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地球温暖化万歳

「地球温暖化」問題については、誰も肝心なことを言わない。それは「地球が温暖化して何がまずいの」ということだ。この前ロシアのプーチン大統領がそう言ったら、温暖化抑止論者の科学者がわけのわからない説明で猛反論をしたらしいが、確かに地球が温暖化したら、寒冷地の人々にとってはむしろ有益ではないか。
エネルギーは熱とほとんど同義である。熱によってほとんどのエネルギーは生まれると言ってよい。その熱は太陽からもたらされる。
我々の生命そのものを保証するのも熱である。
ならば、地球温暖化は人類にとって福音ではないか。
はっきり言って、どこかの小さな島が温暖化で何百年後に水没するとかしないとかいう問題より、今この地上で寒さのために凍死しそうになっている無数の人々を考えるべきである。
我々のあらゆる経済活動も、本当は熱エネルギーを生み出すことに費やされているのである。
もう一度言おう。地球温暖化は人類にとって福音である。

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断食と生命力の向上

飢餓状態は生命力を向上させるということも私の健康理論の一つだが、例の医学生のブログからそれに関する文章を転載しておく。ただし、朝食抜きによるストレスという悪影響も考慮する必要はある。我々が食事を摂るのは、実はそれによる快楽と満足が大きな要素だからである。逆に、過食の原因も食事の快感が克服しがたいからなのである。

(以下引用)


                    Home Medicine Method Essay Books 朝食の是非
 一日3食きちんと食べましょう。特に朝食は一日の活動源を得るためにしっかり摂りましょう。朝食を摂ることで体温を上昇させ、血糖値を上げ、脳の働きを高めます。また朝食は排便を促します。早めに起きて、十分な朝食の時間を取りましょう・・・

 学校教育でも一般家庭でもこういった朝食の重要性を謳った話をよく聞く。おそらく厚生労働省でもこうしたことを推奨しているのであろう。もちろん、これだけ推奨するぐらいだから、それを裏付けるデータも存在するのであろう。例えば、朝食を毎日きちんと食べている中学生と朝食を食べてこない中学生の勉強の成績に有意な差が出たとか、医科大学の学生に必ず朝食を摂ってくるように指導したら国家試験の合格率が上がったとか。すると、子供の教育に熱心な家庭では、なおさら朝食をきちんと取るように子供を指導するようになる。

 当たり前のことであるが、あるデータの正当性を評価するためには、その前提条件が揃えられているかを確認しなければならない。普通は、数学の問題を解くときのように変数が幾つもあったら、まずはひとつの変数だけに着目して、残りは固定して定数として扱う。この場合、朝食を毎日きちんと食べる、ときどき食べる、まったく食べないといった朝食摂取に関する変数に着目するならば、その他の条件はまったく同一にしなければ出てきた結果に対しての正当な評価はできない。ところが、上のような朝食の重要性を示唆しているはずのデータは、どうもこれを満たしていないような気がする。朝食をきちんと食べさせている家庭は、おそらくその他の事柄に関しても子供のためになりそうなことを行っているはずである。例えば、小学生の頃から子供の宿題を見てやったり、毎日勉強する習慣を付けさえていたり、早寝早起きを習慣とさせていたり、家族全員で朝食を摂りながら楽しい話題を持ち出して子供のやる気を引き出すような家庭であったりと。つまり、朝食摂取と子供の成績の間には相関はあるが、因果関係は不明なのである。

 とは言っても、理論的には、夕食から12時間近くも何も口に入れていなければ、血糖値が下がってしまい、いわゆる低血糖発作に近い症状となる場合もある。頭がぼんやりして力が出なくなり、午前中の勉強や仕事の能率は上がらない。だから、朝食は必ず摂りましょう、ということになる。普段、朝食を摂っている人が、たまたま朝食を摂り損ねると、その重要性を特に感じるであろう。頭はぼんやりして集中できないし、排便はできなかったし、昼食をその分たくさん食べてしまったら逆に午後は満腹感で眠くなって一日が散々だった、やはり自分は朝食を摂らなければ駄目だな、と。

 朝食を摂らないなんて全くの論外。議論するに値せず。朝食を毎日きちんと摂っている人にとっては、そういうことであろう。何しろ、自身の経験が全てを物語っているのだから。

