※参考記事
【悲報】オタク、「ナスを食わない」という偏見を持たれていたwwww
気の赴くままにつれづれと。
第四章 メンタル・ヘルスまたは「心術」
「メンタル・ヘルス」というと、精神科医の分野になりそうだが、ここで私が述べるのは、より良い人生を生きるための「心の自己コントロール」の話である。そして、それには前の章で書いた人格形成なども含まれる。
1 生き方の基本
メンタル・ヘルスは、その人の生き方と大きく関わってくる。昔なら人生論として扱ったことを、ここではメンタル・ヘルスとして扱おうと言うのである。
まず、生き方の基本は、「問題解決の技術」と同じである。つまり、「現実認識―問題分析―計画―実行―反省―計画変更―実行」のサイクルである。(これはビジネスの世界ではP―D―C―Aサイクルと言うようだ。「プラン・ドゥ・チェック・アクション」である。なぜドゥとアクションの区別があるのかは知らないが。)そして、何よりも大事なのは、「継続」である。コリン・ウィルソンも言うように、我々が、決心したことを継続できれば、精神的な超人にもなれるのである。
2 精神の素材と精神コントロール
良い人生を送るためには、精神の自己コントロールが必要だ。それができるかどうかで人生の質が変わってくる。
まず、人間の精神は大きく分けて、「理性」と「感情」に分かれる。ここに、「意志」という柱を立てて三つに分けてもいいが、人間に自由意志があるかどうかは判断不可能な問題だから、意志については保留にしておこう。
問題は、理性と感情はまったく別であり、感情を理性でコントロールすることは非常に難しいことである。感情に限らず、自己コントロールを最大限に高められるかどうかが、幸福な人生の鍵だとも言える。たとえば、あなたが何かの義務的な仕事をやらねばならない場合、それを苦痛に思うあなたがいる。そして、その仕事をやらねばならないと思うあなたがいる。はたして、あなたはそのどちらのあなたの言うことを聞くべきなのか。怠け者のほうのあなたか。意志的で努力家のあなたか。当然、後者だと言う人が多いだろう。だが、そこで怠けて過ごした甘美な時間と、苦痛に耐えて努力した時間と、どちらが人生にとって有意義な時間だっただろうか。これは、明らかに前者なのである。ただし、これは短い時間のスパンで考えた場合のことで、長期的にはもちろん、前者のような生き方はその人の人生レベルを低下させ、後者のような生き方は人生レベルを向上させる。
これはつまり、美味い物を先に食うか、後で食うかという選択と同じことであり、もしも怠け放しでもそのダメージを受けることが無いのなら、一生怠け続けてもいいのである。つまり、大金持ちの家に生まれた人間なら、そういう生き方もできるわけだ。
だが、ほとんどの人間は「生きるための労働」と不可分の生涯を送るはずだ。したがって、ここではそういう前提で論じる。
さて、人間の精神は理性と感情に分かれる。感情は、目の前の義務的労働を苦痛に思い、理性は、長期的判断に基づいて、あなたに労働を強制する。
もちろん、誰でも考えるように、感情が、労働を苦痛ではなく快楽だと考えればすべての問題は解決である。だが、果たしてそううまくいくかどうか。我々は労働を本心から快楽だと考えることができるだろうか。ここで、価値観というものが問題になる。つまり、快楽は価値があり、苦痛はマイナスの価値だという判断がここにはある。逆に、我々にとってのマイナス価値の強制が我々に苦痛を与えているとも言える。
価値観の問題も、古くて新しい問題だ。納豆やオカラで満足できる人間なら、トゥール・ダルジャンの鴨料理などこの世に存在しなくても何も問題は無い。酒の飲めない人間にはロマネ・コンティも無価値である。草の葉の上の水玉の美しさに感動できる人間には、100カラットのダイヤも不要だろう。自分の女房を愛している人間には世界一の美女が言い寄っても迷惑なだけだ。
人生の最大の秘密をここで書こう。
それは、この世で生きる最大の鍵は、「価値観」にあるということだ。しかも、価値観とは、実はその人の主観なのである。このことを意識していないことに、人生の大半の苦しみの原因があるのだ。
たとえば、あるタレントや俳優を好きか嫌いか、ということは、若い人にとっては「絶対的なもの」である。いや、年を取った人間でも、好悪については絶対に譲らないものだ。だが、その好悪にどんな根拠があるかというと、それはほとんど無いのである。Aという歌手とBという歌手の間に、それほどの違いがあるとは思えないのだが、AやBのファンにとっては、天地の開きがあるのである。それは、つまり《主観の絶対視》なのである。
さて、我々は、実は自分の主観に過ぎないものを絶対視しているということを知れば、人生を生きることが非常に容易になる。
