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いじめ根絶の画期的な「南堂アイデア」

「泉の波立ち」が久々に素晴らしい記事を書いているので(南堂氏は「いつも素晴らしい記事を書いているよ」と怒るだろうが)転載させてもらう。いや、これは本当に素晴らしいアイデアなのだ。ただ、実現可能性がどうかという問題はあるのだが。
私はよく、「いじめ被害者は自殺するくらいなら、いじめの首謀者を殺してから死ね」と言っている。もちろん、言うのは私の家族の前でだけだが。
いじめ被害者がなぜいじめの相手を殺さないで自分が死ぬのかというと、もちろん、日本という国では殺人をすると自分の家族に大きな迷惑がかかるからだ。個人が家族と分離され、個人として扱われる欧米では、家族までが社会的に非難され、迫害されることは少ない(と思う)。いじめ被害者も家族が被る迷惑を知っているから、何も言わずに自分だけが死んでいくのである。その心情を思うと、哀れであると同時に、そのような社会に対して情けない思いがする。この社会全体が実はいじめを助長しているのである。
で、下記記事は画期的アイデアである。これは本気で社会全体として実現化を考えていいと思う。
ただ、半分は冗談だが、学校の生徒の大半がいじめる側という場合は学校そのものが消滅することになるが、その場合は? まあ、その方が社会の利益か。


(以下引用)*言うまでもなく、記事の一部だけの引用なので、この案が面白いと思った人は元記事を確認なさるのがよい。



 ところが、そういう困難さがあるにもかかわらず、「いじめをなくすのは教師の責任だ」という風潮が強い。
 なるほど、「この方法でいじめを解消できる」という方法があるのであれば、いじめを解消できなかったのは、教師の責任だろう。世の中にあるいじめはすべて、解消できなかった教師が悪いことになる。
 それゆえに、いじめを見つけた教師は、解決を迫られるし、解決できなければ、大非難を浴びることになる。それはいわば、「打者ならば3割を打つのが当然だ」というプレッシャーをかけられたプロ野球選手みたいなものだ。できもしないことを要請されれている。そうなれば、逃げたくなって当然だ。
 とすれば、できないことを「やれ」というプレッシャーを浴びた教師が、「見て見ぬフリ」をしたくなるのも当然だろう。
 教師が「見て見ぬフリ」をするのは、世間の風潮にも一因があるのだ。

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 そこで、本項では、まったく別の方法を示す。次の二点が目的だ。
  ・ いじめ解決を、教師の責務とは見なさない。
  ・ 現実に、いじめを完全になくす。

 そのための方法は? あるか? ある。それは、「転校」だ。
 転校によって、「いじめる側」と「いじめられる側」を、距離で引き離す。こうすれば、もはや、いじめは起こるはずがない。別々の学校にいるのだから、もはや物理的に不可能だ。かくて、いじめは完全に解決する。

 ただし、注意する点がある。この「転校」は、よくあるように、「いじめられた側の転校」ではなくて、「いじめる側の転校」だ。
 のび太とジャイアンの例で言えば、のび太が転校するのではなく、ジャイアンが転校する。ここがポイントだ。

 その理由は、次のことだ。
 (1) のび太が転校するのでは、(のび太でない)別のクラスメートがいじめに遭う可能性が高い。
 (2) 転校は不便さをともなうので罰だ。だが、ジャイアンに罰がなく、のび太に罰があるのでは、話が逆である。
 (3) ジャイアンがそのまま残るのでは、他の生徒がいじめの証言をしなくなる。一方、ジャイアンが転校するのならば、他の生徒がいじめの証言をする。

 このうち、最後の (3) が重要だ。理由は後述の ¶ 。

 ──

 さて。ジャイアンが転校するとして、転校先の学校で、ジャイアンがまたいじめをしたら、どうするか? 
 その場合は、またしても転校させればいい。2度目の転校だ。
 そこでもまたいじめをしたら、またしても転校させればいい。3度目の転校だ。
 そこでもまたいじめをしたら? 4度目の転校をするか? いや、そうではない。仏の顔も三度までだ。4度目は、少年院に転校させる。つまり、少年院に収容することはないが、少年院の教室に通学させる。(通いで少年院に入れるわけだ。)
 そこでもまたいじめをしたら? そのときは、家裁送りにして、正式に少年院に収容する。少年院にいる非行少年を相手にいじめにするような生徒は、よほどの悪党だろうから、少年院に収容する方がいい。
 それでもまだ、いじめをしたら? それは特級の悪党だろうから、独房に入れる。これで、物理的に、いじめは不可能となる。かくて、いじめはなくなる。完全に。 (^^)v
  
 この方針は、かなり厳しい。とはいえ、「仏の顔も三度」だし、三度も憐れみをかけているのだから、かなり大甘でもある。「一度でもやったら、ただちに少年院へ」という厳しい方針に比べると、かなり甘い。

