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自分に関係なければ他人を守らない連中

「ギャラリー酔いどれ」から転載。
STAP細胞利権奪取のための理研潰しと、例の阿呆たちの「原爆は理研が作り、地上で爆発させた」論の拡散とに関係があるのかも、という視点はvelvet morningさんらしい鋭い見方だと思う。

科学の素人たちが、STAP細胞は存在しないと騒ぎ立てて小保方バッシングを繰り広げたあの騒動には私も呆れてはいたが、何しろ、こちらも科学には疎いから発言は控えていた。今でもSTAP細胞が作成可能かどうかは半信半疑だが、少しでも可能性があるなら研究する価値はあるだろう。それを研究の瑕疵をあげつらって詐欺扱いするのは科学の進歩を阻害するものだ、となぜ当の科学者たちが結束して小保方さんを擁護しなかったのか。この件に関してそういう論をしたのは、私は科学者では一人しか知らない。そこに今の科学者たちのあさましさを見た気もする。要するに、自分の立場だけが大事なのである。
マーチン・ニーメラー風に言えば「小保方が叩かれたとき、私は何も言わなかった。私は女でも私大出でも理研関係者でもなかったからだ」というところだろう。
「同業者」はライバルかもしれない。だが、同業者が「理不尽に」攻撃されたとき、それを全体で守らないと、その攻撃が我が身にふりかかった時はどうするのか。それ以前に、人間としてのモラルはどうなのか。彼ら「何も言わなかった科学者たち」に聞いてみたいものである。


(以下引用)


医事ネタで、

◆http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2016/05/22/8094248
velvetmorning blog  2016/05/22
アメリカ先住民の民族浄化と ハーバード大学 STAP細胞 ―

より抜粋、

ハーバード大学が、STAP細胞の特許を奪いにきてるみたいですね。

☆http://biz-journal.jp/2016/05/post_15184.html
STAP細胞の特許出願、米ハーバード大学が世界各国で … 今後20年間、権利独占も


311の後の癌利権・医療利権に関わる問題ですよね。

万能細胞は、医療を180度変える可能性がありますからね。

その利権を奪いに来ているのでしょう。

そのための理研叩きです。


STAP細胞を巡る笹井芳樹・小保方晴子バッシングについては
☆http://m-hyodo.com/circumstance-146/

が、詳しいです。


そういえば、このところ陰謀暴露系サイトで、
広島・長崎に落とされた原爆が理研製で地上で爆破された。

みたいな話が出回っていました。

そんな馬鹿な話があるわけないでしょうから、
ハーバード大学による 理研のSTAP細胞潰しと権利奪取 と関連があるのでしょう。


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ローマ法王庁の「大審問官」たち

「つれづればな」から記事全文を転載。
バルナバスの福音書を巡る争奪戦、あるいは圧殺への戦いの劇(受難劇)は、まるで「レイダース」シリーズの一つのように面白く、また、法王庁(バチカン=カトリック)からの使者の

「たとえ天からイエスが舞い降りようと、われわれのシステムは変わらない」

という言葉は、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」における「大審問官」を思わせる。
だが、「大審問官」には、イエスの思想と権威を簒奪(本来は、「王位」を不当に奪う意味だが、イエスを仮に西洋世界の精神的な意味での「地上の王」としておく)し、自分たちが人民を教導することで、無知な大衆に「家畜としての幸福」を与えてやろうという、一種の「善意」があった。しかし、実際の法王庁にあるのは、はたして何だろうか。
いずれにしても、真のイエスの思想は、現在の「キリスト教」、特にカトリック的思想の中には無い、という点で尾崎文美氏は、私とまったく考えを同じくしている、と思う。



(以下引用)


