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存在と非存在

「ハムレット」の中の有名な「to be or not to be, that is the question」という独白のことを考えているのだが、これを「生きるべきか死すべきか、それが問題だ」と訳したのは名訳だとは思うが、案外誤訳なのではないか、という気もする。つまり、この「to」に「~べき」という意味が含まれているのかどうか、ということだ。そして「be」も「生きる」という訳で本当にいいのかどうか。
もしも「生きるべきか死すべきか」とシェークスピアが書きたかったなら、なぜ「to live or to die」としなかったのか、ということである。まあ、それでも「to」に「~べき」の意味が入るかどうかは問題であるわけだが。「shall I live,or shall I die?that is the question」なら問題は無いという気がするが、シェークスピアはそう書かなかった。
とすれば、これは「生きる」とか「死ぬ」と訳すべきセリフではなかった、という判断も可能なのではないだろうか。beは言うまでもなく「存在する」である。ならば、「to be or not to be,that is the question」は直訳的には「存在すること、存在しないこと、それが問題だ」となり、昔の訳にあったという「在るか、在らぬか、それが問題じゃ」が一番正しい訳ではないか、と思われる。
ただ、その場合に問題になるのは「在る」「在らぬ」の主体は何か、ということだ。
私が「ハムレット」を読んだのは中学生くらいのことなので、この有名な独白の前に何の話をしていたのか覚えていない。
仮に、この「在る」「在らぬ」がハムレット自身の存在についての言及ならば、それを「生きる」「死ぬ」と表現しなかったというのは、「自分はこの世に存在すべきか、すべきでないか」という、自分自身を神の視点で眺めた言い方になりそうだ。「悪霊」のキリーロフの思考にも似た、非常に近代的な思考だと思える。「俺という存在は、この人生という芝居の登場人物として必要か、不要か」という感じだ。藤村操の「巌頭の感」にも似ている。その中に出て来る「ホレーショ」は確か「ハムレット」の中の登場人物だったと思う。藤村操は学者たちより「ハムレット」を深く理解していたようだ。

(以下引用)

資料2 藤村操の「巌頭之感」


       明治36年(1903年)5月、一人の18歳(満16歳10か月)の
       旧制一高生の死が、若者たちをはじめ社会の人々に大き
       な衝撃を与えた。彼の名は、藤村操(ふじむらみさお)。
       巌頭の大きなミズナラの樹肌を削って書き残した文言が、
       次の「巌頭之感」である。



             
巌 頭 之 感



 


悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て
此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等の
オーソリチィーを價するものぞ。萬有の
眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の
不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は
大なる樂觀に一致するを。

               
(明治36年5月22日)    


       

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美が美である時と美でなくなる時

小林秀雄と江藤淳の対談の中で江藤淳が語ったエピソードだが、或る大学教授が美術館の青磁か何かが陳列されている部屋に入ると、かけらばかりがしばらく並んでいて、そのどれも非常に美しく感じた。ところが最後に、完全な形の壺があり、その完璧さを見るといやな感じがあり、かけらを見ている時の自由さがなくなった。そして振り返ってかけらを見ると、かけらは醜かった、という話である。
これは「美」というものについての示唆的なエピソードだと思う。
私がこれを読んで即座に想起したのは、「サモトラケのニケ」と「ミロのヴィーナス」である。ニケは、頭も両腕も無い(と記憶している。)胴体と下肢と背中の翼だけだったはずだ。ミロのヴィーナスはご存じの通り、両腕が無い。では。これらの彫刻に欠けている頭や腕があったら、もっと美しかっただろうか。いや、そうは思わない。特にニケは、あの姿こそが完璧な姿だと思う。頭や両腕が無いからこそ、見る者はそこに何とも言えない「美しいもの」を心の中、頭の中で漠然と補完するのである。ヴィーナスも同じだ。だが、無理に想像で補完しなくても、我々は、目の前のヴィーナスの「両腕の無い姿」をひとつの完璧なフォルムとして嘆賞するのである。その顔や胴体の美しさは、両腕という「余計なもの」が無いために、余計に我々の目に迫ってくるのである。
つまり、美というものは対象物の中にだけあるのではない。それは対象物と見る者との共同作業だ、ということが、最初のエピソードやこのふたつの彫像から分かるのだ。
前に書いたショーペンハウエルの認識論と通底する話である。
冒頭の話に戻る。なぜ、「美しかったかけら」は、完璧な姿の壺を見た後に「醜いもの」となったのか。それは、かけらだけを見ていた時に見る人が自分の心の中で「創造した(想像というほど明白なものではないが、ある種の「後光」を「創造」したのである。)」姿が、「完璧な姿の壺」の案外な醜さの印象によって、その後光が消滅したのである。

