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幸せの後ろ姿

私は演歌が嫌いなのだが、大衆歌謡は好きで、なぜ演歌が嫌いかというと、その「酒臭さ」「夜の匂い」が嫌いなのだろう。大衆歌謡というのは基本的に明るいものだ。というのは私の主観的な思想で、もちろん暗い大衆歌謡もたくさんあるが、それらと「演歌」は別物の気がする。
まあ、フォークソングだろうがジャズだろうが、酒臭い唄、夜の匂いのする歌はあるので、「場末の酒場の匂い」が嫌いだ、と言い換えておこう。たとえば、夜の歌でも「スターダスト」などには酒の匂いも酒場の匂いもまったく無い。酒の歌でもオペラ「椿姫」の「乾杯の歌」などは好きなのだから、日本の演歌独特の湿った情感が嫌いなのかもしれない。あるいは「酒と薔薇の日々」などは、私のもっとも好きな歌のひとつだ。ここには日本の場末の酒場のトイレ臭さが無い。なお、シャンソンには、「アコーディオン弾き」のように場末の酒場の匂いを感じる歌も少しあるようだが、なぜか「トイレ臭さ」を感じないのは、演歌と異なる曲調のせいだろう。
と言うのは前置きで、私が書こうとしているのは、寝起きの時からなぜか頭の片隅にあった「ウナセラディ東京」という演歌のことである。まあ、演歌に分類できると思うが、それを酒場歌とするのは適切かどうか知らない。私のイメージでは、酒場の女の失恋を歌った歌なのである。なお、「ウナセラディ」がどういう意味なのか私は知らないし、調べる気もない。何かに「うなされている」のではなさそうだwww
で、本論だが、この中に「街はいつでも、後ろ姿の幸せばかり」という一節がある。最初に言えば、この「街」を「町」と書いてはいけないだろう。「町」では、その辺のおばさんが買い物籠を下げて歩いている風景を想像してしまう。この歌の曲調からして、これはそういう町ではなく、東京の、しかも繁華街だと推定するのが妥当だろう。
とすると、この歌の女主人公が見ている街は、六本木とか渋谷といった「夜の繁華街」ではないか、と推定するのが自然だと思える。まあ、格が下がるが、新宿や池袋でもいい。(私は昔のイメージで書いているが、現在でもさほど変わらないだろう。)
そういう「夜の繁華街」で彼女が見ているのは、「幸せそうなカップル」の姿である。それを彼女は自分を拒絶する「幸せ」の後ろ姿だと見るわけだ。
しかし、立ち止まって考えると、「不幸せな人間」が果たして繁華街に出るものだろうか。出れば、当然、孤独感や孤立感にさいなまれるだろう。まあ、歌の主人公の女性は、夜の勤めにでも出る途中で、そういう幸せそうなカップルを見るしかないのかもしれないが、基本的に「繁華街」というのは幸せな人々の街であり、つまり彼女の嘆きは自業自得だ、ということを私は言っているわけだ。
まあ、恋をしたら失恋も覚悟する必要がある。打算のつきあいだけでなく、恋ができるだけでも、人間が上等だ、と言えるかもしれない。もっとも、たいていの恋は自分自身が作り上げた幻想へのピグマリオン的な恋だ、と私自身は思っているのだが、盲目になることこそ恋の醍醐味だ、という考えも可能である。恋をまったく知らないのと失恋経験と、どちらがマシだろうか。
という、誰のためにもならないくだらない考察だが、些末事を考察するのは私の趣味であり、考えた以上は書くのが私の習慣である。


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「怪談」と「ミステリー(推理小説)」の文学的価値と『ねじの回転』

「ねじの回転」は英文学部(最近はそういうのがあるかどうかも知らないが)の卒論向きの作品である。つまり、考察すべき部分がたくさんあるわけだ。
その主なものを挙げておく。