偽典「バルナバスの福音書」に祝福を与えよ

2013/10/23 20:22 よりわけ: 啓示 かぎ: イスラーム


この世界の価値基準となった「西洋」。その根源に横たわる「キリスト教」。それはある時期に変容をとげ、純粋な「イエスの信仰」からは乖離したものであることを前回・前々回の記事に書いた。
とくに前回、トルコ東部の地下都市に眠る信徒の棺の中で発見されたパピルスの束を解読したところそれは「バルナバスの福音書」であり、イエスの母語であるアラム語で書かれており、イエスとともに生きた者の手で記されたかもしれぬものであり、炭素年代測定の結果がその記述を後押しするものであったこと、そして「イエスは人の子」であるとし、現代までキリスト教徒たちの間で守られてきた「イエスは神の子」という教理にまるで反していることとそれが意味することを記した。
「バルナバスの福音書」の発見以来、それに関わる者たちの身に何かが起こり始める。


―我はキプロスのバルナバス、天空暦48年の終わりに、讃えるべき、この世の創造主より、全ての言葉を預けられし精霊と、マリアの子の救世主イエスから伝え聞いたその通りを、第四の写本として此れに記すなり―


天空暦48年とはおそらくイエスの昇天から数えて48年目ではないかと考えられている。西暦でいうと80年頃、ユダヤ戦争によりユダヤ人がローマ帝国にエルサレムを追われ、またユダヤ人であるイエスの使徒たちとその直弟子たちも散りぢりになってからである。
バルナバスの福音書は細々と守られたが325年、ローマ皇帝コンスタンティヌス一世が召集したニカイア公会議の席で採択された「イエスは神の子(あるいは神そのもの)」とする教理に適い「正典」とされたマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書の四書の他は炎に投じられ、バルナバスの福音書も例外ではなかった。禁書とされたこの福音書を携えるものは死刑に処されるほどであった。しかし迫害を逃れて密かに写本・翻訳が行われ生き延びたバルナバスの福音書がヴァチカンの法王直属の特別収蔵庫に眠っていた。16世紀の終わりにそこから盗み出されたとされる福音書が18世紀初頭にオーストリアの軍人プリンツ・オイゲンの手に渡りウィーンの図書館に収められ近代になって発見された。それはイタリア語訳本であった。
その英訳版が1907年にイギリスで「The Gospel of Barnabas」という題で出版された。しかしその発売日に何故か市場から姿を消し世に広まることはなかった。一説によればヴァチカンの修道士たちが一般人を装い書店という書店に列を成して買い占め、そうして集めた本を全て処分したという。大英博物館とアメリカ議会図書館に一冊ずつ残るのみとなった「The Gospel of Barnabas」のマイクロフィルムを入手したパキスタンのイスラム教徒が再版をかなえ初版から72年ぶりに日の目を見ることになった。


「The Gospel of Barnabas」の内容は明らかに新約聖書と相容れないものであった。使徒パウロを「騙された者」と呼び、三位一体を完全否定、イエスは神がアブラハムやモーゼ同様に預言者として遣わした「人の子」であり、磔にされる間際に神が天に引き上げ死なずして天国の住人となり、替わりに十字に架けられたのはイスカリオのユダであり…、いずれもカトリックをはじめいかなるキリスト教社会の認めようのない内容であった。さらにその中では預言者ムハンマドが現れることを予示されていた。
あたかもイスラームの教義に平行しているかのような「The Gospel of Barnabas」を教会はイスラム教徒の作為により書かれた「危険な偽書」と認定している。そして議論に上るたびに強硬にその内容を否定するのであった。


「ハッカリ文書(トルコのハッカリで見つかったバルナバスの福音書)」と「The Gospel of Barnabas」は原本と訳本の関係である。が、厳密にはそうとは言えない。アラム語からおそらく古ギリシア語、ラテン語、そしてイタリア語を経て英語に訳される段階でその意味を大きく変えてしまうほどの致命的な誤訳があって不思議ではない上に、訳者の主観と能力が必ず作用して原点から遠ざかることが余儀なくされる。純粋であることが求められる「福音」の翻訳は実は不可能なのである。であるからこそ、この福音書がよりイエスに近い時代にイエスの母語で書かれていることの意味が大きい。

