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命令する言語・戦闘的言語

TORA氏の「株式日記と経済展望」に次のような一節があった。


英語というのは基本的に人に命令する言葉であり、ハリウッド映画などを見ても人の顔面に拳銃を突きつけて命令する場面が多い。つまり論争するときなどは都合がいいが、英語を話すと戦闘的になりすぎて、アングロサクソンのように戦争大好きな国民性になりやすい。


もちろん、これはかなり強引な論法だが、私も少し共感している。英語は「交渉」「論理」「契約」の言語であり、情緒的要素が少ない。あえて言えば「もののあはれ」に乏しい言語だ。だから英詩などでも日本人の心に訴えかける詩は本当に少ない。とくに自然との一体感などほとんど無い。ワーズワースだったか誰だったかが水仙を歌った詩などが希少な例だが、それも日本の詩歌の世界に汗牛充棟する自然を詠んだ詩歌とはレベルが違いすぎる。夏目漱石が英文学研究を志しながら英文学になじめなかったのも、東洋人とのこの感覚の違いのためだろう。


英語が命令する言語であることの一例になるかどうか、私の昔の文章を紹介しよう。




#50 英語的国民性


 記念写真を撮る時、昔なら「はい、チーズ」と言って撮ったもので、フーテンの寅さんが、間違えて「バター」などと言うギャグがあったりしたが、今は「1+1は?」と聞いて「ニー(2)」と答えさせたりする。これはもちろん、「チーズ」も「ニー」も「イ」の音を出す口の形が、笑う時の口の形であるからだが、では、英語国民はこのような場合、何と言うのだろうか。
 昔、「笑っていいとも」に、あるアメリカの女優(ジェイミー・リー・カーチスという女優だ)が出演したことがあったが、その女優はインスタントカメラを持参していて、舞台を写真に撮ろうとする観客を逆に記念撮影した。その行為自体のユーモアにも感心したが、その時、彼女が言った言葉が忘れられない。彼女は、観客席にカメラを向けて何と言ったのか? それは「スマイル!」という命令だったのである。なるほど、相手の笑った顔を写すのだから、「笑え!」と命令するのは理にかなっているが、何と言う端的な発言だろう。日本人の持って回ったようなやり方にくらべて、大雑把というか、ストレートというか、……。しかし、これが英語国民の国民性ではないかと思うのである。目的を達するための最短距離は何かと考え、それを実行する。その際に、相手がどう思うかなどは考慮する必要はない。なぜなら、相手は自分ではないのだから、いくらこちらがどう配慮しようが、その反応は予測と一致するとは限らない。相手が不快感を表明したら、その時点で交渉し、調整すればいい、というのが、英語的国民性だと私は思っている。

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情報学的に見た「運命」


情報学的に見た「運命」     (酔生夢人)

(1)

運命はあるか無いかと言えば、それはある。ただし、運命が不変的か可変的かと言えば、それは可変的だろう。簡単な話、君は今すぐにでもビルの屋上から飛び降りて自分の人生を終わりにすることもできる。この場合、運命は君によって作られた。つまり可変的だったのだ。だが、それをする「勇気」というより無謀さは君にはおそらく無い。それに対して、君がビルから飛び降りなかったのが君の運命であり、だから運命とは不変的なのだ、と占い師の類は言うかもしれない。だが、運命を司る存在がいちいち君のことなど考えているはずはない。もしも「彼」が君の運命にそれほど関心があるなら、「彼」はなぜ犬や猫やミミズやアメーバの「運命」に無関心なのか。それともミミズやアメーバの運命まで「彼」はいちいち考えて決定しているのか。運命という思想は、自己の存在や人間存在を過大視したがる人間の自惚れの産物だとも言える。
もちろん、不変的だからこそ「運命」と言うのであり、可変的な運命という考えは論理矛盾だと考える人もいるだろう。それならば、そういう意味での「運命」は存在しない。
では、可変的なのになぜ運命という言葉を私はここで使うのか。それは、個人の人生には大きな傾向があると考えるからだ。

その考えを簡単に言えば、「人は自分の望む人生を無意識的に選び取っている」ということだ。べつに新しい思想ではない。多くの「生き方指南の書」が同じことを言っている。しかし、それを詳しく説明した書物が少ないから、私がこの文章を書いているのである。

私のこの文章は、情報学的観点から「運命」について考え、良く生きるためのヒントを探ってみようというものだ。


(2)

