(夢人注:念のために言えば、この「黄金丸」は最初の少年文学として明治の少年たちが読んで血を沸かせていたもので、つまり、このレベルの文章表現を理解できる子供がかなりいたということだ。現代の大人でこれが理解できる人がどれだけいるだろうか。私は小学校の図書館でこれを見つけて読んで、半分も理解できなかったが、「面白い」とは思った記憶がある。だから今、載せているのである。)
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<朗読>
つい昨日まで真鍮の輪を首に掛け、裕福な庄屋の門番をして、何不自由なく過ごしていた黄金丸であった。しかし喪家の犬、すなわち野良犬となった今は、疲れ果てて寝るに、心安らかにして体を横たえる小屋もなく、腹が減っても食う肉もなかった。夜になれば道ばたの小さなお堂の床下に入って雨露を凌ぎ、漸く眠りについても土から這い出て腹の下でうごめく土竜に驚ろかされる身分であった。
また、やっと空が明るんで昼になれば、魚屋の店先で親爺が捨て寄越す魚の骨を腹の頼みにし、心ない人からは棒で追い払われる始末であった。
あるときは村の子供が連れた犬と諍いを起こし、またあるときは皮目当ての野犬狩りに襲われ、命からがら藪中に逃げ込む有様であった。
このようにして、黄金丸は主の家を出てからの数日、山野を渡り、人里で餌を求めるなどしながら旅を続けていた。そんなある日のこと、黄金丸は広い原野にさしかかった。その原は行けども行けども尽きず、日も暮れかかってきた。宿ろうにも木陰さえないので、さすがに心細くなった黄金丸は、どうにかここを横切ろうとひたすら道を急ぐのだった。その日は朝から一滴の水も飲まず、食べ物は一口もとっていなかったので、言わずもがな腹が空いて仕方がなかった。あまりの渇きと空腹に堪えかねて、黄金丸はしばらくの間路傍に蹲っていたが、日もとっぷりと暮れ、冷たい夜風が肌を刺し、また伏せている地面はしんしんと冷え始め、寒さが骨身に染み、最早これまでかと思うほどの厳しさであった。
「ああ、我が主の家を出てから、至るところで腕に覚えのありそうな犬と争ってきたが、どれもこれも物の数に入らぬ、取るに足りない相手だった。しかし、飢えと渇きには抗えないものだ。こうなっては、この原野の露と消え、烏どもの餌になるやもしれぬ。……里まで出れば、何かしら食い物もあろうが、出ようにもあまりに疲れ果ててしまって、もう一歩も歩けるものではない。ああ、口に出してみても甲斐のないことだがなあ」
ますます心細くなってきた黄金丸は、こう弱音を漏らして途方に暮れていた。そのときのことである。どこからやって来たのか、突如、一群れの火の玉が黄金丸の目の前に現れた。火の玉は高く舞い上がると、黄金丸の周囲を明るく照らし、ふわふわと空中を浮遊した。それはあたかも私に付いて来なさい、と黄金丸を促しているかのように見えた。
「やや、きっとこれは私の亡き父様母様の霊魂であろう。さては火の玉となっていまここに現れ、危急に遭っている私をお救いになろうとされているのに違いない。ああ、ありがたいことだ」
そう悟ると、黄金丸は宙にある火の玉を伏して拝んだ。そしてその燐火の赴くに従って歩み出した。誘われるまま四五町ほど行くと、ふいに鉄砲を放つ音がした。それが合図であるかのように、火の玉はいずこともなくふっと消え失せて、見えなくなった。我に帰った黄金丸は、ここはどこであろうと辺りを見回して見た。そこは寺の門前であった。これは如何に、と訝しく思ったが、朽ち開け放たれた門から中に入ってみると、そこは大きな廃寺であった。今では主も住む人もない様子で、床は落ち、柱はひしゃげ、壁は破れ、蔦が絡まり、朽ち果てた軒には蜘蛛の巣がびっしりと張り付いていた。それはそれは凄まじい荒れようであった。頃はまさに秋闌。屋根に実生した楓が時世時節とばかり深紅に色付いており、その紅葉の間から傾いた寺の鬼瓦が垣間見えた。あたかもその様は信州戸隠山の鬼女伝説『紅葉(くれは)狩』を思わせた。
