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柳家小三治死去

文中の「飄逸とした」は間違いで「飄逸な」とするべきだろう。「飄々とした」と混同したのではないか。
私は若いころに小三治の落語をテレビで見て、当代の一番の名人ではないかと思ったが、さほど現代の落語に関心も無いので、他の落語家はほとんど知らない。小三治の師匠の小さんはさほど上手いとは思わなかった。それより、小三治の風貌は映画向きだなあ、と思っており、軍隊物の「鬼軍曹」「鬼上等兵」の役をやらせてみたかった。大島渚の「戦場のメリークリスマス」でタケシがやった役は小三治にぴったりだったと思う。

(以下引用)

落語家の柳家小三治さん死去 81歳 人間国宝


落語家の柳屋小三治さん=浅草演芸ホールで2006年5月10日、小林努撮影拡大
落語家の柳屋小三治さん=浅草演芸ホールで2006年5月10日、小林努撮影

 当代を代表する古典落語の名手で、人間国宝の柳家小三治(やなぎや・こさんじ、本名・郡山剛蔵=こおりやま・たけぞう)さんが7日、心不全のため死去した。81歳。所属の落語協会が10日発表した。葬儀は本人の遺志で密葬を営む。


 1939年東京都生まれ。都立青山高校在学中に落語研究会に入部。ラジオ東京の「しろうと寄席」で15週連続勝ち抜き。父は小学校校長、母は武家の娘という厳格な両親の反対を押し切り59年、五代目柳家小さんに入門。前座名「小たけ」を名乗った。



 正統派古典落語の担い手として、若いころから実力は群を抜いていた。芸に厳しかった六代目三遊亭円生が落語協会会長在任中の69年、17人抜きで真打ちに昇進。同時に柳家の出世名前である十代目小三治を襲名した。


 柳家の家の芸である「小言念仏」「百川」「千早ふる」など滑稽噺(こっけいばなし)を得意とし、ユーモラスな中にシニカルさを交えた独特の視線で人間の営みを生き生きと描き出した。また「芝浜」「死神」といった長編では奥行きのある世界を造形した。年を重ねるごとにその芸は円熟味を増し、近年は、飄逸(ひょういつ)とした語り口で間や表情にたくまざるおかしみを醸し出し、枯淡の境地を見せていた。



 後進の育成にも力を入れ、師匠の五代目小さん亡き後、柳家の中心的存在として喜多八さん、三三さんら人気と実力を兼ね備えた弟子を育てた。


 2010~14年の落語協会会長在任中には、年功序列ではなく、実力のある若手を引き上げようと、3人の抜てき真打ちを誕生させた。また、後任には20歳以上も若い柳亭市馬さんを抜てき指名するなど、リーダーとしても大いに手腕を発揮した。



 落語の本題に入る前に語る「まくら」が長いのが有名で、「ま・く・ら」という著書も。寄席にも乗って通っていたオートバイや、オーディオ、スキー、歌など多趣味でも知られた。放送タレントの永六輔さんや脚本家の大西信行さんらと作る「東京やなぎ句会」の同人でもあった。俳号は「土茶(どさ)」。09年にはドキュメンタリー映画「小三治」(康宇政監督)が公開された。


 04年芸術選奨文部科学大臣賞、05年紫綬褒章、14年旭日小綬章。同年、落語家としては師匠の五代目小さん、上方の桂米朝に次いで3人目となる人間国宝に認定。14年度毎日芸術賞など、受賞多数。著書に「落語家論」など。次女は女優の郡山冬果さん。





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2SLGBTQQIA+

実にくっだらねー話だと思う私は差別主義者扱いされるのだろうかwww
ノーマルとアブノーマルの2種類でいいじゃねーか。
これからは公衆浴場や公衆トイレは区別が何種類必要になるんだ?
まあ、区別を全部無くして、中ではレイプやいたずらがやり放題になりそうである。

(以下引用)


