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インテリの教祖とその信者たち

「逝きし世の面影」というブログから。
吉本隆明信者が軒並みボロクソに論評されているのが面白い。私も、吉本隆明は「共同幻想」という使い勝手のいい社会学用語(?)を作った以外に思想家としての重要性がまったく理解できないので、この啖呵は気持ちがいい。マスコミに溢れる、「知らないものを知ったふりして担ぎあげる知識商売人」たちへの痛烈な批判である。
まあ、内田樹などは、「時々正しいことを言う」と言うより、9:1くらいで正しいことを言う知識人だと私は評価しているが、彼が吉本を持ち上げるのはただの信者としての無批判な礼拝だろうとは思う。

(以下引用)

吉本隆明教、あるいは吉本興業のサル回し劇場
2012年04月11日 | 社会

『吉本真理教』

怪しげた似非論理をもてあそんだ挙句に悲惨な内ゲバ殺人を引き起こした極左の暴力事件を全面肯定したり、
同じ論法で、オウム真理教の地下鉄サリン事件後に主犯の麻原彰晃を『現存する宗教修行者のなかで世界でも有数の人物』と親鸞になぞらえて天まで持ち上げたり、
小泉純一郎らの悪魔の碾き臼である新自由主義の『ニセ改革』を無批判に全面的に支持したり、
誰の眼にも『限界』が明らかな大量消費・大量廃棄の(今では悲惨な間違いが明らかなっている)アメリカ型『資本主義』を手放しで賞賛したり、
3・11の福島第一原発の爆発後には完全に崩壊した原発安全神話にしがみ付いて『反原発でサルになる』との呆れた妄言を吐いたり。
今年3月16日に死んだ吉本隆明は数々の場違いな迷惑言動で周り(ほぼ日本人の全員)から失笑と怒りを買っていた。
ところがである、世の中は広い。真っ当な社会人一般とは無関係に、普通の自分たち日本人が知らない裏の闇社会では事情がまったく違っていたから面白い。
一部全共闘崩れの有名人やマスコミからは『戦後思想界の巨人』と呼ばれ教祖として今での崇められているらしい。
生活や社会から遊離した頭だけの日本の知識人一般の『知の腐敗・衰退』の見本の様な話であり笑えないブラックジョークである。
『もののあわれ』や『かんながらの道』の国粋的な『国学』の延長線上にあって一時代を築いた、1945年の日本敗戦までの(積極的な戦争協力で理論崩壊した)日本浪漫派や京都学派の延長線上に新左翼のカリスマ(極左の教祖)吉本隆明は、孤独なピエロとして存在していた。
日本の知識人においては実生活と思想とは分離していて、西洋由来の『思想』『哲学』はしばしば頭の中だけのお題目的にしか理解されておらず、悲しいかな当人の血肉になっていない『付け焼き刃』。
論理的にも科学的にも理解出来ていないので、実生活が脅かされた時には簡単に捨て去っても何の問題も起こらない。(この場合の『転向』は、深刻な葛藤を生まず些細な出来事だった)
60~70年代の多くの新左翼活動家は不勉強で歴史に疎く半世紀前の日本浪漫派や京都学派の悪行をまったく知らなかったので、半世紀も周回遅れの吉本隆明に簡単に騙された。
吉本真理教は高尚な哲学思想の話ではなくて、社会性の全く無い引きこもり状態の痴呆に近い超高齢者が見え透いた同一手口の低級な詐欺に次々騙されるという、柳の下にドジョウが何匹もいた阿呆臭い笑い話である。
科学では、どれ程高邁な理路整然とした美しい理論であっても色々な科学的な批判・検証作業を経たもの以外は単なる『仮説』に過ぎない。
色々な仮説の中で、第三者による客観的な検証作業で『正しい』ことが証明されたものだけが『定説』(原理、原則、法則)となる。
吉本隆明の『思想』は、オウムや新自由主義や原発事故など数々の実践的な検証作業の結果、完全に『間違いである』(客観的事実とは違う)ことが証明されている。
ところがNHKを筆頭にして読売産経、朝日毎日などマスコミ各社は競って『戦後最大の思想家』などと歯の浮くような空疎な言葉で吉本隆明を持ち上げるから愉快である。
賞賛一色に塗りつぶされている大手マスコミでは、表立って吉本隆明の毒キノコ的な実像を伝えたものは一つも無い。
客観的な真実を読者に伝える気がないのだろうか。
今回の吉本劇場以上に、日本国のマスコミ全般の無責任で病的な側面を端的に表しているものは無い。
マスコミや知識人の精神の貧困と堕落腐敗は明らかなのです。
これは是非とも忘れない内に、日本のマスコミご用達の御粗末な似非知識人の『恥』の記録として残しておくべきであろう。

『内田樹の研究室』

何と言っても筆頭は時々正しいことも言うので護憲左派にも沢山の信奉者がいる内田樹神戸女学院大学名誉教授であろう。
この『時々正しい』なら、戦後民主主義を嘲笑する無茶苦茶なパフォーマンスのあの橋本徹でも行っている。
『雉も鳴かずば撃たれまいに』、マスコミで横並びで賞賛するばかりでなく自分の個人ブログでも飽きることなく呆れ果てた言動を繰り返す念の入れようである。
内田樹は哀れにも完璧に吉本真理教のマインドコントロール下にあるようだ。
『吉本隆明 on stage』(内田樹の研究室)では、
>高校1年のときに『自立の思想的拠点』を読んだ・・・
『応接間でまつことしばし、吉本隆明が登場した。
おもわず土下座。』
『それから4時間半ほど対談(というよりは吉本さんの独演会)。
吉本隆明はあたたかい、澄んだ眼をした人であった。
みつめられると、なんだか「ほっこり」してくる。
吉本さんの話のあいまに、どうでもいいような合いの手を入れただけで、私の方は呼んでいただいたほどの働きはできなかったけれど、まことに記念すべき一日であった。』
と完全に破壊的カルト宗教の教祖(グル)に対する信者の態度。
内容的には何もなし。
何処を探してもまったく吉本の『思想』の具体的な記述がない。
この態度は新聞などの記事でもまったく同じで『何も無し』なのですよ。
吉本に関して、あるのは歯の浮くようなお世辞や追従の類であるが、致し方ないでしょう。
一言でも吉本隆明の主張(思想)の具体例を書けば自動的に、即悪口にしかならないのですから、幾ら話芸の手品師内田樹としても最早手の施しようが無かったのです。
『私的昭和人論』(内田樹の研究室)では、
内田樹は自分が武道にのめりこんだ原因が、『この時期の転向者たちは、獄中で仏教書や日本の国体思想についての書物を読んで、その深遠さに一驚して、一夜にして天皇主義者になるという定型を歩んだ。』との、吉本隆明の『転向論』であったと種明かししているのですが、アホ臭いにも程がある。
獄中で左翼から国体思想(右翼)に一夜にして転向した人々(知識人)が敗戦以前にいたことは事実であるが、その数は日本全体から見れば数えるほどの少なさで、例外なのですよ。
単純系の科学原則は100%確実に例外なく現れるが、複雑系の学問である社会科学ではどんなに優れた原理・原則でも必ず少数の例外が生まれる。
獄中で簡単に右翼に転向した左翼知識人など、日本人全体の人数を考えれば、極少数の『例外』程度の些細な話なのです。
転向しなかった共産党員はもっと少ない例外中の例外。
左翼知識人の転向は『深遠な国体思想』に感動したからではなくて、単に『我が身かわいさ』から。それ以上でもそれ以下でもない『下世話な話』である。
主義や思想とは無関係。
これだけ事実を正反対に描く内田樹の恥知らずな態度は見上げたもので、自分で主張することが本当に真実なら、何故内田本人は『深遠な思想』である『右翼』にならなかったのか。
内田樹が武道を練習しただけで『右翼にならなかった』明確な事実は、自分自身では『深遠な国体思想』などとは少しも思っていない何よりの証拠である。
その場その場の口から出まかせの嘘八百にしても酷すぎる。
日本の右翼思想、国体思想の底の浅さは証明済みで『深遠』とは対極にあることは誰もが知っている。
社会科学では全体を見ずに少数の例外(敗戦までの極少数の左翼知識人の転向)をいくら論じても、社会全体は何時まで経っても判らない。
『転向』の定番とは1945年8月15日に、(内田樹言うところの)『深遠な国体思想』の間違いにすぐさま気が付き(捨て去り)、アメリカの持ち込んだ民主主義に日本人全員が乗り換えた(転向した)ことである。
しかし、日本人全体の『転向』については都合が悪いので吉本隆明にしろ内田樹にしろ、一言もいわずに黙っている。
67年前に横並びで日本人全員がみんな仲良く『転向した』のであるが、この転向理由には『孤立した』とか『獄中』何か、まったく無関係。この薄汚い嘘つきの馬鹿たれが。
>『この種の上昇型のインテリゲンチャが、見くびった日本的情況を(例えば天皇制を、家族制度を)、絶対に回避できない形で眼のまえにつきつけられたとき、何がおこるか。かつて離脱したと信じたその理に合わぬ現実が、いわば、本格的な思考の対象として一度も対決されなかったことに気付くのである。』<
『そう、思い出したよ。
私はこれを読んで、以後絶対に「日本的小情況」を見くびらないことを自戒のことばとしたのである。そうして、私はまず武道の稽古を始めたのである。』
と内田某は主張しているが詐欺的な言い分である。
戦中に、生活実感から遊離したインテリが獄中で何人か転向しても、国家や社会全体から見れば何の意味も持っていない。
67年前の敗戦時に、上は天皇から下は庶民全員、知識とは無関係に日本人全部が1日で転向した客観的な歴史的な『事実』を、わざと(意識的に)見落としているのです。
日本人全体の『転向』は、日本人なら『見落とし』する筈が絶対に無いのですから、吉本隆明や内田樹は自分勝手に日本の歴史を歪曲、改竄しているのです。
呆れ果てた話であるが内田樹は、『吉本隆明はビートルズと同じ。』と言っているが意味不明。
絶滅危惧種の一部の少数の新左翼以外に、誰も知らない都市伝説的な『戦後最大の思想家』吉本隆明と、世界の音楽界に影響を与えたビートルズが『同じ』とは。
ミソとクソとを混同されては甚だ迷惑。
ビートルズは世界中の若者世代で昔も今も皆が熱中したが、リアルな活動中は人気がなく解散してから売れ始めたとでも勘違いしているのだろうか。
知恵足らずのお馬鹿なネットウョも真っ青の明らかな歴史の捏造・改変である。

