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児童文学の心理学

市民図書館から借りて来た、リンドグレーンの児童文学「ラスムスくん英雄になる」を、気の向いた時に間断的に読んでいるが、リンドグレーンというのは、少し前の流行語で言えば「根が暗い」作家だな、という気がする。つまり、脳天気な子供の世界の背後に、常に、どこか暗い大人の世界がチラチラしている感じが私にはある。たとえば、「名探偵カッレくん」などだと、子供の探偵ごっこの世界に実際に現実の殺人事件が起こるのである。(子供のころ読んだ記憶で書いているので、本当にそういう内容だったか確かではないが。)

で、ここで論じたいのは、昨日書いた「エランヴィタール」と「フランヴィタール」の話である。その定義を私なりにすれば、エランヴィタールとは「無秩序な生命力」、フランヴィタールとは「秩序ある生命力」で、後者は、「生命力」の本質とは異なるもので、前者だけが本当の生命力だろう、と私は思う。鋳型にはめられた生命力というのは本質的生命力ではなく、外的な力の産物だろう。だが、その概念を使うなら、人間の人生とは、(その良し悪しは別として)エランヴィタールがフランヴィタール化される過程である、と言えるのではないか。
たとえば、性欲の発現の仕方は原始的な無秩序性から、倫理や法律や習慣(風習・制度)という社会的強制によって「許容される性発現」と「許容されない性発現」に分けられていく。これは女性を「所有物」としていた男社会の産物で、女性は概してこの分化に否定的な感情を持っている、つまり性的アナーキズムに惹かれる傾向があると感じる。女性の自然性と言ってもいい。だが、性的アナーキズムの下では、性交(強姦含む)はあっても恋愛や結婚は無い、と私は考えているので、恋愛や結婚という人工的文化を完全に否定していいのかどうか、非常に疑問視するわけだ。

これが児童文学とどう関係するかと言えば、児童文学がなぜ「腕白小僧」を主人公にするか、という問題を私は論じたいわけだ。
腕白小僧の言動は周囲の迷惑だが、外部の観察者や観客の目からは「面白い」から彼らを主人公にする、というのがその理由だろう。では、彼らはなぜ周囲に迷惑な行動をするのか。それが「エランヴィタール」の発現だからである。彼らは社会について無知だから、やっていい行動といけない行動の区別がつかない。だから、結局は、活発な子供は傍迷惑な腕白小僧の行動をし、おとなしい子供はやりたいことをじっと我慢する。どちらが「話として面白い」かは明白だろう。

子供の頭の中の知識は、「理解されず、知っているというだけの、ゴミのような、無秩序な知識」と「整理され、理解された有益な知識」に分類される。前者でも、その知識が冗談のネタにはなるから、無益だとばかりは限らないが、人生の指針や参考にはならないわけだ。学校で習う知識の大半が、結局はそういうもので終わることは誰でも認めるだろう。まあ、進学に有益なだけだ。

で、知識についても、「無秩序から秩序へ」という進行が頭の中で起こるのが知的進化だろう、というのが私の説だ。つまり、エランヴィタールからフランヴィタールへというわけである。
だが、どんな大人の中にも、子供のころの「無垢な(白紙の)状態で」世界を見ていた、あのころへの懐かしさというものがあり、それが子供期をある種の「黄金時代」と思わせるのだろう。