ハムザ・ホジャギリは発見以来このバルナバスの福音書に関わり続ける数々の古代語の研究家として活躍するトルコ人である。ハムザ師曰く、バルナバスの福音書はその記述、その精神、その韻律どれをとってもイスラームの聖典であるクルアーンに共鳴するという。なぜそのようなことが起こりうるかは明白、ユダヤ教もイエスの信仰もそしてイスラームもそれぞれ矛盾することない同じ教えだからである。

ハッカリ文書の写本がゴラン高原に存在することを解読したハムザ師は旧知であっ
たヴィクトリア・ラビン(暗殺されたイスラエルの首相イツハク・ラビンの孫娘)に協力を求めた。イスラエル占領下のこの地ではラビン首相亡き後もその威光は健在であった。程なくバルナバス福音書の「ゴラン写本」を発見、そして解読する。師が解読文を英語で書き下し、それを読んだヴィクトリアはイスラームに帰依してしまった。

世界のどの古代遺跡の調査状況も諜報機関には常に筒抜けである。ましてやモサドのお膝元ともいえるゴラン高原の調査などはすぐにヴァチカン法王庁の知るところとなっていた。ハムザ師の解読が進む中で法王庁からの接触が始まり意見交換がなされていた。バルナバスの福音書とクルアーンが「同じ泉から流れる川」であるとのハムザ師の主張に対し、法王庁から来た枢機卿マルコはそれを否定するかわりにこう述べた。


「たとえ天からイエスが舞い降りようと、われわれのシステムは変わらない」


法王庁からゴラン写本を買い取りたいとの交渉を受けるヴィクトリアだが高額の提示にも断固として応じることはなく、それが禍したか27歳の彼女はモサドの手の者により殺害されてしまう。こうしてゴラン写本は渦中に陥りギリシアのある出版社に二束三文で買い取られてしまう。枢機卿マルコはその後原因不明の死を遂げている。

アンカラの司法裁判所の証拠品倉庫の中で2008年に奇妙な山羊皮製の本が見つかった。これもアラム語を古シリア文字で綴った文書であることが判るとバルナバスの福音書の原本ではないかという期待が持たれ炭素年代測定が行われたが、結果はおよそ1500年前に書かれたものであると判りバルナバスの時代のものではなかった。ハムザ師にその写真が送られると、曰くこの文書は「全く出来の悪い」聖書の一種で、およそ福音を伝えるために守られた本などではあり得ないという。皮の質が悪く書体も幼稚で、何より本の背面に十字架が描かれているなど福音書としてあるまじき姿という理由であった。皮肉なことにこの山羊皮本の出現によりバルナバスの福音書自体がイスラーム誕生後にイスラム教徒によって書かれた偽書であるとの評価がさらに高まった。この山羊皮本は2000年に摘発された古美術品窃盗団から押収されたがそのまま警察で眠っていたという。バルナバスの生地キプロスにその名を冠した聖バルナバス教会があり(バルナバスの墓所として知られているが信憑性は薄い)、実際に1996年に聖バルナバス教会はキプロス軍(トルコ軍の出先機関)の将校によって荒らされている。そしてこの事件を調査していたキプロスの新聞記者は同年何者かに殺害されている。結果を俯瞰すればこの山羊皮本をめぐる一連の事件はバルナバスの福音書を貶めるための謀りごとと考えられる。(トルコ軍の行動は常に不可解であるがイスラエルとの関係が緊密であることを考えれば理解しやすい。)

ハムザ師はバルナバスの福音書の全文を読んだおそらく唯一の生存者ではないかと思われる。そのハムザ師に対してもモサドをはじめその他正体不明の組織からの脅迫が止むことはなかった。研究を放棄することを要求され、従わなければ生命はおろか地位・学歴・職歴・出生証明・国籍の全てを白紙にすることもできると脅された。解読作業に関わる出版社や新聞社の人間が相次いで不慮の事故に遭い、さらに師は2003年ごろから癌を患い現在も闘病中である。イスタンブールの自宅から一歩も出ることなく暮らしているが訪れる取材には応じている。またテレビにも何度か電話を通して出演している。命などは惜しくないが身近な人々に事が及ぶのは耐えられないとする師は、すでにその全容を知りながらも福音書の訳文を発表することなく関連の執筆も一切行わず、取材を通してその内容の断片を語るのみである。


