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気の赴くままにつれづれと。
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時事通信 9月19日(月)21時34分配信
ニューヨークのマンハッタンで17日に29人が負傷した爆発事件は、繁華街の2カ所で爆発物をさく裂させる連続爆弾テロが企てられた可能性が出てきた。
さらに同じ日、隣のニュージャージー州では開会直前のマラソン大会コース沿いでパイプ爆弾が爆発。中西部ミネソタ州でも刃物を持った男が8人を負傷させ、過激派組織「イスラム国」(IS)系メディアが「犯行声明」を出した。国連総会出席のため各国首脳がニューヨークに到着し始めた18日、米最大の街を不気味な緊張が覆った。
◇魅力的な標的
連邦捜査局(FBI)は19日、今回の爆破事件に絡み、米国籍を持つアフガニスタン系のアフマド・カーン・ラハミ容疑者(28)を指名手配した。ただ、これまでのところ犯行声明などは出ておらず、犯行の動機や組織的背景の有無を含む詳細ははっきりしない。
それでも、ニューヨークは「テロリストにとって最も『魅力的』な標的」(保安専門家)と言われてきた。経済や文化の世界的中心地で、その象徴が集中しているからだ。2001年の同時テロより後、証券取引所やタイムズスクエア、ブルックリン橋といった要所を狙ったテロが少なく見積もっても15件、未然に阻止されている。
今回、死者こそ出なかったものの、ニューヨークが同時テロ後、初めてテロに見舞われた可能性がある。爆発物を使ったケースとしては、全米で見ても13年4月に3人が死亡、264人が負傷したボストン・マラソン爆弾テロ事件以来であり、ニューヨークの行政・治安関係者に与えた衝撃は小さくない。
昨年来、フランスやベルギー、ドイツなど欧州各地でISに関連したとみられるテロが頻発。米当局もテロへの警戒を強めていた。元ニューヨーク市警のテロ担当官は取材に対し、「どこかの街でテロが起きるのは時間の問題と覚悟はしていたが、ニューヨークよりも警戒レベルの低い場所だと思っていた」と述べた。
一方、爆発現場は「にぎやかな地区に近いものの、特に何があるというわけでもない場所」(付近の住民)だった。テロだとすれば、なぜそんな場所が標的になったのか不可解な面もある。
◇安倍首相も到着
18日、安倍晋三首相やオバマ米大統領ら要人が続々とマンハッタンに到着した。「間もなく大統領の車列が通る。しばらく待って」。18日夜、爆発現場から約2.5キロ離れたビジネス街パークアベニューと53丁目通りの交差点。赤と青の目がくらむような灯火が点滅する中、主要ターミナルのグランドセントラル駅などに向かっていた何十人もの歩行者が急きょ、通り道をふさがれた。
「ハイレベルウイーク」と呼ばれる国連総会新会期冒頭のこの時期、要人保護のため国連本部付近には毎年、厳重な警備が敷かれる。デブラシオ市長は事件を受け、過去最大規模の治安要員を配置すると説明。市警や州警察、保安官事務所など多数の緊急車両が主要道路の路肩を占拠した。
「衆参の小選挙区で300万円、比例代表選挙の場合は600万円。アメリカ、ドイツ、フランス、スウェーデン、デンマーク、スイス、ロシアなど供託金がゼロの国も少なくない中、日本の選挙供託金は極端に高い。これは、収入、財産に余裕のない者の被選挙権を実質的に奪うものであり、『両議院の議員及びその選挙人の資格は』『財産または収入によって差別してはならない』と定めた憲法44条に違反している」
宇都宮健児氏をはじめとする弁護団が提訴した「選挙供託金違憲訴訟」の第一回口頭弁論が、2016年9月16日に東京地方裁判所で行われた。
定員42人の傍聴席は満席となり、法廷に入りきれない傍聴希望者もいた。
原告訴訟代理人の宇都宮氏は意見陳述で、「選挙権に関する『一票の格差問題』に関しては、司法の積極的な判断で、国会を動かしつつある」と指摘した上で、「政治の劣化を防ぎ健全な議会制民主主義を維持するためにも、裁判所は本件訴訟において、司法本来の役割を果たして、懸命な判断をされることを強く要望する」と訴えた。
第2回公判は11月25日午前10時より開かれる予定。
■ハイライト
日本人は単独では優秀な人が多いですが、組織で動くと理念や観念論が優先されて合理的な意見を圧殺し、結果として成り行き任せのデタラメな判断を取り続けた歴史だと思います。