【画像】「LGBT」、いつの間にか進化しまくり「2SLGBTQQIA+」になる

1名無しのアニゲーさん 2021/10/09(土) 20:22:23.29 ID:y9dc5PJ30
カナダの首相が使うくらいには浸透してる模様



People across the country are lighting candles to honour Indigenous women, girls, and 2SLGBTQQIA+ people who are missing or have been murdered. We must continue to work together, raise awareness, and advocate to end this ongoing national tragedy. #SistersInSpirit


no title


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山本太郎はいつまで「山本太郎党」のままなのか

私はまだ山本太郎を応援しているので、彼の弱点や欠点が気になる。まだ政治家としては若い今のうちにそれを矯め直していけば最強の政治家になれるのではないか。
その弱点とは何かというと、「勇み足」が多いということだ。行動が脊髄反射的で独断的な印象がある。未知の人ともすぐに仲良くもなるが、「腹心」が作れない印象である。野党だが他の野党を信じていない。だから今回のようなフライング(まともな腹心がいたら、諫めてそれを防いだだろう)を行い、他党からの信頼を失う。山本自身の支持者すら、かつての熱狂は無いのではないか。
彼が一般大衆、特に弱者(困窮者)を救済したいと思う気持ちは本物で、そのための行動力は物凄いのだが、問題は、その一般大衆や弱者(困窮者)が彼の旗の下にほとんど集まらないのはなぜかということだ。それは、「山本太郎は政治的に大きな力になりえない」ということを大衆が直感的に見抜いているからだと私は思っている。
つまり、「政治家の間で信頼されていない人間を大衆は信じない」のである。これは枝野立憲民主党への支持がどんどん低下しているのと同じだ。また、小沢一郎が「居場所を変えるごとに政治的な力を失っていった」のと同じである。
ちなみに、「れいわ新選組」に山本太郎以外にどんな人間がいるか、名前をひとりでも挙げられるだろうか。それができないところに、山本太郎は「山本太郎党」しか作れないという事実がある。彼が「俺が俺が」という姿勢を改めれば大きな政治家になると思う。

なお、弱者が一番嫌うのは「同情」であるようだ。同情されるとは、その人が「憐れむべき地位にある」ことを明確に示すからであり、それが彼らのプライドを著しく傷つけるのである。同情されるより死んだほうがマシという人間は多いと思う。かと言って、弱者は自ら立ち上がって戦う能力はない。だから弱者なのである。世間の2割から3割はそういう人々だ。民主主義と選挙制度は、弱者でも(匿名で)政治闘争に参加できる、奇跡のシステムなのである。

(追記)少し詳しい記事が「阿修羅」にあったので転載する。

立憲・枝野氏も、れいわ・山本氏も「困惑」 東京8区出馬宣言で応酬
https://digital.asahi.com/articles/ASPB966W8PB9UTFK009.html
2021年10月9日 19時12分 朝日新聞


記者団の取材に応じる枝野幸男代表=9日、神奈川県相模原市、鬼原民幸撮影


支持者向けの集会にのぞむれいわ新選組の山本太郎代表=2021年10月9日午後、東京都江東区

 立憲民主党の枝野幸男代表は9日、れいわ新選組の山本太郎代表が次期衆院選で東京8区から立候補をすると発表したことに関し、「困惑している」と記者団に語った。同区で擁立していた立憲新顔の吉田晴美氏について「国会で仕事をさせたい」と述べ、候補者の一本化に向けて対応を検討する考えを示した。

山本太郎氏が衆院東京8区から立候補へ 一本化を調整中、野党は困惑

 山本氏は8日夜、東京8区からの立候補を表明。「調整しないとこんなことできない」とし、立憲側と一本化へ向けた調整が進んでいることを強調した。

 これに対し、枝野氏は記者団に、山本氏と吉田氏がこのまま競合すれば「自民党を喜ばせるだけだ」と話した。そのうえで「吉田氏に議員として仕事をさせ、自民に漁夫の利を得させないように何とかいい知恵が出せないか、模索している段階だ」と語った。

 同選挙区では、それぞれ候補者を擁立していた立憲、共産両党の間で、吉田氏で一本化する方向で調整が進んでいた。突然、山本氏が参戦してきたことに地元の支援者らが不信を募らせており、山本氏への一本化に抗議する街頭活動やツイッターの書き込みも広がっている。