『狂言回しならぬ「猿回し」としての糸井重里』

60年台から70年台には社会性が皆無で論理的に無茶苦茶、一般社会を無視し内ゲバで沢山の死者まで出した極左の愚かで凶暴な暴力学生の全員が毒キノコの吉本に嵌っていた。
その後の最近の10年近くはコピーライター糸井重里が、吉本隆明の意味不明の『御言葉』を世間に広める熱心な伝道者(カルトの信者)の役割を担っいたと思っていた。
教祖の吉本隆明イエスと、弟子で新興宗教のキリスト教を立ち上げたパウロ糸井重里の関係ですね。
ところがNHKの3月に放送されたETV特集『吉本隆明 語る ~沈黙から芸術まで~』を見るとこの解釈は間違いで、哀れな吉本隆明自身はいたずらに老醜を晒しているだけである。
吉本本人は次女の吉本ばななが言ったように最早世間に出せる状態ではなくなっていた。
実はNHKのETV特集での吉本隆明は筋道だって喋ることが出来ず、放送では何も内容のある論理的な話は少しも語っていない。
教祖と伝道者の関係ではなくて、真実は吉本隆明というサルを上手に操る『猿回し』の役が糸井重里だったのですから大笑い。
コピーライター(コマーシャル)の大事な役目とは、他とまったく『同じもの』を、さも飛び抜けて優れている『たった一つのもの』と大衆を騙す宣伝・広報活動なのですが、その意味では元新左翼の糸井重里は何時まで経ってもインチキ臭いコピーライターの仕事(御粗末なプロパガンダ)を飽きることなく一貫して行っているのでしょう。

『呪縛を卒業したらしい宮台真司と呉智英、吉本真理教と決別出来ない橋爪大三郎』

世間から落ちこぼれ他人迷惑な非行に走った愚かな子供達の唯一の希望とは、自分が大人に成ったら少しは賢くなり普通のまともな人間に成長することなのです。
ところが、『三つ子の魂、百まで』で、若い時に道を踏み外し世間に笑われるような阿呆なことをしたり、危険な破壊的カルトに嵌ると幾ら勉強しようが歳をとろうが簡単には抜け出せず、努力しても修正が効かない。
『若いときの馬鹿は歳をとっても矢張り馬鹿』という何とも恐ろしい、夢も希望も無い話が東京工業大学大学の橋爪大三郎である。
哀れにも無様な妄言を繰り返すグルの吉本教祖が偉大な思想家に見えるのです。
それとも橋爪大三郎の場合は、薬物中毒者や心的外傷後ストレス障害(PTSD)患者などと同じで何かの弾みに遠い昔に決別して忘れていた筈の、自分の過去の忌まわしい病状が再発して仕舞ったのか。
突然起きる深刻なフラッシュバック現象なのか、それとも先祖返りなのか知らないが、当人にはありもしない幻覚や幻聴が生々しく蘇るのですから恐ろしい。
見えないものが見えるが、逆に目の前の誰にでも見えるはずの普通の現実が当人にはまったく見えていない。
これは、簡単には精神的呪縛や影響から決別出来ないという、破壊的カルト宗教のマインドコントロールの恐ろしさを証明しているのでしょうか。
未だに吉本教祖から自由になれない橋爪大三郎とは対照的なのが、マインドコントロールを脱したらしい宮台真司である。
宮台は高偏差値のオウム信者と同じで、相変わらず昔のように教祖(グル)を完全には否定しきれずいるのですが、今では毒キノコとしての吉本隆明の本当の醜い正体を一定限度見抜いている。
呉智英の場合、
『私は吉本に影響を受けていない。むしろ懐疑的であった。』と言いながら、『四十数年前、大学生だった私は(吉本の)この言葉を理解するのに一週間ほどかかった。』とか、
『戦後の思想家でベスト3とかベスト5を選べと言われたら、客観評価として私は吉本隆明を入れるだろう。』とも評価するのですから、話の辻褄が合わない。
『吉本の「大衆の原像」が完全に破綻したのはオウム事件の時だった。「麻原彰晃を高く評価する」という珍論を発表し、大衆を唖然とさせた。吉本の「大衆の原像」は「大衆の幻像」だったのである。この頃から、吉本の本は学生たちにも(もちろん大衆にも)全く売れなくなった。ただ、全共闘時代に吉本愛読者だった言論人だけが、吉本の新刊を褒めちぎった。
ああ、吉本隆明はこの人たちの「共同幻想」なんだなと、私は妙に納得した。』とあるので、昔には嵌り込んでいたが今ではマインドコントロールを脱した宮台と同じ立場なのだろう。

『その他のお粗末ヨイショ』

日本の特権階級の傲慢さ破廉恥さの代表、石原慎太郎の場合、
『ひとつの世代の象徴的な存在だった。権威ってものに反抗、対抗するオピニオンリーダーだと思う。なかなか彼を継ぐような論客ってのは現れてこないね。体制、反体制にしろ、ろくな評論家がいないわな。日本には。』 『1つの世代の象徴的な存在だった。残念です。』
この日本の恥部で危険な毒キノコ的人物は汚物の様な吉本隆明を自分の同類項と見ていたのでしょう。
事実福島第一原発の事故後にも原発推進に狂奔する産経新聞や石原慎太郎と意見が完全に一致。寸分の違いが無い。
吉本が口汚く罵ったのは共産党や護憲派など左翼である。
現実問題に対する吉本隆明は、左翼的権威に対する『反抗』と共に、その正反対の無制限の現状肯定・現状賞賛に終始して、対米従属の右翼反動と同一の態度だったのです。
保守を自認する石原慎太郎にとっては吉本隆明と同じで、論理的な『権威』とは右側には無く、左翼陣営にあると認めているのだろうか。
オウムを高く評価して阿呆を晒した中沢新一の場合、
いかなる政党にも所属しない環境保護の緑の党を立ち上げると称して妄動しているのですが、極左のアイドル吉本隆明との思想的な近さと荒唐無稽なカルト臭は隠しようが無い。長年吉本隆明と二人三脚でお互いをヨイショしてきた中沢新一は見苦しい限り。
毎日新聞は『吉本隆明さんを悼む』なる連載記事?の特集を組み北海道大学の中島岳志や詩人の北川透、フランス文学の松浦寿輝や田中和生が歯の浮くような現実世界とは完全に遊離した軽薄なヨイショ記事を書いているが相手が小物なのと主張内容が余りに馬鹿馬鹿しいのでパス。
カシコと論争してもなかなか賢くならないが『朱に交われば赤くなる』の諺のとおりで吉本真理教のような馬鹿を論じると間違いなく自分もアホになるので止めたほうがよい。
ただ、全てのマスコミ(日本では一番権威があるはずの大新聞)が例外なく思考停止状態に陥り『戦後の最大の思想家』との意味不明の金太郎飴のヨイショ記事を書いていることには大いに興味がある。

『何故か金太郎飴状態のマスメディアの怪』

今新聞社で記事を書いているのが元全共闘シンパで昔に吉本隆明を読んでいたのでノスタルジーを感じるのだろうか。
吉本を『批判する』ことはネタが幾らでもあるので誰にでも簡単に出来るのだが、今のマスコミの様に『褒める』となると至難の業なのですよ。
何しろ著作は膨大だが、これは幸福の科学の大川隆法と同じで信者以外の一般人はちんぷんかんぷん。
もちろん信者でも正しく理解出来るものは誰一人無いという不思議な代物である。
非論理的な思想云々の前に、吉本隆明の場合に特徴的なのは日本語としてちんぷんかんぷんであることでしょう。
外国語に正しく訳しようが無いのですね。
外国の著名人との対話もあるが、相手には吉本語が理解出来ないので全く会話にならないのです。
これは実は日本人の吉本信者も事情がまったく同じである。
『吉本さんの文体は凄い』とか『異様な説得力』とか『圧倒的な情動のうねり』があると褒めるのですが、同時に信者の目にも『時として混乱』し、『論理的でない』し、『合理主義とは程遠い』等と、まともな思想家とは異質であることを知っている。
それで仕方なく『吉本さんは詩人であった。』と、中身が無い事実を言いつくろう。
吉本隆明の場合、論理の組み立てが『支離滅裂』であるのに、話の筋道には無頓着で『無茶苦茶』、あわせて小難しい言葉を無闇に使いたがる悪癖がある。
しかも日本語としての『て・に・を・は』までが不正確で間違っており意味を為していない。
吉本隆明の『思想』の中身とは無制限の『現状肯定』以外には何も無く、『空疎』な単なる『言葉遊び』程度である事実は誰の眼にも明らかなので、あえて『詩人』とでも説明しないと解釈のしようがないのです。