我々が自分の感情をコントロールできないのも、「主観の絶対視」のためであり、本当は簡単に譲れるものを譲れないと「思い込んでいる」だけなのだ。
これは、しかし、感情を軽視しろということではない。藤原正彦が面白いことを言っている。「論理」というものは、実は出発点の妥当性は証明できない。つまり、すべての論理の出発点そのものは仮定にしか過ぎないということだ。これは私もかつて考えたことで、論理とは、「説明手段」でしかない、と私は思っている。他人を説得する手段ではあっても、必ずしも真理に至る道だとは限らない。一方、感情の方は、少なくとも、その感情がその人の心を支配していることは明らかであり、それだけでも感情の偉大さは分かる。つまり、我々の生涯の大半は感情とともにあるのだ。だが、感情が自己破壊的に働く場合がある。ここで私がコントロールを考えているのは、そういう類の感情なのである。
ここでまた誤解する人がいるかもしれない。私は、一般的にマイナスとされている感情を自分の中から消し去れと言っているのではない。怒るべきときには怒り、悲しむべきときには悲しむことこそが、真に人間らしい生である。だが、問題は、我々はそうしたマイナスの感情に心を支配されるあまりに、自分の人生までも悪い方向に引きずっていく場合が多いということだ。そこで精神の制御が求められる。
精神の制御において必要なのは、意識化である。自分がどのような状態か意識できれば、制御まではもう一歩だ。自分の状態が意識されていないから、制御できないのである。
そこで、まず感情を分類する。これは昔から「喜怒哀楽愛悪懼」という七情として分類されている。つまり、「喜び」「怒り」「哀しみ」「楽しさ」「愛」「憎しみ」「恐怖」である。
この中で、無条件でプラスと言える感情は「喜び」と「楽しさ」だ。(この二つの違いは微妙だが、たとえば、遊びをしている状態などは「楽しさ」であり、思わぬ利益を得た感情などは「喜び」だろう。)
ところが、「愛」は、無条件にプラスとは言えないのである。というのは、愛とは一種の欠乏状態における感情なので、愛が喜びになることもあれば、悲しみになることもあるからだ。もちろん、単純に、好きなものの傍にいて、それを眺めている時の感情も愛だし、好きな人のために奉仕する気持ちも愛だ。そして、何かが「好き」という感情は、それだけでも一種の満足感を与えることもある。とりあえず、「愛」はある対象に対して抱く肯定的感情ではあるから、プラスとしておこう。
さて、その他の「怒り」「哀しみ」「憎しみ」「恐怖」などの感情がマイナス感情であり、我々の心を苦しめるものであることは言うまでもない。(この「苦しみ」も七情に追加してもいいが、苦しみはむしろ総合的なマイナス感情だろう。)こうしたマイナス感情を心から完全追放してもいい、と思う人もいるだろう。実際、それができている人間もいる。それは「多幸症」という精神病患者である。また、麻薬などを用いることで、多幸症に近い状態を作ることもできるようだ。
だが、精神病患者になるのも、麻薬を使うのもいやだというのなら、我々は「哲学的」に精神の自己制御を試みる必要がある。それが、これから本格的に論じる「心術」である。
昔の用語では、心術とは、「心の状態」のような意味で使っていたようだが、私はそれをまさしく、「術」として論じるつもりである。
思うのは勝手だけど手まで合わせて口に出すやつは何なの
心のなかで唱えてりゃいいじゃん
そいつに言えよ
>>2
世の中にいるやつ全員に聞いて周るのか?あ?
>>3
聞いて周れよ
俺は関係ないし
いただきますと心のなかで思ったならその時すでに行動は終わってるから…
育ちが中途半端に悪い人に多い
>>5
これはある
家が片親とか絶望的に貧乏みたいな奴だろうな
>>10
寧ろ片親じゃなくて両親いるけど育ちが中途半端に悪い人に多い
食材に対して
>>7
心の中で言えよゴミ
それ、トリコの前で言える?
>>8
うん
「育ちが悪い人であってほしい」のが伝わってくる
お前が間違ってるなんて耐えられないもんな
>>15
うん
で?お前の答えは?
結局「何なの?」という質問には誰も答えられないwwwwwwwwwwww
いただきます、は仏教由来の文化だから
あれは作ってもらったことに対する感謝ではなく
食事をさせてもらえる環境に対しての感謝だから相手がいなくても言うもんだよ
>>19
口に出すの?音に乗せて伝える相手は何者?
>>21
相手がいなくたって経を唱えるのが仏教でしょ
自問自答や神仏に対して言葉に想いを載せる文化思想だよ
>>25
伝えることが目的なわけじゃなくて
自己満足で口に出してるってことだよね?
うるさいし気持ち悪くて迷惑なんで辞めてもらっていいですか?
