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古典の花園


第四章 ユーモアとパロディ

 前の章が悲哀感に満ちた歌ばかりでしたから、ここでは笑いのある古典を紹介しましょう。ただし、ここで紹介する古典は、それに先行する古典のパロディがほとんどですから、その関係がわからないと何が面白いのかわからないと思います。かつての日本人の笑いは文化的伝統を共有していることを前提としており、現代の我々から見れば、庶民に至るまで高度な文化的教養があったという感じがします。それはもちろん、鼻持ちならないスノッビズム(文化的俗物臭)に堕すこともあるのですが、現代のように教養の共有が無く、会話や笑いから教養が消えてしまった時代から見ると、ひどく羨ましいものに思えます。

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歌詠みは下手こそよけれ。
あめつち(天地)の動き出してたまるものかは。 (宿屋飯盛)

 狂歌は、和歌の形式で笑いを狙った作品ですが、たとえば万葉集にある、大伴家持がやせっぽちの男に、夏痩せに効くという鰻でも食いなさい、という歌を詠み、ただし、鰻を取ろうとして川に流されるなよ、と詠んでからかったのは狂歌に近いものです。1の歌は、もちろん、古今和歌集仮名序の有名な一節のパロディで、力も入れないで仏や神を感動させ、天地をも動かすのが歌である、と述べた仮名序に対し、歌で天地が動き出してはその上で暮らしている人間はたまったもんじゃない。ならば、下手な歌詠みのほうがましだ、とからかったものです。


 菜(さい)もなき膳にあはれはしられけり。
 鴫焼き茄子の秋の夕暮れ。   (唐衣橘州)

 三夕の歌の一つ、西行の「こころなき身にもあはれはしられけり。鴫立つ沢の秋の夕暮れ」のパロディです。茄子の鴫焼きは、油でいため、味噌をつけた茄子の料理。それ以外におかずが無い膳に、「しみじみと哀れを感じることだ」ということ。古文の「あはれ」は厄介な言葉で、嬉しいにつけ悲しいにつけ心深くしみじみと感じることはすべて「あはれ」なのですが、ここでは秋の夕暮れに対するロマンチックな「あはれ」が、貧相な食卓に対する悲哀になってしまったわけです。


 ひとつとり、ふたつとりてはやいて食ふ。
 鶉なくなる深草の里。  (四方赤良=蜀山人)

 こちらは藤原俊成の「夕されば野辺の秋風身にしみて、鶉鳴くなり。深草の里」のパロディです。もちろん、「うづら鳴くなり」を「うづらが無くなる」(焼いて食ってしまったから)とからかっているわけです。王朝風の美が、食欲の前に敗北したというところです。



 その後(のち)は、こはごは翁竹を割り。(「柳多留」作者不詳)

 これは狂歌ではなく川柳ですが、言うまでもなくこの翁は竹取の翁です。竹の中からかぐや姫を見つけたのはいいのですが、その後は、うっかり竹を割って、中の姫君(か何か)を一緒に割っては大変だということで、翁はこわごわ竹を割っただろう、ということです。古典の世界に現実性を持ち込むと笑いになるわけですが、こうしたフィクションに対する「突っ込み」は現代でも笑いの一つのパターンです。


 芭蕉翁、ぼちゃんといふと立ち止まり。  (「柳多留」作者不詳)

 これも説明不要でしょう。ただし、この川柳の解釈として、旺文社古語辞典では、これを芭蕉が「古池や、蛙飛びこむ水の音」の名句を作った時のこととしていますが、それではあまり面白くない気がします。むしろ、この名句ができたために、その後は、蛙が水に飛び込む音を聞くたびに、また名句ができないかと立ち止まるとしたほうが、人間の助兵衛心を衝いた秀逸な川柳になると思います。「いふと」という表現には、一回きりというより、その度にのニュアンスがあるはずです。 


 おっかさん、また越すのかと孟子言ひ。 (「柳多留」作者不詳)

 言うまでもなく、「孟母三遷」の故事をからかったものです。孟子の母が、子供の教育環境のために三度も引越しをした話が「孟母三遷」ですが、引越しに付き合わされる子供のほうはたまったもんじゃない。きっと、文句の一つも言っただろう、ということです。
 亜聖(準聖人)と言われる孟子も、川柳作者にとってはからかいの対象にしかならないのです。



 卯月八日。死んで生まるる子は仏。  (蕪村)

 これは川柳ではなく、俳句です。真面目な学者さんは、これが川柳に近い句だとは思わないようですが、私から見れば、これは笑いの句です。「四月八日」は、釈迦の誕生日とされています。ですから、この日に生まれた子は釈迦と同じ誕生日であるだけでなく、死んで生まれたなら、最初から「仏」である、というこの句が笑いの句でなくて何でしょうか。(「仏」とは、死者の意味でも用います。)これを現実に即した句だと見れば不謹慎きわまる句ですが、単なるブラックな冗談として見れば、ただ面白いだけの句です。俳句を求道的な芸術と思いこんでいる人間にはこういうお遊びが許せないらしく、俳句に平気で虚構を持ち込んだ蕪村の人気はあまり高くありません。しかし、俳句の中の笑いや虚構性が失われたために、俳句は「面白くない」芸術として、大衆から切り離されてしまったのです。



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酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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