 吉田氏を「救済」するには、比例ブロックで名簿上位に掲載する方法が考えられるが、立憲幹部は「他の議員との関係もあり簡単ではない」と苦慮している。

 一方、れいわは9日、東京都江東区で支持者を集めた衆院選の総決起大会を開いた。その中で、山本氏は枝野氏の発言について「『困惑している』って、枝野さんが言っているが、一番困惑しているのは私だ。(立憲の)党内はどうなっているんだという話だ」と批判した。

 山本氏は「事前に話し合っていたにもかかわらず、決定していたにもかかわらず、もめ事として表面化してくる。関わる政党がしっかりと整理できていないのは、党内のコントロールができていないと見るのか、それとも『はしご外し』なのか」と主張した。

 その上で「状況に合わせていきながら、戦い方を変えていくことも考えていかなければならない。最終的な決断が変わっていく可能性があるときに、すぐに伝わるような形でメッセージをしていく」と支援者に説明。他党との調整次第では、東京8区からの出馬について再考することにも含みを持たせた。(鬼原民幸、北見英城)

(以下「竹熊健太郎」ツィッターから引用)
昨日れいわ新選組の山本太郎が新宿の街宣で東京8区から立候補することを表明したが、立憲は別候補者で調整を進めていたので困惑しているという報道が。山本は「既に立憲共産とは調整がついている」と話していたが、実際はどうなんのか。
引用ツイート
朝日新聞(asahi shimbun)
@asahi
·
山本太郎氏が衆院東京8区から立候補へ 一本化を調整中、野党は困惑 asahi.com/articles/ASPB8

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「文化防衛論」の考察(後段4)

13)~16)を考察する。

13)「文化の無差別的包括性」を保持するために「文化概念としての天皇」の登場が要請される。

(考察)簡単に言えば「日本文化を保持するために、日本文化の象徴としての天皇の存在が重要である」ということだろう。天皇という存在が論じられる時、ほとんどは「政治的存在」としての天皇しか論じられていない。天皇という存在が日本文化の歴史の中心にある、というのは私も主張してきたことであるが、そこには別に三島の影響は無い。単に、日本文学史を見ていたら、それ(天皇が文化の中心にいること)が歴然としているというだけのことだ。記紀と三大歌集が無ければ日本の古代中世文学は無く、古代中世文学が無ければ、当然その発展としての江戸文学も無い。そして、明治の欧風文化採用と太平洋敗戦でその伝統は切られたのである。つまり、あの敗戦と戦後教育は日本の文化の伝統を断ち切ったわけだ。日本文化の伝統を愛する三島が、その伝統の中心に天皇があると考えたのは自然なことである。

14)文化概念としての天皇は〈菊と刀〉を包括した日本文化全体の「時間的連続性と空間的連続性の座標軸」(中心)であり、「国と民族の非分離の象徴」である。

(考察)言葉が生硬な以外は、内容的にはこれまで書いてきたことの繰り返しであるので理解は容易だろう。言っていることは「天皇は日本文化の中心であり象徴だ」というだけのことだ。

15)文化概念としての天皇は、国家権力の側だけではなく、「無秩序」の側に立つこともある。もしも権力の側が「国と民族を分離」せしめようとするならば、それを回復するための「変革の原理」ともなる。


(考察)天皇が「無秩序(革命者・反逆者)の側」に立つこともあるのは、歴史上何度もある。特に鎌倉・室町時代と明治維新に顕著だ。私はこれを「天皇はやじろべえの中心のような存在だ」と論じたことがある。ただし、三島の言うような「権力が国と民族を分離させようとする」時に、天皇パワーの発動があったとかあるとは思わない。これは三島の持論(国と民族は一致していなければならない)に天皇というピースを無理に当てはめたものだろう。そもそも、ここで言う「権力」や「国」の意味が曖昧である。普通は権力とは政府を指し、政府は国を代表する機関である。その政府が国と民族(国民)を分離させるということの意味が分からない。まあ、合理的な解釈があるとしたら、ここで言う「権力」は日本政府ではなく、米国であり、今で言うならジャパンハンドラーだと解釈できるだろう。彼らが日本に常に内部分裂工作を行っているのは自明である。

