文字以内のコメント、それかツイッターの140字以内のコメントで言及欲や言語化欲を満足させてしまう。
 
 
私は、何かグシャグシャと書きたくなった。
いろいろ役に立つ「体」の運用について、私なりに言語化してみたい。
 
その前に、リンク先のブログ記事の優れっぷりについて少しまとめてみたい。
 
筆者は採用面接や職場における「体」の重要性を説明している。ここでいう「体」とは体裁の「体(てい)」のことだが、「他の人に向けた一貫性を保証すること」というなら「キャラ」という言葉も近い。このブログ記事の旨いところのひとつは、「キャラ」という似て非なる語彙によらず、わざわざ「体」という語彙を用いているところだと思う。フォーマルな場面を想定しやすくなるし、後半の「本心vs嘘というパラダイムを捨てる話」や「不問に付すという行為の正体の話」の筆致との統一感がすごくいい。この「体」を軸に据えた中心とした言葉運びのおかげで、内容が役立つ場面が想像しやすくなっている。
 
こんな素晴らしいブログ記事がいつでも書けたらいいんですけどねえ。もし、こういう記事を毎月書いていたらプロすぎでしょう。でも、ここまでの記事を量産できる人はそう多くないし、へたにこういう記事ばかり狙おうとすると転びやすくなってしまうからブログの道は難しいものですね。
 
それより本題に戻らないと。
 
続いて、「体」について私も書きたくなったので書いてみる。リンク先筆者のLWさんと言いたいことが重なっているかもしれないし、重なっていないかもしれない。とにかくこれも機縁と思い、前から思っていたことを言語化したくなったので言語化してみる。
 
 

「体」をマニフェストとして、シグナルとして表出・運用する

 
「体」は就職活動や職場だけでなく、あらゆる人間関係、あらゆる社会関係で求められるものだ。体裁としての「体」は、周囲の人に自分はこういう人間ですと伝える「マニフェスト」であり、自分という人間の「取扱説明書のようなアナウンス」であり、私はこういう人間なのでよろしくねーという「シグナル」でもある。
 
だから「体」をうまく表現できるかどうかとは、自分についての情報伝達やシグナリングがうまく実施できるかどうかとほぼイコールで、それは就職面接の帰趨を左右するだけでなく、職場や家庭の日常をも左右する。というより継続的な「体」の表出は日常においてこそモノを言うだろう。ディスコミュニケーションが発生してしまう確率を下げ、自分についての誤解を減らすためには「体」を常時・望ましいかたちでアナウンスしておく必要がある。その際、「体」として他人に差し出されるインフォメーションにはいろいろな内容が含まれてしかるべきだろう。
 
たとえば自分はこういう分野が得意で関心を持っているという情報。そういう情報を「体」として出せば、周囲の人は「おまえ、確かここの分野が得意で関心を持っていたよな?」と思うようになり、そういう分野の仕事を引き受ける確率に影響する。ただし、そのような「体」の表明はそういう分野の仕事ならある程度の骨折りを私は惜しまないですよ、というお引き受けのマニフェストを否が応でも含んでしまう。リンク先のブログ記事にもあるように、「体」のマニフェストは別に嘘でも構わないのだが、嘘でもそういう「体」を表明すれば、それに沿った行動を期待されるのは避けられない。そうしたことを踏まえたうえで、いかに自分にふさわしく可能でもある「体」を表明できるかが問われることになる。
 
で、そうした情報に加えて、たとえば人生観なども「体」の一環として表明しておくとディスコミュニケーションを減らせるかもしれない。人生観を表明する場面は、就職面接のなかにあるかもしれないし、ないかもしれない。しかし職場などの活動領域を共有していれば必ずそういう話をする場面が出てくるし、そうでなくても会話のなかにそれとなく混ぜ込んでおく機会は巡ってくる。たとえば結婚する前から「子どもが生まれたら子ども第一の働き方をしたい」と職場や活動領域のメンバーに表明しておくこともマニフェストの一部、ここでいう「体」の一部になる。それは子どもが生まれる前後においてどのようなワークスタイルが可能になるのか、どのようなワークスタイルが好ましいとみなされるのかを左右する因子になる。逆に、そうした「体」を一切表明しないまま、唐突に子どもをもうけて唐突にワークスタイルを豹変させると、ディスコミュニケーションや職場の混乱が起こりやすくなる。そのとき、混乱の戦犯とみなされやすいのは「体」をとおして前もってマニフェストしていなかった者だ。
 
もちろん、こうした「体」のアナウンスや表出を周囲がどう受け取るかはわからない。完全に拒絶する人や組織があるかもしれないし、逆にそういったものを早くから認識しあい、持ちつ持たれつの体制をとろうとする人や組織もあるかもしれない。周囲の反応を確認せずに「体」を繰り返しアナウンスしても有効性が乏しいことはままある。その場合、周囲の人々や組織をよく観察し、どのような「体」にモディファイすれば受け取ってもらいやすいのか、再検討しなければならない。というか世渡りがうまい人はたいてい、この再検討を無意識のうちにPDCAサイクルしてコミュニケーションの最適化をはかる。最適化をとおして自分がアナウンスする「体」が周囲にとってなんらか有意味な情報伝達となるように計らい、と同時に自分にもメリットのあるコミュニケーションになるよう計らう。もちろんそれは周囲の人それぞれの「体」を認識しあったうえでの舵取りになるだろう──「体」を示しているのは自分だけではないのだから。
 