堕落したユダヤ教社会に生まれたイエスが広めたのはユダヤ教の原点に還らんとする教えであり「キリスト教」なるものを広めたというのは間違いである。イエスの昇天の後になって一神教の道から逸れ、ローマ帝国領土内の土着信仰―多神教的偶像崇拝―の鋳型に嵌められたのが「キリスト教」である。その種を撒いた者こそがタルソスのパウロであった。イエスと使徒を激しく迫害したパウロは突然回心し偶像崇拝者たちにイエスの教えを説きはじめる。それまで荘厳な、時には禍々しい姿をした「神々」を信じ、犠牲を捧げてその御心に適えば死後にこの世に生まれ変わると信じていた人々にとり目に見えぬ唯一神というものは想像に及ばぬ存在でしかなく、この世の人生は一度きりで肉体が蘇ることはないとする教えはとても認められるものでなかった。そこでパウロはイエスが「神の子」であるという主張を以って布教を行った。つまりイエスという媒体に神性を憑依させ神を物質化=偶像化したのである。

それによれば、信徒の全ての罪を背負うイエスを十字に架け、父なる神にそれを犠牲として捧げ、イエスの復活は罪が許されたことを意味し、信じるものは同様にこの世に生まれ変わることが出来る―イエスの教えから遠く離れたこのパウロの教えは瞬く間に多くの信徒を得た。論述に長けたパリサイ人であるパウロの影響力は強かった。パウロが使徒たちの中で着実に地位を固める中、それと争おうにも到底敵わぬバルナバスは去ってイエスと過した日々を振り返り「イエスの教え」を書きしたためた。それがバルナバスの福音書であり、逆ににローマ帝国の国教に上り詰めたのがキリスト教という名の「パウロの教え」である。


ヴァチカンのみならず全てのキリスト教会はバルナバスの福音書に光が当たることを望まない。教会の権威に亀裂が走ることは避けられない。亀裂はさらにキリスト教を政治の道具として、社会価値の礎として、イデオロギーの源泉として、非道の方便として利用してきたキリスト教社会つまり「西洋」に及んでその破壊すら招きかねない。二千年来この福音書は西洋の命取りであった。たとえ天からイエスが舞い降りようと変えられないという彼らのシステム、それはヴァチカンの体質などに非ず中世から近代にかけて築いた西洋中心の世界支配体制を指している。そして「西洋」を後ろ盾にするシオニスト、あるいは隠れ蓑に使うユダヤ人がいる。

現代の世界の枠組みの中、イスラームは「仮想敵」として想定されている。文盲、貧困、飢餓、女卑、暴力の先入観を植え付けたこの仮想敵をひたすら批判し攻撃を加えることで自らの正義を貫き、その影で行う搾取により資本主義帝国を築いた西洋としては、炎にくべた素顔のイエスの教えがイスラームに生き写しであり、しかもその預言者の誕生を予示していたことを表沙汰にされては非常にまずい。



さて、「The Gospel of Barnabas」に書かれていた「預言者ムハンマドの予示」は果して「ハッカリ文書」「ゴラン写本」にも存在した。ハムザ師の解読によれば

―我(イエス)の後にもう一人の預言者が続くであろう、それに従う者たちは熟れた麦の穂のごとくになろう―

そう表現されているという。
もとより旧約聖書(申命記)にも新約聖書(マタイ記)にも後に大預言者が現れるであろうということは書かれている。ただしキリスト教側はそれをムハンマドであるとは見ておらず、彼らに言わせれば旧約にあるのはイエスの誕生であり、新約にあるのはイエスの復活がそれに当たるとされている。