16)「〈菊と刀〉の栄誉が最終的に帰一する根源」が天皇であり、「天皇と軍隊を栄誉の絆でつないでおくこと」こそが日本および日本文化の危機を救う防止策になる。


(考察)ここでまた〈菊と刀〉が出て来るが、三島が曖昧な表現で言っているのは「天皇に統帥権を持たせよ」という主張だと単純化できるのではないか。「などてすめろぎは人となりたまひし」という恨みである。まあ、私はこの心情や主張に共感も賛成もしないが、天皇という存在を日本国民の統合の象徴として、もっと機能として活用することを議論していいと思う。


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「文化防衛論」の考察(後段3)

9)~12)の考察をする。

9)日本文化の「全体性と連続性の全的な容認」が大事であり、「菊」と「刀」の一方に偏するような圧制者の偽善から文化を守らねばならない。

(考察)なぜ、「日本文化の全体性と連続性の全的な容認」が大事なのか、根拠が分からない。特に「全体性」とは、ここでは〈菊と刀〉を指すようだが、そのどちらかに偏する為政者を「圧制者」と決めつけているのも独断的だろう。普通は、戦時下の日本のように〈武〉に偏するのが国家権力なのであり、三島がこの本を書いた当時の日本は「憲法9条」によって〈武〉は米国にすべてお任せ状態だったわけだが、それは「圧制者」によってそうなったとするなら、「圧制者」は誰だということになるのか。そしてそれが「偽善」だとするのは「憲法9条」を偽善だと言う意味だと思うが、〈刀〉に偏した戦前の空気によって日本がほとんど滅亡しかけたことを三島は単なる詩人的ロマンチシズムで肯定し、「自らのタナトス(死の欲求)」を無批判的に承認する個人的嗜好を日本という国家にまで敷衍するという思想的詐欺を行っていると私は思う。



10)文化が文化を守ることはできず、言論で言論を守ることはできない。「守る」とは常に剣の原理である。


(考察)これも三島の主観でしかない。「剣の原理」とは「暴力」の意味だろうが、何かを「守る」とは普通、暴力(精神的な暴力や法律を基にした暴力も含む)から守ることだろう。つまり、暴力に対しては暴力でしか対抗できない、という思想で、それを否定したのが近代文明の法治主義思想である。もちろん、死刑制度のように「法律が暴力(国家の暴力・殺人)を肯定する」という矛盾も存在するが、それは現実問題としては単にプラスとマイナスの考量で決めるべき問題だろう。とりあえず、で言えば、法治国家では文化も言論も言論で守られるものである。

11)「献身的契機」のない文化の「不毛の自己完結性」が〈近代性〉と呼称(誇称)され、「自我分析と自我への埋没といふ孤立」により文化の不毛に陥る。「文武両道」とは「主体と客体の合一」が目睹され、「創造することが守ること」となり、「守ること自体が革新することであり、同時に〈生み〉〈成る〉こと」である。


(考察)「契機」とは日常用語の「きっかけ」の意味ではなく、哲学用語では単に「要素」の意味だと思えばいい。この一節は非常に思弁的と言うか、抽象的であるが、「文武両道」と「守る」ことを賛美しただけのプロパガンダ的内容だと把握すればいいと思う。「文化の『不毛の自己完結性』」は何を指しているか不明だが、おそらく近現代文学における「人間の内面の探求」を言っているかと思う。確かに、戦後文学はそればっかりだったという印象があり、その「人間」とは実は作者自身でしかないのである。まあ、哲学的自慰である。そこに「文化の不毛」を感じたのは私も同じだ。と言うか、戦後の「純文学」など、ほとんど私は読んでいない。この項目の後半はほとんど意味不明で、「文武両道」でなぜ「主体と客体の合一」が目睹されるのか分からないが、これは三島自身の作家としての姿勢だっただけではないか。つまり、戦後文学(純文学)がほとんど自我の内面への沈潜で終わるのに対し、〈武〉は常に他者(敵)が想定される行為である。〈武〉を契機とすることで主体と客体が必然的に生まれるわけだ。純文学の泥沼から逃れる手段として三島が〈武〉を選んだだけのことを、「文化というものはすべからく〈菊と刀〉であるべきだ」と強弁したのだろう。「創造することが守ること」「守ること自体が革新することであり、同時に〈生み〉〈成る〉ことだ」も、三島自身の作家としての自分の姿勢を批判者から「守る」ための韜晦的な発言だと思う。
なお、冒頭の「献身的契機」は、具体的には軍隊(軍人)をイメージしていると思う。自らの命を国家(あるいは天皇、あるいは崇拝する存在)に捧げる人間で、三島はそこに美的な価値を認めていたわけである。