1:この小説は「枠物語」あるいは「入れ子構造」の形式の話で、まあ「千一夜物語」でシェラザードが前置きをしてから話に入るような形だ。ところが、話の冒頭に出てきた、この「怪談」を聞く連中が最後に登場してこそ、その形式は完成するのだが、話は「語り手」(実は、語り手はふたりいて、話の前置き部分に出てきて話を紹介する男性と、話の「一人称話者」の女性で話の主人公のふたりである。)が語り終わった段階で、ぷつりと切れて終わる。この話が怪談でなくミステリーなら、肝心の謎解き部分の無いミステリーになるわけだ。
2:この話の中で「幽霊」とされている男女の死の内容(事情)がまったく語られない。だが、主人公もその同僚も、彼らを「邪悪な人間だ」としており、なぜ邪悪なのかは語られない。せいぜい、男の方が少し図々しいらしい程度である。特に主人公は、「幽霊」を見ただけで、彼らを邪悪な存在だと最初から決めつけている。これは欧米(キリスト教圏文化)特有のものらしい。つまり、人は死んだら最後の審判までは「存在しないも同然の存在」であるべきで、幽霊とは、死者が現世に「復活」したようなものだから、ある意味、キリストの「死後の復活」のパロディのような冒涜的なものになるという考えだろう。ここには、一人称主人公の女性が田舎牧師の娘であるという事情も関係しているかと思う。
3:女主人公が雇われた「魅力的な」富豪男性が、なぜ幼い甥と姪に関わることを嫌うのか、理由が最後まで明らかにされない。
4:女主人公が教育を任された幼い兄妹が「邪悪な」本性を持っている、と女主人公は考える(確信する)のだが、その理由がひどく曖昧である。単なる「表情」などから「鋭敏な自分」はそれを見抜いた、と思っているらしい。

ざっと以上から、この話での語り手の女性(女主人公)は、被害妄想から狂気に陥ったのだ、と推定できるわけだ。
一番の問題は、死んだ男女の雇用人の死の事情がまったく語られないことである。これは、彼女を雇った「魅力的な」富豪男性、つまり話の舞台である屋敷の主人が、この男女の死と何か関係があるのだろう、と推定できる。彼がこの屋敷に帰りたがらず、幼い兄妹のことは雇ったばかりの若い娘にすべて任せ、いわば「養育義務放棄」をしていることを考えると、この兄妹はふたりの男女の死の事情に気づいている可能性もある。
つまり、この話で「語られなかったこと」のほうが、「ミステリー」としてははるかに面白い要素を持っているわけで、この話が最後で「解決篇」があれば、ミステリーとして完璧だっただろう。だが、そうなると、「文学的評価」は地に落ちることになる。作者のヘンリー・ジェイムズはそれが分かっていたから、最後の「解決篇」を書かなかったのだと思う。


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石原慎太郎の死



石原慎太郎が亡くなったそうで、まあ、人間性はどちらかと言えば嫌いだったが、その作品にしても政治発言にしても、「思ったことをズバズバ言う」姿勢は、なかなか貴重だったのではないか。要は、その発言や作品を正しく捉え、肯定するか否定するかという受容側の問題だ。同じ暴言人間でも、少なくとも麻生太郎よりははるかに知性も教養もあったとは言える。そりゃあ、文学者であるのだから当然だ。
私自身、若年のころは、彼の作品を読んで、「或る種の、あるいはすべての人間の本性を実に見事に書いているなあ」と感心させられたものだ。ヤワな人間には、どれほど体験しても分からない「人間の真実」を描いていたわけだ。まあ、「処刑の部屋」など、その後に何度となく起こる若者の残虐殺人事件を予告していたのではないか。
もっとも、彼の作品を私が好きかどうかと言えば、嫌いであり、若いころの「読書体力」のある時期でないと読めない。昨日、映画で「三文オペラ」を見ようとしたが、主人公の悪党ぶりに嫌気がさして、途中で視聴放棄した。石原慎太郎の初期作品に多いのだが、「悪を主題にした作品」というのは視聴感や読後感が悪いのである。ただし、「三文オペラ」の主題歌の「匕首マッキー(メッキ・メッサー)」は大好きで、ボビー・ダーリンがこれを歌う動画の恰好良さは一見に値するのでお勧めだ。
悪というのは刺激的なので、文学や映画の主題になりやすい。善というのは「見ても面白くない」のであるwww その面白くなさのためか、世間の人間の中には、自分に無関係でも、他人の善を見るとすべて「偽善だ」と攻撃する馬鹿もいる。(もっとも私は「偽善(本心からではなく、無理に行う人為的善)」は大事だ、と思っている。それによって世界はまともに動いているとすら言えるのではないか。心に悪を抱いて善行を為すほうが、心に善を抱いて悪を為すよりはるかにマシである。)