そう、人は自分の望む人生を無意識的に選び取っている。
別の言い方をすれば、自分はこのような人生を望んでいる、とあなたが情報を外部に発信しているから、外部の状況はあなたにそれを実現させるように変化していくのである。
そんなはずはない、私の不幸な運命を私自身が選び取るはずはない、と思う人もあるだろう。もちろん、世の中には不可抗力的な運命もある。天災地変などは個人の意思や生き方とは無関係に不特定多数の人の身の上に起こるものである。そういう偶発事を私は運命とは言わない。それはただの災難だ。だが、生き方の上では、不幸な生き方を自ら選び取っている事例は無数にある。
よくある例が、すべてに恵まれた女性が、ろくでもない男に騙されて不幸になるという事例だ。芸能界や芸術の世界では、優れた女性はだめな男とくっつくべしという法律でもあるのかと思うくらい、そういう例が多い。
では、これは不可抗力だったのか? そう思う人はいないだろう。それとも、女性が馬鹿だっただけなのか? そう言ってしまえば話はお仕舞いである。だが、おそらく事実はそうではない。これは一種のタナトス(死や破滅への欲望)が働いた結果だというのが私の考えだ。つまり、彼女たちは破滅したかったのである。それは、彼女たちの社会的成功によって得られたもの(金・名声・豪勢な生活等々)が彼女たちに真の満足を与えず、心の中に空虚なものがあったからである。彼女たちは自分の現在の生活が癪に触っていたのである。なぜ自分はこれほど成功しながら不幸なのか。そこで、彼女たちは自分の生活を破壊する可能性のある男が近寄ってきた時に、ぞくぞくするようなスリルを味わう。
つまり、彼女たちはそういう駄目男、ロクデナシをこそ求めていたのである。
まあ、以上は話の一つの側面にすぎない。そういう駄目男が本当に彼女たちには魅力的に見えたのかもしれないし、そういう男たちの詐欺師的技能が奏功したということも多いだろう。
私が言いたいのは、彼女たちは無意識的にそうなる運命を選んでいたということだけだ。

(3)

我々は常に外部に情報を発信しながら生きている。
あなたの着る服、あなたの髪型、あなたの話し方、あなたの表情、あなたの癖の一つ一つが外部への情報なのである。もちろん、あなたの話す内容や行動はもっとも大きな情報だ。だが、毎日の微細な表情の一つ一つも情報なのである。それはあなたがどういう人間であり、何を望み、何を好んで何を嫌っているかを周囲の人に教えている。
変な話だが、あなたを真に知っているのはあなたではなく、あなたの周囲の人間なのである。あなたが自分自身について知っていると思っていることはあなた自身の主観にすぎない。あるいはただの「そう見えてほしい」という願望や妄想にすぎない。
この言葉を嘘だと思うなら、自分の写真を見てみるとよい。それはあなたの予想とは大きく異なるはずだ。あるいは自分の録音された声を聞いてみるとよい。これが自分の声とも思えない変な声のはずである。ではどちらがあなたの真の姿か? もちろん写真や録音された声だ。我々は自分自身を騙しながら生きていると言っていいくらいである。そういう甘やかしがないと生きるのが苦痛なのだから、この騙しは無益なわけではないのだが、しかし、それを事実だと思わないほうがいい。
まず、「我々は自分自身の客観的な姿を知らない」ということを肝に銘じておこう。ソクラテスが一生のモットーとしたデルフォイの神託も「汝自身を知れ」ということだった。それだけ自分自身の真の姿を知るのは困難なことなのである。

さて、我々は自分自身についての情報を周囲に撒き散らしながら毎日を生きているわけだが、考えてみるとこれはなかなか危険な行為である。自分の弱点を自分の敵に知られてはいけないわけだから、我々は自分の欠点や弱点をなるべく隠すようにする。これを「蔵拙」と言う。精神年齢の低い人間は「嘘はいけない」という大人の嘘を心から信じていたりするから、こういう蔵拙も嘘の一種だと思って偽悪的な生き方をしたりするが、これはあまり賢い生き方ではない。周囲の人間はそれを微笑ましく思って許容しはするだろうが、「社会の暗黙の了解」との本格的な衝突が起こった場合にそのかっこいい偽悪を守ることは難しい。そこでいつもの偽悪をひっこめて偽善に従うというみっともない羽目になるわけである。まあ、社会人として生きるということは演技者として生きることであり、その演技の大半は偽善なのである。
話が少し逸れたが、我々は日々自分自身についての情報を撒き散らしながら生きている。では、その結果どうなるか。次の章で述べよう。

(4)