「熟れた麦の穂」をどう解することが出来るか、ハムザ師によればそれは繁栄や増殖を示すとされる。しかし僭越ながら筆者が付け加えさせてもらえば、たわわに実り穂をたれて地を覆う熟した麦が一斉に風になびくその様子がイスラム教徒の集団礼拝の光景を暗示していると思えてならない。ハムザ師は文字の世界に生きる人間であるがゆえ視覚からの安易な発想は避けているのかもしれない。凡人である筆者にはわからない。が、イスラーム特有と思われている頭を垂れ額を地につける礼拝の形がユダヤ教の古くからのそれであり、それはイエスと使徒たちに受け継がれ、そして今もアッシリア東方教会やエチオピア・コプト正教会に残ることをここに付け加えておきたい。



日本には縁のない話、と思われる方々も多いはずである。遠い国の昔話に聞こえるかもしれないが、「西洋」に無体を受ける筆頭の国として是非お気に止めていただきたい。神の御心のままに生きていたのでは物質の豊かさの中で歓喜することが許されぬことを知り、神ではなく物質をを礼賛する世界をひそかに築こうと目論んだ西洋は、福音を改竄して偶像つまり手製の神を祀らせたのである。

物質へのその凄ざまじい欲望を原動力に彼らは近代までに世界の大部分を支配下に置く。その後は武力による支配に加えてイデオロギーによる支配がはじまる。
イデオロギーとは疫病である。人はこれに侵されると物質界の価値に盲執し、虐殺が正義に、庇護が差別に、搾取が取引に見えてしまう。そしてよそから借りてきた言葉と脳で主張を始める。別の病人とは意思の疎通が全く出来なくなる。時として胸に涌くいくばくかの疑いも借り物の脳は受け付けない。
何も疑うことなく西洋の価値基準にあわせて自らを作り変えたある国はいま何もかもを吸い尽くされようとしている。それでもまだ西洋の発明したイデオロギーを疑うことができず西洋の政治や制度に規範を見出そうと腐心している。

これもまた西洋がその手で作り上げた神々であり、偶像である。その偶像の御心に沿うため、近づくため、人々は物質と精神を犠牲として捧げ続けている。犠牲の血を吸う土は穢れ、新たな犠牲を生み出す。紀元前から戒められていた偶像は、姿を変えて今も人の世を狂わす。




イスラームはそれまでにこの世に現れた預言者たちをすべて神の使徒であるとし、それぞれに託された預言は対立することはないと、モーゼも、イエスも、ムハンマドも同じ道を歩むものであると断言している。

セルマンは6世紀の終わりにうまれたユダヤ人であり、後にキリスト教に入信しアンティオキア教会で学ぶ。祈りの日々の中、遠い砂漠の国に預言者が現れたという噂を聞き是非会ってみたいと旅に出た。アラビア半島のメディナに至ったセルマンは人買いに囚われ奴隷の身となるが、彼を買い取り解放したのは預言者ムハンマドであった。セルマンはムハンマドの言行に触れ、まさしく神の遣わした預言者であることを認めイスラームの門をくぐる。しかし問わずにはいられなかった。アンティオキアの教会のかつての同胞たちは天国に行けないのだろうか、と。イスラームを知らねば天国も知り得ぬとするムハンマドの答えにセルマンは眠れぬ夜を過ごした。神への感謝と祈りをささげる心優しき同胞たちに救いはないのだろうか、セルマンはふたたび、みたびその問いを投げかけた。するとムハンマドにひとつの預言が降りた。

―疑うなかれイスラームと共にある者、モーゼと、イエスと共にある者、そして偶像を戒めるあらゆる教えと共にある者は、その教えの中で神と審判の日を畏れ、神の名の下に善行に勤しむならば、審判の日に恐怖と悲しみはおとずれぬ(クルアーン 雌牛の章62節)―