石原慎太郎には「明朗青春小説」とでも言えそうな作品が幾つかあり、「青春とは何だ」や「おおい雲」などはテレビドラマ化や映画化もされていたと思う。非常に面白く読後感もいいので、若者にはお勧めだ。「野蛮人のネクタイ」なども面白い。

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人間の超能力

「大摩邇」所載の「ナカムラクリニック」記事の一部である。
政木和三の超人的能力や業績については知っていたが、そのスピリチュアル系の話は、まあ話半分というか、天才にありがちな妄想だろうとして聞いていた。話としては面白いし、その妄想能力こそが彼の天才的業績の源だったのかもしれない。凡人にはどれほど努力しても凡人の発想しか出てこないのである。
下の話の中で、昭和天皇の霊能力の話が私には特に面白い。「自分を現人神だと信じていたから超能力が使えた。人間となった今は使えない」というのは、なかなか穿った話だ。私自身の経験で言えば、20代くらいにパチンコをやっていた時期があったが、打った球が「穴に入る」と心から信じた時には入ったものだが、人間、それほど集中力は続かない。続くなら、誰でも凄い能力を発揮するのではないか。なお、生命の危機の瞬間には思考速度が通常の十倍以上になるという話も私自身経験している。


(以下引用)


番組の放送後、講師として招かれたある学会で、そのテレビでの出来事を話した。すると、ある高名な教授2人から「政木さんの言っていることは苦しい。そういう現象は静電気では起こり得ない。まだしも、何からの精神的な力、“念”によって動いたと考えるほうが説明がつく」と言われた。
いくらか意固地になりすぎている自分に気付かされた。力学もエネルギー保存則も、いったんすべて消し去って、現代科学の範囲を超えた未知のエネルギーの存在を認めるべきかもしれない。
その後、超能力の科学的検証(念による物体の移動、空中から物質を取り出す、幽体離脱、ダウジングなど)は、政木のライフワークとなり、死ぬまで研究を続けた。
http://psi-science.sakura.ne.jp/kokoro/data/text/masaki.html


政木はたまたまある縁で、鏑射寺(神戸市北区)の住職中村公隆和尚の知遇を得た。中村和尚は、密教の厳しい修行を何度も繰り返した大阿闍梨である。修行の末に、“この世ならざる力”を得たことは公然の秘密であり、政財界から内々の相談を受けることもある。
中村和尚は現在94歳。今も毎月22日には鏑射寺を訪れる人々の前で、法話を披露する。僕も以前、聞きに行ったことがある。