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「この世界の片隅に」

良書の紹介。

こうの史代「この世界の片隅に」(双葉社 前後篇あり)


こうの史代は『夕凪の町 桜の国』が有名だが、そっちよりも私はこちらの方が大傑作だと思う。何より、戦争の時代の庶民の生活、生き方をユーモア混じりに描く、その描き方が素晴らしい。しかも、全体のリズムやトーンが見事に一定し、最後と最初が照応しているという、雑誌連載作品とは思えない完成度である。作者の絵も、『夕凪の町 桜の国』よりもはるかに表現力が豊かになっていると思う。まあ、こちらが後の作品だと思ってそう言うのだが。
日本漫画史上に残る傑作の一つといずれ評価されるだろう。

一見お遊び風の部分が時々出てくるが、それが何とも味わい深いのである。
楠公飯の解説の中の楠公のセリフ「やれうまし。まぢうまし」は特にお気に入り。

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正義論

正義論

1 はじめに

 プラトンの『国家』の副題は確か「正義について」だったと思うが、その中の正義についての議論は明確な決着がついていなかったという記憶がある。ソクラテスが途中から「国家論」の方に話を変えてしまったのではなかったか。その中でソクラテスの論敵トラシュマコスの論は、「悪は本人に利益をもたらすのだから、(本人にとっては)善である」というようなものだったと記憶している。この論をソクラテスは結局否定できなかったはずだ。
 これから「正義」について考察する上で、『国家』を前車の轍とするならば、あの議論が紛糾し混乱したのは、「正義」を自明なものとしてしまい、きちんと定義づけなかったことから来たのだと思う。そこで、まず「正義」について定義する。

2 正義の定義

「正義」とは簡単に言えば「正しいこと」である。しかし、そう言うのは簡単だが、「正しさ」とは何かと言うと、もう少し話が複雑になる。
「正しさ」とは、
① 論理的に正しいこと。ある問題の正解。
② 道徳的に正しいこと。人間が他人との関係においてとるべき適切な行動。
③ 宗教的に正しいこと。神の掟(指図)に従うこと。
というような分析ができる。
それ以外の「正しさ」があるかもしれないが、今思いつくのはこれくらいだ。
 
 さて、物事を考察する便法として、「対立概念や類似概念を考える」という方法がある。そこで「正義」の対義語を考えれば、それはもちろん「悪」である。また正義の類似概念としては「善」が考えられるが、実は、善は悪の対義語にはなるが、必ずしも正義の同義語ではない。

「善」とは、
① 良いこと。一般的にすぐれていること。
② 利益であること。あるいは当人にとって好ましいこと。
③ 善良であること。道徳的にすぐれていること。
などの意味合いがあるが、これが「正義」とは必ずしも一致しないことはわかるだろう。

大胆な定義をすれば、「正義」とは行動基準(指針)であり、「善」とは評価基準であると言うこともできる。正義を行うことは当人にとっての不利益をもたらすことも多いのだから、「正義=善(当人にとって良いこと・利益であること)」とは限らないのである。逆にトラシュマコスの言うように「悪=善」ということが成り立つこともある。これは「悪行(悪因)→善果」ということなのだが、これを「悪=善」と言うと矛盾表現にも見える。


3 正義の判断

「善」を評価基準だと考えることにしよう。そして、「正義」の判断に「善」であるかないかを利用することにする。
「善でないこと」を「悪」とするのは、しばらく保留する。その前に、「悪」の定義から行おう。

「悪」とは
① 悪いこと。本人や周囲に害をもたらすこと。すなわち「害悪」
② 道徳的に悪いこと。ただし、その道徳が個人的道徳か社会的道徳かの問題がある。
③ 不快感を与えるもの。外面的なものと内面的なものがある。
上の③を「悪」の定義に入れるかどうかは、やや問題がある。「悪相」や「醜悪」のように、「悪」という字の用法としては③はありえるが、我々は通常「悪」という言葉に③の意味は含めていないだろうからである。しかし、今後の論の展開から③の意味も必要になるかもしれないので、そのまま置いておこう。
 上記の定義のうち、①はさらに細分化する必要がある。つまり、「本人に害をもたらすこと」と「周囲に害をもたらすこと」とはまったく別だからだ。だから、通常、不良青年やヤクザは周囲に害をもたらす行為によって本人は(主観的にでも)利益を得るのである。
 悪について考えるには、悪のもたらす利益と、本人と周囲(あるいは社会)との利害の対立について考える必要があるが、この問題は後に回そう。
 ②は、やや不明瞭に見えるかもしれない。①のような「害悪」は単に「不利益」なのだから、わかりやすい。しかし、「道徳的な悪」を考えるには、まずその「道徳」について検証しなければならない。「道徳の起源」「道徳の本質」「道徳の意義と効用」などの分析が必要だ。だが、これも後に回す。

 さて、「正義」の判断基準に「善」であるかどうかを入れるというのは適切か。つまり、「正しい行為」というのは、善であるかどうかで判断していいものなのか。いや、それより先にそれは誰にとっての正義であり、誰にとっての善なのか。
すなわち、「正義」や「善」は、全人類が共有でき、同意できるものなのか、それとも特定の集団内部でしか通用しないものなのか。
仮に後者であるならば、もはや哲学上の問題としては終わりであろう。私(我々)は私(我々)の正義を主張し、彼らは彼らの正義を主張する。そして力と力がぶつかりあって、勝った方の「正義」が生き残る。これが「勝てば官軍」という奴だ。そして現実世界の正義とはだいたいそんなものである。
しかし、哲学的な意味で我々が求める正義とはそのようなくだらないものではない。
全人類が同意し共有できる正義があるかないか。これがこの文章全体で扱う問題である。

4 所属集団にとっての正義と絶対的正義

 我々が考える正義とは、通常はその所属する文化によって規定された正義だろう。「嘘をつくな」「人を殺すな」「姦淫をするな」などの道徳律を守ることが正義であり、さらに、より積極的に周囲の人間にその道徳律を守らせるという行動が正義の行動となる。
 この場合その「正義」の正しさを保証するのはその集団の文化的伝統の総体である。その文化的伝統の中で「これは正しい行為である」と見なされた行為を行うのが正義なのである。たとえば「弱い者をいじめることは悪であり、弱い者を救うのは正義である」など。したがって、その集団の文化が変質した場合、その正義も変化することになる。たとえば前の命題とは逆に、スパルタにおいては弱いことそのものが悪であった。またたとえば「社会や他の集団に対しては悪事を行ってもいいが、仲間にだけは忠実である」というヤクザの正義が、現代の若者全体に広がっていることは、少年漫画を見れば一目瞭然である。もともと、少年漫画はストーリー展開上、他者との争闘が必須である。そして他者との争闘を合理化する理屈は、「自分の属する集団に対立する集団は敵であり、敵に対してはどのような悪も許される」という戦場の論理なのである。これはまた実質的に国家の論理でもある。
 さて、そうすると、ここで倫理学的に重大な問題が発生する。仮に、最初はある集団に属していた人間が、何かの事情で他の集団に移った場合、昨日までの味方は今日の敵となるわけだ。この場合でも正義そのものは変わっていないと見るべきだろうか。「昨日勤王明日は佐幕」と新納鶴千代みたいに生きることも正義にかなっているのだろうか。

 義(正しさ)とは何か、ということについて、墨子は「義とは利益であることだ」と定義している。この定義は簡潔であるが、浅薄にも見える。(ただし後述するが、これは実は浅薄ではない。)孟子はそれとは逆に「義と利をはっきりと弁別しなければならない」と言っている。しかし、では、孟子の考える義とは何か。それが分からないのである。

 とりあえず、最初に戻ってもう一度正義の定義を考えてみよう。正義とは正しさであり、正しさとは「① 論理的に正しい。 ② 道徳的に正しい。 ③ 宗教的に正しい」の三つがあった。この分類は、悪くはないと思う。
 言葉を変えれば、①は頭の中での正しさ、②は対人的・社会的な行為の正しさ、③は神の前での正しさである。この三つは合致することが多いとは思うが、常に合致するわけではないだろう。反社会的な教義を持つ新興宗教が社会から弾圧される例はよく見られることである。あるいは科学的な「真理」が反社会的な考えだとされた例も多い。いい例がガリレオ・ガリレイの「地動説」である。彼の説はキリスト教の教えに反するとして宗教裁判にかけられ、刑罰を恐れた彼は自説を撤回した。つまり、①と③は対立することがある。
 しかし、これらは皆、「宗教というものが根本的に誤っているのだ」とすれば問題は解消される。社会全体が宗教のエートスに染まっていた時代は迷信の支配する時代であっただけだ、という考えだ。そこで、とりあえず、③の「宗教的に正しい」については考察の対象から外して、①と②の関係について考えてみる。
 道徳的に正しいかどうかを考察する際に、その考察の仕方が論理的に誤っていないならば、世間のほとんどの人間が納得する客観性のある答えが出てくるだろう。つまり、①は②の正しさを保証しこそすれ、②と対立するものではない。問題は、言葉を使う側が「正しさ」をどちらの意味で使っているのか混乱させないことである。

 さて、ここでいよいよ本題に入る。
 「正義」とは、「道徳的に正しいこと」である、と定義しよう。では、何が道徳的に正しいことなのか。それを考える中で、「所属集団にとっての正義」と「絶対的正義」の違いも明確になってくるだろう。


5 道徳的な正しさとは何か

 道徳とは何か。「道」とは「人として歩むべき正しい道」であり、「道」とは「やり方」でもある。現実の道と同様に、人は道徳的に正しい道を正しい歩き方で歩く(正しいやり方で生きる)ことで正しい目的地へ行き着けるというわけだ。その正しい道の例が「嘘をつくな」「人を殺すな」「姦淫をするな」などの道徳律であるというのは前にも書いたが、個別的に見ればこれらの道徳律が実にあやふやなものであることは明白である。たとえば、我々は嘘をつかずには一日も暮らすことはできない。朝の挨拶から社交辞令、世間話に至るまで、その大半は嘘のオブラートにくるまれているはずだ。また、「人を殺すな」についても国家そのものが戦争時には殺人を命じるし、平常時にも死刑制度によって国家自体が人を殺している。「姦淫をするな」に至っては、「誰にも迷惑はかけていないのに売春(セックス)して何が悪いの」と主張する中高生の女の子が納得できるように説得できる大人は一人もいないだろう。
 では、道徳とは単なる「努力目標」なのか? 誰も守っていないが、守っているふりをするのが社会的儀礼だというだけのものなのか? あるいは国境を越えればそれぞれに異なる、ただの民族的風習にすぎないのか?