 ──

 結論。
 いじめを完全になくす方法。それは「いじめっ子」を転校させることだ。こうして物理的に隔離することで、いじめを原理的になくすことができる。

( ※ ただし、いじめが発生したあとの解決が目的である。いじめが もともと発生しないようにすることは、対象外だ。仮にそれを狙うとしたら、いじめっ子の「人格改造」が必要だが、そういう「人格操作」「洗脳」みたいなことは、しない方がいいだろう。)
( ※ いじめは、「事後で是正する」だけで十分だ。大切なのは、「ちょっとでも起こったら、すぐに通知して、いじめをすぐに解消する」というシステムを用意することだ。それが、本項の案だ。 ¶ )
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 [ 付記1 ]
 この方針は、「いじめっ子の説得」という、教育的効果は狙っていない。
 教育的効果を狙うのが、世の中の「善良なる人々」の意識なのだろうが、それはもともと不可能なことが多い、というのが私の立場だ。
 そして、できもしない「説得による解決」を求めたあげく、現実には、対処不能のまま、いじめられる子が次々と死んでいく。……そういうことはあってはならない、というのが私の立場だ。簡単に言えば、
 「いじめっ子の矯正よりは、いじめられる子の生命の方が大切だ」
 という立場だ。
 例によって、「生命が一番大切だ」というのが、私の立場だ。(教育効果よりも)

 [ 付記2 ]
 いじめっ子の「説得による教育」は、教師の役割の範囲を超えている。それはむしろ、「社会的なカウンセラー」などの役割だろう。
 いじめっ子がいじめをするのは、「いじめて喜ぶこと」が目的ではなく、「いじめて発散すること」が目的であることが多い。その理由は、心の闇だ。そして、心の闇の理由は、たいていは家庭にある。「離婚して片親の家庭」「家庭崩壊した家族」「食事も取れない貧困家庭」などの例が多い。いじめられっ子に金を要求するのも、「そうしないと昼食や夕飯が食べられないから」という例がかなりあるようだ。
 こういう問題は、公的な権限をもつ「社会的なカウンセラー」が必要となる。場合によっては生活保護司との連携が必要だろう。いずれにせよ、教師の手に余る。教師ばかりに頼ってはならない。

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デモをする時は「転び公妨」に注意。両手は後ろにね。

「反戦な家づくり」から、前置き部分だけ省略して転載。
いやあ、いつもながら山岸飛鳥(明月)さんの頭の緻密で行き届いていることに感心する。こういう人をなぜ政治家がブレーンにしないのかね。
今日は、ほかにも掲載予定の記事があったが、デモ関係の記事が優先だろう、ということで山岸さんの重要アドバイスを先に掲載した。
何しろ、書いてあったのは「大衆の前田敦子(AKB)憎悪についての考察」という阿呆な論考なんだから、緊急性など無いのはもちろんだ。ほかに「沢尻エリカはなぜあれでも使われるのか」という問題などもあったりする。
私は「人類はどういう歩き方をするのが正しいのか」などといった馬鹿な問題を大真面目に考察するのが好きなのである。
山岸さんのような人間にはひれ伏すしかない。

(以下引用)

わたしは、ちょっと前のツイートで、「交通整理には従うが、大飯(現地抗議)のようなことになったら、抗議は断固必要」と書いた。

一番にいたいことは、「一切警察に逆らうな」でも「警察とケンカしろ」でもなく、「警察をナメたら危ない」ということ。

「警察の言うことを聞くのは日和見」という人も、「警察は一般市民には何もしない」という人も、どっちも警察を甘く見すぎだ。
今やっているデモの中で、一部の人が機動隊に突入したらどうなるかは言うまでもない。餌食であり自ら撒き餌になって弾圧を引き込む利敵行為だ。

しかし「警察は一般市民には何もしない」というのは幻想。
デモが、原発なり野田政権にとって、本当に脅威になれば、一般市民であろうと労働組合であろうと党派関係者であろうと、弾圧をしてくる。そう思っておかないと、不意打ちをくってしまう。 

たしかに子ども連れを突然逮捕はしなくても、ちょっと身体が触れただけで公務執行妨害で逮捕 なんていうのは常套手段のはず。見せしめにして恐怖心を煽る。
また公安は、参加者を装って騒ぎを起こす人間を潜入させる。それが彼らの仕事なのだから。

先週の官邸前デモの先頭で、警察の指示に従うかどうかで緊張が高まったらしい。そして「おとなしく従うな」と言った人たちは、一部の人びとから「煽動者」と呼ばれている。
が、結果として主催者に従ったのだから、少なくとも公安の手先ではないだろう。
もし乱闘になれば確かに今の状況では利敵行為だが、しかし、血気にはやった連中を「煽動者」と呼ぶのは抵抗がある。

要するに、警察を単に逮捕したり、場合によっては暴行したりするヤツらくらいにしか思っていないから、中途半端に突っかかっていく。良くも悪しくも、そういう手合いだと思った方が実態に近いような気がする。
煽動者というのは、もっと計画的・組織的なものだろう。