ついでに書いておく。私は2週間に1回、市民図書館から10冊の本を借りてくるが、そのほとんどは最初だけ読んで、読む価値がないと判断したら、それ以上読まないで返す。で、借りる本の半分くらいは児童書である。児童書を「大人の目」で読むと非常に面白いのである。もちろん、その大半は屑であるが、中に非常に優れたものがある。逆に、高名な作家の「大人向け文学」でも、私にはまったく興味を惹かないものもゴマンとある。むしろ、興味を惹くもののほうが希少である。それ以前に、「読むのが面倒くさい」ものが多い。(今回は気まぐれで大江健三郎の「宙返り」という小説を借りてきたが、彼がどういう意図でこれを書いたのか、さっぱり分からず、興味も惹かれないので途中放棄した。登場人物の女性が、奇妙な「事故」で処女喪失する話が冒頭にあるのだが、そのエピソードがどういう「重要な」意味を持って、わざわざ話の冒頭に書かれたのか、理解する気にもなれない。)大衆小説は読みやすさはあるが、たいていは「読むのが時間の無駄」だったということが多い。人生の残り時間が少ない年齢だと、「読むのが面白い」や「読んで有益だった」ということが大事になるのである。
たとえば、現代のアメリカインディアンの少年が、白人の高校に転校する話を書いた「はみだしインディアンの物語」という小説は、現代のインディアンの置かれた状況(主人公の家族や知人が無意味にゴロゴロ殺される。あるいは他人の過失で事故死する。)を舞台に、主人公が悪戦苦闘する様がユーモアを持って書かれて、面白い。まあ、そのユーモアの質はかなりブラックなので、読む人に不快感を与える可能性が高いが、「読んで有益な」作品であるのは間違いない。そういう本が児童文学の書棚(YA、つまりヤングアダルト本だが)にあったりするのである。あるいは、R・L・スチーブンソンの「誘拐されて」などが児童文学に分類されていたりする。これは作者が「宝島」の作者だからという偏見からだろう。実際は、彼の時代のスコットランドの置かれた政治状況を舞台にした高度な「大人向け」小説だが、子供でも読める娯楽性の高い冒険小説だ。それが大人の目に触れない場所にあるわけだ。



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カタカナ外来語の厄介さ

「電気石板ノート」というブログから転載。面倒な内容なので、途中からは読むのを放棄したが、一応全部を載せておく。
花田清輝の映画評論の中に「エラン・ヴィタール」と「フラン・ヴィタール」という言葉が対立概念として出て来たので、興味を持ってググっただけである。あまり面白い概念でもなさそうだ。そもそも「生命力」をふたつに分ける意味があるのか。
ただし、概念というのは、一生の難問を解決する優れた「補助線」になることもあるので、疎かにはできないのは勿論である。だが、そもそも「エラン」と「フラン」の日本語訳くらい最初に説明してほしいものである。「活力」と「統制」か?「統制」なら、「理性」という概念だけで十分だろう。

(以下引用)
 花田清輝の『アヴァンギャルド芸術』、『さちゅりこん』、『胆大小心録』などといった著作を読むと、時に、バビットという名前を認めることができる。アーヴィング・バビットは一八六五年オハイオ州に生まれたアメリカの批評家、生涯の大半、ハーバード大学でフランス文学を講じ、一九三三年に死亡している。

 花田清輝がバビットの名を持ちだすときに、必ずと言っていいほど付いてくるのが、バビットの造語である「フラン・ヴィタール」という言葉である。フラン・ヴィタールは、ベルグソンの用語エラン・ヴィタールに対抗してつくられた用語で、エラン・ヴィタールが「生の活力」や「生命の躍進」などと訳され、生の遠心的に拡大し、飛躍する力をあらわすのに対し、フラン・ヴィタールは「生の統制」であり、生の求心的に収縮し、組織する力をあらわす。エラン・ヴィタールの対抗概念ということから、フラン・ヴィタールを、なにか、生にとって破滅的な力、例えば、フロイトの死の衝動のようなものと考えるのは間違いである。ベルグソンのように生の本来をもっぱら遠心的な拡大のうちに認めるべきではなく、むしろ、求心的な組織する力に認めるべきだというのがバビットの真意である。

