前に書いたように、パウロの「ローマ人への手紙」の、下に引用した部分には現在の「キリスト教」の、あるいはローマ・カトリックにおける「キリスト教」のエッセンスがすべて入っていると思う。それを考察してみる。
(以下引用)
「だが、いまや、律法とは無関係に、人間が神から正しい者と認めていただくための新しい道が示されている。それは律法と預言者たちによって証言されてきた道である。それは、だれでもイエス・キリストを信じる信仰によって神から正しい者として認められる、という神のご意思であって、この新しい道は信じる者すべてに、いかなる差別もなく与えられる。人はみな罪を犯したので、神の栄光にあずかれなくなってしまった。ところが神はご慈愛を示し、キリスト・イエスの救いのお働きによって、罪を犯した人が神との正しい関係に入れるようにしてくださった。つまり神はキリストを〈なだめの供え物〉にし、もし私たちがキリストを信じるなら、いけにえとしてのキリストの血のゆえに私たちの罪を許す、という新しい救いの道を開いてくださったのである。いけにえとしてのキリストの死は、神の正しさを示すために必要なものであった。というのも、神は人々の罪に目をつぶり、罪の代価を要求することもなく、あまりにも長くこれを忍んでこられたからである。いまや、神はご自身の公正さを示すために、キリスト・イエスを信じるすべての人を正しい者として受け入れることを明らかにしてくださった。」
(以上引用)
まず、
1:だれでもイエス・キリストを信じる信仰によって神から正しい者として認められる
というのが、キリスト教の最大のポイントであり、それ以前のユダヤ教との分岐点であるのは明白だろう。なぜ「エホバ教」ではなく「キリスト教」なのかと言えば、「キリストを通じて人間と神がつながる」という一点によるわけだ。そして、それは「神の意思」だとパウロは言う。しかし、それがなぜ神の意思だと言えるのかは言わない。(「律法と預言者たちによって証言されてきた」とパウロは言うが、「律法」の中にイエスの事が出てこないのは当然としても、ナザレのイエスという人物が預言者たちが言ってきたキリスト=救い主であるかどうかは彼らの預言からは分からないはずである。)
ここに大きな詐欺があり、このパウロの言葉を信じてキリスト教に入る者は、実は「キリストを通じて神につながる」のではなく、「パウロを通じて神につながる」のである。そして「神につながる」かどうかは証明されていない。つまり、ただの幻想にすぎない可能性が大なのである。言い換えれば、「キリスト教」とは実は「パウロ教」であり、キリスト(イエス)は単なる「物言わぬ(既に死んでいるから言えない)人形」であるわけだ。あえて言えば、イエスの教えはイエスの言葉にしか存在せず、イエス自身は「自分がキリストである」とも「私を信じれば、神に救われる」とも一言も言っていないはずである。(「したがってヴェルメシュは、ペテロへの答えも大祭司やピラトへの答えも、イエス自身はキリスト(メシア)であることを否定したものと理解すべきだという。」山本七平「聖書の常識」より)
パウロとは、キリストを利用して「宗教の帝国」を作った人間であり、「カラマーゾフの兄弟」の「大審問官」はまさしくその陰画だ、と私は思っている。まあ、ドストエフスキーはローマ教会を嫌っていたが、パウロを嫌っていたかどうかは分からないので、これは私の主観的意見である。しかし、ローマ教会を嫌うなら、その建設者とも言えるパウロを否定するのが当然だろう。
その他の部分について簡単に触れておく。
2:人はみな罪を犯した
というのは、つまり「原罪説」だろう。この「人」というのは文字どおり全人類である。つまり、アダムとイブが神の言いつけに背いたこと(これ自体、非常に奇妙な話で、知恵の木の実を食べたために楽園を追放されたと言うが、無邪気な子供の目の前にケーキを置いて、「食うな」と命令して、それを子供が食べたら家から追放する親がいるだろうか。)だけでなく、その子々孫々に至るまで全人類は永久に罪を負うらしい。あるいは、その「罪」は、イエスを殺した、あるいは見殺しにしたことだとするなら、これは後に出て来るパウロ自身の言葉と矛盾する。その部分を先に書けば、
3:いけにえとしてのキリストの血のゆえに私たちの罪を許す
4:いけにえとしてのキリストの死は、神の正しさを示すために必要なものであった
である。つまり、キリスト(イエス)の死は神が設定したものである、ということだ。この件に関しては、キリストを死刑にさせた者たちも死刑にした者たちもまったく無実だということになる。
そうなると、2の「人はみな罪を犯した」の罪とは何なのか、というのが再度問題になるだろう。少なくとも、生まれたばかりの幼児は何ひとつ罪を犯していないはずだ。とすれば、「人はみな罪を犯した」と言うためには、あらゆる人間はその祖先すべての罪を背負っている、というとんでもない論になる。仮にそれがアダムとイブの罪の話なら、全人類はアダムとイブから生まれた、ということが証明されないとならないだろう。白人も黒人も黄色人種もすべて兄弟だ、となる。ならば、なぜ人類はこれほど種族や民族ごとにいがみあうのか。まあ、少なくとも私は、自分がたとえアダムとイブの末裔だとしても、そんな先祖の罪を相続する気はまったく無い。
そして、キリスト教の神についても、
4:いけにえとしてのキリストの死は、神の正しさを示すために必要なものであった
という、とんでもない考え方をする神ならば、まったくくだらない神だとしか思わない。神をこのような存在だとすること自体が最大の涜神だろう。
ということで、私は「キリスト教」、いや「パウロ教」はまったく信じない。イエスという存在自体は、あるいは人類史の奇跡かもしれないと思っている。