>>27
それは俺に言うな
何なの?に対して文化思想的な行動だっていう説明をしているだけだ
文句は目の前でいただきますって言う奴に言え
>>29
お前が口に出さない人ならすまんかった
>>31
俺は馳走になったときぐらいにしか言わんな
言霊というものに意味を感じるのは日本の歴史的な文化思想だから戦うべきは神道仏教、および幼児教育だろうな
>>39
あー
金出してくれてありがとう
の意味で言うのは良いと思う
何なの?と言われてもなんと言えばいいのよ
>>20
どういう心境で「いただきます」と言っているのか
お前の想いを文字に乗せて俺に伝えろ
>>23
想いとか無い
慣れ
>>26
なんだこいつ
意味もないけど同じルーティン繰り返すって
強迫性障害とか発達障害じゃないの
個人的には、『いただきます』よりも『ごちそうさまです』
を、取り上げたいのです
>>22
同じ
自分の耳潰したらついでに目も
動物さんや植物さんに対して言ってるんじゃない?
あなたの命をいただきますって
>>32
それは分かるが、心で思えばいいじゃん
知らんやつの祈りなんて聞きたくないんだが
一緒に飯いかないか?
お前がいただきますに切れ散らかす様が見てみたい
>>34
お、いただきますマンが現れたぞ!!
>>35
うわ!怒ってるwwwwwwwwwwww
あのさ、『ごちそうさま』の意味のが深いからね
いただぎますとか、クソ薄っぺらいからね
心の中で祈ることも良いことだと思うし、料理作ってくれた人に対する感謝としてのいただきますも素晴らしい伝え方だとと思うよ
いただきますいただきますいただきます
ねぇねぇ怒った?怒った?どんな気持ち?
>>40
ほれほれ召し上がれ
片親パンとかいう謎の言葉好きそう
なんの考えなくただのルーティンとしていただきますを言ってる人多いのでは
>>49
そのただのルーティンでスレ立てるほど憤ってるなら本人に言えw
常に他人への心からの感謝をルーティーンにしてるんだよ
そういう心持ちの方が後々金銭的な得に繋がるから
子供の時は言わなかったけど今は言うようになったな
本当の意味で感謝するようになった
個人のポリシーだから好きにすればいいけど育ちがどうとか言い出すのはやめろと思う
第三章 ライフ・ステージ
ライフ・ステージとは、「人生の各段階」ということである。その目安は「卒業・就職・結婚・出産・退職」である。つまり、下記のように分けることができる。
① 誕生から学校卒業まで。~親に依存して生きており、また、様々な成長の段階である。この段階において大事なのは、「自分の可能性と適性を発見すること」と、「望ましい人生のために、自らを作り上げること」である。
② 就職から結婚まで。~親から自立し、社会人としてデビュー、そして、新しい家庭を築く段階である。この期間が短い人間、つまり早婚の人間と、長い人間、つまり晩婚の人間がいる。
③ 結婚から子供の誕生まで。~この段階は短いのが普通であるが、男にとっては、結婚以上に重大な意味を持っている。というのは、子供に対する責任を考えれば、子供が生まれた夫婦は、よほどのことが無いかぎりは、別れてはいけないと私は思うからだ。もしも別れるなら、子供が生まれる前か、子供がまだ両親の離婚の意味を知らない幼い間にするべきだろう。物心ついた後の、両親の離婚は子供の心に深い傷を残すはずである。アメリカが離婚大国であることは、彼らが子供に対していかに無責任であるかを示すものである。
④ 退職まで。~この期間を一つの会社で過ごす人間は現代では稀だろう。だが、なるべくなら、同じ会社で長く勤めるほうがいい。というのは、仕事というのは、長く勤めることで技術が向上していくものであり、それに伴って給与も向上するからである。もちろん、現代のような不確実性の時代には、新たな発明によって、これまでの技能が不要になる危険性は常にある。だが、次から次へと転職していては、変化に満ちた体験はできても、安定した財産形成はできないだろう。
⑤ 退職後。~この段階である程度の財産形成ができていれば、退職後は人生の最高の段階となる。仕事の義務や責任、束縛は無く、好きなことが何でもやれるからである。この段階で「ある程度の資産、健康、良好な家族関係」の三つに恵まれていれば、後は「生活を楽しむ能力」の有無が幸福な老後を約束するだろう。ただし、この時期になると、たいていの人間は長い間の苦労で健康が損なわれていることが多いので、若い時期から健康に留意して、良き老年を過ごせるように準備しておくのが良い。
以上のどの段階でも常に大事なのは、何よりも精神の健康である。特に若い頃は精神が敏感だから、年齢のいった人間なら耐えきれることにも耐えきれず、自殺などすることが多い。後でも述べるつもりだが、人間が考えることの大半は妄想であり、自殺という解決手段は、確かにすべての問題に一気にけりをつける爽快感はあるが、自殺した後でもう一度人生をやり直すというわけにはいかないのだから、この解決策は最後の最後まで取っておくのが良い。