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「意志と表象としての世界」の考察(2)

·        11節 感情について。


·        12節 理性は認識を確実にし、伝達を可能にするが、理性は悟性の直観的な活動の障害にあることがある。


·        13節 笑いについて。


·        14節 一般に科学は推論や証明ではなしに、直観的な明証を土台にしている。


·        15節 数学も論理的な証明にではなく、直観的な明証に基づく。ユークリッド批判。理性を惑わす誤謬の実例。哲学とは世界の忠実な模写であるというベーコンの言葉。


·        16節 カントの実践理性への疑問。理性は善に結びつくだけではなく悪にも結びつく。ストアの倫理学吟味。


·        ショーペンハウアーは、世界はわたしの表象であるという。このことは、いかなる客観であっても主観による制約を受けていることを示している。


 


·        ショーペンハウアーが本書の序論とみなしている博士論文「根拠律の四つの根について」においては以下の4類に分かたれている。


1.     先天的な時間空間、ないしは「存在 (essendi) の根拠(充足理由律)」


2.     原因と結果の法則、あるいは「生成 (fiendi) の根拠」


3.     概念論理的判断、ないしは「認識 (cognoscendi) の根拠」


4.     行為の動機づけの法則、ないしは「行為 (agendi) の根拠」


第二巻「意志としての世界の第一考察」[編集]


~すなわち意志の客観化~


·        17節 事物の本質には外から近づくことはできない。すなわち原因論的な説明の及びうる範囲。


·        18節 身体と意志とは一体であり、意志の認識はどこまでも身体を媒介として行われる。


·        19節 身体は他のあらゆる客観と違って、表象でありかつ意志でもあるとして二重に意識されている。


·        20節 人間や動物の身体は意志の現象であり、身体の活動は意志の働きに対応している。それゆえ身体の諸器官は欲望や性格に対応している。




(考察)

第11節 考察不能(もちろん、節の内容が分からないから。)
第12節 同意。自明だろう。「あることがある」は「なることがある」の誤記か。
第13節 考察不能。興味のある話題なので、自分で読んでみたい。
第14節 激しく同意。おそらく一般人の大半や科学者の大半は不同意かと思う。
第15節 これも同意。論証は「発見」(直感的発見、あるいは悟性による認識)とは別の行為である。ベーコンの言葉は「哲学とは世界を正確に認識する行為である」とするなら、現在の哲学界が認識論の泥沼でもがくばかりで世間から遊離しているのも、そこに原因がありそうだ。
第16節 理性(論理)は善だけでなく悪にも結び付くというのは自明だろう。むしろ悪にこそ結びつきやすい。詐欺師は「論理的」でないと人を騙せないが、一般人はその屁理屈に簡単に騙されるものである。詐欺師こそ、頭が良く、日夜人を騙す研究をする努力家なのであるwww

以下「・」で書かれた部分はwiki筆者の解説だろう。前文は同意。後文は「何の根拠」か示されないと判断不能だが、哲学的論証における「根拠」かと思われる。それならほぼ同意。
第17節 同意だが、後文の文末があいまい。「範囲がある」なら同意。
第18節 同意。自明だろう。
第19節 同意。これは他の哲学者がたいてい見逃している部分だと思う。
第20節 前文は同意。後文は文意不明で判断不能。

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まんじうのあんにたがはぬむくい来て かゝるやけどのあつ皮なつら

岩波文庫の「泉鏡花随筆集」を気が向いた時に読んでいるが、その中に「東海道中膝栗毛」(あるいはその続編か)に出て来る狂歌があり、それがなかなか多重技巧的というか、和歌以上に和歌技巧を凝らしていると思うので、解釈するのが面白かった。まあ、独りよがりの思い込みかもしれないが、せっかく考えたのでここに書いておく。なお、鏡花自身の解説は無かった。


まんじうのあんにたがはぬむくい来て
かゝるやけどのあつ皮なつら

理解の方便のために一部を漢字で書いておく。同じ言葉が掛詞で二重の意味を持っているので、漢字も二重になる。ちなみに、最初の「まんじうの」は枕詞としての機能も持っていると思う。つまり、「案に違わぬ」の「あん」を引き出す機能だ。

饅頭の餡(案)に違わぬ報い来て
かかる火傷の熱(厚)皮な面

まあ、これだけでも解釈はほぼ終わりだが、最後の「あつ皮なつら」は、「人間の面の皮が厚い」と「饅頭の皮が厚い(品質が悪い)」とを掛けていて、そして火傷で顔の表面が「熱い」ということだろう。「面の皮が厚い」、のは自分たち(客)か、店の主人かは不明。