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戸隠の荒倉山に都から紅葉という女が流されてきた。暫くは村でおとなしくしていた紅葉であったが、次第に都への思いが募り、生まれながらの邪悪な心と妖術を用い、悪事を働くようになり、村人からひどく疎まれ、鬼女と呼ばれるようになった。紅葉の悪事の噂は瞬く間に千里を走り、国中の無法者たちがその噂を聞き付け、彼女の下に集まって来た。紅葉はそうした無法者たちを束ね、手下とし、荒倉山の鬼の岩屋を根城にし、更なる無法を重ねるようになった。これを許しまじとて、朝廷は平維茂を大将に、征討軍を派遣した。紅葉の根城を探しあぐねた維茂だったが、八幡大菩薩の導きにより、ついに鬼の岩屋の在処を知り、麓に合戦の陣を敷いた。暫くの間、互いは相手の手の内とその力量を探り合って小競り合いを繰り返した。紅葉の妖術に苦戦を強いられた維茂であったが、北向観音より降魔の剣を授かるや、紅葉の籠もった岩屋を急襲した。すると紅葉は妖怪の本性を現し、宙に舞い上がり応戦した。一進一退の激戦の中、突如、戸隠奥院から黄金の光が放射され、紅葉の両目を射貫いたのだった。両目を焼かれた紅葉は地に落ちた。維茂はすかさず、苦しむ紅葉に近寄るや、降魔の剣でとどめを刺した。こうして紅葉と紅葉の残党は一人残らず成敗された。維茂は紅葉の遺体を丁寧に弔い供養し、降魔の剣は戸隠権現に奉納した、というのが『紅葉狩』である。
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さて、芒が茫茫と生い茂る中に斜めになって倒れかかった石仏があった。その姿を見て黄金丸は、経典にある雪山童子の話を思い出した。
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雪山童子とは、大昔のとある修行者の名である。印度の山奥で修行を重ねていた童子は、難行苦行に堪え忍びながら悟りを求めていた。天上からその行ないを眺めていた帝釈天は、それが真なる心か否かを試すため、人食鬼の羅刹の姿になって地上に舞い降り、身を隠して童子のそばに近づき、次の二句を声高に唱えた。
諸行無常(しよぎやうむじやう)
是生滅法 (ぜしやうめつぽう)
| 諸行無常、
| 是れ生滅の法なり
|
| この世にある何ものも、
| またその運動も、関係性も、何もかもが常に
| 生成・変化・消滅を繰り返しているばかりで、
| そこには永遠で不変なものなどは一切ない。
|
| これがすなわち「生滅の法」
| (生滅は常に「無常」に帰するという根本原理・原則)
| というものである。
|
| (Oct.28, 2016 拙訳加筆)
これを聞いた童子は、この言葉に真理ありと悟り、声の主に下の二句を求めた。すると羅刹が姿を現した。童子はその恐ろしい姿を見て驚いたばかりか、羅刹が真理を悟っていることに二度驚いた。人食いが真理を悟っているのに、仏道に入り長年修行を積んでいる己れが悟りを開けぬとは……。童子は、これまでなした修行は、修行のための修行に明け暮れたのみであったことに気づいた。結局は悟りを拱手傍観していただけであり、真理に至るばかりか、近づくことさえもできないことに無駄な時と労力を費やし、終には徒労のみ得られる人生を送らんとしていた自分にただ恥じ入るのであった。童子は先覚者の羅刹に、どうしても下の二句を教えて欲しいと願った。すると羅刹は童子の身を自分の御供に捧げるのであらば、下の二句を教えても良いと言った。童子はたちまち真理を得られるのであらば、只今この場で命を捨ててもよいという覚悟を常日頃から持っていたので、一瞬の躊躇いもなく羅刹の条件を呑んだ。すると羅刹は約束通り、即座に下の二句を詠んだ。
生滅滅己(しやうめつめつい)
寂滅為楽(じやくめついらく)
| 生滅を滅し、しかして已 (や)む
| 寂滅をもって楽となす
|