 ところが、である。「朝食有害説」、「朝食抜きで健康回復」、「朝食は万病のもと」、「朝食抜きダイエット」などなどという、全く逆の主張がある一部の人たちの間でなされているのである。全くの嘘をでっち上げているなんてことはありえないであろう。すると、たとえ一部の人にでもそれが有効であったならば、その理論的背景を考えてみる必要があるように思える。

 まずは、余剰カロリー摂取の問題。朝食を抜くことで摂取カロリーが減る。そうすれば、多くの人にとっての病気の原因を取り除くことができる。昔から腹八分目が理想というように、食べ過ぎは、糖尿病や動脈硬化の原因だけでなく、さまざまな病気の原因となりうる。病気になったときの回復も、あまり食べないほうが良好であったという報告もある。動物では摂取制限をした方の寿命が明らかに長いという。野生動物が病気になれば、じっと蹲って何も口にせず(できず)、体力の回復を待っている。食べないことでエネルギーを病気の回復に集中させているのである。断食療法が効果を発揮する理由のひとつもこうしたことによるのであろう。少食が健康にとってプラスに働くということは、多くの人が納得するはずである。昔の栄養不良の時代とは明らかに異なるのである。

 しかし、余剰カロリー摂取の問題だけでは、朝食の是非についての議論はできない。3食のカロリー摂取をそれぞれ控えて、朝食も摂れば良いからである。朝という時間帯に、食べ物を口にすることが生体に与える影響というものを考える必要がある。

 朝食を摂ることに対して、朝食推進派は、血糖値を上げる、体温を上げる、排便を促すなどという利点を挙げる。これに対して朝食否定派は、消化器官に負担をかける、血液が消化器官に集中してしまい活動が鈍る、排泄作用を阻害するなどという欠点を挙げる。朝食を摂らないことに対して、朝食推進派は、血糖値が上がらない、体温が上がらない、排便ができないなどという欠点を挙げ、朝食否定派は、カロリー摂取を減少させる、消化管を休ませることができる、脳への血流を促す、排泄作用が促進されるなどという利点を挙げる。さてさて、どちらを選択すれば良いのだろうか。

 どちらも利点と欠点があるならば、なんらかの対策によって欠点を埋め合わすことによって、利点が欠点を上回ることができるならば、そちらを選択すれば良いことになるだろう。すると、朝食を摂ることに対しての朝食否定派の唱える欠点は朝食を抜くこと以外に回避不可能のようであるが、朝食を摂らないことに対しての朝食推進派の唱える欠点は比較的容易に回避できそうに思える。血糖値が上がらないことに対しては、肝臓でのグリコーゲンの分解が不十分であるからであり、これは習慣的に朝食を抜くことによって肝臓から補給できるように身体が順応していくはずである。たとえそれが不十分であったとしても、糖分を含んだ飲み物を補給することで血糖値はすぐに上昇するであろう。また、体温が上がらないということに対しては、散歩をするなど身体を動かすことによって補うことが可能である。排便ができないということに対しては、習慣的なものなのであまり問題にはならないはずだが、あえて対策を考えるとすれば、水分を補給することで腸管に刺激を与えてやれば良いだけのことであろう。すると、こうした対策を講じておけば、朝食を無理して食べる必要はないということになる。むしろ、朝食を食べることによる欠点が存在するのだから、食べないことに対する欠点が克服されているならば、食べないことでその利点を得、食べることによる欠点を避けることが望ましいように思われてくる。

 ダイエットに関心のある女性のなかには、朝食を抜くと、昼食で食べた物の吸収が良くなって、かえって体重が増えると考えている人もいるようである。吸収効率が上がるのだから、少ない食べ物で多くのエネルギーを得ることができ、これほど良いことはないのではないかと思うのだけれども、ダイエットを中心に考えるとどうも話は逆らしい。本当に吸収効率が上がるならば、消化管の活動が良いということであり、また食べかすが溜まらず腸内環境も良好で、健康的である。健康であることはダイエットの目的である美を手に入れることに直結しており、なんら問題はないはずなのだが、どうもそうではないらしい。つまり、おいしいものをたくさん食べて、それでも痩せるということが彼女たちのポイントなのである。しかし、そういう虫のいい話はないのだから、ここでは問題外か。