 いや、そうではないだろう。なぜなら、どの民族にも国家にもそれぞれに道徳があったということ自体、道徳が人間にとって必要なものであることを示しているからである。
 そこで、もう一度立ち戻って考えてみると、墨子の言う「義とは利益であることだ」という言葉は、見かけよりも深いものがある。つまり、道徳が存在することは社会全体にとっての利益であり、ひいては、それは個人の利益でもあるということなのだ。だが、道徳の規範自体は通常、「欲望の制限」であるから、個々の人間は道徳を自分にとって不利益であると考える。ここが道徳のパラドキシカルなところであり、道徳についての思考が紛糾する原因なのである。

 つまり、道徳とは「より大きい立場に立ってみた場合、個人にも社会にも大きな利益になるところの欲望制限の体系」なのである。そして、道徳とは「完全な実行が不可能に近いために、一般の人間には努力目標でしかありえない」という宿命がある。これも道徳が軽視される原因だ。つまり、法律とは異なり、「道徳を破ることの罰則」は無い。あくまで、道徳的な葛藤は個人の内面で起こるのである。「欲望をもって女を見るよりは、その目をえぐり出すほうがよい」などとキリストに言われても、自分の目を抉り出す者などおるまい。

 では、具体的現実的に考えて、道徳的に正しいこととは何だろうか。すなわち、その禁欲や規制が社会全体の利益であることとはどのようなことか。これはほとんど子供でもわかるような常識的行動になるはずだが、それを次章で考えてみよう。

6 我々はどう行動するべきか

 ロールズの「正義論」は、現代の古典的書物のようだが、学校教科書に紹介されているその趣旨は、次のようなものだ。
 「正義とは公正のことであり、自由と公平を実現することが正義である。それには以下の三つの原理がある。①平等な自由の原理:誰もが自由を保障されること。②機会均等の原理:社会参加や競争に関して機会が均等に保証されること。③格差の原理:社会的に不利な立場の人々には一定の配慮がなされること。」

 では、「公正」とは何か。「公」とは「私」の反対であり、社会性を意味すると見てよいだろう。つまり、「公正」とは、「社会性と客観性のある正しさ」だ。これによって個人が自分の主観のみで正義を主張するという態度は否定される。
 正義とは公正のことである、というロールズの主張には私は異論は無い。しかし、それに続いて出てくる「自由と公平を実現することが正義である」という主張には賛成できない。そもそも「自由と公平」が両立できないことは自明のことだろう。もちろん、ここで「公平さを損なわない限りで、個々の自由をできるだけ実現すること」と言えば、まったく問題は無くなる。アメリカ人は自由という言葉が好きだから、こういう「修飾語(制限)付きの自由」はお気に召さないだろうが、自由は基本的に他人の自由と衝突するものなのだから、まずその点を明確にする必要がある。
 そもそも、正義の概念の中に「自由」という要素が必要かどうかも疑問である。正義とは当為としての道徳律、つまり、いやいやながらでもやらざるを得ない行為であり、自由とはむしろ対立するものではないか。仮に本当に「自由に」行動させるなら、ほとんどの人間は自己の欲望を優先し、正義などそっちのけで行動するだろう。ロールズが「自由」という語を使ったのは、アメリカ文化のパラダイムが原因の思考停止から生じた勇み足だろう。
 そこで、ロールズの論を少し改変すれば、「公平を実現することが正義である。」という非常にシンプルな原理になる。そして、そのような行動は「公正な行動」だということになる。つまり、私が自分の個人的な欲望を抑え、社会性と客観性のある判断に従うとき、その行動は公正な行動と見なされるということである。
 こんな当たり前のことを言うのに、ずいぶん長々と回り道をしてきたものだが、正義というあいまいな言葉を明確にするのは、そう簡単なことではないのである。
 ロールズには「無知のヴェール」という用語もある。それは、私の判断が公正かどうかを判定するには、「私」という存在やその利害を棚上げにして、客観的に判定することが必要だということである。つまり、問題の件に無関係な第三者として判断する、その判断こそが正義にかなった判断だということである。
 以上のロールズの論は、「自由」云々を除けば、まずまず妥当な考えだろう。しかし、ここまではまだ一般論でしかない。現実的な場面で、正義にかなった行為とはどんなものを言うのか。それは道徳的行為とは何かと言い換えられるだろう。道徳とは、結局、社会正義の体系なのだから。

6 道徳を単純化してみれば

 あらゆる道徳は、ただ一つの原則に集約できる。それは「他人に害を与えるな」ということである。「嘘をつくな」も「殺人をするな」も「姦淫をするな」も、それらが他人に何らかの害を与えるため、その規制として作られたのである。しかし、我々が生きるのは、自分の欲望を満足させるためでもある。欲望を満足させるには他者との衝突や闘争が避けられないこともある。したがって、他人への害悪があまりに大きい場合は「法律」によって処罰が規定され、社会全体の抑止力となるが、害悪が小さい場合は道徳によって内面的に規制される。かつて(具体的には宗教心が道徳の背後にあった時代)は通常の人間に対しては、道徳だけでも十分な抑止力だったのである。だが、現在では、道徳による社会秩序の維持はほとんど存在しない。我々が悪事を行わないのは、ただ法律があるからである。
 いずれにしても道徳の基本原則は非常に単純であり、ただ「他人に害を与えるな」ということだ。しかし、その実際への適用が難しい。そこで、「嘘をつくな」「殺人をするな」「姦淫をするな」などの個々の道徳律が生じてくるのだが、それでもまだ「どのような状況なら許され、どのような状況では許されないか」という問題、つまり、現実というアナログで不定形の存在に「言葉」というデジタルで不完全な物差しを当てはめるという困難な作業が必要になってくる。そして、その解決は基本的に、「担当者、あるいは当事者の恣意的判断による」しかないのである。これは道徳以上に厳密性を要求される法律でさえも基本的にはそうなのである。
すなわち、法廷で様々な議論が行われても、裁判での最終判断は裁判官の恣意(裁判官の主観による法解釈と事実解釈)で決まっているというのが現実だ。それが明らかになるのは、国家の悪行に対する裁判官の判断が、必ず政府有利にしか判断されないということによってである。すなわち、裁判官は政府に雇われている以上、政府に逆らう判決を下すのはほとんど不可能に近いのである。しかしながら、それは本当は法の否定であり、国家自身が自らを法治国家ではないと知らせるようなものだ。本当の法治国家ならば、政府が敗北する裁判がもっと頻繁にあってよい。
 道徳に話を戻そう。道徳的戒律の対象となる悪行にはどのようなものがあるか。それを一言で言えば、「他人に害を与えること」だ、というのは先に書いたとおりである。それには「肉体的に危害を加えること」「財産や所有物を侵害すること」「精神的に危害を加えること」の三つがある。意外にもこの三つしかないのである。つまり、「私の身体への危害」「私の精神への危害」「私に所属するものへの危害」の三つだけである。
 たとえば、他人を侮辱することは、武家社会においては、そのまま刀での切りあいに発展した。名誉を汚されたままで生きることはできない、とかつての武士たちは考えたのである。こうした名誉を重んずるという心性は、日本人だけのものではないが、日本の武士は極端なほどに名誉を重んじたということだ。しかし、良く考えてみると、他人の侮辱は、それを自分が侮辱だと考えた場合にのみ侮辱になるのではないだろうか。もちろん、それが公衆の面前で行われたら、自分がどう思おうが、名誉が汚されたということは事実となる。プーシキンの『その一発』の中で、ある男が、自分に加えられた侮辱に対し、決闘という手段を採らなかったことで、その男の心酔者がその男に失望するという記述があったが、侮辱に対する復讐というのは、名誉回復の正当な手段だと洋の東西を問わず認められていたのである。余談だが、個人的な復讐や決闘が禁じられて、国家が暴力の権利を独占してからは、名誉という観念も失われた気配がある。
 要するに、精神への危害は肉体への危害以上にかつては重大なものだったのだ。しかし、今や、精神への危害に対して復讐をしたならば、その人間は国家によって処罰されるだろう。精神への危害に対する報復ができなくなったことと、現代において正義の観念が希薄化してきたことには深い関係がありそうである。
 肉体への危害は、それとは逆に、過剰に保護を受けているように思われる。つまり、目に見えるものについては権利義務関係が細かく規定されるが、目に見えないものはその存在価値がどんどん薄れていっているようである。(これに似た例が、現代における神への信仰の希薄化だ。)
 所有物への危害に至っては、「民法」の大半がその規定ではないかと思われる。しかしもちろん、所有物への危害は法律の問題であると同時に道徳の問題でもある。「汝盗むなかれ」という戒律は法律でもあり道徳でもあるのだ。ここで所有物とは何かを論じてもいいが、話が煩雑になるので省略する。たとえば夫や妻はその妻や夫の所有物だろうか。奴隷ならば明らかに所有物になるが、家族は所有物ではあるまい。また土地を所有するとはどういうことか。本来は誰のものでもない土地に、なぜ所有権というものがあるのか。開墾し手を加えたことによって所有権が生じるなら、なぜ森林や山林や原野にも所有権があるのか。また、先祖の所有権がなぜ子孫の所有権として認められるのか。これらは無批判に受け継がれてきた伝統にしかすぎないのであり、誰も問題視しないから問題化されないだけのことである。だが、ここではこれ以上は論じない。
 以上のような「精神への危害」「身体への危害」「所有物への危害」が「他人に害を与えること」だというのは、まず了解されたことにしよう。
 では、なぜ他人に害を与えてはならないのか。
 数学には極限という考えがある。ここでそれを応用してみよう。「他人に害を与える」ことを極限化して考えてみるのである。それは『どらエモン』の「独裁者スィッチ」のようなものになる。相手に与える最大の害は、その存在の消去である。つまり、自分が嫌う相手をどんどん消去(デリート)していくのだ。すると、最後に残るのは自分だけか、あるいは自分の意に逆らうことはけっしてしない奴隷かロボットと自分だけだろう。後者も「真の意味でこの世に存在するのは自分だけ」という世界である。
 さて、このような世界にいるあなたは幸せな人間だろうか。まさにこれは極限の自由であり、世界中のすべての物はあなたの思いのままだ。だが、あなたはそれを他人に与えてはならない。なぜなら、今は他人に害を与えることの極限を考えているから、どのような善行もやってはならないのである。そうすると、あなたの幸せは、本当に幸せなのか、という疑問が出てくるだろう。あなた以外に「人間」が存在しない世界で贅沢の限りを尽くして、あなたはそれで幸せになれるのか。誰か、他人の存在が無いと、あなたの幸せは完全にはならないのではないだろうか。仮に誰かが存在しても、その相手が、あなたの意に逆らうことはまったくできないようにプログラムされた人間ならば、そういう相手は人間と呼べるだろうか。おそらく、余程精神の異常な人間(これは社会上位の人間にも実は多いのだが)でない限り、自分以外に「人間」がいない、そういう世界にいる自分を幸せだと感じることは難しいだろう。
 他人に害を与えてはならない、というのは、以上の思考実験から、他人に害を与えることで自分も不幸になるからだと言える。だが、それほど簡単なものか。