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日本人の最悪の欠点



「わが邦人は利害に明にして理義に暗し。
事に従うことを好みて考うることを好まず
それただ考うることを好まず
ゆえに天下の最も明白なる道理にして、これを放過して曾て怪しまず。
永年封建制度を甘受し、士人の跋扈に任じていわゆる切捨御免の暴に遭うも曾て抗争することをなさざりしゆえんのもの、まさにそれ考うることなきに座するのみ。
それただ考うることを好まず
ゆえにおよそそのなすところ、浅薄にして十二分の処所に透徹すること能わず
今後に要するところは豪傑的偉人よりも哲学的偉人を得るにあり」
「わが邦には、口の人、手の人多くして脳の人寡し」
         (中江兆民「一年有半」)
日本百年たっても同じことなり。


*山田風太郎「戦中派不戦日記」昭和20年7月18日(つまり終戦の約ひと月前)記。
*戦後80年近くたってもまた同じである。




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「意志と表象としての世界」の考察(1)

「意志と表象としての世界」の概要(目次だけの部分もある)を先に載せて、後でその考察を書くつもりだが、目次だけでは考察不可能な部分もあり、また用語の意味が分からなくて判断不可能な部分もある。特に考察する必要のない、あるいは考察不可能な部分は(考察不要)(考察不能)で片づける。
一回に10節ずつ考察する。

(以下引用)


第一巻「表象としての世界の第一考察」[編集]


~根拠の原理に従う表象、すなわち経験と科学との客観~[ 4]


·        第1節 世界はわたしの表象である。


·        第2節 主観と客観は直かに境界を接している。


·        第3節 根拠の原理の一形態としての時間。 世界は夢に似て、マーヤーのヴェールに蔽われている。


·        第4節 物質とは働きであり、因果性である。 直観能力としての悟性。


·        第5節 外界の実在性に関するばかげた論争。 夢と実生活との間に明確な目じるしはあるだろうか。


·        第6節 身体は直接の客観である。すべての動物は悟性をもち、動機に基づいた運動をするが、理性をもつのは人間のみである。理性を惑わすのは誤謬、悟性を惑わすのは仮象である。とくに仮象の実例。


·        第7節 われわれの哲学は主観や客観を起点とせず、表象を起点としている。全世界の存在は最初の認識する生物の出現に依存している。シェリング批判、唯物論批判、フィヒテ批判。


·        第8節 理性は人間に思慮を与えるとともに誤謬をもたらす。人間と動物の相違。言葉、行動。


·        第9節 概念の範囲と組み合わせ。論理学について。


·        10節 理性が知と科学を基礎づける。


(考察)

第1節 同意。ただし、「世界は」は「私の認識する世界は」が正確だろう。
第2節 同意。ついでに、私なら「主観と客観の境界は曖昧である」とする。
第3節 前文は判断不能。後文は同意。
第4節 前文は極論に見える。後文は素晴らしい。まさに私の思想と同じ。
第5節 つまり「夢と現実の間に明確な区別はない」という意見なら同意。
第6節
「身体は直接の客観である」とは、「身体は我々の悟性が直接に認識する客観的存在だ」ということかと思う。当たり前のことだが、他にこれを言った人を私はほとんど知らない。「悟性」と「理性」の区別も素晴らしい。悟性とは直感的認識であり、理性は前提と結論の間に「思考過程」という夾雑物がある。そこで誤謬が起こる。ただし、悟性も「仮象(幻惑)」で錯覚する。

第7節 前文は同意。中文は意味不明。後文は判断不能。
第8節 同感。悟性は動物にもあるが、理性(論理思考)は人間特有でプラスもマイナスもあるが、そのマイナスの面はほとんど無視されている。
第9節 判断不能。
第10節 同意。「知」は主に「知識」だろう。知と科学の誤謬性は近現代でほとんど言及されない重要な問題である。知の誤謬の中には意図的情報操作もある。科学など誤謬の歴史だが、なぜか「現在の科学は絶対的に正しい」という信仰が世界を洗脳している。




(注)「悟性」に関するウィキペディアの記述を載せておく。私はこの考えに不同意である。「悟性」を西周が訳した時には、明らかに「理解(力)」とは別のものだ、としたからこそ、それは「理」でも「解」でもなく「悟」だと考えたはずである。そして「悟性」という言葉を見る我々もそこに「悟り(悟る)」という現象を想起するに決まっている。私の使う「悟性」は、その一般的認識によるものであり、職業哲学者のくだらない勝手な用法ではない。むしろ単純に「認知」「認識」「知覚」としたほうがショーペンハウアーの使う「悟性」(直感能力としての悟性)の意味に近いのではないか。「理解」とは「整理し解剖し納得する」という作業であり「理屈という大筋」が通ったものだ。「直感能力」とはまったく別である。understandingを理性と別の経路の思考として区別するなら(そこには「理」も「解」も無いのだから)「直覚」が「理解」よりははるかに適訳だろう。つまり、対象物の正体を知るのに、論理に依らない直覚的な道が「悟性」なのである。