 ある友人が、朝食を食べないとハングリー精神で午前中の授業は集中できると言っていたが、確かに彼の授業態度はそれを裏付けている。血糖値を上げるためには、副腎皮質からのコルチゾルを分泌させ、また交感神経系を緊張させることで肝臓でのグリコーゲンを分解して血液中に糖分を送り出させる。まさしくハングリー精神が働くのである。午前中にこうした交感神経系の緊張がより高まることは、一日の活動リズムを作るうえで重要のように思える。逆に、朝食を摂ればそれで血糖値が上がってくれるので、生体は楽をしていても良く、緊張感はなくなる。午前中から極楽気分である。これが大部分の人類が朝食を摂ることになっている本当の原因であろう。朝食推進派の本音もここにあるように思われる。食べることで血糖値を上げておくことの安心感は、飢餓と直面してきた人類にとって何者にも変えがたいのである。食べられるときに食べておけ、という要求が身体から生まれてくるのである。これは肥満の原因と同じである。肥満が健康に良くないのと同様に、身体の要求に素直に従っていれば、現代において健康を保てるということは残念ながらあり得ない。問題は、朝食否定派が主張するように本当に朝食に欠点が存在するのか、ということであろう。

 個人的な経験によれば、朝食を食べないことによる欠点は十分に克服できるし、朝食を食べないことによる利点も確かに得ることができる。朝食抜きをプチ断食と言っている人もいるが、確かに断食の効果に近いものを得ることができるのかもしれない。朝食の是非を議論する場合、人間が本能的に持っている欲求が前面に出てしまい、その議論の方向性を誤らせている可能性は否定できない。朝食を抜けば、誰でも身体が順応するまではひもじい思いをするのである。そうしたひもじさが議論の方向性を誤らせるのである。

 どうか、初めの数週間のひもじさを乗り越えて、朝食抜きの効果を確認された方は御一報を。


 05/06/2004.

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粘土団子による砂漠の緑化

「がま仙人のブログ」より、備忘のために転載しておく。砂漠の緑化、地球全体の食糧確保は、私の思考テーマの一つである。




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 --雨は上から降るのではない。下から降るのだ--
 
 福岡正信の有名なこの言葉は自然農法の本質を良くあらわしている。
 彼の発見・開発した農法を駆使することによって砂漠を緑の原野に変えることができる。これは実際に世界に散在する砂漠の緑化実験でことごとく成功を収めている。種を粘土の団子にまぜた無数の粘土団子を空から砂漠に蒔く。たったそれだけの方法である。粘土団子を撒くだけであとは何もしない。不耕起(たがやさない)、無農薬でも種はちゃんと発芽し、自然に草木の野になるのである。粘土団子の中には当然土の栄養と水分が含まれている。種はそれによって粘土の中で育つのである。やがて下に根を張ってゆき無数の粘土の中のどれかの苗が地下の水脈に達し、水を葉にひっぱりあげる。この過程でその他の苗に水分が補給され善の循環が起こる。やがてその一群はお互いに助け合ってより深く広く群生するようになる。これが粘土団子による砂漠緑化のプロセスである。自然の力だけを使いその他一切の人的な行為を排除するのである。すばらしい農法である。
 この本ではその粘土団子による自然農法のノウハウが書かれているが、ほとんどが自然農法を発見するまでの彼の試行錯誤とその哲学について書かれている。実に老荘的だが自然と仲良くして自然の本来の力をそのまま引き出す農法には驚かされる。自然を味方にするのが最も強いということがよくわかる。
 実際に2年間、私は粘土団子による自然農法を自宅の庭で試してきた。最初はもちろん疑心暗鬼だったが、いつのまにか雑草のように生い茂る野菜の葉の群れを見たとき、一気に自然農法を信じることになった。また農薬が必要がないというのも雑草や枯れ木がそのままそれが自然のサイクルの中で肥料に変化するからだが、その過程を目の当たりにしたのでいまではとてもよく理解できる。もし、自分が帰農し自給自足を行うのだったら間違いなくこの農法を実践するだろう。ただし、自給自足という条件は必要最低限である。なぜならばこの農法で作られた野菜は自然に完全適用するため野生化する。その結果形の悪い野菜となる。したがって商品としての出荷はできないというデメリットがあるからだ。しかし、この農法でできた野菜はとてもうまい。自分の生活を満たすのはそれで充分だろう。