 花田清輝が、バビットを正面切って論じることはなかったが、『胆大小心録』に収められた「エランとフラン」などはバビットとそのフラン・ヴィタールという考えを最も大きく取り上げた文章ということになろう。そこで花田清輝は、国家や社会を生物とのアナロジーにおいて捉える、或は生物そのものとして捉えるスペンサー、フロベニウス、シュペングラーといった思想家や歴史家がもつ生命観を批判している。
 彼らが国家と重ね合わせて見ている生命とは、つまりは拡大膨張する生命でしかなく、ある国家や文化が拡大膨張をやめたとすれば、そうした国家、文化は既に生命本来の力を枯渇させているのであり、後は衰弱し没落するしかないことになる。花田清輝はバビットのフラン・ヴィタールを、こうした、あまりに単純で、それでいて無批判に信じられ、拡がっているようでもある生命観に対する解毒剤と考えていたようである。
 思うに、バビットが、わざわざ、フラン・ヴィタールといったような言葉を持ち出したのも、ベルグソンのエラン・ヴィタールを、文字通り、生命の衝動として受け取ったかれが、ベルグソンに反対して、そういう衝動的なものよりも、いっそう、われわれの生活にとって根源的なものであるとかれの考える、拘束し、統制し、組織していくものの存在を、大いに強調する必要があると感じたためであろう。
  もっとも、バビットのベルグソン批判が、すこぶる俗流的なものであったことは、『ルソーとロマン主義』の中で、かれが、直感を二つの種類に分け、エラン・ヴィタールを下理性的直感に、フラン・ヴィタールを超理性的直感に結びつけていることによっても明らかである。本来の意味におけるベルグソンのいわゆるエラン・ヴィタールが、直ちに超理性的直感に結びつくものであることはいうまでもない。しかし、ベルグソン批判としては的をはずれているにせよ、生命に、遠心的に、膨張し、拡大し、飛躍していこうとするエラン・ヴィタールのはたらきと、求心的に、収縮し、集中し、固定していこうとするフラン・ヴィタールのはたらきとを認め、本能・感情・欲望・衝動等を前者の――習慣・理知・計画・規律等を後者のあらわれとしてとらえ、人間の生命を人間以外の動物の生命から区別するものは、フラン・ヴィタールであって、エラン・ヴィタールではないと主張するバビットの説には、確かに、近代人の生命感の盲点を、するどく突いているようなところがある。   (「エランとフラン」)
 それでは、『ルソーとロマン主義』(一九一九年)で、バビットが二つの直
感について論じている一節を引用してみよう。
 「適度な釣り合いなど我々には場違いなものだと認めよう」とニーチェは言う、「我々が真に欲するのは無限であり、測ることのできないものである」と。人間の本性を求める者が適正な均衡をいかにして失ったかを見ることは容易い。美徳というものの九割近くに関わる自己抑制を自ら進んで犠牲にしていることによる。超人はその力への意志のために抑制の徳などは顧みないので、均衡を取り戻すことは到底ありそうもない。超人がするのは、彼が他者
や自分自身に認めた過剰なるものからその正反対の過剰に激しく揺れ動くだけのことであり、どちらにしてもそれは文明の倫理的な基盤に対する差し迫った危機である。過去において、模倣の、参照の対象となった原型や範型は、欲望を抑制し、均衡を与えるものであったのだが、ニーチェが言うように、無限への熱望を満足させないという理由だけではなく、既に見てきたように、統一や直接性への熱望も満足させないという理由のために、どんなタイプのロマン主義的拡張論者にも無視されている。十八世紀に完成された諸形式に関する限り、ロマン主義的な拡張主義者が異議を申し立てるのも正当な根拠がある。しかし、この時期の合理主義や人工的な作法が満足すべきものではないにしても、分析的知性や作法一般について攻撃を加え続けるのであれば、それはまったく不当なものである。反対に、個人の特異性が強調される時代、伝統が断たれ、より想像的、直接的なものが求められる時代には、特異性を増加させる力は決してそれほど必要ではないことを認めるべきだろう。想像的であり直接的であるにも様々な方法があり、分析は、抽象的な体系を打ち立てるのにも必要だが、経験から得られた実際のデータを判断し、賢明で幸福でありたいと願うならどうしたらいいかを決定するのにも必要なのである。過去との連絡が断たれ、個人主義的なこうした時代にこそソフィストたちが言葉をたくみに操りだすが、そうした手妻から身を守る唯一の方法は揺るぎのない分析の力を借りてソフィストたちの使う言葉を定義することである。ベルグソンは、フランスには二つの主要な哲学のタイプ、一つはデカルトまで溯れる合理主義的なタイプ、もう一つはパスカルにまで溯れる直観的なタイプがあり、自分は直観主義者である限りにおいてはパスカルの系統にあると我々に信じさせようとする。恐るべき詭弁がこの単純な主張には潜んでおり、この詭弁は、もし正されないなら、文明を破滅させるのに十分なものである。唯一の治療法は直観という言葉を定義することであり、そこから派生する下合理的直観と超合理的直観とを実際に即して区別する必要がある。分析し定義してみれば、下合理的直観は生の衝動(エラン・ヴィタール)と結びついていることが見い出され、超合理的直観は生の衝動を超えた生の統制の力(フラン・ヴィタール)に結びついていることがわかろう。更に、この統制とは、人が、夢ではない現実の世界の共通の中心に引き寄せられるときに行使されなければならないのは明らかなことだろう。従って、分析する人間が物事を、断絶のうち、死んだ、精神を欠いたものと見なければならないというのは真実とは程遠く、個人主義の時代においては、人は分析においてのみ真の統一への道を得るのであり、想像力の役割もまたこの統一を達成することにある。人は分析によって(ある時代の単なる慣習に過ぎないものとは異なる限りでの)衝動を制するのに役だつ典型的な人間の経験の中心を見い出すが、それは想像力の助けを借りて始めて理解することのできるものなのである。別の言い方をすれば、普通一般の自己というものがある現実とは、固定された絶対的なものではなく、幻影のベールを通してしか垣間見ることのできないものであり、幻影と分かつことのできないものだということである。この洞察は、理性による決まりきった手順によっては結局公式化することはできない。知的な観点を超越するこの洞察は、それ故、外に無限に広がる欲望とはまったく異なった意味においてではあるが、無限であるように思われるのである。
 このように、少なくともベルグソンによれば創造性に結びつくはずのエラン・ヴィタールが下合理的直感、つまり合理性以前の衝動的な直感に分類されてしまっては、もはや、批判対象であるはずのベルグソンはどこかに消え失せ、後にはフラン・ヴィタールを主張するバビットの姿だけが残ることになる。確かに、その著作を読んだだけでもバビットの教養の広さは十分に想像することができる。専門であるフランス文学はもちろん、ギリシャ・ローマの古典から英米文学、仏教や儒教にまでその知識は及んでいる。しかし、実のところ、なにについて論じようと、ベルグソンという名前がルソーになろうがワーズワースになろうが、バビットの主張はただ一つ、人間にとって必要なのは、遠心的膨張的なロマン主義ではなく、求心的統制的な力であり、文学について言えば、古典や伝統に規範を求めるべきだということなのである。どんな作家も思想家も、バビットにとっては傍証の役割しか果たしていない。ある作家との出会いによって思いがけなくも自説が変容してしまうような瞬間はバビットにはない。知識が遠心的に拡がれば拡がるほどバビットの主張は求心的に収縮し、まさしく自らの思想を体現していると言える。それ故、恣に拡がろうとするロマン主義の解毒剤としては有効かもしれないが、バビットを読むことには同じ円をぐるぐる廻るような退屈さを伴うことを否定できない。