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中村和尚の“この世ならざる力”がどのようなものか、端的に示すエピソードは、「ベレンコ中尉亡命事件」と関係している(和尚自身は法話のなかでこれを「ミグを捕まえた話」と言っていた)。
ベトナム戦争当時、米軍は北ベトナムを連日爆撃していた。当時の米軍の最新鋭戦闘機はF4ファントムⅡという高性能なジェット戦闘機だった。ある日、北ベトナム上空を飛行していたF4戦闘機が、ソ連の最新戦闘機ミグ25が飛んでいるのを発見した。戦闘空域だったためにF4はすぐに追撃したが、最高速度マッハ2のF4戦闘機を、ミグは軽々と振り払った。そこで射程距離の長いレーダー誘導型の空対空ミサイル「スパロー」を発射した。しかし、マッハ2以上の速さで飛行するこのミサイルも、ミグを捕捉するには至らなかった。
ミサイルでさえ追いつけないほど高速で飛ぶ戦闘機の存在を報告された米軍首脳部には、激震が走った。当時ソ連と米国は核戦争の一触即発の状態であり、かろうじて軍事バランスの均衡が戦争勃発への抑止になっていた。そこに、これほど戦闘機の性能レベルの違いを見せつけられては、米軍が平静でいられないのは当然のことだった。
米軍はソ連の最新鋭戦闘機ミグ25の性能の秘密を研究するため、実際に運用されている機体を1機、なんとしても捕まえたいと考えていた。しかし、自国の最速の戦闘機を上回る速さのミグを捕獲することは、到底不可能なことだった。
そこで、ニクソン大統領は、1945年8月、昭和天皇がB29を消した話を思い出した
https://note.com/nakamuraclinic/n/n3f49755c9fb0
大型の戦略爆撃機を消せたのだから、ソ連の戦闘機を1機捕獲するぐらいは簡単だろうと思い、昭和天皇のところに特使を派遣し、ミグを捕まえるように命じた。
しかし昭和天皇はこの要求を断った。「あれは自分自身が神だと信じていたからこそ、可能でした。しかし終戦後人間宣言をし一人の人間にすぎなくなった自分には、もはやできません」
しかしニクソン大統領の特使、簡単には引き下がらない。「それでも何か別の方法があるだろう」と食い下がったところ、昭和天皇は助手をひとり所望した。
その助手が、自分を現人神だともう一度思い込ませてくれたなら、可能かもしれない。その助手として指名されたのが、真言密教の法力を修めた中村公隆和尚だった。
高松宮殿下が皇宮警察を引き連れて高野山まで赴いた。皇居に連れていかれた阿闍梨は、真言密教の呪術を使い、昭和天皇を再び現人神にした。その後すぐ二人で、ちょうどシベリア上空を演習飛行中のミグ25のパイロット(ヴィクトル・ベレンコ中尉)をめがけて、不動金縛りの術をかけた
ベレンコ中尉は飛行時間3000時間を超える経験豊富なパイロットである。心身ともに健康で、戦闘機に乗り込む前には入念な機体チェックを怠らない。非常に優秀なパイロットだった。しかしシベリア上空を飛行中、突如、体に違和感が走った。操縦桿が思うように動かせない。体の異常だろうか?機体の故障だろうか?いずれにせよ、異常事態に違いない。すぐさまソ連の空軍基地に戻ろうとしたが、自由に動かせないばかりか、操縦桿は機体が北海道のほうに向かって行くようにだけ動く。高度を上げてはレーダーに捕捉されて撃墜される可能性がある。仕方なく、海面すれすれの低空を飛び、北海道の函館空港に強行着陸した。
これがベレンコ中尉亡命事件(1976年)の真相である。マスメディアでは亡命とされたが、実際には亡命でも何でもなかった。阿闍梨と昭和天皇の呪術によるものだった。
こうして米軍は、まんまとミグを得ることができた。茨城の百里基地に移送されたミグは、機体とエンジンを分解され、マッハ3で飛行できるメカニズムも突き止められた。