 ちなみに、ビックコミックに連載していた「Seed」とい漫画があった。主人公の農業コンサルタントが発展途上国でODA活動として農業を教える内容だが、そのキーテクノロジーとして「粘土団子」があった。彼は粘土団子を駆使して各地で農業を成功させる。視点がとてもおもしろくユニークな漫画だった。しかし、原作者に物言いがついたらしい。粘土団子を勝手に漫画で紹介したので福岡氏の取り巻きが原作者に抗議したということらしい(たぶん福岡氏本人はどうでもよかったことなのだろうが)。結果的に和解したということだが、漫画で紹介した粘土団子は福岡氏によって発案されたものだから(特許も取っている)、彼の功績について説明なり感謝の言葉なりを書いておけば問題なかったのだろうと思う(実際に連載中は福岡氏の名前は一切でてこなかった)。ただ、この漫画によって粘土団子のすごさを知った人はたくさんいるはずである。福岡氏の「わら一本の革命」は自然農法派の人たちにはバイブル的な存在であるが、それ以外の人はほとんどと言っていいほど知らないはずである。その意味では両者の間の和解はとても意味のあるものであると私は思う。

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羊は群れて、そして食われる

だいぶ間が空いたので、場つなぎに、他のブログの中のいい記事を転載しておく。kayというIT技術家で神秘思想家の女性(?)の文章だ。これは現代社会の「奴隷作り」の基本戦略をよく見抜いた文章だと思う。


(以下引用)




友達がいないのは恥ずかしいことでない
友達が出来なくて悩む大学生がよくいるらしい。
学食で1人で食べるのが、寂しいのではなく、恥ずかしくてトイレで食べるような人もいると聞く。
この、「寂しいのではなく、恥ずかしい」というのはよく分かる。
幼稚園から大学、さらには、会社でも、常にグループ活動が強いられ、1人で行動することに罪の意識を持つように強要されてきたはずだ。

しかし、そんな人はもう心配無用である。
そんな人の話題が多いということは、「1人ぼっち」である「仲間」が大勢いるということだ。そして、それは、最も正常なことなのだ。
友達がいないからといって、その人に親愛の情がない訳ではない。むしろ、仲良しグループというのは、グループ外の者に非常に排他的、薄情な場合が多いものだ。
友達がいなくても恥ずかしいことではない。これは絶対に間違いない。
友達がいても別に悪くはないが、いないならいなくて良いし、無理に友達を作る必要はない。作為的に友達を作ってもロクな友達はできない。

友達がいないということは、無理矢理徒党を組ませる学校の策略をかわした賢い人であるということだ。
グループ行動をする者の方が奴隷根性を植えつけやすいのだ。学校は奴隷生産工場である。

私が幼稚園の時、1人でジャングルジムの天辺に居たら、女性教諭が私を見て、「1人で遊んでるの?」と言った。
見ての通りである。なんでそんなことをわざわざ聞くのだ。
空に太陽がさんさんと輝いている時に「良い天気ですね」と言うのは、暗に雨降りを悪いことであると言っていることであるように、「1人で遊んでるの?」と聞くのは、「友達と遊びなさい」という非難や蔑みを感じさせるものだ。

最初に、学食で1人で昼食をとることを「寂しいのではなく、恥ずかしい」という気持ちが分かると書いたが、私も、ほとんど友達というものを持ったことはないが、寂しいと感じたことはなかった。しかし、学校や会社の中で、「不都合」「辛い」「苦しい」ということは大変に多かった。既に書いた通り、社会というのは、グループ活動をしないと、非常に居心地が悪く、屈辱を与えるところである。奴隷とはグループ活動をするものであり、単独活動してはならないものだ。奴隷でないことは許されないのが社会である。

友達がいないなら、天使と友達になれば良い。
自分が天使になれば天使の友達もできる。別にこれは、メルヘンでも何でもない。
天使とは、仏教でいう菩薩のようなもので、神や仏に近付きつつあるものであり、世間ではなく、宇宙を主と認めているというだけのことだ。
天使になる方法なんて、誰でも一度は目にしたことがあるはずなのだ。
優れた詩や文学やエッセイはもちろん、現代ではアニメの歌なんてのも、宇宙が作者に霊感を与えて書かせているのだから、案外にあちこちに見られる。
それは、簡単に言えば、感情に無防備になることだ。哀(悲)しみ、嘆き、あるいは、怒り、屈辱、羨望といった、日常何度も感じるものに対してだ。
それらをまっすぐに受け止める。すると、心はぐらつく。ぐらつかせておけば良い。やがて抜け落ちる。その時はもう天使になっている。
自分が天使になれば、同じ天使の友達もできるかもしれないし、目に見えない友達も良いものだ。宇宙そのものが親愛に満ちた友である。

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メモ日記8 (#19)

