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ネトウヨと「暴力衝動」

「若者はなぜネトウヨ化するか」の冒頭に書いたのが次の文章である。

そこで、「若者はなぜ右翼的になるのか」ということを考察したいのだが、これは商売右翼とは異なる、「かぶれ現象」だというのが当座の結論だ。青春期に起こりやすい一種の精神病だと言ってもいい。問題は、これが病気だとは本人はまったく思わないし、むしろ自分の優秀さ、優越性の現れだ、と思い込むことである。「周りはみんな馬鹿で、自分は賢いから周囲とは逆の思想を持つ」というのが大前提であるわけだ。その「周囲」というのが、大人であり、マスコミである。


こういうように単純化すると、物事が明確になる。で、それでは「なぜ若者でなくても、ネトウヨ化するか」という問題を考えてみたい。まあ、原則は同じだ。「俺は(私は)他の人間より賢い」と思いたい気持ちが根底にある。しかし、それはすべての人間に共通しているわけで、必ずしもネトウヨ化する人間だけの話ではない。
そこで、ネットで散見する著名人のネトウヨや、彼らがリツィートするネトウヨのツィートを見ると、ある特徴がある。
それは、ネトウヨ傾向のある人間は、漫画家だと「戦争物の漫画を描いている」「暴力性の高い漫画を描いている」「エロ漫画を描いている」確率が非常に高いこと、そして、ネトウヨ傾向のある女性はかなりの確率で「男性的な、威張った口調で文章を書く」ことである。
ネトウヨとは、平和憲法を批判する人間、平和主義を幻想とし、戦争(あるいは軍隊の存在)を肯定する人間である確率も高いのだが、左翼でも軍隊の存在自体は肯定する例が多いから、軍隊の存在自体が悪で、戦争の原因だ、という私のような「絶対平和主義者」は頭がお花畑だとしか思われないだろう。
まあ、概してネトウヨは時の政府に迎合するのが最大のレゾンデートル(存在意義)だと見ていい。つまり、事大主義者だ。新コロ騒動の中では、新コロ詐欺の首謀者たち(DS)が強大な権力なので、その前衛として活動する。つまり、PCR検査を拡大しろ、新コロワクチンを接種しろ、マスクをしろ、三密する奴は非国民だ、と騒ぐ手合いだ。かえって、政府や官僚組織の方が(新コロが詐欺だと知っているから)新コロ騒動では事態を静観していて、新コロ狂信者たちからその煮え切らない態度を批判されている。まあ、新コロ詐欺で高齢者や貧乏人が大量殺処分されるのは政府にも官僚にも結構な話なので、新コロワクチン接種はいずれ満遍なく実施され、場合によっては強制的に接種されるだろう。
話が逸れた。ネトウヨの話である。右翼的人間がしばしば「暴力肯定」者であるのはなぜか。もちろん、戦争という最大の暴力を肯定するわけだ。そして、「暴力の否定、対話による解決」は偽善であり、ナンセンスだ、と考える。
暴力や性欲は人間性の自然であり、その発揮は(たとえそれがレイプのような手段であっても)或る程度許容される、と考える人間がいる。いや、許容されなくても、「それが在る以上は、それが在る世界としてこの世界を認識するのが現実的な行き方である」と考えるのだろうが、その考えはしばしば「暴力の肯定」「暴力的性交の肯定」になる。
要するに、私は「戦争肯定論者とは暴力肯定主義者だ」という当たり前の話をしている。そして、それがネトウヨの最大の特徴なのである。ただし、それが頭の中でだけであれば、どんな暴力を想像してもいいのだが、それがネトウヨとして社会的な発言をすると、非常にマズい影響を社会に与えるのである。極端に言えば、戦争肯定論者が社会の大多数になれば、「民主主義的に言って」その社会は戦争にまっしぐらに進むことになるのは理の当然だからだ。
だから、我々は自らの内なる暴力の衝動や性欲の衝動にブレーキをかけないと「人間らしい社会」が崩れるのである。まあ、性欲の場合は、夫婦や恋人同士なら話は別だが、暴力の衝動だけはどうしても犯罪以外にはなりようがない。そしてそれは戦争という国家犯罪になる時、最大の悲惨を生むのである。

先に書いた、

そして、ネトウヨ傾向のある女性はかなりの確率で「男性的な、威張った口調で文章を書く」ことである。

というのが、暗示的だと思わないだろうか。つまり、女性のネトウヨとは、権力への欲望であり、それは暴力の能力を最大限に得たいという潜在意識の発露だと私は思っている。








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新コロファシズムの旗振り馬鹿

某漫画家がリツィートした山本〇郎(太郎に非ず。ネット界のいかがわしいインフルエンサーのようだ。)のツィートだが、こうした発言がマスクファシズム、ワクチンファシズムを形成していくのである。新コロ詐欺を批判する私から見れば、こうした発言こそ詐欺加担で無数の人々に迷惑をかけるどころか、世界をほとんど破滅に導く犯罪的行為である。

(以下引用)