 したがって、バビットが本当に面白くなるのは、そしてフラン・ヴィタールという用語が生動しはじめるのは花田清輝の文章においてである。例えば、『アヴァンギャルド芸術』のなかの一篇「ユーモレスク」はピランデルロを論じた文章だが、バビットにおいては固定化された教義であったフラン・ヴィタールが見事にアクロバティックな運動を見せてくれる。
[ピランデルロのような]グロテスコ派にとっては、エラン・ヴィタールとフラン・ヴィタールとの相克それ自体が、かれらの唯一の生の現実であり、そうして、それらの二つの生の対立は、判断中止におけるごとく、均衡状態において静止するようなことはなく、相手を倒すか、みずからが倒れるかどこまでも闘争しつづけているからである。本能、感情、欲望、衝動の奔流が、これに対抗しようとする理知や信念や良心や決意を、一挙に呑みつくそうとして殺到する。そこで、それらのものの相克の結果、社会的には、法律、習慣、伝統、因習、道徳、等々が、エラン・ヴィタールの激流をふせぐための、フラン・ヴィタールの堤防として、次第につくりあげられてゆくのだが――しかし、転形期においては、この堤防が、相当、脆弱になり、方々破損していることはたしかであり、或る日、突然、それが、ガラガラと崩れ去り、逆巻く波のなかに姿を消してゆくようなことが、しばしば、おこる。さきにも述べたように「仮面」が「顔」から落ちるとはこのことだが、グロテスコ派の作品においては、こういう悲劇的な光景が、徹頭徹尾、知的に、喜劇的観点からとらえられており、それらの作品は、わたしたちの肉体派の浪漫的な作品におけるがごとく、決してエラン・ヴィタールの勝利の賛美におわることなく、逆にフラン・ヴィタールの敗北を描くことによって――おのれの知性の限界をすれすれのところまでたどり、辛辣な自己批判を試みることによって、そういうきびしい試練に堪えることのできる、たくましい作家の知性の存在を証明し、かえって、フラン・ヴィタールの勝利を描いているようにさえみえる。つまるところ、かれらは、つねに、浪漫的現実にたいしては、古典主義者として――古典的現実にたいしては、浪漫主義者として立ち向い、浪漫的なものと古典的なものとの対立を、対立のまま、統一することによってガルガンフモールのみなぎっている、独自のバロック世界を形成するのである。
 花田清輝にとっては、エラン・ヴィタールもフラン・ヴィタールも生の躍動の一側面であり、生や文章の跳躍台でこそあれ、到達点ではない。