政木は当然、この呪術の存在を信じていた。というか、どのようにしてこのような呪術が可能なのか、それはそのまま政木の研究テーマだった。彼が着目したのは、脳波である。
人間の脳波には、ベータ波、アルファ波、シータ波、デルタ波の4つがある。普通に生活しているときの脳波は18ヘルツくらいで、これをベータ波という。心がリラックスして平静な状態だと15ヘルツほどまで下がる。これがさらに下がって13ヘルツ以下になるとアルファ波となり、肉体的な感覚が薄れ、精神的な感覚が主体になる。さらに11ヘルツ以下になると超能力と呼ばれるような力が現れ、たとえば誰でもスプーンが曲げられる状態になる。脳波がさらに下がり、8ヘルツ以下になった状態がシータ波である。この状態では、心も体も超えた、ただ、魂だけがある感覚で、瞑想の極致に達したときに見られる。さらに脳波が下がり、4ヘルツ以下のデルタ波になると、完全な無意識状態で、仮死状態に近い。
政木は、中村和尚のいわば「超能力」は、シータ波の精神状態のなせるわざだと考えた。シータ波のときには、まったく無欲の状態になっている。逆も真で、無欲の状態でないとシータ波にならない。人生において願いを叶える人は、常に無欲であり、かつ、シータ波になっている。時給換算すれば1時間に何万ドルと稼ぐスティーブ・ジョブズが、貴重な時間を割いて禅に傾倒したことには、十分な理由がある。人はシータ波の状態になって初めて、世界を変えるような奇跡を起こすことができる。
無論、こういうことができる人は多くない。選ばれた素質なり、厳しい修行なりの末に、人はこの力を得る。
実は、中村和尚は長きにわたり、念の力で東京の地震を止めているのだが、この点については詳述しない。ただ、高齢の和尚が遷化された後が心配だ。


人を生かすこともできれば殺すこともできるのが、密教呪術である。フランクリン・ルーズベルトは密教の秘儀により呪い殺されたという話がある。当然、原爆開発に対する牽制の意味合いである。もう少し小さな話では、これは中村和尚の本にも書いているが、瞑想する和尚の体には、蚊が近寄らない。もちろん、蚊取り線香を焚いているわけではない(笑)

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「ねじの回転」と「信用できない語り手」

ヘンリー・ジェイムズ「ねじの回転」読了。
傑作だが、読み方に注意が必要。つまり、ドストエフスキーの「未成年」の時にも言った、「信用できない語り手」の物語として、語られた内容の「裏の意味」あるいは「真実の出来事は何か」を考えながら読まないと、実に朦朧とした怪談にしか思えないのである。だが、そういう意識で読むと、これは単なる幽霊話とは次元の違う、「人間の心理の恐ろしさ」を描いていると分かる。
「ドグラマグラ」とは違って、この語り手は読み手にはまったく正常な精神の持主と思われるだろう。冷静で善良な女性としか思えない。だが、話が進むに伴って起こる「異常な出来事」は、彼女にしか見えないのである。ならば、それは彼女の精神の異常としか合理的には解釈不可能だ。その精神の異常の原因となるのは、彼女の出自であり、劣等感であり、その劣等感の裏返しの高慢な自尊心だろう。彼女が精神異常者であり、周囲の人間はすべてまともな精神の人間である、と解釈した時、この物語の悲劇性が理解できるわけだ。
もちろん、この話をただの幽霊話として読むこともできるし、語り手こそが被害者だと考えることもできるだろう。だが、上に書いた視点で読む場合は、「普通の人間の精神が崩壊していく」過程の記録となり、まさに「文学」そのものとなる。

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日本文化の源流としての宮廷文化(王朝文化)