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こんな夢を見た

奇妙な夢を見た。
その中での私は、別の人物であり、おそらく家庭の主婦。こうした別人格を主人公とした夢を見たのは珍しい。その主婦(若い)が、空を飛ぶ傘(らしき飛行機械)を手に入れて、空中遊泳冒険をするという夢だ。ただ、操作方法はよく分からないので、前半は常に落下の危険との戦いである。後半は、その「傘」を操縦してあちこちを訪れるのだが、「壁を越した向こう側は常に異世界」であり、たとえば自宅の庭で怪鳥モアを飼っている家、何やら大きな「顔無し」風の影が二、三たたずむ海岸、米兵やヤンキーガールがビーチやその対岸(湾全体)を占領して豪華な夜間パーティをしているカーニバル風の風景などがある。最後のパーティの場に落下した主人公は「傘」をヤンキーガールや米兵に奪われそうになるが、辛くも脱出し、その後、猫や犬の迫害を受けながらやっとのことで家に帰る。だが、そこで主人が若い娘と恋愛をしているらしい現場を見る。(たぶん、それは誤解か、あるいは誤解ではないにせよ「恋愛未満」くらいの感情。)
夢はそこまでで、私は主人公と一体化して、涙など流しながら目覚めたのだが、結論は「我々は自分の現在の生活を大事にしていない」「壁の向こうは異世界」「家ほど素敵なところはない」くらいか、つまり、『オズの魔法使い』と『不思議の国のアリス』と『千と千尋の神隠し』のミックスだ。風景は『千と千尋』に近く、空中飛行は『オズ』(傘に摑まって飛ぶのは言うまでもなく『メリー・ポピンズ』だが、「家から異界への脱出」という点ではあれとは真逆である。あれは異世界からの訪問者の話だ。)、出逢う者すべてがキチガイ的で主人公にとっては敵のような感じ、というのは『アリス』である。主人公が若い主婦(というのは夢の後半からの設定のような気もするが)というのが今日的で、アニメ化したら案外イケルかもしれない。つまり、若い主婦の「ここではないどこかへ」という脱出願望への批判的解答だ。
なお、夢の中には出てこないが、傘に摑まって長時間の空中遊泳をするのは不可能だから、リアリティを出すためには「ヘリウム入り飛行服」のようなものを着用させるべきだろう。(アニメ化するなら、そのデザインには工夫が必要。『魔女の宅急便』のようにスカートのままの空中飛行というわけにはいかないだろう。かといって、色気ナシも困る。)もちろん、ヘリウムより強力な仮想の「浮遊物質」でもいい。「スーパーヘリウム」とか。メルヘンにリアリティは不必要と言われるかもしれないが、導入部くらいはある程度のリアリティが必要だろう。


ある意味では、「怪しげな存在」が世界を我が物にしている、という現実の象徴みたいな夢である。そして、異世界は敵意に満ちている、という「アリス」的主題も面白い。また、「上から見る」世界は「横に見る世界」とは違った様相を見せる、つまり「越境」による視点変換というのも大きな要素である。要するに、我々の日常生活は、(普段は壁に遮られていて見えないが)実は敵意に満ちた異世界に取り囲まれている、ということだ。
なお、アニメ化するなら、キャラデザインには高野文子さんを希望。(ただし、「黄色い本」以前の画風でね。)




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悪が悪である理由

私の一生のテーマは、悪をこの世界から無くすことは可能か、ということを考えることであるが、その前提として、悪とは何か、なぜ悪を無くすことが必要なのか、ということを簡潔に示す言葉を「最高の塔の歌」というブログから引用しておく。
ただし、この世界では悪は現世的な「利」と結びつくことが多いので、悪は世界にとってほとんど不治の病になっている……。



(以下「最高の塔の歌」より引用)