| だから、此の世で、我と我が身が永遠たらん、不変たらんと欲し、
| それを求めるあらゆる思考も企ても活動も、すべて、
| ただ無常に帰するのみなのです。だからそういったいわゆる、
| 自らの中に生まれ出る煩悩の炎を滅し、
| 己も含め、あらゆるすべてが無常にあるということを照見しなさい。
| 己はもとより生きとし生けるものの生や死は
| みな例外なく無常そのものであり、
| 空であることを看破する境地に至りなさい。
| それが解脱するということであり、然すれば、あなたは
| 此の世であろうと彼の世であろうと穏やかでいられるでしょう。
| ここに至れば、この此の世と彼の世という考えや願いでさえ空であり、
| 常にあなたが求める世界が、これまでも、
| いまも、これからも、変わることなく
| あなたとともに、あったし、あるし、
| これからもずっとあることがわかるでしょう。
|
| もしあなたが煩悩に迷っているのであれば、
| いわゆる解脱によって覚りを開きなさい。
| 解脱を遂げれば、あなたを苦しめるすべてのことが終わりを告げ、
| その無限の繰り返しから、あなた自らのその肉体からはもとより、
| その心やその考えや、あらゆる執着から、解き放たれることでしょう。
| この解脱により顕れる、死も生もない世界が「涅槃」です。
| そこ(実はここ)は、
| あなたをこれまで、いま、そしてこれからも苦しめるであろう、
| すなわち<生成・変化・消滅>が永遠に繰り返され、
| あなたを日々悩ませ、苦しめつづける煩悩世界とは、
| あらゆる一切、すべからく、なにもかもが異なった、
| 絶対的に安静で、真の楽しみに満ちた境地なのです。
|
| さあ、今、解脱なさい。求めず覚りなさい。
| そして時を移さず涅槃に至り、寂滅に楽を得なさい。
|
| (Oct.28, 2016 「雪山偈 (せっせんげ)」拙訳加筆)
羅刹はこう唱え終わると、今すぐ約束を果たせと童子に詰め寄った。童子は、只今これより己れは死せるので、その後、この身をあなたに進ぜようと羅刹に告げた。童子はそう言うと、後世の人々が自分と同じく悟りに至らぬ無益な修行をし、その一生を徒労に終わらせずに済むようにと、今羅刹に教わったばかりの四行詩を周囲の岩や大木の幹に書き留めると、近くにあった高木によじ登り頂まで至ると、そこから忽ち身を投じたのであった。それを見た羅刹は帝釈天の姿に戻り、一躍身を翻すや、童子が地に落ちる寸前にその体を空中で優しく受け止めると、穏やかに地上に降ろした。そして帝釈天は童子の前にひれ伏し、ひたすら童子を拝するのであった。実はこの雪山童子こそ、釈尊の前世の姿であったという。
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黄金丸は朽ち果てた寺や傾いた石仏を見やって、そんな伝説や経文に書かれていたことを思い出していたが、ふと足下の苔むした石畳に目を遣った。すると何と、そこには鉄砲の弾に身を打ち貫かれたらしく、一羽の雉子が飛ぶことも儘ならぬ様子で、苦しみもがいているではないか。飢えと渇きに苦しんでいた黄金丸は、
「これは良い獲物があるではないか」
と、急いで走り寄り、両前足で押さえ付け、早速食らおう、さあ食おう、と牙を立てようとした丁度そのときだった。突然、黄金丸の背後から声がした。
「おのれ、そのまま動くでないぞ!この野良犬めが!」
大きな声でそう言い、吠え掛けて来るものがあった。雉子にばかり目が行っていた黄金丸はびっくりした。後ろを振り返って見ると、白毛の猟犬が、今にも黄金丸に飛び掛かって咬み付いてやろうと身構えているではないか。この様子には流石の黄金丸も少々慌てた。そしてこう言い返した。
「私のことを野良犬だと!何を抜かす、無礼者め。失敬千万な奴だ。おのれこそ、何者だ」
「何?無礼者だと?無礼者とはおのれ自身のことであろうが。お前が今正に食おうとしていたその雉子は、我が主が撃ち捕ったものである。おのれは我が主の雉子を盗まんとする。言語道断も甚だしい。世の義を解さぬ盗人の山犬が」