貴殿ひとりが10年早く死ぬ分には「いい奴だったがマスクしなかったので仕方がない」で済むけれども、貴殿がマスクをしないお陰で感染させられる無関係の人が出て10年早く死ぬ可能性があるのだから、おとなしくワクチンを打ちマスクをしてソーシャルディスタンスをも守ってくれという話ですよ。 twitter.com/unkotaberuno/s…



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若者はなぜネトウヨ化するか

最近、ネトウヨ系のブログやツィッターでよく引用されるmeiという女性がいるが、当然この女性もネトウヨである。そのmeiの発言の中に、沖縄の老人は馬鹿(つまり左翼的)だが、若者には賢い(つまり自分の賛同者、つまり右翼的な)者も増えている、という趣旨のものがあった。
で、私が考えるに、右翼的、あるいはネトウヨ的な若者が増えているというのは、沖縄に限らず、事実だろうと思う。
そこで、「若者はなぜ右翼的になるのか」ということを考察したいのだが、これは商売右翼とは異なる、「かぶれ現象」だというのが当座の結論だ。青春期に起こりやすい一種の精神病だと言ってもいい。問題は、これが病気だとは本人はまったく思わないし、むしろ自分の優秀さ、優越性の現れだ、と思い込むことである。「周りはみんな馬鹿で、自分は賢いから周囲とは逆の思想を持つ」というのが大前提であるわけだ。その「周囲」というのが、大人であり、マスコミである。
沖縄の場合は、琉球新報と沖縄タイムスの両紙が「沖縄を守る」姿勢ゆえに中央政府批判の言論をしばしば書くことはよく知られているだろう。そのためにこの二紙は「左翼だ」と見做されたりする。まあ、単に中央政府の沖縄への理不尽な仕打ちを当たり前に批判しているだけだが、若者から見ると、「政府に非協力的な、左翼新聞」となる。沖縄の人間でありながら、日本政府を優先して考えるわけだ。これが「ネトウヨ的愛国思想」である。つまり、「自分の郷土の利益より、大局的見地から左翼新聞を批判し、老害世代を批判する俺って凄いだろう」という愛国主義だ。これが昂じると、「国家のためには地方は犠牲になってもいい」「国家のためには個人は犠牲になってもいい」となる。要するに、国家(あるいは政府)という抽象物の利益のために、自分の身近なすべての人々を犠牲にする思想だ。その犠牲の中に自分自身も入るから、「そういう(空想の中だけだがww)自己犠牲のできる俺スゲー」となる。
これを要するに、沖縄の(左翼的ww)二大紙ゆえに、若者が右傾化するという、実に奇妙な現象がある、と私は分析している。昔なら、日教組のために逆に生徒が右翼的思想になったのだ。
他県での若者の右傾化の状況は知らないが、大人が普通に政府批判をしたりしたら、「大人は馬鹿」という定式に従って、「だから賢い俺(私)は大人と反対の意見を持つべきだ。つまり、政府は『やむなく』あれこれの、一見不祥事に見えることをやっているのであり、簡単に政府批判をするような『馬鹿な』ことをするべきではない。俺は政府の立場で考えるべきだ」と考える。その習慣が積もって、やがて立派なネトウヨが出来上がるわけである。
結論を言えば、若者の満たされぬ「自己承認願望」を実現するのが「ネトウヨ化」である、ということである。自分は賢いつもりの若者ほど、そうなりやすいはずだ。つまり、「国家と自己の一体化幻想によって、無価値な自分を自分で承認し、プライドを維持する」のがネトウヨ化という青春期の精神病だ。


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秘密力を研究する秘密の人物?

「混沌堂主人雑記(旧名)」から転載。長い記事なので前半略。
私はこの「国際秘密力研究」(菊地という人の文章らしい)の文章が苦手で、これまでほとんど読まなかったのだが、ここに書かれた「陰謀論レッテル」批判は素晴らしい。マスコミやネットに蔓延する、〈「物事の真相(あるいは深層)」を究明しようとする言説をすべて「陰謀論」と決めつけて馬鹿にする姿勢〉を実にきちんと批判している。(文章に違和感を感じるのは、これがツィッターの文章を集めたものだからだろう。つまり、短文に収めるために主語の「私」が無い文章だからだ。それが、この文章の「正体不明」感を出している。)

(以下引用)