我々が自分自身についての情報を周囲に発散し続けると、周囲はそれに反応する。あなたがAという歌手が好きでBという歌手が嫌いなら、周囲の人間はあなたと話す場合にAという歌手の話をし、Bという歌手の話を避けるだろう。
これが運命を引き寄せるということである。
つまり、あなたが発信した情報によってあなたに集まってくる情報にバイアス(偏向)や制限がかかってくるのである。
そこで、女が好きな人間の周囲にはワイ談好きな連中や女そのものが集まり、金が好きな人間の周囲には金の話が集まることになる。そうなると、相互作用によってより一層、女関係やお金関係の情報が彼のところに集まりだす。女についての情報が集まれば、当然、女を得る機会が増え、金についての情報が集まれば、金を得る機会が増える。

プレイボーイが女にもてるのは、彼に魅力があるからではない。彼が、自分は女好きであるという情報を発信しているからである。プレイボーイであること自体がもてる理由だと言ってもいいだろう。
金の好きな人間が砂漠の真ん中で生活していて金が儲かるわけはない。金の集まる場所で生活し、自分は金を欲していることを明らかにするからこそ、彼のところに金の情報が集まるのである。もっとも、そういう儲け話は「そんなに儲かるなら自分でやれば」という一言でお仕舞いになる怪しげな話も多いのだが、少なくとも金儲けの機会が増えることは間違いない。
これが運命を引き寄せるということだ。
そして、その人の運命はその人が無意識に選んでいる、ということだ。

(5)

デール・カーネギーやナポレオン・ヒルなどの「生き方指南の書」で言われているのは、「目標を具体的にし、それを常に意識せよ」ということである。このことの理由は、情報論的に言えば、目的を意識し明確化することで、その目的に関連する情報に対して意識が強く働くようになるからである。その目的に関連する情報に気がつけば、その情報を利用して目的が達成できる可能性も高まるわけだ。しかし、私はそれだけでは不十分だと思う。自分の願望や目標を情報として周囲に発信すると、いっそう成功可能性が高まることは前に書いた部分から明らかだろう。あなたがその情報を求めていることが分からないと、周囲の人もあなたにその情報を伝える必要を感じないだろう。
「類は友を呼ぶ」というのは、情報の集まり方についても言えることなのである。情報は類似情報を集める、と言い換えてもいいだろう。
逆に言えば、いくら情報を集めても、その視野から外れた情報は集まらないということだ。その外部的情報の中にこそ必要な情報がある可能性もあるわけだから、創造的な仕事をしようという場合は「食わず嫌い」をしてはいけないということである。

(6)

もう一度「運命」の話に戻ろう。

ほとんどの人間は自分の現在の状況に不満を持っているだろう。では、どういう状況を望むのかと言えば、案外とそれを明確に言える人はいないものだ。せいぜいが、男なら美女をはべらして酒池肉林の御馳走を食うという程度の、低レベルの極楽をイメージするくらいだ。あるいは恋愛中の人間なら、愛する相手に愛し返されたならそれだけで天国だと言うかもしれない。はっきり言って、どちらも馬鹿馬鹿しい望みである。前者は1時間もたてば満腹して、それ以上は食い物を見るのもいやになるだろう。後者は、自分を愛するようになった相手の現実の姿が、そのへんのただの男や女と何も変わらないことに半日で気づくだろう。枯堂夏子ではないが、恋愛など、片思いの間が最高なのである。
つい興奮して乱暴な発言をしてしまったが、要するに、我々の願望などあいまいなものにすぎないのである。だから、我々は(いつでも望む物に交換可能だと信じている)金を得ることを目標にするのである。だが、その金を得た後、どうするのかはほとんど考えていない。まあ、働かないで、のんびり遊んで生きられたらいいなあ、というのがほとんどの人間の願望の最大公約数だろう。ところが、一生遊んで暮らせる財産を持っている大金持ち連中が毎日遊んで暮らしているかというと、そうでもないのである。つまり、彼らにとっては遊びよりも仕事の方が楽しいのである。働くのが楽しいのだから、金が儲かる。金を得るのは楽しいから、もっと金を求める。金を求める明確な目的があるのだから、金が集まる。こういうサイクルで、金持ちはいっそう金持ちになり、貧乏人はずっと貧乏人のままとなるのである。
こうして金持ちが自分の望む運命を手に入れるのは分かった。だが、では貧乏人は貧乏人の運命を望んだだろうか? そんなはずはない、と世の貧乏人の皆さんは声を荒げるだろう。まあ、落ち着きなさい。かくいう私も貧乏人だが、自分が自分の求めた運命を手に入れていることは分かっている。