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うちわたす遠方びとにもの申す

今朝の散歩の浮遊思考である。まあ、自分の思考を思い出すこと自体がボケ防止策のつもりだから、書く内容はどうでもいいのである。
最初に考えたのが、源氏物語の一節の、その中のある発言である。なぜそれを考えたのか、きっかけは分からない。(今思い出したが、散歩の最初に通りかかった家の庭に白い、匂いの良い花が満開に咲いていたのだった。)とにかく、頭に浮かんだわけだ。ただし、私は源氏物語は原文はもとより現代語訳も読んだことがない。覚えているのは、たぶん田辺聖子の「文車(ふぐるま)日記」からだと思う。田辺聖子の本も、まともに読んだのはこれだけだが、これは素晴らしい本で、すべての日本人が古典文学、特に女流古典文学への案内役として読むべき本で、読めば一生の精神的財産になる。
で、その中に源氏物語のある場面が紹介されていて、その中の登場人物(たぶん、光源氏か)が、夜中にある女性の家を訪ね、どこかの家の庭に咲いている白い花に気を惹かれて、その花の傍にいた人間にこう聞くのである。私の記憶のままに書くので、間違いがある可能性が高いが、こういう言葉だ。
「うちわたす遠方(をちかた)びとにもの申す それ、そのそこに咲けるは何の花ぞも」
何ということもない台詞だが、私がこれを読んだ時から今まで、そのだいたいを覚えているほど、この言葉が記憶に残っている。まあ、こういうのが精神的財産だ、と私は言うのである。今でも、闇の中に咲く白い花を見たら、たぶんこの言葉が胸に浮かぶだろう。(実際、そうだったことに後で気づいたのだが。)
「それそのそこに」という言葉のリズムが素晴らしい。しかも、心理的に自然である。最初は「それは」と言おうとして、次に「その花は」と言おうかと迷って、さらに「そこに咲いている花は」にしようかと迷い、一瞬のうちに「それそのそこに咲ける(花)は」となったのだろうと読む人に想像させる。こういう描写を無駄と思うなら、小説など読む必要はない。まあ、三島由紀夫が言うように、小説を読むとは「文章を(味わい)読む」ことなのだが、今の人は大衆小説しか読まないだろうし、大衆小説にまでいちいち文章を味わいながら読む人は多くはないだろう。

その後、暖かいので山道ではなく海岸の道を散歩コースに選び、視野の上3分の2は美しい朝空、下3分の1は鏡のような朝凪の海という素晴らしい景色を見ながら散歩し、その歩いている間に「朝日のように爽やかに」の曲が頭の中をスキャットで流れ、その歌詞のことなど考えたのだが、それは前にも書いた気がするので、ここには書かない。

*厳密に言えば、散歩コースを海岸道路に決めたのは最初からだったので、「白い花」の浮遊思考の後ではない。で、その思考の分析をしているのは散歩から帰って、ゴミ出しをし、庭猫に餌をやってからである。これもついでに言えば、私は「うちわたす」をどう現代語訳するのか分からない。私の古典への教養はその程度だし、書いていることのたぶん半分は妄想と誤解である。


