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ニーチェの思想の考察(4)

7:人間は理性的生物でなく、キリスト教的弱者にあっては恨みという負の感情(ルサンチマン)によって突き動かされていること、そのルサンチマンこそが苦悩の原因であり、それを超越した人間が強者であるとした。

ニーチェ思想において力の貴族主義思想を廃することはできない。さらには

8:絶対的原理を廃し、次々と生まれ出る真理の中で、それに戯れ遊ぶ人間を超人とした。






9:すなわちニーチェは、クリスチャニズム、ルサンチマンに満たされた人間の持つ価値、及び長らく西洋思想を支配してきた形而上学的価値といったものは、現にここにある生から人間を遠ざけるものであるとする。

10:そして人間は、合理的な基礎を持つ普遍的な価値を手に入れることができない、流転する価値、生存の前提となる価値を、承認し続けなければならない悲劇的な存在(喜劇的な存在でもある)であるとするのである。

11:だが一方で、そういった悲劇的認識に達することは、既存の価値から離れ自由なる精神を獲得したことであるとする。

12:その流転する世界の中、流転する真理を直視することは全て「力への意志」と言い換えられる。

いわばニーチェの思想は、

13:自身の中に(その瞬間では全世界の中に)自身の生存の前提となる価値を持ち、その世界の意志によるすべての結果を受け入れ続けることによって、現にここにある生を肯定し続けていくことを目指したものであり、そういった生の理想的なあり方として提示されたものが「超人」であると言える。





(考察)

7:判断不能。なぜキリスト教的弱者が「恨み」を持つのか、原著書を見ないと分からない。一般論としても、人間は恨みだけで生きるものではないだろう。「人間は理性的動物ではない」は言い過ぎで、「同時に感情的動物でもある」と続ければ、同意。

8:原著書を見ないと判断不能だが、ここで彼が言う「超人」は「認識における超人」つまり「優れた哲学者」の意味のようで、俗世間の「超人」とはまったく異なるようだ。

9:半分同意。狂信やドグマが人間の生を歪めることは確かだが、形而上学的価値が人間を不幸にするとは限らない。そして、すべては「解釈」だけだ、とするなら、どのような生き方も肯定されてしかるべきだろう。だが、キリスト教はその信者を幸福にすることはあっても、「世界の半分(非キリスト教世界)」を不幸にしてきたことは確かである。

10:「普遍的な価値」は存在しない、という前提からは当然の言葉だが、価値は自分が(主観的に)作るものだ、という考えからすれば、人間は悲劇的でも喜劇的でもないだろう。

11:同意。「価値というものを再考すること」が幸福につながることは、私自身「価値論」の中で論じている。

12:判断不能。「あなたはそう定義するのですね」としか言い様がない。

(補説)「善悪の彼岸」の第13章で、ニーチェはこう書いている。
「生きとし生けるものは何よりもまずおのれの力を発揮しようと欲する。生命そのものが力への意志である。自己保存はそのもっともしばしばあらわれる間接の結果の一であるにすぎない。ーーつねに起こることではあるが、この場合においてもまた、無用な目的論的原理の介入を警戒しなくてはならない! 自己保存の衝動というのはほかならぬそれである。(それはスピノザの論理的不徹底から生まれたーー)方法(メトーデ)ということは、本質的には原理の節約ということであり、これがこういうことを要求するのである。」
これは、この章の最初に書かれた短い一文への説明であり、「生命そのものが力への意志である」という自分の新説への「説明」(私に言わせれば強弁)である。章の冒頭の一文とは
「生理学者たちは、自己保存の衝動をもって生物の根本衝動であるとなすが、彼はなお三思すべきである。」というものだ。この広く常識とされている「通説」に対してニーチェは「生命そのものが力への意志である」という奇妙な説を提示する。しかし、その「説明」は無い。
説明の代わりに、「無用な目的論的原理の介入を警戒せよ」と言う。つまり生物の「自己保存」という目的が生物にその行動(生命維持の行動)をとらせる、という「当たり前」の考え方を否定するわけだ。では、生命とは「力への意志」である、という説を補強する「証明」はあるのか。無いのである。あるはずがない。妄説だからだ。そもそも「意志」とは「ある目的を遂行しようとする力」であって、力そのものが意志の目的であるわけではないし、意志の目的になりようもない。力を発揮する快感はあるだろうが、その快感のために行動する動物などいるまい。では、人間はどうか。権力者の「理不尽な力の遂行」は容易に起こるだろうが、それが全人類に共通している欲望だとは言えるはずもないだろう。
蛇足的に言えば、「方法とは原理の節約である」ではなく、「方法とは節約の原理である」が正しいだろう。ニーチェの間違いが翻訳者の間違いかは知らない。原理が「節約」の対象になるだろうか。

13:「その世界の意志によるすべての結果を受け入れる」以外は完全に同意。そもそも世界には意志(世界そのものの意志)など存在しない。世界は人間とイコールではないし、政治家の意志が世界の意志であるわけでもない。


(ニーチェの思想全体への結論)非キリスト教文化圏の人間にとってはほぼ常識的な発言をしているだけで、当時のキリスト教世界では大騒ぎされただろうが、東洋人には特に驚く内容ではない。ドイツ観念論哲学を打破した功績は大きいとは思う。つまり、そこで「それ以前の西洋哲学そのものも死んだ」のである。




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