 悪とは破壊的行為であると定義できるだろう。特に人間関係を破壊する行為である。いや、悪事を行いながらけっこう周囲と友好関係を築いている例もある、と言われるかもしれない。もちろん、その人間が真の悪人なら、それは周囲を騙して良好な人間関係を偽装しているだけだ。それでもその人間が幸せである、ということもあるだろう。そして物事の真実を見抜いている人間が、そういう「幸せな悪人」を見た時に、「天道是か非か」と司馬遷の嘆きを嘆くのである。しかし、それはその悪人が「悪によって」得たものではない。悪によって得られるものは物質的財産だけであり、物質的財産がその価値によって他の人間を引きつけたならば、それは財産自体の持つ「善」つまり「利益性」の結果にすぎない。悪の結果が直接に善報になったわけではない。
 金には善も悪も無い。金を得る手段の一つに悪行もあるし、むしろ悪行こそが手っ取り早い財産獲得の手段だろう。そこで金と悪が結びつくのである。金が目的で悪行をするわけだ。世の犯罪の大半はそれである。
 こうした犯罪を抑止するのがかつては道徳であったが、現在は法律しか無い、とはずっと前に書いた。
 他人に害を与えたことで本人が不幸になるのは、神経が弱いからにすぎない、という考えもできる。マクベスが主君殺しをした罪の意識に悩んでいるとき、マクベス夫人は夫の小心さを嘲笑ったものである。しかし、そのマクベスは勇猛な武将であり、戦場では無数の敵兵を殺してきたはずである。だから彼の怯えは殺人のためではなく、主君殺しを彼が特別な罪だと考えたことの結果だと言える。つまり、罪の意識は社会的・文化的に形成される超自我だろう。ならば、罪の意識なしに悪行をするのはそう難しいことではないはずだ。社会全体がアモラル(無道徳)になれば、罪の意識というものも無くなるはずだ。それこそ、まさしく現代という時代の特徴ではないか?
 悪を為すことで本人が不幸になるのは罪の意識のせいだとすれば、罪の意識さえ無くせば悪を為すことへの障害は無くなることになる。実際、この世界にはそういう悪の訓練所はヤクザ組織から軍隊に至るまでたくさんある。軍隊の第一の役目は「人を殺すことが平気な人間を作ること」なのである。会社なども会社の利益のためなら悪事のできる人間を重宝するだろう。善人ほど役に立たないものもない。なぜなら、道徳とは「禁止の体系」だからである。道徳とはブレーキなのだ。しかし、ブレーキの無い車はどういう存在になるか。そう、破壊的存在そのものになるのである。

7 社会にとっての悪と当人にとっての悪

 前章の最後の考察から、道徳を必要としているのは個人ではなく、社会である、という結論を出すのは簡単だ。だが、私はその結論を採用したくない。私は、実は「悪はその当人をも幸福にしない。その当人にとっても不利益な選択である」という仮説を心の中に持ってこの論考を始めたのである。
 つまり、「悪は当人にとって利益をもたらすから善(良きもの)である」というトラシュマコスの説を打破するためにこの文章を書き始めたのだ。
 もちろん、社会に害悪を与えれば、それが跳ね返って本人にも害悪を与える、などという理屈も言えるが、それが屁理屈であることは誰でも分かる。この世では悪を為しながらそこから利益しか得ていない人間が無数にいるからである。「悪因→悪果」という連鎖は、ここでは途中で切れるのである。すなわち、悪が利益を生むという現実が確かにある。
 にもかかわらず、悪は当人にとっても悪(不利益)である、という結論は私の中では動かし難い。最初に結論ありき、かよ、と馬鹿にされるかもしれないが、私には悪の結果として「幸福」になっている人間が本当に幸福だとは思えないのである。それは別に良心の呵責に苦しめられるだろうから、という話ではない。本物の悪人には良心など無い以上、良心の呵責も存在しない。たとえば、「女子高生コンクリート詰め殺人事件」の犯人たちに良心の呵責というものがありえるだろうか。良心がかけらでもあれば、あのような残虐な行為はできないはずだ。いや、この世には良心などまったく無い人間も無数にいる。全人口の2~3%は、おそらくそうした人間である。つまり、学校ならば一クラスに一人は、生まれつきのヤクザ・殺人者だろう。
 では、そういう人間として生きることは幸せなことだろうか。良心が無い、ということは他の能力の欠如は別に意味しない。そういう人間が天才的なスポーツマンであることも、勉強の才能があることも、漫才の才能があることもあるわけだ。道徳のブレーキが無いということは、行動が自由であり、世間的権威をも恐れないから、案外格好良くさえもある。昔からドラマの世界では不良がもてはやされるのはそのためだ。
 しかし、私が悪人を見る時に思うのは、その精神の貧困さである。なぜ彼らはこれほどに貧困な精神しか無いのだろうか。悪を為し得るという心の回路には、他の人間を人間として尊重するという部分は無い。だからこそ悪を為し得るのである。他の人間は彼にとって道具か餌でしかない。そういう人間が作る人間関係が貧困なものにしかならないことは自明だろう。もちろん、幸福になるのに人間関係など不要だ、という人間もいるだろう。だが、人間関係を別としても、悪人の精神は私には汚らしいものに思える。いかに物質的に恵まれていようとも、彼らの精神と自分の精神を取り換えたいとはけっして思えない。それが、悪人として生きることは不幸だ、と私が言う理由だ。
 実在の人物を例に出して申し訳ないが、某東京都知事は文学的才能に恵まれ、金持ちの家に生まれ、生まれてから一度も経済的困難を味わったことはなく、政治家としては三流だったが都知事にまでなった男だ。だが、私は、彼になって生きるよりは都庁の傍で凍えているホームレスになったほうがいい。彼の得たあらゆる幸福も、彼のような精神で生きるという不幸の償いにはならないのである。この東京都知事はただの例である。彼はべつに「女子高生コンクリート詰め殺人事件」を犯したことはない。ただ、その精神は彼らと同一だと私には見えるということである。
 つまり、悪は社会にとって不利益をもたらすから悪なのではない。それなら当人にとって利益でさえあればいいわけだ。悪は、当人にとって悪なのである。それは、汚い心で生きることによって当人の人生そのものが汚染されるからである。
 汚い心とは何だ、という文句が聞こえそうだが、それは人間の理想や善なるものに対する不感症のことだ。悪人は、そういう理想や善への感性が無いからこそ悪を為し得るのである。通常、そういう理想や善が心に存在することで他人への愛情も可能になる。他人の体だけを所有すればいいという人間関係ではなく、相手のために自分が犠牲になってもいいという真の愛情は悪人には不可能なのである。
 結論的に言えば、倫理とは実は美感なのである。なぜ我々は利己的行為を嫌悪するか。それは、その行為によって自分が害を受けるからではない。それが汚い行為だからだ。他の悪行も同様である。それらは他者への害の有無以前に、汚いという感覚を我々に与える。その起源がどこにあるのか、これもまた文化による超自我にすぎないのか、今は論じる気は無い。
 抽象的な悪ではなく、現実の悪人を想像してみて、あなたは彼あるいは彼女になりたいか、と自分に聞いてみたらいい。なりたくない、という心の声が聞こえたら、それはなぜか考えてみる。すると、悪人の精神を汚いと感じる心がそこにあるはずである。もしも、なりたい、という心の声が聞こえたら、あなたはすでに立派な悪人である可能性が高い。