あまりにも有名な話で、世界中に同じパターンの話があるのだが、知らない人のために書こう。
ある南のリゾート地に、大会社の社長が遊びにやってきて、休暇を楽しんだ。彼がぶらぶらと散歩をしていると、そこに原住民が昼寝をしていた。こういう怠け者の大嫌いな社長さんは、その男を叩き起こして、「そんなに怠惰な生活をして恥ずかしくないのか。少しは働いたらどうだ」と言う。男は「働いたらどうなる」と言う。社長さん「金が手に入る」男「金を手に入れてどうする」社長「いくらでも遊べる」男「たとえば?」社長「そうだな、こんなリゾート地でのんびりと昼寝ができる」
という話だ。
意味わかりません? 分からない人はもう一度読むように。
つまり、私が貧乏人であるのは、このリゾート地の原住民と同じことである。金があっても金がなくてもやることは同じだから、金を求める気持ちがない。だから、金が手に入る気づかいはない、というわけだ。せいぜいが、病気の時の保険程度の金があればいいなあと思っているが、無ければ無いで、医者にかからなければいいだけだ。医者に行くのを我慢した結果、病気をこじらせて死んでも仕方がない。近代以前の社会では、どんな高貴な人でもたいした治療は受けていなかったのだから、何も不満はない。
というわけで、私が貧乏なのは、私が、あくせく働いてまで金を求めるのは嫌だなあ、と心の底で思っているからである。そしてそういう情報を私は常に無意識のうちに外部に流しているわけだ。そうなると、金の話は私の上空を素通りしていくのは理の当然だろう。
これが、多くの貧乏人の方々が貧乏人の運命を自ら手に入れているということの説明だが、まだ納得いただけないだろうか?
同様に、男運の悪い女はそういう運命を自ら求めているのであり、やたらと病気や怪我になる人間はそういう運命を自ら求めているのである。後者は、考えられる限りの不摂生をしながら、病気になるとその治療に狂奔するという場合もある。まあ、病気や怪我は本人の責任ではない場合も多いのだが、私のように臆病な人間は生まれてから一度も骨折などしたことはない。骨折などというのは勇敢な人間、言い換えれば危険に立ち向かう人間の勲章であり、それもやはり自らを骨折する可能性の中に投げ込んだことから来る、性格的運命の一つなのである。

(7)

最後に、こういう「運命原理」に対し、どういう態度を取るのがいいかと言えば、言うまでもなく、何もしなくていいのである。その運命は、あなたが望んだものなのだから。もしも自分の運命を心から変えたければ、まず自分自身の無意識を見つめることである。その結果、自分の性格的運命に甘んじるか、それを変えるか決意するが良い。運命を本気で変えるつもりなら、前に書いたように「外部への情報発信」をすることである。できるだけ多くの人に対して情報を発信すれば、運命を変えるきっかけとなる情報もそのうち手に入るだろう。簡単な話、海で溺れている人間が「助けて」と叫べば、誰かが助けるだろうが、叫ばないと、ただ泳いでいるだけと見做されるかもしれない。情報発信とはそういうものである。助けが欲しければ、助けを求めて叫びなさい。これが「求めよ。さらば与えられん」ということである。

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苫米地英人の「スピード頭脳」開発法のエッセンス  

苫米地英人の「スピード頭脳」開発法のエッセンス  *「補足」は夢人によるもの。

1 高度な思考は「情報量」と「抽象化」から生まれる。
2 問題解決のためには「盲点の存在」に気づくことが必要。
3 スピード思考のためには直線的論理を捨て、複線思考をすること。
4 実用的思考には「データ」「ワラント(論拠)」「クレーム(主張)」の三要素が大切。
5 ディベート(または交渉)においては、相手のデータ・ワラント・クレームへの反論をそれぞれ3つ考える。それも相手の弁論を聞きながら考える。話しながら考えるな。
6 情報収集には「ゴール」をまず設定する。つまり、何の目的での情報収集かを意識する。文章など読まずに、まず複数資料から同時的に検索する。それ自体思考訓練になる。


1の補足:「抽象化」とは、思考の次元を一つ上げることである。2次元で認識、思考していたものを3次元で見るイメージ。たとえば、個々の現実的事物を一般的・抽象的存在として見ることである。問題にとって不要な要素(たとえば感情的要素)を捨てると良い。

