正式名称は「新型コロナウイルスワクチン接種証明書」。氏名や生年月日、旅券番号といった項目のほか、ワクチンの種類やメーカー、接種日などを日本語と英語で記載する。
発行業務は予防接種法に基づく国からの法定受託事務として各自治体が担う。
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気の赴くままにつれづれと。
加藤勝信官房長官は17日午前の記者会見で、海外渡航者への新型コロナウイルスワクチンの接種証明書を7月中下旬から発行すると発表した。まずは紙で証明書を出し、デジタル方式の交付も検討する。
接種証明書はビジネス関係者の海外往来を円滑にするため、主要国で発行する動きが相次ぐ。日本も経済界が導入を求めており、政府は加藤氏のもとで制度設計を進めている。加藤氏は「7月中下旬をめどに書面での交付が可能となるよう準備したい」と述べた。
接種記録を管理する市区町村が発行し、来週にも自治体向けの説明会を実施すると説明した。
河野太郎規制改革相も17日午前、日本商工会議所の三村明夫会頭とのオンライン懇談で「早く発行するため当初は紙になる」と語った。
河野氏は政府が掲げる1日100万回接種の目標について「今週中に達成されるのではないか」と話した。
政府のワクチン接種記録システム(VRS)への入力が1日60万回程度になっていると紹介。「自治体によってはまとめて次の日とか1週間以内に入力するところがある」と指摘し、現状で1日100万回に近い接種数になっているとの認識を示した。
21日から本格的に始まる企業などでの職場接種について、138社の中小企業が個別で申請したと明らかにした。このほか複数の中小企業が集まって申請したケースが54団体あると言明した。
新聞を購読する人が年々減っている。だからこそ、こんなビジネスが生まれているのだろうか――。
アマゾンなどのネットショップでは、数年前からキロ単位にまとめられた新聞紙が「緩衝材」や「犬用トイレシート」などとして売られている。その中身は、新聞販売店で発生する残紙(広義の「押し紙」)とみられる。
残紙とは、販売店で過剰になった新聞のこと。販売店は、ノルマとして押し売りされた部数というニュアンスで「押し紙」と呼ぶ。
これに対して新聞社は、販売店が営業用にみずから購入した部数という主張に基づいて、「予備紙」あるいは「積み紙」と呼ぶ。これらをニュートラルに表現した言葉が「残紙」である。
ちなみにかつて新聞業界は、内部ルールで「予備紙」の割合を、搬入部数の2%と決めていたが、2009年ごろに撤廃した。現在は、「搬入部数-実配部数=予備紙」となっている。そのためたとえ搬入部数の50%が残紙であっても、すべて営業のための予備紙という解釈になっている。残紙問題が深刻になった原因である。
廃品回収された古紙を二次的に使用するのは良いとして、手垢が付いていない残紙の一次使用は紙資源の浪費だという批判がある。資源問題にほかならない。筆者は、その中身を調査するために、残紙15キログラム(1551円)をアマゾンで注文することにした。(ジャーナリスト・黒薮哲哉)
1921年(大正10年)10月20日、伊藤伝右衛門は夫婦で滞在していた東京府日本橋の旅館「島屋」から、福岡へ帰るために車で東京駅へ向かい、妻・燁子は親族を訪問する予定で東京に残り、伝右衛門を見送った。しかし、燁子はそのまま日本橋の旅館に戻らず、行方をくらませた。
22日、大阪朝日新聞朝刊社会面に「『筑紫の女王』伊藤燁子 伝右衛門氏に絶縁状を送り 東京駅から突然姿を晦(くら)ませす 愛人宮崎法学士と新生活?」の見出しで失踪の第一報が伝えられる。失踪当日の様子、身辺の整理、宮崎龍介との出会いの経緯と唯一当事者である龍介の談話[1]を掲載し、一面を埋める扱いで伝えられる。大阪朝日の単独スクープであった。
同日の夕方、各紙一斉に報じ、地元福岡の九州日報では「伊藤燁子夫人が紛失した」と大見出しで記事をあげ、「一本の巻紙」に伊藤家を去る理由を綴り、それまでに与えられた調度品と共に送付された事を伝えた。朝日と競い合う立場の大阪毎日新聞は、夕刊9面に白蓮夫人と伊藤氏の別れ話が事実であるという関係者の証言を小さく取り上げるのみであった。大阪朝日は同日夕刊で、さらに単独スクープの燁子から伝右衛門に当てた「絶縁状」を全文公開する。
伝右衛門は福岡へ戻る途中で立ち寄った京都の宿「伊里」で、22日朝刊の報道を知って驚愕する。たまたま京都に来ていた燁子の兄・柳原義光と連絡を取り合い、その日のうちに落ち合っている。宿に詰めかける記者に対し、一切の取材を拒否していた伝右衛門は、同日の夕刊で絶縁状が公開された事で、ようやく数社のインタビューに応じる。
その頃の燁子は東京府下中野の弁護士・山本安夫の元に、伊藤家から伴った女中と共に匿われていた。山本は龍介の父・宮崎滔天の友人であり、子供の頃から親しい龍介に相談を受け、燁子の身柄を預かっていた。22日夜、山本は新聞各社に燁子の居所を連絡し、記者が押し寄せて取材が行われ、23日朝刊には記者に対応する燁子の写真が掲載される。また22日夜には別の場所で龍介が萬朝報記者の訪問を受け、「すべては山本氏に一任している」と語る。