いやあ、「徽宗皇帝のブログ」記事の文章で「谷間の百合」さんから怒られてしまったが、文化方面のことなので、こちらのブログに「弁解」を書いておく。ww
私のブログは、構成も結論も何も考えず、思い浮かんだことを書き流していく(書き飛ばしていく)書き方なので、文章内容には誤りや考え違いも多いのだが、谷間の百合さんの指摘は、その通りだと思う。
ただ、弁解すれば、「江戸時代の庶民は天皇の存在などほとんど知らず」とは、「現在の(当時の)天皇が政治的にどんな存在でどんな暮らしをしているか、ほとんど知らず」と書くべきだっただろう。あるいは、谷間の百合さんが言うように、全国津々浦々の人々すべてが都にあこがれを持ち、都の噂話をしていて、天皇への関心も高かったのかもしれないが、私の知っている知識には、それは無かったので、ああ書いたわけである。あまりに情報過剰で逆に情報の内容を深く考えず、今日聞いたことを明日には忘れているような軽薄な現代人の感覚で、伝統と共に落ち着いて生きていた江戸時代の人間のことをいい加減に書いてしまったかなあ、という反省はある。
まあ、自分の生活、目の前のことだけで汲々としている現代のサラリーマンと、ゆっくりと時間が流れ、娯楽情報に飢えていた江戸時代の人間を等し並みに扱ったのは間違いだった。
なお、日本の「生活文化」のほとんどは宮廷から下に流れていって形成されたもので、「王朝文化が日本文化の源流」というのは私も強く同感する。そして記紀万葉が敗戦以前の日本人の精神の底流にあったということも同感する。そもそも、記紀万葉が日本語そのものの土台なのであって、「日本人とは日本語が使える民族だ」と言っていいくらいなのである。(なお、ここで「同感」した内容は、私が谷間の百合さんの考えと推測したもので、下の記事そのものの趣旨を誤解している可能性はある。)

(以下「谷間の百合」から引用)赤字部分は酔生夢人による強調だが、「皇室」というより「宮廷」全体だと私は考える。(もちろん、その中心は天皇であり皇室だが。)「枕草子」や「源氏物語」無しに日本の文化は存在しない。などと言いながら、私自身は「源氏物語」は通読していないがww 応仁の乱によって宮廷貴族たちが地方に流れて宮廷文化を伝えたのが現在の日本の生活文化の基礎だ、というのは定説だろう。日本人の精神文化も同様である。



国民が天皇を認識したのは明治に入ってからだと思っている人がたくさんいますが、中庸、中道の人でわたしがその記事から考えるヒントを多々貰っている「徽宗皇帝のブログ」の管理人さんまでが「江戸時代の庶民は天皇の存在などほとんど知らず」と書いておられて残念に思いました。
今では信じられないくらいむかしの人にとって天皇は身近な存在でした。
国の成り立ちの物語「古事記」はよく知られていたと思います。
物語に出てくる人物が残した足跡はあちこちにあり、なによりも全国津々浦々にある神社がまつっている神の祖先は天照大御神です。
天の岩戸は近くにもありますが全国に何か所もあるようです。
人々が天照大御神を知っているということは、天皇を身近に感じていたということです。
神社は村にとって最も大事な場所であり、それによって最小単位のコミュニティが成り立っていたのだと思います。
つまり、神社に祀られている神(天皇の租)が紐帯となって国民のこころを繋いでいたということになります。
それで日本は纏まっていたと。
歴史は皇室と共にある。_c0243877_10433424.jpg
現代を情報化社会と言うのは間違いです。
情報はあってもほぼ個人のところで止まっています。
また、マスコミが独占している情報は国民を洗脳するツールになっています。
むかしは、いまでは想像もできないくらい人の往来が盛んだったと思います。
旅人が茶店や宿で立てていたであろう「さんざめき」が聞こえてくるようです。
行商人や旅行者、行脚の僧や絵師や浪人などによって「都」の出来事が、人の体温を通じて全国に伝わっていきました。
人々の「都(皇室)への関心は今の比ではありません。
「都」のことを知りたいという欲求は知識慾以上に娯楽だったのだと思います。
どんな貧しい農家にも神棚には「天照大御神」のお札があり床の間には掛け軸がありました。
江戸時代から神社が各家庭に配っていたそうです。
お伊勢さんには全国から、もちろん江戸からも参拝に行く人がたくさんいて、足を延ばして京見物に行った人もいるかもしれません。
現代より、日本は狭かったのです。
いかに、神々と皇室が身近な存在だったかということです。
万葉集は庶民にも知られていたと思います。
丁度ドラマの時代と重なるのが、藤原定家によって成った「百人一首」と、後鳥羽上皇の命により編纂された「古今和歌集」です。
いろはかるたが子ども用だとすると百人一首かるたは大人の庶民の間でも流行っていたのではないでしょうか。
皇室の文化は皇室の独占物だはなく、すべて庶民に伝わっています。
皇室を外して日本の文化はありません。
村祭りからひな祭りまで、皇室の行事から始まり広まったものです。