〇「事実と道理」はあくまで自分の思考や言動を反省する為の基準であって、自分の思考や言動自体が常に事実や道理に即していると思い込むのとは全く別の事である。後者は「独善」と言う。独善に陥らない為の基準であるのに「事実と道理」という概念に執着して自分の思考自体と混同すると本末転倒になる。
〇「事実と道理」と言っても何が「事実」で何が「道理」かは人ぞれぞれ捉え方や考えが違うので議論や対話に開かれた姿勢も重要だと思う。その意味で、言論弾圧は勿論、何の論証もせず根拠も提示せずに「デマ」と決めつけたり、“陰謀論”なるレッテルを貼り付けるのは極めて道理に悖る態度と言うほかない。
〇自称リベラルなどの陰謀否定論者は「正義に照らして自分の考えを反省する」のではなく「自分の考えが正義だ」という態度である。「人の振り見て我が振り直せ」と言う。事実や道理は自分の思考を反省する為の基準であり、自分の考え自体を「事実」「道理」と思い込むと俗物陰謀否定論者と同類になる。
〇所謂ポリコレなどに「「正義に照らして自分の考えを反省する」のではなく「自分の考えが正義だ」という態度」がよく見られる。この類にとり「正義」とは「自分を反省する為の物差し」ではなく「他人を殴る為の棍棒」である。「自分は正義」というのが大前提である。かかる独善はリンチを誘発しがち。
〇俗物(スノッブ)とは、単に俗欲が深い人物という意味ではない。見栄っ張りで自分を上品で教養の深い知識人と見せたがるような人物を言う。それも結局は俗欲が根底にある訳だが。「陰謀論」を連呼する陰謀否定論者は大抵「インテリ」を気取る擬似知識人なのでまさに「スノッブ」と呼ぶのが相応しい。
〇陰謀追及に「陰謀論」のレッテルを貼るのは擬似インテリ村の掟である。擬似インテリ村では「陰謀論者」という烙印を押される事はムラからの追放を意味する。この村の住人になるには「良識を備えた教養の深い知識人」然として振る舞い、「陰謀論」と決めつけて鼻で笑うスノッブである事が条件である。
〇例えば「グレート・リセット」という語感だけで“陰謀論”と思い込む前にダボス会議が実際に唱えている事くらいは知っておくべき。何事も調べもせずにとりあえずイメージで“陰謀論”と決めつけ“鼻で笑って”みせる擬似インテリ村の“作法”は実に醜悪と言う他はない。すのっぶには付ける薬なしと言った所か。
〇メディアが「陰謀論」の典型としてよく挙げる「小児性愛者ネットワーク」も然り。ジェフリー・エプスタインの事件が表沙汰になっている上に、エプスタインと欧米の「エリート」層(英国の王子などが含まれる)の関係も明らかになっている以上只の「陰謀論」として一笑に付す事は出来ないはずである。
〇「悪魔崇拝」もそうだろう。著名人が何故か「コルナ」サインをする事が多いのは事実である。このサインは元々はイタリアの風習だが、アントン・ラヴェイが採用して以後はサタニズムのシンボルとなった。世界中の有名人がイタリアの風習をやる必然性はないので、サタニズムに関係している可能性は高い。
〇この場合例え「陰謀論」と決めつけても欧米“セレブ”らがコルナ・サインをやる意味の合理的な説明はない。「悪魔崇拝」「悪魔教」「サタニズム」は西洋文明の裏の側面である。これもまた「陰謀論」でも何でもない。故にコルナをやる連中がサタニスト・秘密結社員の類と推測しても何ら論理の飛躍はない。
〇以前書いたが、英国に於ける年間の子供の行方不明者数は他の国と比べて異常に多い。そういうデータがあるのは事実。背景として英国がオカルティズムの中心地である事を想定したとしても決して突飛とは言えないだろう。あくまで可能性の話だが、調べもせずに「陰謀論」の一語で否定し去る事は出来ない。
〇最近は「陰謀論」という侮蔑語を用いるメディアの中傷報道が増えている。「人は何故陰謀論にはまるのか」「身近な人が陰謀論にはまったら?」の類。根拠なく特定の説を盲信するならば「陰謀論」(思考停止語)だろうが「陰謀否定論」だろうが同じ事である。「陰謀論」と限定する所に意図が感じられる。
〇陰謀追及は事実の探求である。否定したいなら根拠を挙げて反証すればよいだけ。反証が出来ず、肯定も否定も出来ないような見解ならば事実探求としての陰謀追及ではなく形而上学的断定やドグマの類なので、その事を指摘すればよい。疑問も持たずに「陰謀論」という思考停止語を使うなら独断論者と同じ。
〇問題なのは「見解への執着」である。ある論者が未証明の特定の説を絶対視すれば確かに「見解への執着」になるが、メディアが弄する論証抜きの「陰謀否定論」にも「見解への執着」が潜んでいる事を看破しなくてはならない。問題は「事実か否か」であり「陰謀論か否か」ではない。事実は認めねばならぬ。
〇論証抜きで「陰謀論」というレッテルを貼り付けて「人は何故陰謀論にハマるのか」「身近な人が陰謀論にハマったら?」などという「何とでも言えるようなざっくりとした印象操作」というメディアがよく用いる手口は実に姑息で卑怯である。かかる陰謀否定論にこそ執拗な意図と執着が潜む事を見抜くべし。
〇確かに陰謀追及界隈には誘導情報の類も多く思想ツールに嵌められたりして排他独善的になったりカルト化するグループもいる。メディアはそれを一般化して陰謀追及者全体を貶める。全くのお門違いである。特定の見解や言説を絶対視し執着する事が問題なのであって、それは陰謀否定論にも言える事である。
〇「覚醒」「目覚めた」という言葉には注意が必要である。物事の理解は段階的に進むので一度の「覚醒」「目覚め」で全て分かる訳ではない。「学校やメディアが言わない裏の構造がある」事に気付くなど転換点となる「気づき」がある事は否定しないが、それは「入口」であり、そこからさらに探求が始まる。
〇「覚醒」「目覚め」は英語圏では「great awakening」(Qアノン系が多用・元々は米国の基督教用語)という表現が用いられているようである。こういう概念に執着すると、そこで停滞してしまい、思考の柔軟性が失われる可能性があると考える。つまり「覚醒」の時点で得た見解を絶対視しドグマ化する恐れ。
〇「裏の構造に気付いた」など転換点となる「気づき」は「入口」であって、その時点の認識に停滞する事無く、そこからさらに事実を探求していくべきである。人は知らない事の方が圧倒的に多いので、どこまで行っても極まりはないと言える。そういう謙虚な姿勢を持すれば排他独善的にはならないと思う。
〇比喩的な意味などとして「覚醒」「目覚め」等の言葉を使っていても、入口段階の見解を絶対視したりせず、常に事実を探求し続ける思考の柔軟性が失われていなければ何も問題はない。要は独立的思考が働いているか否か。特定の観念や概念、見解への執着がこれを失わせる原因になる事が多いと見ている。
〇メディアが陰謀追及者に「そうあって欲しい」という「像」があると見る。○排他独善的○過激な行為に走りたがる○事実の探求を怠り特定の見解を絶対視○終末論やメシアニズムを盲信しており「もうすぐ世界が救われる」と根拠なく吹聴する...等々。これを一般化して陰謀追及者を貶められるからである。
〇メディアが陰謀追及者に「そうあって欲しくない」像もあると考える。例えば、事実を重視・地道に事実を積み重ねる・論理的である・対話や議論など開かれた姿勢がある・根拠の無い事は肯定も否定もせず無記で臨む・独断的ではない・道理を守る...等々。こういうタイプの追及者が増えると嫌がると思う。
〇熱狂は冷める時節あり。「世界はもうすぐ救われる」「○月×日に何かが起こる」等一挙に問題が解決するかのような出来事に期待するメシアニズムは、それが起こらなかった時の落胆と表裏一体である。世の中が正されるのはあくまで地道な積み重ねの結果(原因・条件・結果の連鎖の結果)ではあるまいか。
https://twitter.com/kikuchi_8/status/1367166579847299076