悪は量や大きさの問題ではない


IT技術者で神秘思想家のKAYさんのブログの一節である。
この丹波哲郎の言葉は非常に面白いが、その意味は何か。
私なりに解釈すれば、この二つが同じなのは、それはどちらも「この世界を傷つける行為」だからだ。
そして、それは同時に、自分の精神の中の「神性」を傷つける行為だからだ。
ゴミを道に捨てる行為と、人を殺す行為は、どちらも、魂のダークサイドに身を委ねる行為だという点で同一なのである。
「悪」がなぜ禁ぜられるべきことなのか、という理由は、実はそれが世界毀損行為であり、世界破壊行為であり、世界汚染行為であると同時に、それが自己毀損行為だからである。

悪を為す人間は、この世界はもっと美しく生きることができるはずなのにそれを知らないという、ある意味では哀れな人間だろう。



(以下引用)

昔、「霊界の宣伝マン」と自称していた国際俳優の丹波哲郎さんは、「自動車の中からゴミを捨てる人がよくいるが、あれは殺人と同じなのだ」と言っていたことがあるが、歩き煙草なども、全くその通りなのである。





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栄光と慈悲

井口博士のブログに実に美しい話が載っていたので、紹介する。
記事の最後に書かれた記念碑のプレートには、「彼は栄光の呼び声ではなく、慈悲の声に耳を傾けた」というような趣旨が書かれていて、これも涙ものである。(正確には「He heard the low voice of mercy, not the loud acclaim of glory.」=「彼は慈悲の低い声に耳を傾けた。栄光の大きな喝采にではなく」)

最後のゴールを前にして愛馬から降りた城戸少佐の姿は神々しい。
これを、私は「神は人間の内部にある」と言うのである。





(以下引用)




全米が涙した武士道精神 麒麟 川島

1932年、80年前の話である。アメリカ、ロサンゼルスでオリンピックが行われた。

そのロサンゼルスオリンピックに馬術で出場した城戸俊三という選手がいた。馬術は今とルールが全く異なっていた。競技はレース形式で行われ、山や谷、障害物を置いた22マイル(35km)の距離を走り、先着順に順位が決まるというものであった。

※愛馬 久軍号と城戸俊三少佐。



※:城戸俊三氏。陸軍騎兵隊の少佐であった。



この時、城戸が連れて行った愛馬は久軍号。19歳の馬である。馬の年を人間に換算するには5~6倍する。久軍は人間でいえば100歳近い高齢であった。当時は空輸もできないので船で太平洋を渡り、ロスアンゼルスに行った。

レースが始まり下馬評では、アメリカに到着しただけでも奇跡だと言って笑われていた。しかし、スタートしたら久軍は後続を引き離してぶっちぎりの1位であった。途中で失速することもなく、最後の障害を残すのみとなった城戸と久軍。

ところが、ここで久軍の体力が限界を迎える。全身から汗を吹きだし、息も絶え絶えになってしまった。もう気力だけで走っている状態になった。ゴール間近で観客は大声援を送っているが、城戸だけは久軍の状態を把握していた。

最後の障害をジャンプしたらゴール後に久軍が死んでしまうだろうことが城戸にはわかった。日本代表として国家を背負って出場している責任と、愛馬のどちらをとるか城戸は迷ったが、次の瞬間、馬から降りた。

疑問に思う審査員と観客。久軍は横に立った城戸に頭をうずめて何度もお辞儀をし、謝っているように見えた。その光景を見て、観客は馬を守るために城戸がリタイアした情況を理解した。棄権なので、城戸はメダルをもらうことなく日本に帰国した。

その2年後、1934年にアメリカ人道協会がロスアンゼルス郊外のリバーサイド郡にあるルビドー山の友情の橋付近に、城戸を讃える記念碑を建立した。

そこには「情けは武士の道」と日本語の縦書きで書かれている。


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大富豪になる絶対法則

前に「金持ち倒産」のことを書いた時に、ロバート・キヨサキのセオリーは要するに、「大富豪になるには経営者になるか投資をすることだ」と書いたが、サラリーマンのままだと絶対に小金持ちにしかなれない、という事を某ブログで今読んだばかりなので、そこに書かれた面白い計算を紹介する。ただし、「無断転載禁止」と書いてあるし、いちいち許可を取るのも面倒なので、そのままのコピーはやめて、私が適当にまとめておく。