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欧米民族と日本人の間の深くて暗い河

「大摩邇」所載の井口博士の記事の一部だが、わたしはこのheaveneseという動画サイトを見たことがない。右翼臭がするからである。いや、私自身保守主義者で、人から見れば右翼臭い記事も書いているかもしれないが、何度も言うように社会主義者であり同時に民主主義者であり、尊皇主義者でもあるww 宗教は好まないが仏教にもキリスト教にも神道にも、それぞれの良さがあると思っている。だが、それが党派性を持つことで、教義の倫理性より党派利益を優先するから宗教の悪い面が拡大されるわけだ。これは、右翼でも左翼でも同じだ。他党派に対して、その良さを認めず、「あいつは敵だ。敵は殺せ」となるのが、党派性である。その党派性とは要はエゴイズムの拡大でしかない。
まあ、それはともかく、下の記事を転載するのは、ここに書かれた「言語ギャップ」の問題、あるいは「翻訳不可能性」の問題は、多くの人が気づかない重要なポイントだろうと思うからだ。私自身、何度かそれについて書いている。
なお、欧米人が「Love=sex」民族であることが、新コロでのあの惨状につながったと私は思っている。要するに「愛情を示すこと=キスやハグという肉体接触」という民族性のことだ。
しかし、オミクロンが日本でも急速拡大したのだから、オミクロンは「空気感染力」が強いと見るべきだろう。まあ、どうせ風邪に毛が生えた程度の症状にすぎない。

(以下引用)
ところで、最後のHeaveneseアレンジの「君が代」も好きだが、その最初と最後の英語歌詞の中にMajestyということばが出てくる。
しかしこれは、日英の文化ギャップの起こる原因の1つの典型をみているようで、あまり俺は好きではない言葉である。
どういうことかというと、日本語には英語に翻訳できない概念がたくさんあるが、それを一度英語に訳すとその途端に英語脳の意味に変化してしまうからだ。相手の英語脳はそれで納得するのだが、それは英語の意味を自覚しただけで、我々日本人がそれに含めたかった意味は失われているのである。
こういうふうな場合、言っている日本脳と聞いている英語脳の双方で納得してそれぞれに合点がいって頷くことができるが、同時にお互いに別の意味を頭に浮かべ、実際にはまったく理解し合えていないのである。
日本人は、天皇の呼び方→陛下→Majestyと考えるが、外人は、Majesty→King, Emperorに対する呼び方と考えるのである。
天皇→Eemprorと考えるが、外人はEmperor→King of KIngs→dictator(独裁者)と考えてしまうのである。
他にも卑近な例は、日本人は、相手を大事に思うこと→愛→Loveと考えるから、I love youというと、「あなたを大事な人だと感じています」という意味で伝えるが、それを聞く外人は、Love→make a sexと受け取るため、「こいつは俺とセックスしたいんだな」と受け取るというような、誤解が常に生まれるわけだ。
だから、本当に伝えたい文脈が理解できるように、同じ内容をいくつかの表現で言わないと、外人には伝えたいことの真意は伝わらないのである。
こういう誤解が日常茶飯事起きている。だから、英米人と日本人は異星人とみたほうが良いと俺が言う理由である。
本当に理解し合えるということはない。あくまでコミュニケーションあるいは性的交渉できるだけのことにすぎない。

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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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