2の補足:認識にも盲点がある。人は自分が見たいものしか見ていない。訓練のために、1日に1回でも目に見えるものをすべて明確化(意識化)する実験をするとよい。さらに、それらの存在の来歴や用途、目的、意義などを即座に考える習慣をつける。(内容は適当でよい。)これが気づきの訓練と同時に複線的思考(立体的思考)の訓練になる。

3の補足:アリストテレス的な三段論法をリニア(直線)思考と言い、極度にスピードの遅い思考法である。現実生活において三段論法の必要な場面は無い。我々はただ相手の「データ」「ワラント」「クレーム」の弱点を見出し、それを提示するだけで相手を論破できる。

4の補足:データとは「事実」であり、ワラントとは「クレーム(主張)」と結びつくデータである。思考(主張)の正しさを担保するのがワラントだ。自分の内部思考においてはクレーム=[問題の結論]であり、ディベートにおいてはクレーム=[主張]である。

5の補足:ディベート達人なら自分の弁論の弱点をすでに分かっている。こちらが相手への反論をデータ・ワラント・クレームのそれぞれに三つ用意するのはそのためである。

6の補足:ゴールを設定することで、そのゴールに必要な情報だけが選択的に吸収され、不必要な情報が排除される。つまりスピードアップになる。目標が無いと意識は拡散する。

◎全体的補足:自分の中に自己肯定的感情を育てることが、思考効果と効率を高める。

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イレッサ問題はどうなるか

抗がん剤「イレッサ」関連記事である。「阿修羅」投稿記事より。投稿者は「医療費が上がりそうな話」とつぶやいているが、確かに役人とは何か問題が起こるとそれを奇貨として「焼け太り」を企む連中である。本来なら役人や政府の責任問題になるところを、それを逆に利用して国民に負担を押し付けるというのは十分に考えられる。
そういう「役人的問題解決法」は、国民にとってはえらい迷惑だが、「マイナスを他人に押し付けて自分のプラスにする」のがこの強欲資本主義社会の成功原理であるのかもしれない。




<医薬品副作用>救済、抗がん剤の死者も 民主議員ら検討(毎日新聞)
http://www.asyura2.com/11/senkyo104/msg/122.html
投稿者 最大多数の最大幸福 日時 2011 年 1 月 09 日 14:53:37: d1qFhv8SE.fbw


 なんだか、よくわからないが、
 また医療費が上がりそうな話だな。

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<医薬品副作用>救済、抗がん剤の死者も 民主議員ら検討(毎日新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110109-00000009-mai-soci

国の医薬品副作用被害救済制度に「抗がん剤」による死亡を含めるよう見直しを求める動きが出始めた。昨秋には民主党国会議員による勉強会も発足、制度改正の検討を開始した。抗がん剤は副作用がほぼ避けられず、現在は制度の対象外になっているが、東京、大阪両地裁が7日に和解を勧告した肺がん治療薬「イレッサ」訴訟の原告・弁護団も、死亡した場合は救済対象に含めるべきだと主張している。

 医薬品副作用被害救済制度は80年、整腸剤による副作用が問題化した薬害スモンを教訓に法制化された。薬を適正に使用したのに死亡や入院相当以上の健康被害が生じた場合、最高約2380万円の遺族年金や障害年金などが給付される。

 財源は、国内すべての製薬会社と薬局製造販売業者8340者が出荷数量などに応じて分担する拠出金で、09年度総額は約38億円。健康被害を受けた人からの申し立てを受け、厚生労働省の審議会が薬の使用状況などを審査し、09年度は1052件の請求に対し861件(総額約18億円)が給付対象になった。

 抗がん剤を対象から除外している理由について、厚労省は「重い副作用が起きる確率が高いうえ、代替の治療法がない患者が使用する場合も多く、副作用は受忍せざるを得ないという考えに基づいている」と説明する。

 最近は抗がん剤も進歩し、一部では副作用も軽減されてきているが、強い薬剤であることには変わりない。

 弁護団の水口(みなぐち)真寿美弁護士は「がん患者は残された命を大切にしたいという切実な思いで抗がん剤を使う。死亡被害まで受忍すべきだとする理由はない」と反論した。

 民主党議員の会は昨年10月、約50人で発足、抗がん剤の副作用にあった患者らからヒアリングを進めている。同会の事務局長を務める本多平直(ひらなお)衆院議員は「がん患者の立場に立った制度の在り方を検討したい」と話す。

 抗がん剤を販売する大手製薬会社の幹部は「延命目的で抗がん剤を使用する末期がん患者の場合、死亡原因が薬による副作用か、がんなのかを区別するのは難しいが、企業として被害者を見過ごすこともできない。拠出と給付のバランスが取れ、制度が維持できるならば実現も可能ではないか」と話している。【佐々木洋】