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「革命者キリスト」の紹介

ついでに、「徽宗皇帝のブログ」所載の「革命者キリスト」の末尾だけ転載しておく。
今、全文を読み返したが、我ながら面白い。あの頃はまだ頭脳がなかなかしっかりしていて、文章が非常に明晰である。1時間弱(30分程度か)で簡単に読めるので一読をお勧めする。
キリスト教(あるいはユダヤ教)とは何か、についておおまかな理解を得るには最上の文章だと自負している。それに、西欧の世界支配は新コロと新コロワクチンで新たな局面を迎えているので、もう一度「西洋文明の精神」をよく理解しておくのは有益だろう。

(以下自己引用)


革命者キリスト(12)
結語

以上で、この小論は終わりである。キリスト教信者やユダヤ教信者には失礼な事ばかり書いてあるが、実は私が言いたいのは、一神教的世界観から来る西欧人種的発想の危険性なのである。本論中に述べたように、神に対する倫理と人間に対する倫理のダブルスタンダードの結果、西欧人種は、世界にとって危険な存在となっている。彼らの推進する自由貿易は、必ずと言っていいほどその相手国を貧困に落としいれ、西欧国家との間で恒常的な貿易を続ける限り(、モノカルチャーのプランテーションに縛られたアフリカ諸国のように)貧困から抜け出せない。そして、彼らの最大の特徴は、自分たちのルールを相手に押し付け、都合が悪くなるとそのルールそのものを平気で変えることだ。つまり、彼らには異民族や異人種へのモラルは無いのである。彼らのモラルは、あくまでキリスト教、もしくはユダヤ教を信じる同朋に対してのみ存在し、神を知らない異民族に対してのモラルなど存在しない。だから、東洋人やアフリカ人に対する西欧人の食言は当たり前の行為である。
現在、神の存在を信じている人間は、本当は西欧人にも多くはないはずだ。社会の上位層が嘘ばかりついていて、弱者の不幸に対して無関心で、毎年のように何万人もの人間が銃で死んでも平気で、何の正当な理由も無く他国に攻め込んでそこの住民を虐殺することを延々と続ける、アメリカのような国は、果たしてキリスト教国家なのだろうか。もしも、キリスト教という宗教がそれを許容するなら、キリスト教にはまったく価値は無い。アメリカ社会の上位層の多くはユダヤ人だから、ユダヤ教も同様だ。彼らは本当に、自分の宗教を信じているのだろうか。それとも、やはり、彼らの宗教とモラルは同朋に対してのみのものなのか。神への信仰が無くなった状態の(そして一神教的独善性のみを残した)西欧人とは、より悪質な、アモラル(無道徳)な存在となるのである。
私のこの文章を、非キリスト教徒の独断と偏見だと思う人も多いだろう。だが、これは、世界中の人間がキリスト教やユダヤ教に対して抱いている疑いを、歴史的な聖書と教会(私の言う「新キリスト教」)のあり方の分裂の点から切り込み、分析して考察したものにすぎないのである。同じような事を、紳士的に書けば、たとえば次のようなものになる。これは中央公論社刊「世界の名著13『聖書』」の責任編集者で、ご自身も敬虔なキリスト教徒である前田護郎氏の、同著作の序文中の一節である。