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コスモポリタニズムのこと

昔のほうが、世界各国の文化が日本に輸入されて、今の「英語圏一極支配」のグローバリズム世界の中の日本よりも、よほど本物の国際性があったように思う。歌で言えば、シャンソン、ロシア民謡、ファド(ポルトガルの歌謡)、カンツォーネから、インドネシアの歌まで歌われていたのである。この「インドネシアの歌」とは、我々の年代には、「意味不明の歌詞」の歌として有名だった「ジンジロゲ」がそれであったはずだ。(曲は日本人の作曲かもしれないし、作詞もそうかもしれないが、言葉はインドネシア語のようだ。)あるいは、「モスラ」の映画の中でザ・ピーナッツの双子の小美人の歌う「モスラー、ヤ、モスラー」の歌も冒頭以外はインドネシア語だったと聞いた気がする。つまり、日本軍が「侵略した」東南アジアや中国の歌や言葉が日本に輸入されてもいたわけだ。戦争が、文化交流の面を持っていた、と美化する気はないが、自然とそうなるわけだ。
こういうのを、私は「グローバリズム」ではなく、「コスモポリタニズム」と呼びたい。グローバリズムが英語支配による世界文明の平準化・均質化であるのに対し、コスモポリタニズムは、各国の文化的個性、社会的個性を残したまま、平和に国際交流をするという思想だ、と、ここで定義しておく。ちなみに、「コスモポリタン」を訳すなら「世界市民」だろう。

などと書いたのは実は前置きで、先ほどの散歩の間に私の頭の中に流れていた歌があり、それは昔の「歌声喫茶」の時代に少し流行ったロシアかどこかの唄のようだ。題名は知らないが「泉に水汲みに来て」と、歌の冒頭の歌詞を題名としておく。
小学校低学年のころに聞き覚えた、うろ覚えの歌詞なので、いい加減な記憶で思い出せるかぎりで書いてみる。

泉に水汲みにきて
娘らが話していた
若者がここへ来たら
冷たい水あげましょう

緑の牧場に髭面の
兵士がやってきて
冷たい水が飲みたいと
娘たちに頼んだ

「美しい娘さん
髭面を見るな
兵士にゃ髭も悪いものじゃない
私は陽気な若者

ひと月もの戦いで
髭も髪も伸びたのさ
このむさくるしいなりを
娘さん許してくれ」

そこへ床屋の兵士がやってきて
「髭面みな集まれ!」
(以下忘却。当然、髭面の若い兵士が髭も髪も刈って美青年に早変わり、となって大団円だろう)


私がこの歌が好きなのは、この兵士の「このむさくるしいなりを 娘さん許してくれ」という、ジェントルマンぶり(女性への敬意)にある。西洋文明の精神のわずかな美点は、こういうところだ。それを偽善と言わば言え。善は偽善から始まるのである。









今、思い出したが、弘田三枝子の「悲しき16歳(原曲Too many rule)」の日本語版の中で、

Too many rule, too many rule

の部分を「夢見る、夢見る」(「早く大人になりたい~♪」と続く)と訳した(いや、換骨奪胎した)のは天才的だと思う。つまり、英語をそのまま使うのではなく、日本語の中に咀嚼する表現が昔はあったわけだ。これが、グローバリズムとコスモポリタニズムの違いだ、と言えば強弁だろうか。自国語や自国文化への誇りと自信を失わないままでの「世界交流」だ。
その一方で、「若年介護者」を「ヤングケアラー」などと欺瞞的に英語表現するのが、まさにグローバリズム的な英語の使用、あるいは電通的手法である。英語=カッコいいという、中二病心理の悪用である。そこには介護の苦労、若年介護者の忍従が隠蔽されている。


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「君の瞳に乾杯」

前に引用した小鷹信光の英語蘊蓄本の中に「カサブランカ」の例の「君の瞳に乾杯」の名セリフは誤訳だ、みたいな言葉が出て来るが、ズルいことに、「正しい訳」は何かは書いていない。
元の台詞は

「Here's looking at you」らしいが、さて、あなたはこれをどう訳すだろうか。

私の意見では、「君の瞳に乾杯」は、苦心の訳であり、名訳だと思う。
直観的な解釈だが、この台詞は

Here's something loooking at you

のsomethingを省略したもので、そのsomethingとは、グラスの酒を意味していると思う。
つまり、「酒が(飲んでほしいと)君を見ている」のだから、「君に乾杯」であるが、グラスの酒が「美しいあなたを見ている」のだから、「君の瞳に乾杯」は名訳だというわけだ。lookingという言葉が瞳を暗示しているということである。

