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超訳「踊るドワーフ」#15

彼は考え続けたが、それは彼がいつも考えるのに費やす時間よりはるかに長い時間だった。
「どうしたんだ?」私は尋ねた。
「そのドワーフの事を前に確かに聞いたことがあるんだ」
その言葉は私を呆然とさせた。
「ただ、誰から聞いたのか思い出せない」
「どうか思い出してくれ」私は切願した。
「やってみる」そう言って、彼は再び考え始めた。

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超訳「踊るドワーフ」#14

私が自分が見た夢のことを話し終わった後、彼は座ったまま長い間考えていた。あまりに長く考えているので、私は暇つぶしにelectric bellows(訳者注:意味不明。bellowsはふいごやカメラの蛇腹を意味するようだが、コントロールパネルとは無関係だろう。原作では何なのか、原作を読んでいないので分からない。)のコントロールパネルを磨き始めた。とうとう彼はいつも通り結論に達し、「難しい話だな。ふむ、踊るドワーフか。難しい」と言った。
彼の言葉は私をたいして失望はさせなかった。彼がいつも以上のことを言うとは私は期待していなかった。私はただ誰かにこの夢のことを言いたかっただけだ。私はelectric bellows(訳者注:おそらく、電子メニュー表かと思われる。)を下に置き、もうすっかりぬるくなっていた自分のお茶を飲んだ。

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小説(本)の再読ということ

近くの市民図書館は、蔵書数は呆れるほど少ないが、児童書や学術書も含めれば読む本が探せないこともない。で、最近痛感しているのが、「自分はいったい、これまでどんな読み方をしてきたのか」ということで、前に書いた速読の悪癖をやめて熟読(精読)するようにしたら、過去に読んだ本でもいろいろな発見に満ちている。つまり、過去に読んで面白かったと言っても、実はその6割か7割くらいしか理解はしていなかったのである。それを再読するのも大きな娯楽だ。
たとえば、フレドリック・ブラウンの「さあ、気ちがいになりなさい」は、星新一の新訳で児童書コーナーに置かれていたが、もちろん、中学生か高校生のころに私は読んでいる。しかし、今読むとさまざまな発見があるのである。
たとえば、「シリウス・ゼロ」の、その星への来訪者を幻覚で操作する異星人の話は、映画化もされた「ソラリス(惑星ソラリス)」とまったく同じと言ってもいいのではないか。ただし、私は「ソラリス」を読んでもいないし、映画も見ていない。いずれにしても、アイデア自体はフレドリック・ブラウンが先だろう。あるいは、それ以前にも別の作者の同じアイデアがあるかもしれない。
また、「町を求む(A Town Wanted)」の冒頭で、田舎町のギャングが、その親分への報告の中で言う「保護の料金を払いたがらない男がいた。そして、そのアニーはもはや世を去りぬ、というぐあいです」の中に唐突に出て来る「アニー」は、明らかに「アニー・ローリー」という古歌で歌われているアニーだろう。実は、私はこの歌の日本語歌詞の「さなり、我が子は逝きぬ」を、耳で聞いただけなので、「逝きぬ」は「行きぬ」で、母を捨てて去っていっただけだろうと思っていたのである。もちろん、昔「町を求む」を読んだ時は、この部分に注意も払わず読み飛ばしたはずだ。(私は、「アニー・ローリー」を別の唱歌と勘違いしていたようだ。まあ、その手の勘違いは私には膨大にあるので取り消し線だけ付けて、そのままに恥の記録を残しておく。)
これもどうでもいい話だが、「帽子の手品」の原題が「The Hat Trick」であるのを見て、サッカーの「ハットトリック」(個人一試合三得点)が帽子の手品の意味であることに生まれて初めて気が付いた、というのもなかなか驚きだった。なぜ一試合三得点が「帽子の手品」なのか。意地悪く考えれば「人目を驚かすが、実は子供だまし」という意味とも取れる。

ということで、過去に読んだ小説の再読は実は新しい発見に満ちているという話だ。別の言い方をすれば、我々は読む本の数分の一しか理解していないということだ。

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将来の大物脇役女優江口のりこ

私はテレビを見ないというか、アンテナが接続されていないので見られないし、見る気も無いので芸能界や芸能人の知識がゼロに等しいのだが、ネットテレビ(ネットフリックス)は見る。それでたまたま見た「俺の家の話」の第一話で、脇役の女優の演技があまりに上手いので、名前を確認すると、「江口のりこ」だったので、下の記事もわざわざ読んだわけである。
ちなみに、そのドラマの脚本は宮藤官九郎で、彼が書いていることも知らない状態で見たのだが、脱力するようなオフビート(調子はずれ)のギャグが時々出てきて、案外面白く、回を追うごとに面白さは増す。しかも、老親の介護問題と、後妻業らしい女(性格が可愛い)とプロレスの話と能の宗家の継嗣問題と、離婚訴訟の親権問題など、真面目な問題を見事にギャグ化している、奇抜な、あるいはいかにもクドカンらしい脚本である。(もっとも、私は彼の作品は「あまちゃん」しか見たことがない。)
そして、出ている俳優が、子役も含め、上手いが、私が特に感心したのが最初に書いた江口のりこだったわけだ。彼女のように自然な「いかにも身近にいそうな人物の演技」ができる女優は貴重である。そうした俳優が脇を固めることでドラマは面白くなるのである。ただし、役柄としては「普通なら人好きのしない女性」をこのドラマでは演じているので、見る人によっては、役の演技と彼女自身を同一視して「気に入らない女優だ」と思うだろう。
なお、下の記事の安藤サクラは私は見たこともないが、写真は確かに江口のりこに似ている。つまり、美人ではない。