ニーチェは『善悪の彼岸』の中で犯罪を称揚している。犯罪を為すことは精神の偉大さを表すと言わんばかりである。確かに、孤立無援の状態で犯罪を為すことには、ある種の勇気が要る。勇気や男らしさを最大の価値と見做す男根主義者(障子を破るくらい、オレのは固いゾ、というわけだ。まあ、小説でならどうとでも書ける。)なら、犯罪もまた勇気の証明だということになるだろう。映画やテレビドラマが犯罪者をヒーローとして描くのも同様の思想が底にある。しかし、世の犯罪の大半は弱者いじめと詐欺的行為にすぎない。権力を持った強大な敵にアウトローとして立ち向かうヒーローなど現実にはほとんど存在しない。権力に立ち向かう人間は遵法的に戦って、当然ながらみじめに敗北するのである。
つまり、悪を為すのはただ卑しい心性の証でしかないというのが現実だ。勇気や男らしさは、弱い存在を守ってこそ価値があるのであり、弱者をいじめ、自分のエゴを満たすだけの「勇気」や「男らしさ」に何の価値があるのか。もちろん、当人にとっては欲しい物を手に入れるのだから、価値があるだろう。しかし、周囲の人間にとっては、そういう存在は唾棄すべきものなのである。
悪人とは、いわば人間社会にまぎれこんだ野獣なのである。法律や道徳という社会のルールを無視することで彼らは自分の望むものを手に入れる。野獣とは言っても、東大や一橋を出た人間もその中にはたくさんいる。だが、精神が「人間」ではないから野獣だと私は言っているのである。当然だが、この場合「野獣」は褒め言葉ではない。力こそすべてという人間の場合、野獣という呼称を褒め言葉と思うから始末が悪い。
 
悪人のほうがこの社会では成功する可能性が高いということを説明しよう。単純に数学的な話だ。善人は「できないこと」が無数にある。彼は善に反することはできない。ルールに反することはできない。だが、悪人はすべてが可能である。最終的な目的のために必要なら善行だってできる。つまり、偽善も可能だ。ルールも彼には存在していない。
ならば、この世界では悪人こそが成功するというのは自明の理ではないか。あらゆる悪を拒否して生きれば、まあ、妻子にさえ愛想を尽かされるのがオチだろう。品性高潔な騎士ドン・キホーテはあらゆる人間に嘲笑されつつ絶望のうちに死んで行き、「現代のキリスト」ムイシュキンは「白痴」扱いされた。その一方、「神も悪魔も男も女も信じない」男、ド・マルセーは総理大臣にまでなるのである。世界文学の名作には、世の真実があふれている。


8 世に悪人の種は尽きまじ

「石川や 浜の真砂は尽くるとも 世に盗人の種は尽きまじ」とは石川五右衛門の辞世の歌だと言う。もちろんフィクションだが、この歌は世の真実を語っている。盗人を悪人と詠み変えたら、もっといい。
なぜ悪人の種が尽きないのか、と言えば、それは悪を為すことが当人にとって利益である、と一般には思われているからだ。
縁なき衆生は救いがたしと言うが、悪人は以上のような私の論考を笑い飛ばすだろう。悪が利益であることなど当然すぎることで、そういう自分の精神が貧困だとか醜いとか言われても、俺は一向に痛痒は感じないね、というわけである。俺は豪華な大邸宅で一本何十万円のワインを飲み、お前は暖房も無いような四畳半で凍えながら、力のある連中を内心では羨みながらぶつぶつ文句を言っているだけさ、というわけだ。
そして世の大半の人間も、金と権力のある人間と無名の貧乏人の発言を比べたら、当然前者に軍配を上げるだろう。これは「東大にも入れない人間の東大批判など聞く価値はない」という論法に似ている。だが、悪を為した後で悪を批判するということはできないのである。バルザックの小説に出てくる哲学的悪党のヴォートランは「美徳は切り売りできないんだぜ」と言っている。今日は悪行を為し、明日は善行を為すというわけにはいかないのである。
というわけで、善と悪が戦えば、確実に悪が勝つ上に、世間的評価も悪人の側に上がるという、情けない戦いがこの世界での善と悪の闘争なのである。
それでもなおかつ善を選ぶというのは容易ではないが、勝ち目の無い戦いだからやらないというのは算盤勘定を優先させすぎた考え方だろう。人生の価値は何も1本何十万円のワインや一晩何百万円の美女だけにあるわけではない。
『吾輩は猫である』の中の苦沙弥先生と金満家の金田氏との精神的闘争も、いわば拝金主義者の醜さへの夏目漱石の嫌悪感の現れであるが、現代の悪は拝金主義と、金を得るための闘争の中にある。もちろん、性犯罪者などもたくさんいるが、それらはすべて「自分の利益のためには他人に害を与えてもいい」という心性から来ている。
その心性は、元を尋ねれば、自分の動物的欲望を満たすことが何よりも大事だという考え方から来ているのだが、若い頃ならともかく、20歳を超えた人間がまだそう思っているなら、それは頭の中身が動物レベルであるということだ。人間の中の野獣なのである。それでいながら社会的地位も名声もあるという人間が無数にいるわけである。名声などというのは地位に付属するものであり、地位は人格とは無関係に得られるものだから、これはべつに奇妙でも何でもない。東京電力の社長や会長なども、原発事故が無ければ最後まで地位も名声もある人物で通せたはずなのである。

9 それでも悪にノーと言おう

私はこの論考で「善は利益であり、悪は不利益である」ということを言うつもりであるのに、善が割に合わないことを長々と書いてきた。
「それでも人生にイエスと言う」というのはフランクルの書物の題名だが、それに倣って、
「それでも悪にノーと言おう」というのがこの文章の結論だ。
なぜか? それは悪が薄らみっともない行為だからである。悪を為す時の自分の顔を鏡で見ればいい。それがいかに卑しい顔か、自分でわかるだろう。
ただその一点だけで私は、仮に龍之介の『杜子春』のように人生の選択を迫られたならば、東京都知事の豪華な生活よりもホームレスの暮らしを選ぶべきだと言っているのである。
馬鹿馬鹿しいって? まあ、そういう人間は『シラノ・ド・ベルジュラック』のシラノの行為も馬鹿馬鹿しいの一言で終わりだろう。あのシラノの行為は、東京都知事を何億人積み重ねても足元にも寄れない気高さがあるのである。人間としてこの世に生まれたのは、人間として生きるためであり、野獣や昆虫のように本能的欲望を満たすためだけではない。人類が美という概念を考えだしたことはまさしく奇蹟であり、行動の美というものが、この世には確かにあるのだ。それが善である。
正義とは、最終的には自分自身が正しいと見なす行為であるが、それはまた、自分自身をより高い次元から見て、自分や周囲全体によい結果をもたらす行為のことである。
それは時には人間の常識的限界を超える。だから、自己犠牲というものがあれほど崇高な美的感銘を与えるのであり、我々がそれに感動できるところに、美とは空虚な概念などではなく、生きる意味につながるものであることが示されているのである。

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夕凪の時代に生きる

今日は漫画の話である。
「ヨコハマ買い出し紀行」という漫画がある。(最初、「横浜買い出し紀行」かと思ってそう書いたが、念のために調べてみると、「ヨコハマ」だった。これが漢字の「横浜」でないのはおそらく、意味がある。)作者は芦奈野ひとし、アフタヌーンKCから出ている。もちろん、週刊誌「アフタヌーン」でずっと前に掲載されたものだ。
で、この漫画は3・11のずっと前に書かれた作品だが、3.11以降の日本を予見していたような作品である。作中の世界は、近未来の日本で、横浜に近い関東西部のどこかである。その世界では、日本の海岸線の大部分は海に沈み、人々は残った場所で静かに暮らしている。つまり、日本の静かな滅亡を受け入れながら日々を生きているのである。
それを作者はこのように言っている。

「お祭りのようだった世の中がゆっくりとおちついてきたあのころ。
のちに夕凪の時代と呼ばれるてろてろの時間」と。

「夕凪の時代」……現実の日本の今は、やがてそう呼ばれるかもしれない。その時代には、人々は争いをやめ、我欲を捨て、身近な物事や小さな自然の変化にしみじみと感じ入りながら生きていたと。