「否。何故、おのれは私が義を解さぬなどとほざくか。この雉子は貴様の主のものではない。この雉子は誰のものでもなかった。今ここで私が拾ったのであるから、他ならぬ私のものだ」
「何を抜かす。盗人猛々しいとは言うが、このこそ泥め。見たところ、お前、真鍮の首輪をしていないようだな。おのれらの如き性悪で不徳な泥棒犬が多くなったお蔭で、世に野良犬狩りが増え、我ら義に忠実な猟犬仲間まであらぬ疑いを掛けられる始末。お前らには大いなる迷惑を蒙っておるのだ」
「言うに任せておれば。何と無礼な罵詈雑言の数々。その減らず口、まだ叩くとあらばただでは済まさぬぞ」
「それはこちらの言う台詞。おのれのような宿無しの野良犬と問答するのも無益なことだ。俺の牙にかかって怪我をせぬうちに、お前が食おうとしているその主の雉子、俺にさっさと帰して寄越し、尻尾を巻いて今すぐここを立ち去れい」
「返す返すもよくも良くそう舌の回ることだ。折角私が拾い得たこの私の雉子を、貴様のそのくるくる廻る口車に乗り騙されて、おめおめとおのれの手に渡すものか。ましてや尻尾を巻くなどと、この私をあまりに愚弄する言、そこに土下座して、謝しを乞うのであらば命ばかりは取らずに置いてやろう。」
「う~ぬ。我が主が来られぬ前に、お前のその悪行を見て見ぬ振りをし、なかったことにしてやらんとしたにもかかわらず、おのれはそうした情けも解せぬばかりか、授けてやった忠告も我利に任せて聞き入れず、俺が掛けた温情を悉く無にするつもりだな。くっ、面倒な。お前の如き愚か者にはこれ以上の情けも、問答も無用。早速、こうしてくれるわ」」
と言うと、その白犬は黄金丸に飛び掛かって来た。黄金丸はその最初の一撃をしゃらくさいとばかり振り払ったが、相手が再び咬み付いて来たので、えい、とばかりに蹴り返し、白犬の喉笛に食い付かんとした。相手もなかなかの腕利きで、身を沈めるや黄金丸の急所への攻撃をすんでのところで頭を反らしてかわし、かわした動きを生かして、黄金丸の前足の腿に食い付いて来た。黄金丸はあまりに腹が空いていたので、日頃ほど勇気が出なかったが、常の犬ならぬ優れた力を身に付けた使い手である。しかし、どうやら白犬も黄金丸に負けず劣らぬ力量を備えた豪傑のようであった。
両雄互いに挑み合い、雌雄を決せんと壮絶な闘いを繰り広げ始めた。その様はあたかも花和尚・魯智深が、九紋竜・史進と赤松林で相争った、あの「水滸伝」の一節を思い起こさせるものであった。
さて、先ほどより、やや離れた風下の木陰に油断なく身を隠し、黄金丸と白犬の二匹の問答に耳を欹てている一匹の黒猫があった。二匹の犬は互いにいがみ合い、やがて問答を止めると、死闘を始めたのをじっと見ていた。ほぼ互角の力の由、どちらにも他に気を割く余裕が無く、その決着には時が掛かると見透かすや、二匹の闘いの場にこっそりと一歩づつ近づいた。そして互いの犬が相手の出方を窺って、力を尽くして咬み合ったまま、その動きを膠着させる頃合いを見はからっていた。今がその時と見るや、二匹の間隙を縫って、黄金丸が先ほど前足の間から離した雉子をさっと咥えると、脱兎の如き勢いで走り出した。二匹の犬は、互いにそれに気づいたが、お互い力を抜けぬ状態だったので、すぐにそれに応ずることができなかった。二匹共々、
「ああ、何ということだ!あの泥棒猫に雉子を横取りされた。しまった!してやられた」
と、咬み合っていた口を互いに緩めたが、逃げ足の速いその猫をたとえ今更二匹で追ったとて、もうそれはすでに甲斐なきことと悟った。雌雄を決せんと今の今まで争い合っていた二匹の犬にこの時出来たことといえば、諍いの元になった当の雉子を咥えた猫が、悠々と築地を越えて視界から消え去るのを、ただ口を開けて茫然と眺めていることのみであった。
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