(以下引用)

激似説の安藤サクラ&江口のりこ「ブラッシュ」共演 マジ激似「双子だ」「同一人物か」 義父の愛弟子が江口


配信デイリースポーツ


 安藤サクラ



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超訳「踊るドワーフ」#13

耳部門のパートナーと私は、後の方の仕事のやり方を好んだ。我々は朝のうちに仕事を終わらせ、午後の時間はおしゃべりや読書や、別々の娯楽に使っていた。踊るドワーフの夢を見たその午後、我々のその日の仕事は新たに皺をつけられた耳を壁にかけることで、その後、私たちはフロアに座って日差しを楽しんでいた。
私はパートナーにドワーフのことを話した。その夢の生き生きとした細部まで私は覚えており、それがどんなに微細だろうと、そのすべてを彼に話したのだ。表現するのが難しい部分になると私は頭を振ったり腕を揺らしたり、足を踏み鳴らしたりしてそれを伝えようとした。彼はしばしばうなり声をあげたが、お茶をすすりながら注意深くそれを聞いた。彼は私より五つ年上だったが、頑丈な体格の男で、黒い顎鬚と寡黙な性向を持っていた。彼は腕を組んで考える、その癖を今見せていた。彼の表情を見れば、彼が真面目な思索家で、物事をさまざまな角度から考える人間だと誰でも思うだろう。だが、たいていは彼はしばらく考えた後、「そいつはなかなか難しい話だな」と言うだけだった。

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生と死、善と悪

知人から定期的に古本を貰うのだが、貰う本は私の好みで選ぶので、筒井康隆の初期短編集が多い。もちろん、昔読んだのが大半だが、私は速読の悪癖があり、理解困難な部分は昔はあまり考えないで飛ばし読みをしていた。だから、昔読んだ本でも、そういう部分をちゃんと考えながら読むと、十分に面白く、たくさんの発見があるのである。
たとえば、「東海道戦争」所収の「群猫」の中に、

「花の死体」

という表現がある。
この作品はかなり詩的な表現が多いのだが、地下深くの下水道の中に棲む群れ猫の「意識」まで書いてあり、難解な表現も出て来る。その中では「花の死体」というのは分かりやすいが、少しどきっとする表現だ。
実際、我々が目にする「切り花」は、あれは花の死体なのであり、床の間や玄関にきれいに飾られた生け花は「生け花」の名に反して「花の死体」の集まりなのである。
それを我々がなぜ「花の死体」と感じないのかと言えば、我々には花がいつ死んだのか、認識できないからである。実際には、切られた瞬間に花は死んで、後は枯れていくのだが、動物の死体のように腐敗せず、枯れるだけなので、我々は花の死を死だと感じないのである。

それから、

「彼はいま、願望に自我を強化させ、闇の中に意識を発散させている」

という表現があるが、「彼」とは、地下深い下水道に棲むめくら猫である。この一文の中の「願望に自我を強化させ」というのが興味深い。我々の自我は願望によって強化されるというのは、これまで誰も言っていないのではないだろうか。
我々が自分の自我を意識するのは願望が存在することによってではないか、という思考をこの一文はもたらす。別の言い方をすれば、願望(欲求)が無ければ自我も無いし、自我ゆえの苦悩も無い、ということで、それは仏教の思想に近いと思う。ただし、これを突き詰めると、欲望を捨てた人間は死体と同じ、となる。欲望はあらゆる悪の根源でもあるのだから、それが自我の根源でもあるなら、悪は人間存在の土台だ、というとんでもない結論になるが、まあ、それは言い過ぎで、いつもの私の「極限思考」の癖である。
要するに善とか悪とかいうのは便宜的な観念であり、社会秩序の土台として重要ではあるが、実は実存するものではない。まあ、商品の値札のようなものだ。値段をつけるのは売る側の勝手である。パリコレで売る(アピールする)ファッションをまったく無価値と思う者がいてもおかしくはない。犯罪者にとっては法律は悪の存在だろう。だが、善悪の観念(人間性の値札)の無い社会は野獣の世界になるわけである。社会の成立とモラルの成立はほぼ同期しているはずである。





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「方向性」とは何かwww

「誰でもトイレ」というのが滑稽である。変態でも犯罪者でも強姦常習者でも偽女性でも誰でも使用可、ということだろうか。

渋谷区からも『女性トイレをなくす方向性など全くない』と公式見解が出ました

というコメントも面白い。「~という方向性はない」というのは、そういう事態が起こっても、それは不測の事態で、こちらに責任はない」という意味だろう。つまり、ハンドル操作を誤って事故を起こしても、自分はその方向に行く気はなかったから無罪である、という詭弁だ。

(以下引用)

渋谷の公共トイレ問題で区が見解発表「女性トイレをなくす方向性など全くございません」


配信

東スポWEB

渋谷区の公園にあるトイレ(写真はイメージ)



(追記)明らかに「謎の勢力」がかなりな数の工作員を動員しているようだ。


有名女優さん、トランス女性が女子トイレ使うのを嫌がった為炎上→謝罪へ

1名無しのアニゲーさん 2023/03/06(月) 04:25:38.69 ID:ldOYu2Rs0
no title


そして謝罪
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HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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