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ある短歌の分析

   ある短歌の分析

 寺山修司の有名な短歌

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

は、おそらく誰にでも深い感銘を与える歌だろうが、その理由は何か、分析してみよう。

 まず、この歌の特徴として、上の句と下の句の断絶がある。連歌の付け合いのようでもある。これは、句点を打ってみるとはっきりする。
「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし。身捨つるほどの祖国はありや」
 つまり、上の句は情景描写、下の句は心内語である。そして、この両者の間には、結びつく必然性はない。なさそうに見える。(このあたり、田中芳樹風)
 だが、この上の句と下の句との照応が、この歌の生命だ、と私には思える。
 細かく見てみよう。
 まず「マッチ擦る」で、我々はそこにすでにある種のはかなさを感じる。マッチの火の生命がわずかなものであることは、誰でも知っている。そして、そのはかなさは同時に我々の生命そのものの、もしくは青春のはかなさを連想させる。
 その印象が誤りでないことは、ただちに次の「つかのま」の語で確証を与えられる。
 この「つかのま」の語は、一見冗語に見えるが、実は、我々をこの歌の世界に取り込む大きな働きをしているのである。
 そして、次の「海に霧ふかし」で、我々の心には、ある情景が浮かんでくる。
 霧に包まれた港で、トレンチコートか何かを着た男が、マッチで煙草に火をつける。その一瞬、霧の中に男の顔が浮かんで、すぐにまた白い霧に包まれる。沖合いで船の鳴らす霧笛がボーッと聞こえる。
「霧笛が俺を呼んでいるぜ」とでも言いたくなるような、日活映画的情景である。
 しかし、ある意味陳腐なこの情景が、次のフレーズで異常な様相を帯びる。
「身捨つるほどの祖国はありや?」
 祖国のために身を捨てようかどうかと迷う、この男は何者なのか。作者本人か?
 それが作者本人であれ、フィクションの人物であれ、この自問はこの情景に深い奥行きを与える。なにしろ、国家論である。政治論である。日活映画的安芝居ではない。少なくとも、アンジェイ・ワイダの「灰とダイヤモンド」のような政治とテロとニヒリズムと残酷の詩情に溢れたドラマを我々は想像してしまう。
 というような、上の句と下の句のドラマチックな対比による効果が、この短歌の魅力の理由だと、私は考えるのである。皆さんの意見はどうだろうか。

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著作権切れ映画鑑賞会2

今日は21番から30番を書く。
27番までが例の80作セットに含まれた作品である。28番以降は、追加発注した物で、その中には私の眷恋の作品であった「魔法の剣」もある。それ一つのために「80作セット」と大部分が重複しているにも関わらず、1600円で10枚セットを買ったのである。


21 「ジャンヌ・ダーク」:監ヴィクター・フレミング 主イングリッド・バーグマン(2点) 評:2点は映像の美しさとセット、小道具係の労苦に対してである。ドラマとしては最低。バーグマン自身がこの役をやりたくてたまらなかったという話だが、この映画の出来を見たら、出なければ良かったと思っただろう。こういう大作映画が愚作になるのはよくあることである。監督が無能であったりセンスがなかったりするのは、スポンサーや映画ファンへの犯罪である。そういう監督が邦画の場合は半分以上なのだが、それで映画を撮らしてもらえるのは不思議である。余談だが、ジャンヌ・ダークが法廷(魔女裁判)で必ずしも自分の信念を貫いたわけでなく、自分の過去の行為を否定したというのは、おそらく史実だろう。これも映画のストーリーとはあまり関係ないが、「青鬚」のモデル、ジル・ドレーも出てきて、おっと思った。
22 「キング・コング」:監メリアン・C・クーパー&アーネスト・B・シュードサック 主フェイ・レイ、それともキング・コング?(6点) 評:歴史的価値から言えば、もちろんもっと高い点をつけるべきだが、ドラマとしての弱さは否めない。特撮は案外といい。もちろん、リアリティという点では新しい方のリメイク版にはかなわないが、映画のワクワク感は、実は稚拙な特撮の方が大きいのである。
23 「海賊キッド」監ローランド・V・リー 主チャールズ・ロートン(6点) 評:全体の3分の2までは素晴らしい出来だが、途中から話がいい加減な感じで収束するのが残念。チャールズ・ロートンは、イギリスの志村喬といったところである。悪役をすることが多い。「戦艦バウンテイ号」での船長役も悪役であったが、ここでも悪役。映画が途中からグズグズになったのは、主役(こういうのは主役と言うのか疑問だが、要するに二枚目とヒロインだ)の美男美女二人を無理にハッピーエンドに持っていこうとしたためだろう。主役は死なない、という鉄則を守るのはいいが、合理的説明を怠ると、ドラマは台無しになる。
24 「鉄仮面」監アラン・ドワン 主ダグラス・フェアバンクス(7点) 評:ダグラス・フェアバンクスの敏捷な剣戟を楽しむ映画である。次に書く「三銃士」は明らかにこの映画から多くのヒントを得ているようだが、映画としての品格、レベルはこちらがはるかに上である。最後の場面は、いかにもありがちなエンデイングだが、思わず涙が出てきてしまった。
25 「三銃士」監ジョージ・シドニー 主ジーン・ケリー(3点) 評:ジーン・ケリーによる、ジーン・ケリーだけのための映画である。当然、映画としての出来は最低レベル。ジーン・ケリーは映画というものを、自分を売り込むための媒体としか考えていない。それにある程度のブレーキがかかった「雨に唄えば」は大傑作だが、それでも彼の「ナルシスト・ダンス」にはビング・クロスビーの優雅さのかけらもない。ただの体操である。
26 「イワン雷帝」監エイゼンシュタイン主ニコライ・チェルカーソフ(4点) 評:歴史的名監督として名高いエイゼンシュタインの映画であるので大いに期待して見たが、まったくの当て外れ。キューブリックが「エイゼンシュタインはスタイルは満点だが内容はゼロ。チャップリンは内容は満点だがスタイルはゼロ」と言っていた言葉の正しさを実証する作品であった。登場人物の顔だけはすごい。まるで歌舞伎の大見得みたいな演技をするが、確かにある種の迫力と風情はある。それがつまり「スタイル」だろう。
27 「ジュリアス・シーザー」監スチュアート・バージ 主チャールトン・ヘストン(4点) 評:退屈な映画だが、誠実に作っている。おそらく原作であるシェークスピアの戯曲にかなり忠実に作ったのだろう。私は原作は読んでいない。I・モンタネッリの「ローマの歴史」に書いてあるシーザー暗殺の部分も映画の内容に近い。ヘストンの性格づけが今一つはっきりしないので、映画を見る快感はかなり弱い。つまり、感情移入できるキャラがいないのである。ヘストンは、最初は善人風だが、後半は権謀術数を巡らす小悪党になる。つまり、あまり魅力の無い人物である。映画としては面白くないが、勉強にはなる。
28 「魔法の剣」監バート・I・ゴードン 主ベイジル・ラスボーン(9点) 評:この評点はかなり主観的である。子供のころ、劇場でこの映画を見て、すっかり参ってしまった映画なので、そういう「思い出補正」のかかった点数だ。しかし、客観的に見ても8点はある作品だ。つまり、子供向け娯楽映画としては完璧である。まあ宮崎アニメなど、近年のアニメ映画の完成度や芸術性に比べれば落ちるだろうが、「男の子」限定ならこちらのほうがワクワクするだろう。特撮面では、最初の戦いに出てくる巨人がハリボテ見え見えなのが残念だが、その後の特撮は素晴らしい。特に、魔法で熱死する騎士の姿は、悪夢的で素晴らしい。私の書いた少年小説は、この「魔法の剣」のイメージが原点になっている。ついでながら、どこかで私は「2001年宇宙の旅」のキア・デュリアがこの「魔法の剣」の主演俳優だと書いたが、それは間違いであった。ボウマン船長の同僚宇宙飛行士役の俳優が、脇役で出ている、というのが正解のようである。多分アイルランド人の騎士の役だろう。また、お姫様が魔法使いの手の中で、小鳥から小さな人間の姿に戻るシーンがあったと記憶しているのだが、それは見当たらない。私が妄想で作ったシーンなのだろうか?ついでながら、お姫様役の女優はあまり可愛くない。まあ、子供にとってはお姫様などどうでもいいのである。お姫様など、冒険の景品でしかない。
29 「猛進ロイド」 監督 ? 主演ハロルド・ロイド(9点) 評:喜劇映画として驚くほど完成度の高い映画である。チャップリンの「ライムライト」や「独裁者」などは確かに傑作だが、「純粋喜劇」ではない。「純粋喜劇」としてはこちらに軍配が上がると思う。原題は「女性恐怖症」とでもいった題名だが、それがなぜ「猛進ロイド」というタイトルになったかというと、ラスト30分は、猛烈なアクションシーンの連続になるからである。おそらく映画史上最高のアクションシーンの一つではないか? 私はハロルド・ロイドの顔が嫌いで、食わず嫌いをしていたが、この映画には感心した。
30 「イースター・パレード」監チャールズ・ウォルターズ 主クロスビー&ガーランド (7点) 評:ミュージカル映画の最高傑作は同じクロスビーの「バンド・ワゴン」か、あるいはジーン・ケリーの「雨に唄えば」か、あるいは「マイ・フェア・レディ」かだろうが、ビング・クロスビーの映画の中では上位3位内に入るのではないか? ただし、ミュージカル映画としていいと言うよりは、クロスビーの映画としては珍しく、ドラマの部分がしっかりしているからこその高評価である。ジュディ・ガーランドは適役。歌もうまい。ついでだが、多くの人がミュージカル映画の最高傑作とする「ウェストサイド物語」は、斬新な作品だったが、ミュージカル映画の本質である「ファンタジックな幸福感」がゼロなので、ミュージカル映画としては私は高く評価しない。ただし、ミュージカル映画を幅広くとらえるなら、「ジーザス・クライスト・スーパースター」や「オール・ザット・ジャズ」と同様、高い評価をする。