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西洋的個人主義(利己主義)と日本の「大和(だいわ)の精神」

「神戸だいすき」は、個々の事例へのたいていの主張は他人の主張の受け売りで、「耳から即座に口へ」という印象なので、その主張を真面目に読むことはないが、情報収集に熱心なので、その点は偉いと思う。まあ、お喋りばあさんである。話の半分くらいは自慢話(苦労自慢も含む)というところもウザイww
しかし、ここに書かれた「主張」は、なかなか的を射た意見に感じる。
この前、佐藤優の「危ない読書」という新書版の古本(古本の新書ww)で読んだ、「国体の本義」という、GHQに禁書にされた、日本の「右翼書」として知られている本の中心思想に通じるものがあるので、それも後で転載しよう。
その思想を簡潔に言えば「日本は大和(だいわ)の国」である、というものだ。つまり、「和を以て尊しとなす」思想が、日本人の魂の根底にある、というものである。これは私も同感で、白人のエゴイズム思想(白人的個人主義)とは対極的なのだが、マスコミと教育(受験だけが目的の教育)の力で、日本人の精神が極度に利己的、かつ、力がすべて、という「実力主義」になっているのは誰でも認めるだろう。実力主義とは「弱者切り捨て思想」なのであり、「大和」の精神の対極にあるのである。
その悪質なエゴイズム精神(罰さえされなければ法やルールを無視してもいい)の矯正策としては、東海アマ氏の言う「利他主義」は極論であり、「和の精神」が正解だろう。己も他も和の一部なのである。(この思想をさらに敷衍すれば、「生命全体が共生体である」という、手塚治虫の「  火の鳥」の思想になる。そこに自らを捨てて他者を生かす「自己犠牲」の思想も発生しうる。)

既に載せたコピー画面の後に別の文章を書くと、コピー画面仕様になるので、先に「国体の本義」の当該箇所を引用しておく。原文のベースは哲学者和辻哲郎のものかと思われる。文中のカッコ内は私の補足。送り仮名は当時のもの。文語的表記もあるが読みやすいはずだ。「夫々」は「それぞれ」と読む。「同じう」は「同じゅう」と読む。原書では、この後に聖徳太子の「和を以て尊しと為す」の言葉が引用されているという。

「要するに我が国に於ては、夫々の立場による意見の対立、利害の相違も大本を同じうするところより出づる特有の大和によってよく一(いち、ひとつ)となる。すべて葛藤が終局ではなく、和が終局であり、破壊を以て終らず、成就によって結ばれる。ここに我が国の大精神がある」




(以下「神戸だいすき」から引用)

日本人の魂は、見てくれでは死んだみたいに見えるけど、決して死んではいないよ。

それどころか、この円安(これだって、自然現象じゃない。仕組まれている)で、日本のいいものが、どんどん世界へ出て行って、また、外国人が日本にやってくる。


最近、盛んに「外国人がびっくりする日本のいいところ」というyoutubeが出ているけど。

あれを見ながら、こちらとしては、

「え?外国では、子供は一人で道も歩けないの?まして、電車に乗れないの?まして、夜道を歩くこともできないほど、治安が悪いの?」と、驚く。

まえまえから、感じていたけど、やっぱり、白人は質が悪いね。頭が悪いのかな?