12)文化伝統・言語統一のなされている日本での文化の連続性は、「民族と国との非分離にかかっている」。そして日本には真の意味での「異民族問題」はない。

(考察)この点に関しては、右翼的だと言われようが、私は三島に賛成する。日本における「在日朝鮮人」は既に「日本人」なのであり、従って日本には真の意味での「異民族問題」はない。
ただし、在日朝鮮人への「差別」はあるが、それは「日本人同胞への差別問題」なのである。日本国籍を取得していない人々に関しては「異民族問題」ではなく「滞留外国人問題」である。
日本は単一民族だ、という前提からは、「日本文化の連続性は民族と国の非分離にかかっている」と事々しく言う必要も無さそうだが、当時も今も日本における「異民族問題」は常に政治的文化的問題としてマスコミをにぎわしてきたわけだ。そしてそのことがほとんどの人の「心の棘」であったのである。繰り返し言うが、差別問題は差別問題として真剣に対応するべきであるが、それは「異民族問題」ではなく、「あらゆる日本人の法の下の平等」の問題であるだけだ。



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「文化防衛論」の考察(後段2)

5)~8)を考察する。

5)日本文化の特質は「再帰性」「全体性」「主体性」の三つに要約される。

(考察)この「三つ」が本当に日本文化の特質かどうか疑問だが、個々の説明から考えてみる。

6)「再帰性」とは過去が現在に蘇る、過去と現在の連続性である。

(考察)過去と現在の連続性はあらゆる文化に共通するものであって、あらゆる「新しい創造物」は過去の何かの焼き直しである。つまり、これは「日本文化の特質」ではない。

7)「全体性」とは文化を道徳的に判断するのではなく、倫理を「美的」に判断し、〈菊と刀〉を「まるごと容認」することである。文化は本来「改良」も「進歩」も「修正」も不可能なものであり、包括的に保持するべきものである。

(考察)日本文化の特質を「全体性」であるという主張は三島の主観(個人的意見)でしかないが、「倫理を美的に判断する」というのが日本的だというのは面白い。というより、倫理とは「美的判断」だ、というのは私も別の文章で書いている。つまり、倫理的であるとは「行動が美しい」ということで、たとえば「潔い」とは「清潔だ」の意味であり、まさに美的判断なのである。
「文化は本来改良も進歩も修正も不可能なものだ」というのも三島の個人的意見である。私は「文化は時代とともに変容する宿命があり、ただその中に民族的個性が連綿と続くことがある」という意見で、つまり「文化全体としては改良も進歩も修正もある」という考えだ。また、「改良」も「進歩」も「修正」も不可能なものを「包括的に保持すべき」であるなら、我々は原始人のまま歴史を重ねるしかないだろう。

8)「主体性」とは、文化継承の主体者たる個人における「形(フォルム)」の継承である。人間が「主体なき客観性」に依拠した単なるカメラや機能であってはならない。

(考察)この第一文は私には意味不明である。あまりに論理性が無いのではないか。「日本文化の特徴は主体性である」という主張の説明になっているか? 三島の言いたいのはこんなことかな、というのを「普通の日本語」で書くと、こんな感じだろうか。「日本文化の特質は、過去の文化的達成の『フォルム』を後継者が受け継いでいくところにある。しかし、その受け継ぎ方は、あくまで後継者が主体的に、かつ創造的に引き継がねばならない。先達の単なる物まね(主体性を捨てた『カメラ』で終わること)(先達のコピーという『機能』としての存在に終わること)は、伝統を「主体的に」引き継ぐものではない」