朝日のスクープは、姦通罪[2]を逃れるため、龍介が新人会の仲間で友人の赤松克麿や朝日新聞記者の早坂・中川らに相談し、マスコミを利用して世論に訴え、人権問題として出奔を正当化するために仕掛けられたものだった。当初の予定では、絶縁状を伝右衛門に郵送した後に失踪が記事になる予定であったが、新米記者の早坂・中川の動きから19日には事を察知した大阪朝日が、失踪翌日には記事を出そうとした事から、龍介側から掲載を1日伸ばす要請が入り、その代わりに絶縁状を渡す交換条件が出された。赤松の説得を受けた大阪朝日はその条件を呑み、スクープ記事掲載は1日延期された。絶縁状の文章は燁子の書いた原文に赤松・龍介らの手が入ったものであり、「私は金力を以つて女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の訣別を告げます。私は私の個性の自由と尊貴を護り且培ふ為めに貴方の許を離れます」という自由と人権を訴える大正デモクラシー当時の社会風潮が反映されたものだった[3]。
女から男に宛てて、新聞という公器を使って縁切りの宣言を行うという前代未聞の出来事に対し社会的反響は大きく、大阪朝日24日夕刊には、5百余通の投書が殺到した事が書かれ、世間を大いに揺るがす事件として受け止められた。柳原家や燁子が身を寄せた山本家には多くの賛否の手紙の他、脅迫まがいのものも届いた。
完全に出遅れた大阪毎日新聞には、福岡支局在籍時代に燁子と親しく交流があった記者・北尾鐐之助[4]がおり、失踪直前の19日にも連絡を取り合って会う約束をしていた事から、20日に龍介側から流れてきた伊藤夫妻離別の噂、21日午後に京都から入った燁子家出の情報も北尾によってデマであると打ち消されていた。2日間の空白の後、22日公開された朝日の絶縁状で事実を悟った北尾は京都に赴き、面目をかけて伝右衛門に食い下がり、3時間のインタビューを取りつけて巻き返しを図る。
10月24日、大阪毎日新聞で北尾の筆による[5]「絶縁状を読みて燁子に与ふ」という絶縁状への反論文の連載記事が始まる。手記の公開を渋る伝右衛門に対し、事後承諾の形での掲載となった。燁子を悲劇のヒロインとして取り扱った朝日に対し、毎日は女性評論家による燁子への批判コメントを掲載し明確に伝右衛門サイドに立った記事であった。「俺の一生の中に最も苦しかつた十年」と燁子との結婚生活での苦悩を語る伝右衛門のインタビューは、自分が受け取る前に新聞公開された憤りや屈辱感と、伊藤家の内情を詳細に語った生々しいものとなる。連載は3回目になって伊藤家からの中止要請が入り、4回で終了となった。
新聞での反響は、第一報では燁子の行動を止むを得ない、という同情する世論があったが、二報・三報と詳しい内容が伝わってくるにつれ、糾弾すべき行為とする割合が増えている。その行動には反対しても、結婚自体には同情する男性の意見があった一方、女性は燁子により厳しい批判を寄せた。
11月4日に時の首相である原敬暗殺事件が起きているが、その大事件の最中にも報道記事の勢いが衰える事はなく、白蓮事件の顛末が世間の関心を集めた。
あの事故は、文也君にとって何だったのか。取材に対し、15歳になったばかりの彼はこう言った。
「先生たちに対して怒る部分もあるけど、裏切られたという気持ちもあって、複雑な気持ちのままきました。僕が使っていたトーチは、もともと先生が使っていたんです。先生が使うということは大人用じゃないですか。しっかり対応していれば、リスクは減ったのではないでしょうか」
冷静でしっかりした受け答えだった。そして母の加奈子さんはこう話す。
「未来ある子どもたちのために、学校は健全で偽りのない教育環境をつくってほしいと思います」
日本スポーツ振興センターによると、全国の学校事故は直近の2019年度に95万9714件発生した。このうち児童・生徒がけがをした件数は約88万件。全体の9割にも達する。
小学校では約半数が休憩時間に起きているほか、授業などでの跳び箱の事故が1万5000件を超えた。中学・高校はともに運動系のクラブ活動での事故が5割を占めた。特にバスケットボールやサッカーなどの球技で目立つ。
近年では、兵庫県宝塚市立中学校で2019年6月、2年生の女子生徒が吹奏楽部の活動中に校舎から転落して重傷を負う事故があった。今年4月には、宮城県白石市立小学校で、校庭に設置された防球ネットの木製支柱が根元から折れ、6年の児童2人が死傷する事故もあった。
学校事故は起こり続けている。日本スポーツ振興センターのデータベースで学校の事故例を検索すると、以下のような事例が次々に出てくる。
「発生場所」や「発生状況」の内容を読むにつれ、「未然に防止できたのではないか」と思えるものも少なからずある。
しかも事故の「その後」に苦しんでいるのは、文也君やその両親だけではない。「けが88万件」という数字の向こうでは、大勢の人が長い苦しさの中にある。次回(6月15日配信予定)はさらに「その後」を報告する。
取材:林 和(はやし・なごみ)=フロントラインプレス(FrontlinePress)所属