日本人は、どうやったら、みんなで幸せに暮らせるかを一番に考えるのに、彼らは、他人から奪うことしか考えていないんだね。

思想が間違っている。

戦後の日本人は「不戦の誓い」の下、平和を追求するために、ほかのすべてを捨てた。
でもね、日本人の魂を捨てたりしてない。

「共生の思想」は、日本以外では、まず、存在しない。

日本人は、魂の発揮の方法を変えただけだと思う。



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ネトウヨの反中国言説と、中国人

内田樹の「箱根で感じた中国のリアル」という記事で、あまり期待しないで読み始めたのだが、面白いところがある。つまり、「中国は『資本主義国家』である」という当たり前の話だ。ところが、ネットでは中国を「共産主義国家である」という言葉が後を絶たない。だが、これは、「悪質な経済行為」には政府の指導が入るということで、それこそ「新自由主義」資本主義の悪質さの教師になるべき「望ましい資本主義」であり、「社会主義の精神を残した資本主義」と言うべきだろう。
私の認識では、もともと中国人というのは「政府の存在をあまり気にしていない」民族であり、革命直後の(毛沢東を中心とした)共産党政府が、革命政権維持のために国民を強固に罰則で縛っていただけであり、今の共産党政権は、かなり軟化していると思う。そうでなければ、とっくの昔に「再革命」で政府は倒れていたはずだ。天安門事件や香港騒動など、米国を背後にした中国政府打倒運動を見ればいい。あの運動で、中国政府は倒れなかった。いや、微動もしなかったと言っていい。つまり、国民の大半は政府を支持していたと判断できるだろう。
ところで、今の岸田政権や自民党の支持率は何パーセントだったっけwww

ちなみに、ネトウヨ(反中国、反ロシア、野党嘲笑のネットコメント)の多くは自民党工作員であることが、とっくにdappi事件で判明している。日本国民もそろそろ、そうしたインチキ言説から脱皮すべきだろう。

(以下引用)


 城崎に続いて、箱根に旧友たちと湯治に出かけた。箱根湯本はコロナ前のにぎわいを取り戻し、旅館も一時は「閑古鳥が鳴いている」状態だったがほぼ旧に復し、従業員数もコロナの間は半減していたが、またもとに戻った。
 宿泊客の半分以上が外国からのお客さんだった。浴衣の帯をとんでもない結び方をした人たちがお箸で器用に和食を食べている。
 中国からの人はだいたい見ればわかる。日本人と外見は変わらないが、どこか違う。何と言うか「昂然と頭をもたげている」感じがする。規則だから(納得ゆかないけれど)従うとか、傍らの人が嫌な顔をしているから遠慮するとか、そういう「調整」にはあまり気を使わないようである。そういうのが中国人気質なのだろう。
 少し前に凱風館にも20人ほど中国からのお客さんを迎えた。引率された毛丹青先生に「この人たち、どういう方なんですか?」と訊いたら、「ビジネスで成功して、もう働く必要がなくなったので悠々自適の生活をしている人たち」だと教えられた。年代は30代から50代。功成り名遂げた中国のお金持ちたちである。アメリカなら、フロリダに屋敷を買って、ゴルフをしたりセーリングをしたり毎晩パーティをしたりして過ごすのが定番だけれど、中国の富豪たちは一味違っていて、彼らの間では今哲学や宗教に対する関心が高まっている。それを求めて訪日したのだと聞いた。
 たしかに、物質的な欲望が充足されたあとに「精神的な飢餓感」を覚えるということは理解できる。なにしろ中国では文化大革命で清朝以来の伝統的な施設は解体され、その後は北京五輪と上海万博で「古い中国」の痕跡はほぼ消え去ってしまったからである(北京の伝統的な胡同もその時に壊された)。今の中国人が「古い中国」への郷愁が兆した時にどこに行けばよいのか。
 朝鮮半島にも「古い中国」はほとんど残っていない。朝鮮戦争の時に「山奥の寺院に敵兵がたてこもっている」という噂に煽られて、歴史的建造物が惜しげなく焼き払われた。だから、韓国で私が訪れたいくつかの寺院も、遠目からだと美しいが、近くにゆくとほとんどがコンクリート造りの「レプリカ」だった。ソウルにも平壌にも、もう李氏朝鮮時代の建物はほとんど何も残っていないと聞いた。
 だから、中国の人たちが「古い中国」の郷愁を覚えた時に行く先は日本しかなくなったとしても不思議はない。たしかに日本には「古い中国」が残っている。宋や明や清の時代のものが日本列島に伝来して、いろいろなかたちで、そのままアーカイブされている。
 箱根でも、中国からのお客さんたちもずいぶんリラックスしているように見えた。だって、部屋の床の間には漢詩の掛け軸や南宋画が掛かっているのである(私たちの定宿はロビーの壁に中国の馬だけを描いた巨大な画布がかかっていた)。それを見た時の彼らの安堵はいかばかりであろうか。
 もし、私たちがアジアのどこかの国に旅したときに、ホテルのロビーに芭蕉の句や西行の歌が達筆で書かれている扁額を見出したら、ずいぶんほっとするはずである。そう考えると、中国のお客さんたちの気分にもいくぶんかは想像が及ぶ。(2023年9月1日、)


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