たとえば時給が2000円だとする。これは今の不況の世の中では悪くはないだろう。高度な専門職以外では、これほどの時給をくれるところはあまり無いと思う。
で、この時給で1日8時間、週休2日でひと月働いたらどうなるか、というと、わずか32万円なのである。そこから税金や年金分を引かれた後の実質給与はその半分程度だろう。名目賃金の32万円で計算しても、年に384万円にしかならない。
つまり、これが特に資格や特殊技能の無い庶民が得られるほぼ最高の「給与」なのである。
ここから家賃を払い、光熱費や公共料金を払い、医療費や教育費を払った残りで貯蓄までできるのは、よほど堅実な人だけだろう。富豪どころか、生活に追われるだけである。

では、どうするか、というと「他人を働かせる」ことだ、というのがそのブログの冗談交じりの答えなのだが、これは冗談でも何でもなく、ロバート・キヨサキが言っているのはまさしくそのことであり、またこれはマルクスがとうの昔に言っていることなのである。

他人を働かせ、その実質的収益と相手に支払う給与の差額によって金を手に入れる。働かせる人間の数が増えれば増えるほど、そして労働者に支払う給与が少なければ少ないほど、経営者や資本家は儲かる、というのが資本主義の基本原理だ。
大富豪とは、そうした営みの結果生まれるものであり、まあ、吸血鬼の一種だと見ていい。現在のグローバリズムが、「少しでも安く労働者を使いたい」という資本家の欲望の結果である、ということは言うまでもないだろう。


(補足)

念のために言っておくが、私は経営が容易だとは一言も言っていない。経営者には経営者の苦労があるし、また特に中小企業の経営者には、従業員に満足な給与を支払おうという姿勢のある良心的な人間も多いと思う。ただ「大富豪になる」という観点からは、むしろ良心的姿勢は邪魔になるはずだ。
一般的に言って、下に仕事は押し付け、成果は上の者が横取りする、というのは昔から変わらないことなのである。これを「一将功成って万骨枯る」と言う。




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台風と、沖縄(日本)のブータン化

今日の「つむじ風」ブログを読んで、今回の台風15号の進路が操作されていたという考えが一層強くなってきた。
何しろ、台風の動きを表す動画を見れば、台風が本来の渦巻きの進路の性質通りに右曲がりになろうとする度に、ぐいっと左に進路を変えられ、沖縄を目指しているのだから、沖縄直撃は当たり前だ。その奇妙な細かいジグザグの動きを見れば、これは操作されている、と考えざるを得ない。貴重な情報を掲載してくれたつむじ風(飃平)さんに感謝したい。(「飃」の字は間違いかもしれない。難しい字だ)
しかし、なぜ沖縄直撃なのだろう。
これまでは、むしろ、沖縄には米軍基地があるから気象兵器の対象にはならない、と考えられたのだが、連中の考えが変わったのか。
まあ、気象操作が可能かどうかは、まだ憶測の段階なのだが、もしもそれが可能なら、旱魃で苦しむ米国に台風でもハリケーンでも運んで、大雨を降らせば有益だろうにね。
もっとも、彼らにとっては自分たち以外の存在は虫けらのようなものだから、害虫を駆除しているつもりかもしれない。
しかし、台風14号までがコースを変えて台風15号の後から沖縄を直撃しそうな形勢になってきたのには参った。これは、会社も学校(予備校や塾)も当分は閉鎖して沖縄県民は家の中で遊んでいろ、という天の声か。
まあ、働くばかり、勉強するばかりが人生ではない。台風で停電になれば、久しぶりにローソクでもともして、家族全員で花札やトランプや家族マージャンでもやる、という「電気を使わない娯楽」を味わうこともできる。そこから、「電気を使わない生活」「低エネルギー生活」への展望も出てくるだろう。案外、それこそ人間らしい生活かもしれない。


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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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