「キリスト教教会の歴史には東西ローマの分裂とか、血なまぐさい十字軍とか、残酷な宗教裁判とかがつづき、教会の権威が学問を圧迫したこともあり、近代になってもキリスト教徒同士の争いは絶えない。今世紀の二度の大戦で、いわゆるキリスト教国が大量殺人をしたので、教会はかなえの軽重を問われている。アジア、アフリカの人々の多くにとって、キリスト教は植民地帝国主義者の宗教である。六日間非キリスト教徒を搾取して七日目に教会へ行く人々がキリスト教徒である、という人が彼らの中にある。キリスト教国といわれる地域の中にも、白人と黒人とが別々の教会へ行かねばならぬほど人種的偏見が強いところがある。
われわれ日本人にとっては、スペイン、ポルトガルの侵略に協力したキリシタン・バテレンの歴史も忘れがたく、現代では、原子爆弾や戦争裁判に関係した諸国のキリスト教会の態度が問題にされるという事実も否定しえない。
しかし、これらはいずれもキリスト教会あるいはキリスト教徒のことであって、彼らによって聖書の精神が無視あるいは曲解されて、一部の人々の勢力を守るために他が犠牲にされた不祥事である。聖書と宗教体制としてのキリスト教会とを混同してはならない。」

この言葉は、私などよりよほど過激に、キリスト教会とキリスト教徒を批判しており、私が言いたいことの要点を尽くしている。同じ文中に、「哲学者ヤスパースが聖書の宗教をキリスト教と区別して扱うのは注目すべき例である」と述べているのも、同様である。
要するに、私が述べたことを一言で言えば、「キリストは『キリスト教徒』ではない」ということだ。逆に、「『キリスト教徒』はキリストの教えが分かっていない」と言ってもいい。
西欧人種は、彼ら自身の内面、彼らの宗教の根本を考える必要がある。日本人は? 我々は、宗教に規制されなくても、社会的モラルを守るという伝統がある。(その伝統も、西欧文明化=グローバリズムや西欧的拝金主義によってあやしくなってきたが。)日本人に必要なのは、そうした西欧人種の正体を知り、西欧人の利益のための「グローバル化」と「西欧化」をこのまま進めていいのかどうか反省することだろう。特に英語の世界語化による言語的階層世界への組み入れや、あるいは無意識の西欧崇拝根性育成の意味を。
世界中で、政治的な植民地的侵略の尖兵となった「キリスト教」に侵されなかった国はおそらく日本だけである。それは、「キリスト教」の侵略者的役割を見抜いた秀吉と家康の鎖国という英断によるものだ。他のアジア・アフリカ諸国はみな、「キリスト教」の宣教をカモフラージュとした侵略に国を食い荒らされたのである。その日本が今や、グローバル化という第二の植民地化の波に飲み込まれようとしているのである。ここで、「キリスト教」と西欧人種の本質についてよく考えておく必要があるだろう。
ついでながら、西欧植民地主義はけっして過去の話ではない。西欧人は、自分の植民地が独立した後でも、現地人政治指導者を傀儡として使うなど、何らかの形で、その植民地を支配しているのである。(自分たちの気に入らない政権が出来てしまった場合は「民主的指導者」を支援してその国に「革命」を起こさせる。)それは日本に対しても同じであり、被占領国であった日本はサンフランシスコ平和条約で形式的には独立したが、それと同時に結んだ日米安保条約で国内に米軍基地を置くことを余儀なくされ、米国への反抗は半永久的に不可能になったのである。(戦後すぐに、アメリカの政治資金と工作によって出来た政党が現在のJ民党である。その日本側の中心人物が本来なら戦犯である岸信介であることからも、アメリカの政治のニヒルなほどの現実主義がわかるだろう。)日本の政治はアメリカからの年次改革要望書などの形でアメリカから常にコントロールされており、一部の人間の間ではすでに常識だが、日本は決して本当の意味での独立国家ではないのだ。
しかし、政治的な次元での支配、つまり表面化している植民地的支配は、実はそれほど危険ではない。もっとも危険なのは、精神的な支配、我々の中に内面化された、自発的な被支配根性、奴隷根性である。支配のプロであるかつてのローマ帝国が被植民地の民族に養成しようとしてきたのも、自発的に支配に従う精神であり、「キリスト教」の利用もその一つである。話はキリスト教だけのことではないのだ。あらゆる宗教は政治との持ちつ持たれつの関係によってその力を拡大するのである。その信者には本来は罪はない。だが、政治と結びついたその行動によって彼らは世界全体に大きな被害を与えるのである。
「宗教は阿片である」という言葉は、それを言った人間が〈マルキシズム〉という「宗教的政治思想」の提唱者であるだけに価値を減じているが、その言葉自体は正しい。阿片は確かに現世の苦痛から逃避させてくれるというメリットがあり、終末期医療の手段としてなら大いに結構なものだが、現実的認識と行動を不可能にさせるという極端なデメリットがある。それが、私がこの小文を書いた理由である。

[補記] 神の存在については、中江兆民が『続一年有半』の中で完全に論破している。この書は、世界の哲学書の中でもっともすぐれたものの一つだが、その内容が西欧精神の根本を否定しているために、これまで批評の対象とならなかったものである。興味のある人は、是非、一読を願いたい。

