· 第31節 カントとプラトンの教えの内的意味と目標とは完全に一致している。
· 第32節 プラトンのイデアは表象の形式下にあるという一点においてカントの物自体と相違する。
· 第33節 認識は通常、意志に奉仕しているが、頭が身体の上にのっている人間の場合だけ、認識が意志への奉仕から脱却する特別の事例がありうる。
· 第34節 永遠の形相たるイデアを認識するには、人は個体であることをやめ、ただひたすら直観し、意志を脱した純粋な認識主観であらねばならない。
· 第35節 イデアのみが本質的で、現象は見せかけの夢幻的存在でしかない。それゆえ歴史や時代が究極の目的をそなえ、計画と発展を蔵しているというような考え方はそもそも間違いである。
· 第36節 イデアを認識する方法は芸術であり、天才の業である。 天才性とは客観性であり、純粋な観照の能力である。 天才性と想像力。天才と普通人。インスピレーションについて。天才的な人は数学を嫌悪する。天才的な人は怜悧ではなく、とかく無分別である。天才と狂気。 狂気の本質に関する諸考察。
· 第37節 普通人は天才の眼を借りてイデアを認識する。
· 第38節 対象がイデアにまで高められるという客観的要素と、人間が意志をもたない純粋な認識主観にまで高められるという主観的要素と、この二つの美的要素が同時に出現したときにはじめてイデアは把握される。十七世紀オランダ絵画の静物画。ロイスダールの風景画。回想の中の個物の直観。光はもっとも喜ばしいものであり、直観的認識のための条件である。ものが水に映ったときの美しさ。
· 第39節 崇高感について。
· 第40節 魅惑的なものについて。
(考察)
第31節 判断不能。
第32節 「プラトンのイデアは表象の形式下にある」というのは、私には前に載せた引用文からは間違いだと思える。つまり、洞窟の比喩における「幻影(表象)」を離れて世界そのものを実体(真の存在)として見ることが「イデア」なのであるから、これを「理想」のようなものと見るよりカントの「物自体」と見るべきではないか。まあ、私は「イデア」も「物自体」もよく知らないが。ただし、34節で言うようにプラトンの「イデア」が「永遠の形相」を持つのなら、それは「物自体」とは異なることになる。(この「永遠の形相」という性質の付与によってイデアは「理想」という性格を持ったのだろう。)
第33節 「意志」とは「生の力」「生の欲望」と見るなら、認識は「意志」に奉仕している、と言えるだろう。そして、人間には「生の力」や「生の欲望」とは無関係に世界を観照することも可能であるわけだ。
第34節 「永遠の形相たるイデアの認識」という言葉がまず問題で、「永遠の形相たるイデア」というのが存在するのか、そしてそれが認識可能なのかが証明される必要がある。そのうえで、筆者の「イデアを認識する方法」の正否も証明される必要がある。そうでないと、「その結論自体、あなたの主観ですよね」と、ひろゆき的に論破されそうであるwww
第35節 ヘーゲル批判だろう。同感。歴史や時代が目的や計画を蔵している、という御伽噺が広く信じられ、影響力を持っていたこと自体が不思議である。或る種の政治家にとって利用価値が高かったのだろう。要するに、人間は「自分の頭」ではほとんど考えていない。「自分の頭を他人の思想の運動場にしている」だけである。(これは「読書について」の中でのショーペンハウエルの言葉。)(ヘーゲルの「弁証法」は便利な思考法だが、「正→反」の後に必ずしも「合」が来るとは限らない。何が結論となるかは権力次第である。まあ、社会進化論者にとっては便利な「説得法」である。)
第36節 まあ、いろいろと面白いことを言っているが、著書そのものを読まないと何とも判断できない。私も数学が嫌いだし、怜悧でなく無分別だが、絶対に天才ではないwww
第37節 「イデア」の概念が今一つ分からないが、普通人は天才の目を借りて「世界の別の相」を見るとは言えるだろう。その見方は天才がそれを指摘するまでは誰にも気づかれなかったものである。ただし、大天才もいれば小天才もいる。
第38節 「対象がイデアにまで高められるという客観的要素」というのが私には理解できない。対象はすべて「表象」であるのだから、それがどうしてイデアに高められるのか。対象そのものがイデアとなるのはあくまで「主観」によるのではないか。天才とはその主観の次元が極度に高度なのであって、客観とは別だと思う。つまり、単なるブスを天上的な美女として見る能力こそクリエイターとしての天才性だろう。ここでの議論は哲学者と芸術家の同一視という誤りがあると思う。
第39節 判断不能。
第40節 判断不能。