これは日本の近代史(さすがに弥生時代以降の歴史ではないだろう。まあ、稲作が始まったころから「組織」は始まったと大雑把に言えるとは思うが。)の本質を見事に喝破しているのではないだろうか。
そして、これからの組織は、「異物」や「例外」をメカニズム的に受容し、プラスにする工夫が必要なのだと思う。
全体の空気に支配され、「捕虜になる日本人兵士は存在しない」というありえない前提(ドグマ)で物事を進めるから、戦争に負けたりするわけだ。これは軍隊だけのことではない。
「柔構造の組織」というのは、かなり前から言う人はいたと思うが、それを個別の組織や体制に組み込む、現実的工夫がほしい。
いや、その前に、日本社会が異常なまでの「異物排除社会」であるという認識が一般に共有され、反省されることが必要だろう。
「和の社会」「絆」
は、逆に言えば、その集団・組織以外のものや、集団内の異物の排除を伴っていないだろうか。
(以下引用)
Nariさんへの返信
個人主義は、合理的である。
一方、集団主義は非合理的だ。
という断定は、どういう根拠に基づいているのか分からないし、自分自身の体験から言っても正しいとは思えない。
私は集団というものが本質的に持っている「集団悪」が大嫌いなのだが、それを不合理だと思ったことは一度も無いのである。そもそも合理・不合理とは何なのか。
集団の基本的命題(使命)は、「その集団の存続と成長」だろう。ならば、集団の存続と成長のために為す悪は合理そのものなのではないか。
つまり、ここには「合理」=「正しいこと」のような錯覚がある。もちろん、ここでの「正しいこと」の中に、また「論理的に正しいこと」と「倫理的に正しいこと」の混同もあるはずだ。
さて、集団の基本的命題が「その集団の存続と成長」であるなら、その邪魔になる他集団や、集団内の異分子は「敵対存在」となり、排除される。これが集団が本質的に持つ「集団悪」だ、と私は考えるわけだ。たとえば学校にとっては生徒が敵であったり教師が敵であったり父兄が敵であったりする。もちろん、他の競争校も敵である。
これは少しも「不合理」ではないが、もちろん「嫌なこと」である。人は個人であるときには容易に善人でありうるが、集団に関わるとほとんど悪行を為すことになる。積極的な悪行は為さなくても、目の前の悪行に対して「見て見ぬふり」をする人間がほとんどだ。これはいじめ問題などでおなじみの光景だろう。
「人は孤独であるとき高貴であり、他人とともにいるとき卑しい」
誰の言葉だったか失念したが、この言葉が正しいと思われるのは、我々は他人とともにいる時、ほとんど常に「本当の自分自身ではない」からである。外面を飾り、心にもない言動をする。そんな人間はある種の卑しさを持っているとは言えるわけだ。他人に媚びているのである。
もっとも、モリエールの「ミザントロープ(人間嫌い)」の主人公のようにあらゆる人間に絶望して世間から離れる人間が賞賛すべき存在というわけでもない。要は、そこがそんな場所でも「随所に主となる」ことができるかどうかだろう。
(以下引用)
さて、また『寄生獣ミギー 悪魔の言葉』から、引いてみたいと思います…
【差別はなぜ生まれるのか】
個々を集団としてとらえるところから、差別は生まれる。
何かトラブルがあったとき、それは個別のものだ。
しかし、受けた不快は、相手から、その人が所属する集団に広げられる。
同時に感情も、嫌悪から軽蔑に変わり、凝り固まる。
この拡大と固定化が、差別の正体といえる。
そこには中身はない。恐ろしいほど空っぽだ。
差別する人は、得体のしれない憑き物に憑りつかれている。
彼らは対象の人間すべてに、言うに言われぬいとわしい特徴をみつけだす。
しかし、それは憑依によって吊り上り歪んだ目にせいにすぎない。
日本人の「集団主義」というのは、「和の精神」などではなく、「差別の精神」なのです。
何かといえば徒党を組んで、敵を設定してはキイキイと叫んで攻撃を始める…
「倭の精神」と呼ぶべきでしょう…
上の差別の定義は必ずしも十分ではない気がしますが、
権力が人民を分断して、統治のために差別を生み出し、利用するときは、
必ずこの集団分けをやっています。
「集団への帰属意識」…それを差別に変えていくのです…
とりわけ、日本人を観察していますと、犬やサルレベルの”群れ意識”の人が大半です。
人間と言うより、動物に近い人が多数というのが、現実の日本人です。
”群れ”から独立した”個”としての”自分”のない人がとても多い…
からっぽで、のっぺらぼうの民族と言えましょう…