                    2008年 11月24日 記
                       
                    2009年 8月24日 一部改稿

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イエスという男

「紙屋研究所」の記事の一部で、長いので前半のほとんどを省略する。
私が「徽宗皇帝のブログ」に載せている「革命者キリスト」に近い内容と思える或る本についての記事である。私は「イエス・キリストはキリスト教徒ではない」と言っているのだが、それは、イエス・キリスト本人の思想と、イエスの死後にキリスト教団が作り上げた「キリスト教」は大きな隔たりがあると思うからである。(特にローマ教会の「三位一体説」とか「原罪説」などはイエス自身の思想とまったく無関係のはずだ。)これは一度でも新約聖書を読んだ人間には明白な事実だと思うのだが、キリスト教社会では、論じること自体がタブーになっているような気がする。しかし、ある程度、イエス自身の思想が新約聖書のどのあたりにあるのか(まあ、イエスの発言だけをピックアップしてもかなり分かるとは思うが)、学者が研究はしているようだ。

なお、田川自身は「キリストは社会改革家ではない」という意見のようだが、明白に「宗教改革家」であるわけだから、「宗教革命家(私の言葉では「革命者」)」と言えるのではないか。

(以下引用)


田川建三『イエスという男』


 リモート読書会では田川建三『イエスという男』を読んだ。


 

イエスという男 第二版 増補改訂

イエスという男 第二版 増補改訂

  • 作者:田川 建三
  • 発売日: 2004/06/10
  • メディア: 単行本
 

 


 もちろんなんでもハイハイと言う「イエスマン」のことではなく(笑)、キリスト教の始祖とされているイエスのことである。


 どういう本か。


 イエスを神の子でありまた宗教家であるとするイメージを一方の極とすれば、他方でイエスをローマ支配と闘った社会革命家とするイメージの極があり、この両極のイメージを排して、イエス像を打ち立てようとしている。


 当時イエスが活動したパレスチナユダヤ教が支配している土地であり、政治・経済・宗教が一体となっていた。「イエスの活動はやはりユダヤ教批判を本質としていた」(p.167)とある通り、イエスは当時のユダヤ教を批判するのだが、それは、宗教が生活のこまごましたところまで支配をしていたからである。イエスはその支配に反対して、叫びをあげる。


 しかし、その支配への反対(反逆)は、宗教だけでなく、政治や経済へのおかしさへの反逆となってくる。このために、宗教批判を中心としながらも、社会経済構造への反逆ともなって現れてくる。


 他方で、支配への反対は、その支配にかわる、首尾一貫した新たな宗教や政治経済の体系を提示するわけではなかった。あくまでもイエスの反対は鋭い斬り込みをするものだが、あくまでも反対にとどまるものだった。いわば「逆説的反逆者」だったのである。


 


 イエスの言動から新たな宗教を組み立てようとした原始キリスト教団は、イエスの宗教支配への批判を、「ユダヤ教批判」へと読み替え、ユダヤ教を批判して新たな普遍的宗教を作り出したのがイエスだとする。こうしてイエスは「キリスト教の先駆者」であるという扱いを、キリスト教内部で受けていく。


 そして、イエスが行なった社会経済構造への批判は骨抜きにされて、宗教的な説話として読み替えられてしまう。


 


 田川建三は、こうしたキリスト教側のイエスの歪曲に逆らって、「イエスキリスト教の先駆者ではない。歴史の先駆者である」(p.11)という規定を行う。「歴史の先駆」とは、宗教・社会経済などが一体となった抑圧体制への批判者だったという意味であろう。


 しかし、イエスが社会革命家であったという議論にも田川建三は与しない。


 イエスをローマ支配に反対した社会革命家と描くのは、無理がありすぎるというのである。


 


 イエスキリスト教の宗教家とみなす考えも、社会革命家として描く考えも、どちらもイエスを無矛盾の、論理一貫した、体系的考えの持ち主として前提しすぎていると田川は批判する。1世紀の思想が、あるいは人間の思想がそもそもそんな無矛盾の、論理一貫した、体系的なものであるはずがなく、後からこじつけるのはやめろ、といいたのだ。


(中略)

ぼくの中のキリスト教像が変わった

 ぼくが読んで一番興味深かった点は、実は本書の主張よりももっとずっと手前のところ。


 え、そんな初歩的なところ? と驚かないでほしい…。


 田川によれば、聖書学ではイエスが言った言葉はどれで、どの部分が後から加わったか、福音書を書いたマルコとかマタイが付け加えたのか、ということがまあだいたいわかるんだよ、ということだった。また、福音書を書いた人によって、当時の教団が主張していたことの何を強調しようとしたかもわかる。


 イエスの言ったことが断片的にまずある。


 次にマルコが20〜30年後にそれを福音書にする。またQ資料(現在は失われている)というイエス語録ができる。


 50年くらいしてから、Q資料からマタイ福音書とルカ福音書ができる。


 ルカ福音書は1人の著作者による月並みなイエス観。


 マタイ福音書ギリシア語を話すユダヤ人の教会の学派的作業。


 こういう潤色を逆に遡って剥いでいくと、最後に「客観的にイエスの発言を確定しうる」(p.29)。「ある程度以上に本格的に福音書研究にたずさわった学者たちの間では、どの伝承がイエス自身にさかのぼるかという点では、非常に多く一致している」(同)。