悟性

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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悟性(ごせい)とは、英語のUnderstanding、ドイツ語Verstandに対する西周による訳語である。日本においては本来の用語であった。英和辞典や独和辞典を参照しても分かるように、この語はもともと「知性」や「理解力」などと同意義であるが、西洋哲学においては様々な哲学者がそれぞれの定義の下で用いる。ただ「知性」「理性」「感性」などとくらべて一般認知度が高い言葉とはいえず、悟性という言葉が、それが対応する外国語を邦訳する際に適切な言葉であるかどうかの問題がある。ただ、これではわかりにくく山口裕之は「理解力」と訳すのが良いと述べている。





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表象(幻影)としての世界

ショーペンハウエルの哲学はかなり重要な思想だと思うが、最近はあまり読まれないようだ。その理由のひとつが、彼の主著である「意志と表象としての世界」の題名の日本語訳にあるのではないか、と思う。以下がそのメモで、これから少し彼の哲学について考察するかもしれない。


「意志と表象としての世界」についてのメモ


・日本語の訳語に問題があると思う。「意志」も「表象」も語としては不分明。特に「意志」は、「盲目の意志」なのだから、本来の日本語としては「意志」ではありえない。或る種の「生命力」「欲望」だろう。


・「表象」とは、認識する者の「世界認識のすべて」である。つまり、外部世界が認識者の主観によってイメージ化されたものだろう。そして、その認識者自身の個体(身体)は主観と客観が同時に存在する場である、という指摘が面白い。思念そのものが主観と客観の融合体と言えそうだ。


マーヤー (サンスクリット語माया Māyā) は、インドの宗教やインド哲学に現れる概念である。


元来、ブラフマーなどが用いる神の力・神秘的な力を意味し、その後、幻影という意味に変化した。人を幻惑させる力という意味で、「幻力」と訳されることもある。


インド哲学では、シャンカラなどにより、現実世界がマーヤー(幻影)であり、真実の世界を覆い隠しているとされ、ショーペンハウアーも『意志と表象としての世界』にて物自体である意志の単一性・本質を覆い隠している、物自体の客体である表象における数多性(個別化の原理)の説明としてマーヤーを用いている。


(追記)私はショーペンハウアーの説は世界認識という点ではこの上なく素晴らしいと思うが、そこから来る結論(仏教、あるいは古代インド哲学の影響が大きい)は、いわば仏教の「即身成仏」が人間の至高の生である、と受け取れそうな極論であり、これが西洋では厭世主義哲学と見られて(実際、そうなのだが)嫌われたのだと思う。先に、その部分(ウィキペディア筆者による解説だから完全に信じていいかどうかは不明)を載せておく。この部分だけを読んで、彼の哲学など読むに値しない、と思う人がかなりいるかと思うが、要するに「素晴らしい論説だが、結論だけ失敗している」論説文は読むに値しないと思うかどうかだ。私は、読む価値が大いにあると思っている。(他の哲学書は最初から読む気もしない。すべて「哲学(学者世界)のための哲学」にしか見えない。)



·        抽象的知性は格律を与えることによって、その人間の行為を首尾一貫させるものではあっても、首尾一貫した悪人も存在しうるのであり、あくまでも意志の転換を成し遂げるのは、「汝はそれなり」という直覚的な知のみであるといわれる。この知に達して、マーヤーのヴェールを切断して、自他の区別(個体化の原理)を捨てた者は、同情 (Mitleid) ないし同苦(Mitleid)の段階に達する。このとき自由なもの(物自体)としての意志は自発的に再生を絶つのであり、ショーペンハウアーの聖者は、利己心・種族繁殖の否定に徹し、清貧・純潔・粗食に甘んじ、個体の死とともに解脱するとされている。


·        最終第71節では意志の無への転換が説かれている。意志の完全な消失は、意志に満たされている者にとっては無であるも、すでにこれを否定し、意志を転換し終えている者にとっては、これほどに現実的なわれわれの世界が、そのあらゆる太陽、銀河をふくめて無であるとし、これらのことが仏教徒における般若波羅蜜多、「一切の認識を超えた世界」であると結んである。




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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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