太宰が『人間失格』で描いておりました…
ここに対応する記述も、前著にありますので、引いてみましょう…
【正直に生きたければ群れるな】
個人をなにより尊重する欧米の個人主義を、日本人はどうしても理解できない。
それは企業などにみられるように、集団主義であるからだ。
個人主義は、合理的である。
一方、集団主義は非合理的だ。
とりわけ、日本の組織には、年功序列や先輩後輩といった
欧米人には理解できない原理が根本にある。
個人の考えを煮詰めてゆき、合理的になればなるほど、
集団になじめなくなるのは当然といえる。
自身に正直な生き方を貫こうとすれば、群れから離れざるを得ない。
生まれながらの畜生民族である日本人が家畜から人間になるためには、
檻を破って外に出るだけではダメである。
畜生の習性を”超越”して、人間になる必要がある…
これを仏教では「彼岸に渡る」と言うのである…
左から片渕須直監督、のんさん、こうの史代さん
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(全6枚)
9月9日(金)、スペースFS汐留で劇場アニメ「この世界の片隅に」の完成披露舞台挨拶が行われました。
本作は、こうの史代さんの同名漫画をアニメーション映画にしたもので、激化していく戦中の広島県呉市を舞台に明るく前向きに生きる主人公・すずを中心に描いた作品。監督は映画「マイマイ新子と千年の魔法」やテレビアニメ「BLACK LAGOON」などを手がけた片渕須直さん。2015年に行われたクラウドファウンディングで3000人以上が参加し、制作決定に至ったことも話題になりました。
舞台挨拶には片渕監督とすずを演じる女優の のんさん、そして原作者のこうの史代さんが出席。
片渕監督は、原作を読んだ時に、自分の手で映像化させたいという強い思いを抱いたことを振り返り、「6年間いろいろなことがあり、やっと完成しました。クラウドファウンディングでもたくさんの方に協力いただいたこと、感謝しています」とコメント。
また、「マイマイ新子」で昭和30年の山口県を描いたことを踏まえ「昭和30年ならまだ実感としてわかったんですが、昭和20年がどのような時代だったのかというのは未知のものでした。ただ、今と同じ時間の流れの中に昭和20年があったということを自分たちなりに残しておきたい、捉えたいという思いがありました」と、制作にあたった強い想いを明かしました。
本作で声優初挑戦・アニメーション作品初主演となった のんさんは「戦争がすぐ隣りにある。この作品を見て、普通の生活が大切なんだと改めて思いました」と感想を述べ、また自身が演じたすずに対しては「ぼーっとしてるけど、実は気が強くてパワフルなところに共感しています」と共通点を挙げました。
片渕監督は「アフレコでは、のんちゃんからはたくさん質問をもらいました」と振り返ると、のんさんも「何でも質問させてもらいました、すみません」と笑顔で小さく謝罪。それに対し片渕監督は「いえ、質問の答えを考えていくうちに、自分もすずや作品の本質を改めて捉え直す事ができたんです」と返し、「それはエンディング映像に活かすことができました」と打ち明けました。
こうのさんは「映画化のお願いを片渕監督から手紙でもらいました。うれしくてその手紙はしばらく枕の下に入れていました」と笑顔で述懐。片渕監督も、のんさんへオファーした際の返事をメールで本人からもらったそうで「心のこもった丁寧な文章で、プリントアウトして、懐にずっと入れていました」と嬉しそうに告白しました。
最後のあいさつでは、のんさんが「普通の生活をして、生きるということ。そのことの大切さを思って、涙が溢れてくるような素敵な作品。ご家族で見ていただけたらなと思います」とコメントし舞台挨拶を締めくくりました。【取材・文=細川洋平】
■劇場アニメ「この世界の片隅に」
2016年10月 テアトル新宿他で公開
スタッフ:原作…こうの史代(「この世界の片隅に」双葉社刊)/監督・脚本…片渕須直/キャラクターデザイン…松原秀典/プロデューサー…丸山正雄・真木太郎/アニメーション制作…MAPPA/プロデュース…GENCO/配給…東京テアトル/後援…呉市・広島市/製作:「この世界の片隅に」製作委員会
リンク:「この世界の片隅に」公式サイト
公式twitterアカウント・@konosekai_movie
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