 ◇イレッサ問題も影響…抗がん剤救済検討

 民主党内で検討が始まるなど、医薬品副作用被害救済制度に、抗がん剤による死亡を含めようとする機運が高まっているのは、がんが国民の死因のトップ(09年で約34万人)を占め、3人に1人ががんで死亡する中、抗がん剤が幅広く治療に使われているためだ。

 進行がん患者に使われる抗がん剤の副作用は、問題が起きても「他に治療法がなく患者も覚悟していた」と片づけられがちだ。しかし、行政や製薬会社、医師から十分なリスクの説明がないまま効果だけが強調され、その結果、副作用で多数の死者を出した「イレッサ」の問題は、がん治療の在り方をも問いかけている。

 抗がん剤の副作用による死亡率は1~2%とされる。具体的な人数など正確なデータは不明だが、厚生労働省が抗がん剤を救済制度の対象に含めるのに慎重な理由の一つは、請求が殺到し製薬会社の負担が増え、制度が維持できなくなる懸念があるためだ。

 厚労省幹部は「医療者と患者が納得して治療する体制づくりが先ではないか」というが、イレッサ訴訟が投げかけた問題を真摯(しんし)に受け止め、救済制度の見直しに向けた検討も進めるべきだ。【佐々木洋】

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イレッサによる患者殺戮

「泉の波立ち」から転載。
抗がん剤は百害あって一利無しというのが私の考えだが、世の中には抗がん剤で癌が治るという信仰を持っている人間が多く、それにつけこんで製薬会社や医療業者の金儲け手段となっている。はっきり言って、以下の「イレッサ早期承認」は政府と製薬会社と医療機関によるはっきりとした殺人である。被害者は絶対に国(政府)と製薬会社と医療機関を裁判にかけるべきだ。そうしないかぎり、今後も似たようなことは起こり続けるだろう。

(以下引用)


イレッサの薬害はひどかった。副作用で「間質性肺炎」が高頻度に起こるからだ。
 服用からわずか3週間後、異変が起きた。むせ返るようなせき。息ができない。「死んだ方がましや」と本気で思った。「殺してくれ」。妻に泣きながら訴えた。イレッサの副作用の間質性肺炎だった。ステロイドの緊急投与で奇跡的に助かったが、文字通り死のふちをさまよった。
( → 産経新聞 )

 「最後はまるで生き地獄だった」。
 二〇〇二年十月に三十一歳で亡くなった三津子さんは、その一カ月前には自宅で食事の支度ができる状態だった。
 ところが、イレッサの副作用である間質性肺炎で症状は一変した。酸素吸入しても息は苦しく、全身を震わせ、汗びっしょりになった。
 「副作用の少ない『夢の新薬』ではなかったのか…」。昭雄さんは茫然(ぼうぜん)自失となったという。
( → 中日 特報 )
 このような薬害が起こった理由の一つに、特別な早期承認がある。日本では、新薬は、諸外国よりもずっと遅れて承認されるのが普通だ。ところがイレッサに限って、ろくに効果もないのに、早期承認された。
イレッサは2002年7月5日、世界に先駆けて日本で承認を受けた後、2003年5月5日アメリカ食品医薬品局 (FDA) での承認を含め、いくつかの国で承認を受けた。しかし、無作為比較臨床試験の結果、プラセボと比較して生存期間を延長することができなかったため、2005年1月4日アストラゼネカは欧州医薬品局 (EMEA) への承認申請を取り下げ、また2005年6月17日FDAは本薬剤の新規使用を原則禁止とした。
( → Wikipedia ) 
 「プラセボと比較して生存期間を延長することができなかった」というのに、特別に早期承認されたというのだから、びっくりである。ホメオパシーを騒ぐ人がいたら、大騒ぎしても良さそうだ。

 ただ、後知恵では、次のように評価される。
  ・ 画一治療では効果は見出させない。
  ・ テーラーメード治療では効果は見出される。
 ( → イレッサ騒動の背景 )