(以下引用)
「だが、いまや、律法とは無関係に、人間が神から正しい者と認めていただくための新しい道が示されている。それは律法と預言者たちによって証言されてきた道である。それは、だれでもイエス・キリストを信じる信仰によって神から正しい者として認められる、という神のご意思であって、この新しい道は信じる者すべてに、いかなる差別もなく与えられる。人はみな罪を犯したので、神の栄光にあずかれなくなってしまった。ところが神はご慈愛を示し、キリスト・イエスの救いのお働きによって、罪を犯した人が神との正しい関係に入れるようにしてくださった。つまり神はキリストを〈なだめの供え物〉にし、もし私たちがキリストを信じるなら、いけにえとしてのキリストの血のゆえに私たちの罪を許す、という新しい救いの道を開いてくださったのである。いけにえとしてのキリストの死は、神の正しさを示すために必要なものであった。というのも、神は人々の罪に目をつぶり、罪の代価を要求することもなく、あまりにも長くこれを忍んでこられたからである。いまや、神はご自身の公正さを示すために、キリスト・イエスを信じるすべての人を正しい者として受け入れることを明らかにしてくださった。」
(以上引用)
まず、
1:だれでもイエス・キリストを信じる信仰によって神から正しい者として認められる
というのが、キリスト教の最大のポイントであり、それ以前のユダヤ教との分岐点であるのは明白だろう。なぜ「エホバ教」ではなく「キリスト教」なのかと言えば、「キリストを通じて人間と神がつながる」という一点によるわけだ。そして、それは「神の意思」だとパウロは言う。しかし、それがなぜ神の意思だと言えるのかは言わない。(「律法と預言者たちによって証言されてきた」とパウロは言うが、「律法」の中にイエスの事が出てこないのは当然としても、ナザレのイエスという人物が預言者たちが言ってきたキリスト=救い主であるかどうかは彼らの預言からは分からないはずである。)
ここに大きな詐欺があり、このパウロの言葉を信じてキリスト教に入る者は、実は「キリストを通じて神につながる」のではなく、「パウロを通じて神につながる」のである。そして「神につながる」かどうかは証明されていない。つまり、ただの幻想にすぎない可能性が大なのである。言い換えれば、「キリスト教」とは実は「パウロ教」であり、キリスト(イエス)は単なる「物言わぬ(既に死んでいるから言えない)人形」であるわけだ。あえて言えば、イエスの教えはイエスの言葉にしか存在せず、イエス自身は「自分がキリストである」とも「私を信じれば、神に救われる」とも一言も言っていないはずである。(「したがってヴェルメシュは、ペテロへの答えも大祭司やピラトへの答えも、イエス自身はキリスト(メシア)であることを否定したものと理解すべきだという。」山本七平「聖書の常識」より)
パウロとは、キリストを利用して「宗教の帝国」を作った人間であり、「カラマーゾフの兄弟」の「大審問官」はまさしくその陰画だ、と私は思っている。まあ、ドストエフスキーはローマ教会を嫌っていたが、パウロを嫌っていたかどうかは分からないので、これは私の主観的意見である。しかし、ローマ教会を嫌うなら、その建設者とも言えるパウロを否定するのが当然だろう。
その他の部分について簡単に触れておく。
2:人はみな罪を犯した
というのは、つまり「原罪説」だろう。この「人」というのは文字どおり全人類である。つまり、アダムとイブが神の言いつけに背いたこと(これ自体、非常に奇妙な話で、知恵の木の実を食べたために楽園を追放されたと言うが、無邪気な子供の目の前にケーキを置いて、「食うな」と命令して、それを子供が食べたら家から追放する親がいるだろうか。)だけでなく、その子々孫々に至るまで全人類は永久に罪を負うらしい。あるいは、その「罪」は、イエスを殺した、あるいは見殺しにしたことだとするなら、これは後に出て来るパウロ自身の言葉と矛盾する。その部分を先に書けば、
3:いけにえとしてのキリストの血のゆえに私たちの罪を許す
4:いけにえとしてのキリストの死は、神の正しさを示すために必要なものであった
である。つまり、キリスト(イエス)の死は神が設定したものである、ということだ。この件に関しては、キリストを死刑にさせた者たちも死刑にした者たちもまったく無実だということになる。
そうなると、2の「人はみな罪を犯した」の罪とは何なのか、というのが再度問題になるだろう。少なくとも、生まれたばかりの幼児は何ひとつ罪を犯していないはずだ。とすれば、「人はみな罪を犯した」と言うためには、あらゆる人間はその祖先すべての罪を背負っている、というとんでもない論になる。仮にそれがアダムとイブの罪の話なら、全人類はアダムとイブから生まれた、ということが証明されないとならないだろう。白人も黒人も黄色人種もすべて兄弟だ、となる。ならば、なぜ人類はこれほど種族や民族ごとにいがみあうのか。まあ、少なくとも私は、自分がたとえアダムとイブの末裔だとしても、そんな先祖の罪を相続する気はまったく無い。
そして、キリスト教の神についても、
4:いけにえとしてのキリストの死は、神の正しさを示すために必要なものであった
という、とんでもない考え方をする神ならば、まったくくだらない神だとしか思わない。神をこのような存在だとすること自体が最大の涜神だろう。
ということで、私は「キリスト教」、いや「パウロ教」はまったく信じない。イエスという存在自体は、あるいは人類史の奇跡かもしれないと思っている。
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