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「文化防衛論」の考察(後段1)

1)~4)について考察する。


1)生きた文化とは単なる〈もの〉ではなく、「行動及び行動様式」をも包含した「ひとつの形(フォルム)」であり、「国民精神が透かし見られる一種透明な結晶体」である。

(考察)

文化は「行動及び行動様式をも包含している」というのは同感である。つまり、日本人的な特徴として言われる行動や行動様式は「日本文化」の一部だ、というのはあまり反対する人はいないだろう。ただし、後述されるように、文化は非常に包括的なものだとするなら、「日本文化的でないもの、あるいはそう見えないもの」もまた日本文化の一部だ、となるだろうし、現代では文化は世界的な包括性を持っており、たとえばアメリカで発達したアニメが日本的な風味を加えて、それが世界的に受容され、世界のアニメのタッチを変える、ということもあるわけだ。とすれば、「日本文化は広い世界文化の一部になる」わけで、文化を「国民精神が透かし見られる」ものに限定する必要は無いのではないか。日本文化そのものが中国や西洋からの文化を受け入れて発展した「雑種文化」だというのは、多くの人が言っていると思う。
つまり、特定文化の中に見られる「国民精神」は、文化の個性ではあるが、それはいずれは雑多な「世界文化」の単なる風味でしかなくなるのではないだろうか。もちろん、風味は風味として価値があるのである。だがそれを国粋主義的に崇める必要はない、と私は思う。
つまり、文化は変容する宿命を持っている、というのが私の考えなのだが、それは文化を好き勝手に破壊してもいいという思想とはまったく違い、古い文化の継承の中から新しい「フォルム」が生まれ、それがその文化の好ましい発展だということだ。
文化に対する捉え方(国民精神にどの程度の重点を置くか)が異なる時点で、「文化防衛論」を私は否定することになりそうだが、結論を出すのは後にする。(なお、私は〈菊と刀〉がふたつとも大事だということは肯定するが、その比重の置き方が三島とはたぶんまったく違うと思う。私は〈刀〉は抜かないのが最上だ、という思想で、抜けば抜いた本人の死も当然招来する。戦争で言えば、国民の大量死である。その犠牲を払ってまで守るべき「文化」など無い、と私は思う。)


2)日本文化は「行動様式自体を芸術作品化する特殊な伝統」を持ち、「動態」を無視できない。

これは具体例を出して説明されないと意味がつかみにくい。というか、何となくわかったようなわからないような文章だ。たとえば「茶の湯」のようなものだろうか。しかし、「礼法」というのは外国にもあるはずで、茶の湯はその仰々しいものにすぎないのではないか。まあ、さほど重要性の無い一文だと思うので、深くは考えないでおく。

3)日本文化は「菊と刀」を包摂する。

私はルース・ベネディクトの「菊と刀」を読んでいないので、「菊」とは風雅な(文人流の)文化、「刀」は武士的志向だと考えておく。で、実は文と武というのはすべての文化の二大要素なのではないか。ただ、多くの国や民族では「武」を文化だとは考えておらず、また日本でも武は尊重された(というより畏怖された)が、武を「文化」だとは思っていなかっただろう。
三島が指摘するように「文化は行動や行動様式を包含する」と明確に言ったときに、「ああ、なるほど、『武』も文化なのだ」と気づくわけだ。ただし、武とは本来破壊の行為である。つまり「文化を全体としては破壊する行動」である以上、それを「文化」として持ち上げることは危険だと私は思う。日本の王朝文化に詳しいはずの三島が、宮廷では武士(殺生という汚れた行為をする者)は「地下の者」として昇殿できなかったという事実を(うっかりか意図的かは知らないが)見落としているのではないか。

4)日本文化は「オリジナルとコピーの弁別」を持たない。

これは当然の指摘で、たとえば和歌の「本歌取り」など、今なら「著作権侵害」で裁判沙汰になるだろうwww 俳句など類句類想の山である。そして、その類句や類想の作品でも、光るところがあれば高く評価されるわけだ。まあ、だからといって、人まねだけのクリエイターが高い評価を受けるわけもないので、三島のこの指摘はさほど重要ではないと思う。



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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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