 ただし、世界ではそのように評価されているが、日本では画一治療がいまだに認められ、いまだに薬害の余地がある。
  京都大の薬剤疫学教授だった福島氏は〇二年当時、薬事審査の幹部に「(米国の厚労省にあたる)米食品医薬品局(FDA)はイレッサ承認を保留している。このまま承認すると、とんでもないことになるのではないか」と指摘していた。
 しかし、その忠告は無視され、間質性肺炎による死亡例が相次いだ。海外での調査では、イレッサには全生存期間で「延命効果なし」という結果もあり、FDAは〇五年に新規患者への投与を原則禁止。欧州連合(EU)での承認申請も、当初は取り下げられていた。
 それにもかかわらず、日本では現在まで広い適用が認められている。
( → 中日 特報 )
 しかし、効果はあるにしても、多大な副作用があるものを、あっさりと見逃したというのは、どうにも解せない。
 いったいどうしてこういうことが起こったのか? (責任を問う声も上がっているが)それは「謎」とされている。「裁判で検証が待たれる」というふうに報道されることが多い。
 日本では、2002年7月、同年1月の承認申請からわずか6か月弱という異例のスピードで世界に先駆けて承認された。( → イレッサ薬害とは )

 なぜ、厚労省が世界で初めて承認したのか。なぜ、申請から約5カ月のスピード審査がなされたのか。訴訟ですべてが分かると信じたが、新事実は「ないに等しかった」という。( → 産経新聞 )

 福島氏は「日本には『(薬剤の)市販直後の全例調査』という、厚労省が自らつくった世界に冠たる制度がある。これをきちんと運用すれば、イレッサのような大規模な副作用被害は起こりえなかった」と主張する。
 「イレッサではなぜか全例調査をせず、警告も無視された。欧米では、極めて限定的にしか使われていないという事実を厚労省はどう認識しているのか。薬害はいわば人災。この問題には、日本における薬害の構造的要因が凝縮されている」( → 中日 特報 )
 事件の原因は、よくわかっていないらしい。

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インフルエンザワクチンで体を痛めないように

健康関係の記事はなるべくこちらに置くことにする。
下記の記事は「阿修羅」から。
ワクチンという毒物を体内に入れることに反対する人は多いが、社会的な洗脳の結果、冬にインフルエンザワクチンを打たない人間のほうが非常識扱い、厄介者扱いされるようになっている。それで儲けるのは製薬業者と医療業者、それに業界から袖の下を貰う厚生労働省の役人と広告業界などである。


(以下引用)


私はインフルエンザにかかったことがない
http://www.asyura2.com/09/health15/msg/316.html
投稿者 うたかた 日時 2010 年 12 月 23 日 00:19:37: 8h4GxfTMDsTGo


私は51歳です。長く薬剤師をしていました。自分の記憶のある範囲(小学校高学年以降)で私はインフルエンザにかかったことがありません。

仕事柄、多いときには一日に100人以上のインフルエンザ患者を相手にしたこともあります。インフルエンザは今でこそ検査キットがありますので、確定診断できますが、少し前までは症状による判断でしたので、経験がないと言ってもインフルエンザ症状の経験がないという意味です。

子供のころの私は大変注射を恐れていて(ひとつは痛いため、もうひとつは当時注射器は使いまわしされていたので、子供心にどんな変な病気に感染するかしれないと警戒していたからです。)予防接種の日は朝自宅で記入する検温記録に適当な微熱37度位を自分で勝手に書き込んで学校に行き、適当に予防接種を免れていました。

義務教育終了後、予防接種を受けることはありませんでした。

大学生になったとき、ある科目の授業で先生が(インフルエンザワクチンは迷信)と言ってなぜ迷信なのか説明してくれました。病原菌(ウィルス)とワクチンは鍵を鍵穴の関係にあり、インフルエンザのように世代交代のたびにどんどん変異していくウィルスにワクチンを作るだけ無駄(使うたびに形の変わる鍵で同じ鍵穴をあけようとするようなもの)でこのようなワクチンの効果を信じるなんてナンセンスとのことでした。その後免疫学がどのように発達したかよくわかりませんので、この説が現在も正しいのかわかりませんが。

病院で働き出すと冷蔵庫の中に迷信の在庫があったのでびっくりしました。ただ、スタッフ患者からの請求はほとんどなく、インフルエンザワクチンのバイアルは大抵ゴミ箱行きでした。

