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生と死、善と悪

知人から定期的に古本を貰うのだが、貰う本は私の好みで選ぶので、筒井康隆の初期短編集が多い。もちろん、昔読んだのが大半だが、私は速読の悪癖があり、理解困難な部分は昔はあまり考えないで飛ばし読みをしていた。だから、昔読んだ本でも、そういう部分をちゃんと考えながら読むと、十分に面白く、たくさんの発見があるのである。
たとえば、「東海道戦争」所収の「群猫」の中に、

「花の死体」

という表現がある。
この作品はかなり詩的な表現が多いのだが、地下深くの下水道の中に棲む群れ猫の「意識」まで書いてあり、難解な表現も出て来る。その中では「花の死体」というのは分かりやすいが、少しどきっとする表現だ。
実際、我々が目にする「切り花」は、あれは花の死体なのであり、床の間や玄関にきれいに飾られた生け花は「生け花」の名に反して「花の死体」の集まりなのである。
それを我々がなぜ「花の死体」と感じないのかと言えば、我々には花がいつ死んだのか、認識できないからである。実際には、切られた瞬間に花は死んで、後は枯れていくのだが、動物の死体のように腐敗せず、枯れるだけなので、我々は花の死を死だと感じないのである。

それから、

「彼はいま、願望に自我を強化させ、闇の中に意識を発散させている」

という表現があるが、「彼」とは、地下深い下水道に棲むめくら猫である。この一文の中の「願望に自我を強化させ」というのが興味深い。我々の自我は願望によって強化されるというのは、これまで誰も言っていないのではないだろうか。
我々が自分の自我を意識するのは願望が存在することによってではないか、という思考をこの一文はもたらす。別の言い方をすれば、願望(欲求)が無ければ自我も無いし、自我ゆえの苦悩も無い、ということで、それは仏教の思想に近いと思う。ただし、これを突き詰めると、欲望を捨てた人間は死体と同じ、となる。欲望はあらゆる悪の根源でもあるのだから、それが自我の根源でもあるなら、悪は人間存在の土台だ、というとんでもない結論になるが、まあ、それは言い過ぎで、いつもの私の「極限思考」の癖である。
要するに善とか悪とかいうのは便宜的な観念であり、社会秩序の土台として重要ではあるが、実は実存するものではない。まあ、商品の値札のようなものだ。値段をつけるのは売る側の勝手である。パリコレで売る(アピールする)ファッションをまったく無価値と思う者がいてもおかしくはない。犯罪者にとっては法律は悪の存在だろう。だが、善悪の観念(人間性の値札)の無い社会は野獣の世界になるわけである。社会の成立とモラルの成立はほぼ同期しているはずである。





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酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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