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著作権切れ映画鑑賞会

京都郊外山中の町に引っ越してひと月半ほどはネット接続ができなかったので、暇を持て余し、安いDVDプレーヤーを買ったのを機に、古い名作映画などを見直してみた。「音と映像社」という会社の通信販売で、80作で1万1600円、1作当たり145円という奴を購入したのである。だいぶ贅沢な出費だが、1作145円で洋画の名作をDVDで所有できるのだから、レンタルよりかえって割安かと思ったわけだ。もちろん、こうした映画は著作権切れの古い奴ばかりだ。しかし、私は、映画というジャンルは1970年代くらいで終わったジャンルだと思っているから、古い方がいいのである。
残念ながらその80作(ほとんどが娯楽映画だ)のリストにはベルイマンやフェリーニといった「純文学的映画」の大物は入っていないが、これまで見る機会のなかった映画をこれで見ることができるのだから、それでもいい。
で、これから書くのは、そうした映画を見ての勝手な評価である。ただし、この種の評価は、言うまでもなく、見る者の主観でしかない。期待値が低いと実際以上に高く評価してしまうこともある。
で、それぞれ10点満点で点数化してみたが、中には映像だけなら満点、ドラマとしては0点といったものもあり、最終得点はその平均だから、この点数自体もあまり当てにはならないのである。まあ、ただのお遊びだ。
最初の数字は通し番号である。カッコの中が評価点。その後に短評など。
とりあえず、20作品ほど。


1 「西部の男」:監ウィリアム・ワイラー主ゲーリー・クーパー(10点) 評:最高である。ゲーリー・クーパーの映画として最高ではないか?もちろん、監督の手腕である。クーパーの役は、まさしく彼のためにあるような役で娯楽映画のヒーローとしては最高に好感の持てるキャラである。助演のウォルター・ブレナンも最高。ヒロイン役の女優も美人ではないが、可愛い。細部のユーモアも最高である。最高ばっかり言っているが、ウィリアム・ワイラーは世界最高の監督なのだから、こう言うしかない。
2 「マクリン・トック」:監アンドリュー・V・マクラグレン 主ジョン・ウェイン(3点) 評:キャラ、ドラマとも魅力無し。元ネタはシェークスピアの「じゃじゃ馬馴らし」だろう。下手な換骨奪胎である。ジョン・ウェインのオカマ歩きだけが目立つ映画である。私はウェインは好きだが、その歩き方だけはどうも好きになれない。モーリン・オハラは虚栄心の強い頭の悪い女という損な役柄である。ウェインの娘役は生意気、その恋人も生意気、ウェインの役は威張り屋で傲岸で、キャラにまったく魅力なし。
3 「静かなる男」:監ジョン・フォード主ジョン・ウェイン(7点) 評:昔、劇場でも見たが、もっと面白くなりそうな話で、やや物足りない。詩情はある。宮崎駿の原点の一つか。延々と村の端から端まで続く男同志の殴り合いは、「ラピュタ」「紅の豚」などに引き継がれている。あるいは同じフォードの「ドノバン珊瑚礁」の方の影響か。
4 「ウィンチェスター銃73」:監アンソニー・マン 主ジェームス・スチュアート(6点) 評:ドラマ自体は悪くないが、風情が無い。ジミー・スチュアートの個性があまり生かされていない。
5 「シェーン」:監ジョージ・スチーブンス主アラン・ラッド(10点) 評:最高である。西部劇における詩情という点で最高峰だろう。子役があまり可愛くない顔なのが残念。もちろん、これまで数回見ているが、年を取るほど良さが分かる映画だ。アラン・ラッドは西部劇の似合わない優男だが、この映画ではその品の良さが生きている。
6 「復讐の谷」:監リチャード・ソープ 主バート・ランカスター(7点) 評:プログラム・ピクチャーだろうが、案外といい出来である。もちろん、バート・ランカスターの魅力が点数の半分。
7 「砂漠の鬼将軍」:監ヘンリー・ハサウェイ 主ジェームズ・メイスン(7点) 評:戦争映画としてはやや爽快感に欠けるが、史実とフィクションがうまく融合した、良い映画である。
8 「外套と短剣」:監フリッツ・ラング主ゲーリー・クーパー(5点) 評:有名監督なので期待して見た分、がっかりした面がある。主人公があまりに馬鹿すぎて、感情移入が難しい。スパイ映画としての出来はそう悪くはなく、細部には面白い部分もある。
9 「ヨーク軍曹」:監ハワード・ホークス 主ゲーリー・クーパー(6点) 評:全体としては面白いのだが、敬虔なキリスト教徒である主人公が戦場で敵を殺しまくるようになる理由付けが納得しがたい。劇場でも見た作品だが、評価は当時もこんなもの。もっと面白くできそうな話である。
10 「メンフィス・ベル」:監ウィリアム・ワイラー*ドキュメンタリー(5点) 評:ドキュメンタリーだから、ドラマ性は薄い。しかし、ウィリアム・ワイラーだから、結構見られる作品になってはいる。当時の空軍の戦略についての興味深い情報も得られる。「メンフィス・ベル」は飛行機の機体に描かれた美人のことのようだ。
11 「アフリカの女王」:監ジョン・ヒューストン 主ボガード&ヘップバーン(7点) 評:以前にも見たが、その時よりは面白く感じた。主役二人の演技を楽しむ映画である。もちろん、ヘップバーンはキャサリンのほうである。ボギーはオードリーとも「サブリナ」で共演したが。
12 「嵐が丘」:監ウィリアム・ワイラー主オリヴィエ&オベロン(10点) 評:これほどの傑作を、食わず嫌いで見逃すところだった。なにしろ、ラブロマンスが嫌いだから、監督がワイラーでもなければ、絶対に見ない種類の映画だ。もちろん、原作は読んでいるし、傑作だと思っている。しかし、文学作品を映画化してロクな映画になった試しはない。だが、やはりワイラーである。映画としての出来は最高。彼は、私の中では世界最高の映画監督だ。彼の映画で失望したことは一度も無い。これは黒澤やキューブリックにおいてさえも無いことだ。
13 「若草物語」:監マーヴィン・ルロイ 主ジューン・アリスン(7点) 評:なぜか好きな作品なので、3回ほど見ている。穏やかに心楽しく見られる映画である。昔は映画の後半が気に入らなかったが、今は、その非ロマンティックな現実性も悪くないと思うようになった。
14 「ローマの休日」:監ウィリアム・ワイラー主ペック&ヘップバーン(10点、いや20点) 評:ロマンチックコメディ映画史上最高の作品である。1点も非の打ちどころがない。完璧な作品、映画の至宝である。もちろん、これまで10ぺん近く見ている。できれば、これがカラー作品であったら……。
15 「地上最大のショー」:監セシル・B・デミル 主チャールトン・ヘストン(4点)評:ドラマ性が弱く、どこを見どころにすればいいのか迷う、大味、散漫な映画である。キャラにも魅力なし。ジェームス・スチュアートがほとんど顔を出さない役で出演している。サーカスについての豆知識が得られるのが取り柄の映画か。
16 「宝島」:監バイロン・ハスキン 主ロバート・ニュートン(7点) 評:見て損は無い映画だ。本来の主演は少年俳優だろうが、海賊キッド役の俳優がまさに「役者やのう」という感じで、ドラマを引っ張っている。原作の良さを最大限に引き出した良作である。
17 「類猿人ターザン」:監W・S・ヴァンダイクⅡ世 主ジョニー・ワイズミューラー(7点) 評:ドラマとしては最後のあたりが弱いが、全体的になかなか面白い。大昔の映画でも馬鹿にはできない。特に、主演のワイズミューラーの演技には感心した。水泳選手上がりの際物役者と思っていたが、普通の役者よりずっと上手い。ジェーンの足を引っ張って穴から引きずり出すシーンは可笑しかった。
18 「サムソンとデリラ」:監セシル・B・デミル 主ヴィクター・マチュア(7点) 評:思ったより面白く、よくできた作品だが、主人公サムソンの阿呆さは(原作、つまり聖書のとおりだが)見ていられない。洋画の主人公は女と見れば鼻の下を伸ばす阿呆ばかりである。しかし、サムソンとライオンの格闘シーンその他、場面場面は見ごたえがある。
19 「ベン・ハー」:監フレッド・ニブロ 主ラモン・ナヴァロ(7点) 評:作られた時代を考えれば、8点を献上してもいいくらいの堂々たるスペクタクル作品である。ワイラー版の「ベン・ハー」の戦車競走の場面は、実はこの映画とそっくりそのままである。本当に迫力がある。欠点は、主演俳優が昔風の弱弱しい感じの二枚目であること。敵役の俳優は、実に憎々しくていい。
20 「クォ・ヴァデイス」:監マーヴィン・ルロイ 主テイラー&カー(7点) 評:主役二人のキャラがあまりに不愉快な性格付けなので、感情移入が難しいが、全体の出来は優秀である。人間よりも風景やセットが素晴らしい。デボラ・カーは清純な乙女の役だが、ロバート・テイラー演じる役が最初は人間の屑みたいな性格なので、それに惚れるという設定だけで、もうアウトである。後で改心するにしても、観客の生理としては、この男キャラへの嫌悪感は拭い難い。したがってカーに対しても、この阿呆娘としか思わない。ピーター・ユスチノフ演じるネロ皇帝は、俳優なら誰でも演じてみたいキャラだろう。この映画でも主役の二枚目とヒロインはどんな危険に遭っても死なないという愚劣な鉄則(次回23番参照)のために、ラストのあたりがグジャグジャになる。

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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