ところが調剤薬局で働いてみると、医師会、薬剤師会からのお達しでインフルエンザワクチン接種のうるさいこと。患者も好んでワクチンを接種します。

寒波の襲来とともにインフルエンザ患者の第一陣がやってきます。この第一陣は必ず”せっかくワクチンを打ったのに、インフルエンザにかかってしまった”と言いました。

それから少し落ち着いて、その後第二陣がやってきます。こんどはワクチン接種組みと未接種組み半々といった感じでしょうか。

皆さんタミフルをもらって喜びます。そしてタミフルを飲んだ人は一冬に何度もインフルエンザにかかって受診します。

タミフル以前は一冬に何度もインフルエンザにかかる人はあまりいなかったように思うのですが。

ここから私の考察ですが、インフルエンザワクチンを接種すると一時的に免疫力がかなり低下するんじゃないでしょうか。

私自身は薬を飲むことはめったになく、家にも常備薬など薬はありません。20年前インドに行って下痢が止まらず飲んだ抗生物質1錠がさしあたりの服薬暦です。

並外れた体力の持ち主だなんてとんでもない。世間一般の人に比べて体力的にも劣るほうです。


 

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コメント
01. 2010年12月23日 22:47:18: EJaNxRT5Bc
その説はいまも正しいですよ。

02. 2010年12月24日 02:18:43: d8u0QQgn1Y
ワクチンそのものが毒みたいです。騙してきたのでしょうね昔から西洋医学のロックフェラーは。。ワクチンには多くの病原体や微生物や卵のDNAがはいってるだけでなく有機水銀も発ガンウイルスも多くの生物兵器の病原体が入ってるといわれてますよ。人間はゴキブリと同じだとかれらは思って駆除してます。慈悲はありませんよ。減らされてきたということに早くきずいてください。
また儲けるのにも人を病気にしないとだめなわけです。尿道炎の薬も完治するのは隠して出しません。慢性化して治らないのをだしてるとネットにでてましt。


03. 2010年12月25日 08:34:15: OFLVaIynrc
投稿者さんに敬意!
お医者さんは薬のことについてはほとんど知らない。
教えるのは製薬企業からの情報。
その製薬企業と癒着(言い方は悪いが研究費等を戴いている関係)状態の医師達(ほとんど大学教授クラスだろうが)が都合のよい研究結果やエビデンスとやらを発表。

こういう仕組みが分かっても誰も疑問に思わない。完全に国民はB層にされている。
ちなみにB層とは「お上の言うことは全部鵜呑みにするBaka」の意味らしい。

この世界は超騙しの世界です。特にこの日本はこの医療世界の騙しは超々度級でしょう。
浅はか消光を笑っているけど、この件に関しては全員信者です。
その信者という認識もないほど信じ切っているのですから、何を言っても分からない人が9割以上。

最近になって少しづつ増えてきた様ですが、まだまだでしょう。
来年のインフルエンザの季節にどう反応するのかで国民の意識程度が分かりそうです。
あんな!タミフルやワクチン信仰を教え込んでいる日本の医大教授や文科省、厚労省・・・まさに末期症状でしょう。

薬学の専門だったら、皆知っていることでしょうから、これからもどんどん書いて投稿していただきたいものです。



04. もうすぐ北風 2011年1月06日 16:44:35: 4pNSGecWzvedg : iE2MvJIGPI
私も同じく、生まれてから医者にインフルエンザと診断されたことは一度もありません。
何年か前に、十人くらいの同僚に聞いたことがあります。
半分は私と同じでした。
「よく考えてみると、一度もインフルエンザと診断されたことない」と言うことでした。
残りの半分は、私にすれば注射の好きな人たちなので予防注射をしたからかからなかった、あるいは予防注射をしたがかかったと言う人。
そのうちのほとんどはタミフルを信じていました。
事実はそんなもので、もっぱら社会宣伝による「思い込み」でしょう。
私はワクチンは完全な迷信と思います。

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冬の乾燥肌のかゆみの予防法と治療法

役に立つ豆知識(と言っても豆についての知識じゃないよ、というのは「あずまんが大王」のギャグ)

冬になると年寄りは足の皮膚のかゆみに悩まされることがある。かなりの割合の人に起こる現象だが、これは年をとると肌から脂分が抜けて乾燥しやすくなり、皮膚が温度変化などに敏感になるからだろう。
これは何とも手に負えないかゆみで、掻いているうちに肌が傷だらけになり、血まみれになることもある。もちろん、搔けば掻くほど悪化する。
これを防ぐために乳液などをつけてもあまり効果は無い。
一番いいのは、「オロナイン軟膏」である。
湯上りなどに(あまり風呂に入らない人なら毎朝起きぬけにでも)オロナイン軟膏を膝から下、くるぶしのあたりまで薄く塗る。
これであの気の狂うような痒みからだいたい解放されるはずである。

すでに搔き毟って傷だらけの皮膚やかさぶただらけの皮膚の治療にもなるだろうと思う。

念のため、私はオロナイン軟膏の会社からは一銭も貰っていません。世のため人のための情報提供です。

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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