 ただ、言葉は残っても、それがどんなシチュエーションで発せられたかは、記録者の色が出ているので、解釈が違ってくる。


 こうして見た時に、田川は、イエスは「愛」などという言葉はほとんど使っておらず、マタイやルカがあとで付け加えたんだと言う。同じく「神の国」とか「原罪」とかいった、ぼくらがキリスト教の根本概念だと思っていることも福音書で付け加えられたものだとする。


 これが本当か嘘かはわからない。


 だけど、こうした田川の聖書学についての話を聞いていると、なんとなく「イエスのもともと言ったことを、20年後、50年後の人たちや教団が、ある種の意図をもって再解釈したり、教義体系に組み直したんだな」というイメージができてくる。


 ぼくはキリスト教というのは、聖書を中心に教義や解釈がはじめからわりとしっかりしていて、非常に細かいところを学派的に争っているのかと思っていたのだけど、田川のいうようなイメージでとらえると、イエスの活動と、その後の福音書を書いた人たちや初期の教団との間にはだいぶ溝があって、むしろ福音書や初期教団のプリズムによって、イエスの言動、あるいは「キリスト教」を見させられているんだなと感じた。


 仏教では、シャカがそもそもどんなことを言ったのか、何を考えたのかということは、『ブッダのことば』のような本で読むことはできる。しかし、もはや現代日本仏教徒である日本人が「新約聖書」のような形で手にすることはない。


 

 


 「大乗非仏」説のように、日本に伝わった仏教が相当大きな解釈の変更を受けたことに似ていると感じた。日本で最大の信者を誇る浄土真宗や浄土宗など浄土系の仏教は、“個人が真理に覚醒して精神をコントロールする”というもともとのシャカの教えの姿(一種の無神論である)からかけ離れて、「阿弥陀如来」という一種の神様にひたすら祈るという、キリスト教イスラム教に似た一神教の姿に変わり果ててしまった。


 キリスト教にそういうイメージはなかったのだが、田川の本を読むと同じような変容を遂げているのだという感想を持った。


 まあ、改めて考えてみると、『新約聖書』についてイエスの言行録+伝記とも言える「福音書」だけでついついぼくのようなシロートはイメージしてしまうんだけど、実際には手紙(書簡)類がいっぱい入っていて、例えば「コリント人への手紙」を読むと初期教団が分裂騒ぎを起こし、それに対してパウロが「お前らなあ…」とモノを言っている中身になっている。つまりイエスではなくパウロの思想に基づいて書かれていることになる。


 法然の有名な「一枚起請文」も、自分が死んだ後、教義をめぐる分裂が起きるんじゃないかという懸念をもって、「いやー、ひたすら念仏を唱えるっていうのが根本であって、それ以外になんか秘儀みたいなものはないよ」という法然の教え(浄土宗)のエッセンスを書いている。でもそれはシャカの教えとはもはや何の関係もない。それって、法然版の「コリント人への手紙」じゃないのか、と思う。


 


 そんなふうに、やっぱりキリスト教といえども、イエスの言動とは実はそれほど近い存在ではなく(田川はむしろ正反対だとさえ考えている)、のちの教団による解釈、その積み重ねで宗教ができているんだなと思い至ったことが、ぼくにとっての本書の収穫であった。


 

 


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硝酸セルロース(セルロイド)のこと

小泉進次郎ではないが、「これ、知らない人案外多いんですよね」www

私は昔、「未来のエネルギー」について考えたことがあって、その中で、「セルロイド」がそれにならないかと思ったものだ。セルロイドは植物のセルロースと窒素の化合物で、非常に可燃性が高いのはよく知られているが、火力も強いため、燃焼しても灰すら残らない(はずである)。
そしてセルロースはどんな植物にもあると言うか、その辺の雑草でも何でもセルロースからできているので、素材はほとんど無料で手に入る。そして窒素は言うまでもなく、空気中の成分の最大割合を占めている。つまり、窒素を空気から取り出す技術と、セルロースと窒素を化合させる技術が安価になれば、石油に代わる新しい火力発電が可能になるのではないかと考えたわけである。
日本の場合、植物資源は豊富で、放っておいても雑草は毎年生えてくるのだから、それを火力資源にできれば最高だろう。なお、燃焼で生じる二酸化炭素については、脱炭素運動は原発推進と両輪の詐欺でしかないので、考慮する必要はない。


(以下、竹熊健太郎のツィート)


セルロイドの原料は石油ではない。


(夢人追記)現代の技術なら、ニトロセルロースの欠点を克服できるのではないか。研究する価値は大いにあると思う。

ニトロセルロース

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ニトロセルロース
{{{画像alt1}}}
ニトロセルロースの部分構造
{{{画像alt2}}}
綿状のニトロセルロース
識別情報
CAS登録番号9004-70-0
特性
化学式(C6H9(NO2)O5)n
(C6H8(NO2)2O5)n
(C6H7(NO2)3O5)n
外観白色または淡黄色の綿状物質
融点