#19   読書の不利益

読書の利益についてはよく言われるが、不利益についてはあまり言われない。せいぜいエロや暴力を描いた「有害図書」の青少年への影響を、ヒマなおばさんたちが時々騒ぐくらいなものである。しかし、一見真面目な本のほうがかえって有害なこともある。「有害図書」のほうは、読むほうも最初からその気で読むから案外害はないものだ。本当に有害なのは、真面目な本の体裁を取って人を迷わせる言説をなす本である。新興宗教の本や、自分の人生を語って「生きる道」を人に説く本の類がそれだ。とくに、自分は悪の道から更生して、こんな立派な人間になりましたという自己宣伝の本が案外ベストセラーになったりするのは困ったことで、世間の青少年に、罪を犯してもいつでもリセットできるじゃないかと世間を甘くみる考えを植え付けてしまう。「美徳は切り売りできない」とはバルザックの名言だが、犯罪の被害者のことを考えれば、犯罪者には処罰を与えるべきであり、安易に「更生」されては被害者の立つ瀬はない。一度犯した罪は、どのようにしても消えるものではないと考えるべきなのである。たとえ、その人間が再起して教師になろうが司法試験に受かって弁護士になろうが、他人に説教できる資格などない。まあ、そんなのに感動する人間も人間だが。
世間の人間が権威に弱いことは驚くほどで、学者とか宗教家とか弁護士とか大会社社長の発言だとありがたく拝聴し、それに騙される。それこそが読書の弊害だろう。

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メモ日記 7 (#15)

#15   言葉の前で立ち止まる

我々が本を読む場合、先が早く知りたくてじりじりしているものである。だから、時には飛ばし読みをすることもある。もちろん、本から些末的な情報を得るための読書なら、飛ばし読みも大いに結構だ。しかし、これが癖になると、我々の人生に真に役立つ本や、味わいながら読むべき本にまで、つい飛ばし読みをすることになる。たとえ、目は文字面をずっと追っていても、その意味や含蓄をほとんど考えずに読むなら、それは飛ばし読みの一種である。読書は読んだ量ではなく、何を読み取ったかという質を問うべきものである。私は断片的読書も悪くないと思っているが、しかし、時には言葉の前で立ち止まることが必要だと考えている。
「徒然草」第七十五段に、「人に交はれば、言葉、よその聞きに随ひて、さながら心にあらず」という言葉がある。前に読んだ時には何気なく読み飛ばしていた所だ。しかし、日常生活における我々の会話の実相をこれほど鋭く簡潔にえぐった言葉は無いのではないだろうか。我々は、他人との会話の中で、自分の思うことを言っていると思っているが、しかし実は、他人がそれをどう聞くかを考えて、さしさわりのないことだけを言っているのである。我々が自分の本心を言うことなど、滅多にない。対人関係における孤独と疎外はここから始まるのであろう。
立ち止まって眺めれば、たった一行の言葉でも、大きな世界を含んでいる。

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メモ日記6 #14

#14   議論の作法

無知な人間が、知識のある人間と議論をすることは可能だろうか。正しいのはこちらだという確信を持ちながら、しかも相手を論破する知識や言葉を持たない場合、議論で勝つことはできるだろうか。実は、これがかつての学生運動の指導者たちが直面した問題だった。彼らがこのことを意識していたかどうかはわからないし、わかっていても認めないとは思うが、彼らはこの問題を無意識にでも感じていたはずである。なぜなら、彼らの多くは、多くの知識人や大人に比べれば、圧倒的に無知だったはずだから。
彼らの出した結論は、相手の言うことは一切聞き入れるな、一方的に自分の言いたいことだけを言え、というものだった。相手が何を言おうと、「ナンセーンス」の一言で葬り去れ、ということだ。なるほど、これなら議論に負けることはありえないし、自分の言いたいことを表明することだけは、少なくともできる。この方法が一般に知られると、我も我もとこの方法を使いだしたことからも、この戦法の有効さはわかる。この戦法を考えた人間は頭がいい。しかし、本質的には馬鹿である。
議論をする目的は、有益な結論を出すことであり、勝ち負けのためではない。学生運動の「ナンセーンス」戦法は、局地戦での勝利のために大局を見失い、一般大衆からあきれられてそっぽを向かれる結果を招いただけであった。要するに、自分の体面だけを考えた、このような愚かな指導者たちのために、学生運動は失敗したのである。

*メモ日記は一部不掲載のため、通し番号と掲載番号は一致しません。

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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