でもって、今、受け取ってもらえるか否かのために「体」を変えていくだけでなく、将来の状況の変化や目指さなければならない目標の変化を踏まえて「体」を変えていくこともできる。もちろんこれには時間がかかる。なぜなら今まで自分がマニフェストしてきた「体」を周囲の人はもう記憶し、それをあてにしているからだ。たとえば就職直後の「体」のなかに「私は家庭にちっとも興味ありません」というマニフェストが含まれている人がいきなり結婚して家庭第一の生活になったら、周囲の人はびっくりするだろう。のみならず、冒頭リンク先で述べられている「他の人に向けた一貫性を保証すること」が果たされていないと思われてしまうリスクも高まる。そうすると心証が悪くなったり職場の仕事の割り振りを困難にしたりするかもしれない。仕事の割り振りがなんとかなったとしても、「あいつがそうするのは理解できることだ」と納得してもらえる確率が下がり、「あいつ、いきなり掌返しやがって」といった反感を買う確率が上がる。そういった予測不能性は、職場の運行に際して困るからだ。同僚の残業を30分増やす程度ならまだいいほうだ、後日ちょっとしたお返しをすればそれで済むから。それで済まない事態はできるだけ避けたい。
 
してみれば、「体」の表明が適切にできるかどうかを就職志望者に問うてみることは職場にとってかなり重要かもしれない。「体」を表明し慣れている人は、自身の行動を適切にシグナリングできるだけでなく、もし急に気が変わっても当面は「体」を尊重し行動してくれると(ある程度まで)期待できる。逆に「体」を表明し慣れていない人だとしたら、自身の行動をあまりシグナリングしてくれないために周囲の人との間にディスコミュニケーションが起こりやすいかもしれない。または、気が変わった時にマニフェストを急に撤回し、周囲を振り回すような事態を招くリスクが高いかもしれない。
 
「体」の内容には一貫性は必要とされる。けれども長い目で考えた場合、「体」にはしなやかさも必要になる。「体」は微調整が可能だし、しておいたほうが良い。それは自分自身のマニフェストとしての「体」を周囲の人により受け取ってもらいやすくするためだけでなく、将来の自分にとってより都合の良い内容の「体」に少しずつアップデートさせていくことをとおして、将来、自分の活動領域でどんな行動を許容してもらうのか・どんな行動を引き受けていくのか、その可能性を微調整していける。これは絶対に有効な技法ではないかもしれず、将来の状況を絶対に変えられると約束するほどではない。まして、自分にとって全面的に得な変更だけできるのでなく、自分が代償を支払うマニフェストを伴っていなければ筋が通らない。それでも将来の状況を変える変数のひとつたり得る、ぐらいは言ってもばちが当たらない。だからやっておく値打ちはある。
 
 


「体」は他人のため?自分のため? 不自由をもたらす?自由をもたらす?

 
冒頭リンク先のブログ記事では、「体」について本心か嘘かの二項対立的な捉え方は捨てましょう、といったことが書かれていた。私も賛成だ。でもって、ここまでお読みになればわかるように、「体」を他人のためか自分のためかで捉えるのもナンセンスだ。不自由をもたらすか自由をもたらすかで捉えるのも、たぶんナンセンスだと思う。
 
「体」は自分が社会適応しやすくするためのマニフェストという点では自分のためだが、自分に関する他人の理解をはかどらせる、意思疎通をしやすくし、自分の将来の行動を予測づけしやすくするよう情報提供しているという点では他人のためのものだ。
 
同じく、「体」はマニフェストとなって自分の行動を縛ったり、自分が果たすべきミッションを決めてしまう一面があるという点で不自由だが、「体」に沿ったかたちの行動を周囲に受け入れられやすくする・「体」の微調整をとおして将来の行動が受け入れられる可能性や確率に働きかけられる点では自由に貢献する。
 
こういう、二項対立の両面の性質を持つ考え方が苦手な人がいるのはわかる気がする。善か悪か、利他的か利己的か、肯定すべきか否定すべきか、嘘か本当か、そういった具合にどうしても二項対立的に物事を捉えてしまう人は後を絶たない。ここでいう「体」もその最たるもののひとつだろう。でも、社会の構成要素は往々にして二項対立的な捉え方を受け付けない要素から成っている。コミュニケーションの領域には特にそうした要素から成るものが多い。「体」の非-二項対立的な性質について理解を深めることは、コミュニケーションの領域のいろいろについて理解を深めることにも通じているので、そういう意味でも冒頭リンク先のブログ記事は啓発的な内容だと思う。
 
 



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酔生夢人
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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