160 to 170 °C

危険性
NFPA 704
NFPA 704.svg
3
2
3
引火点4.4 °C
半数致死量 LD5010 mg/kg
特記なき場合、データは常温 (25 °C)・常圧 (100 kPa) におけるものである。

ニトロセルロース (nitrocellulose) は、硝酸繊維素、硝化綿ともいい、セルロース硝酸硫酸との混酸で処理して得られるセルロースの硝酸エステルである。白色または淡黄色の綿状物質で、着火すると激しく燃焼する。

概要[編集]

セルロースを構成するグルコース1単位分子あたり3か所で硝酸エステル化することが可能だが、さまざまな程度に硝化されたものが得られ、窒素の含有量で区別する。綿状であるため、日本では窒素量が13%以上のものを強綿薬、10%未満のものを脆綿薬、その中間を弱綿薬と称する。


ニトロセルロースはフィルム強度が高く溶媒の速乾性に優れており、また、可塑剤樹脂顔料などの添加で改質することができる。樟脳と混合してつくられたセルロイドは世界最初の熱可塑性合成樹脂である。フィルムやセルロイドは広範に使用されたが、可燃性経時劣化が指摘されたため、現在ではこれらの用途にはより難燃性の合成樹脂が使用されるようになった。

用途[編集]

主な用途はラッカー塗料や火薬接着剤(ニトロセルロース系接着剤)[1]である。かつてはロケットエンジンの推進剤などにも使用された。手品で紙を一瞬で燃やす場合、紙状や綿状のニトロセルロースを使用する。紙状の物はフラッシュペーパー、綿状の物はフラッシュコットンと呼ばれる。燃やしても灰が出ない特性を活かしている。

火薬[編集]

ニトロセルロースを主成分として各種の添加剤を加えて造粒した火薬は黒色火薬に替わる小火器火砲の発射薬として使用されている。発射にあたって大量の白煙を上げる黒色火薬に比して無煙火薬と呼ばれる。また開発者の一人であるフレデリック・エイベルによる「コルダイト」の名称でも知られる。このうち主にニトロセルロースのみを使用した火薬をシングルベース火薬と呼ぶ。現在のほとんどの拳銃アサルトライフルが弾薬としてシングルベース火薬を使用している。燃焼の調整を目的としてニトロセルロースにニトログリセリンを加えたものをダブルベース火薬、さらにニトログアニジンを加えた物をトリプルベース火薬と呼ぶ。こちらは主に大口径火砲の装薬として使用されている。

ナイトレートフィルム[編集]

1887年5月2日にハンニバル・グッドウィンが、ニトロセルロースを使用した映像用フィルムの製造方法の特許を申請後[2]、ナイトレートフィルムと呼ばれる映像用フィルムに使用されていた。しかし、このフィルムは自然発火し、度重なる火災、多くの犠牲者、歴史的な映画フィルムの焼失が幾度も発生した。そのためX線写真用フィルムは1930年代から、映画用フィルムは1948年から安全フィルムに置き換わった。ナイトレートフィルムを上映するには防火設備などが求められるため、上映できる劇場はジョージ・イーストマン博物館英語版など数少ない[3]

歴史[編集]

製造法[編集]

工業的にはセルロースを硝酸と硫酸の混酸で硝化する方法で製造される。


硝化
硝化装置には主に三種類の方式があるが、現在ではデュポン式のみになっている。
  • トムソン式(置換式)
  • セルウィヒ・ランゲ式(旋回式)
  • デュポン式(攪拌式)
精製
硝化反応が終わったら、大量の水で煮洗を10回、流水洗を5回くり返し、念入りに酸を取り除く。この工程で繊維の裁断も同時に行う。一般に、洗うのに60時間、裁断に5時間を要する。洗浄が終わったらふるいにかけたり磁石で金属を取り除いたりして不純物を除去する。最後に脱水機にかけて水分を取り除く。
加工
膠化剤としてニトログリセリンなどを加えたり、自然分解しないように安定化剤などを加え、アセトンなどの溶剤に溶いて目的の形へ加工する。

事故[編集]

過去に何度も製造過程の不具合による自然発火事故が起きている。自然発火事故は特に危険であり、火薬の分量がまとまっているほど事故の危険度は高くなるが、技術水準の低かった戦前の日本では重火砲の装薬が自然発火して自爆する事故が相次いだ。海外でもB火薬の時代には事故が相次いでいた。


また、製造技術が低いと早く劣化する火薬ができてしまい、不発弾薬が続出する原因になる。特に以下のような欠陥の有る火薬は自然発火を起こすか、不発になるかの二者択一になると言われるほど危険である。

  • 製造過程で酸が適切に洗い流されていない。
  • 繊維の裁断が均質に行われず、繊維の塊ができる。
  • 硝化度が不均一で窒素量が一定していない。
  • 不純物が混入している、特に金属粉末は極めて危険である。

保管においては、摩擦を防ぐためアルコールなどで湿潤させる必要がある。1964年には東京で、ニトロセルロースの湿潤が不完全と推定される火災が発生し、消防士19人が殉職する爆発事故が発生している(品川勝島倉庫爆発火災)。


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それだけで人生は生きるに値します。

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