警察というのは、その場を安全にするためにいるのではなく、やはり本質的には原発や野田政権のような既得権益を守るためにある。
そして、向こうの都合で、おとなしかったり逮捕したり乱暴したりするのだ。それらは警察にとっては手段に過ぎない。
だから、それと対峙する私たち抗議する側は、警察との緊張関係をどこにラインを引くかということを、ちゃんと意識してのぞなまくちゃならない。 

大飯での現地抗議のように「覚悟」して身を投げ出して抗議する時もあれば、関電前のように逮捕などは避ける形もある。
それぞれを、過激だとか、日和見だとか決めつけるのではなく、この場合はどこに対決ラインを引くのかということを、参加者が緊張感を持って意識することだ 

警察をナメていると、対決している緊張感が薄くなり、いたずらに突っかかったり、逆に不意打ちを食らって混乱する。

警察とは、「正しく」対決しよう。それが私の結論。

以上 ツイート再録終わり


いよいよ、明日は金曜日

先週の光景で、野田も警察も、内心ではかなりビビリまくっているはずだ。
ということは、逆に言うと、いつまでも警察がおとなしくしているかどうかは、わからない、ということでもある。

万が一、ちょっと血気にはやった連中が逮捕されたりしたときに、ぜひともお願いしたいことがある。
逮捕した側(警察や野田政権)を非難するより先に、逮捕された側を「煽動者」などと決めつけてゴウゴウたる非難の嵐をあびせるようなことはしないでいただきたい。

ホンモノの煽動者(マスメディアを含む)が、逮捕された連中のことを「煽動者だ!」と騒ぐのは目に見えている。そんな声に乗せられずに、逮捕した側に怒りの声をあげることを忘れないでほしい。

無謀だ、日和見だ、という議論自体が、そもそもホンモノの煽動者に仕掛けられている可能性が大きいことも、頭に入れておきたい。

では、明日6日 18時。

首相官邸前と関西電力前に!

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あまり世間を騒がせるもんじゃない

昨日から世間は意味不明の「ヒッグス粒子」のことで騒いでいるので、井口博士が何か解説してくれるかな、と期待していたが、まだ書いていない。そこで、「In deep」からヒッグス粒子の意味ではなく、「ヒッグス粒子報道の意味」を説明した文章を転載する。
まあ、たいていの科学記事というか、「何かが発見された(らしい)」という記事はたいていが大学や研究所の予算獲得のための宣伝活動である、ということだ。マスコミもそれが分かっているくせに、ニュースの無害な埋め草で、場合によっては「科学的詐欺ビジネス」にもつながるので大いに協力するわけである。どんなものであれビジネスが拡大することが社会上層部にとっての「最大善」なのだから。
ついでに、「ローマの歴史」(I・モンタネッリ著)という面白い本の一節を紹介する。

「メルクリウス(夢人注:マーキュリーのこと)。商人、弁論家、泥棒の守護神。ローマ人はこの三種の職業を同一視していた。」

経団連や橋下がメルクリウスを信仰しているかどうかは知らない。


(以下引用)

というわけで、またどうでもいい話から始まりましたが、帰ってみると、CERN のニュースは確かに大きく報道されているのですが、その見出しを見て、「またか」と、思いました。




ヒッグスに関しては「永遠にこの繰り返し」でもいいのかも


ヒッグスに関しての報道は見られた方も多いと思いますが、これらの見出しが並びます。




「発見か?」
「~とみられる」

という文字が続きます。

英語だと下のような「99パーセント、ヒッグスに違いない」などが並びます。




実は一昨年からずっとこの繰り返しなんですが、なんとなく不思議な感じがしませんか?

つまり、普通の、他のいろいろな科学の発見で、「~と見られる」とか「発見か?」とか「ほぼ間違いないと思われる」というような暫定段階での研究成果がこんなに大きく報道されることがあるでしょうか。

普通だと、科学的発見というのは、

「確定」

ということになって、大発表になるはずだと思うのです。

報道では、




CERNは統一見解で、暫定的な結果としながらも「新粒子を観測したことは画期的で、その意味は非常に重要だ」と強調。年内にもヒッグス粒子かどうか確定するとの見通しを示した。




とあり、「暫定的」と自ら述べて、さらに、「年内にも確定」と、確定していないことを宣言しています。


それがどうして、こんなに大きく報道されるのか。

その理由はいくつかあると思いますが、ひとつは報道側が、この「新しい神の登場」の重大性をあまり意識していないということもあるかもしれませんが、それよりも「何らかの強力なプッシュ」はあるのだと思います。

プッシュというか、「報道してほしい」と。

どうしてか?

どうして暫定結果を世界的報道としなければならないのか。


ここからは否定的な意味で書くのではなく、こういうことはすべての科学の研究には必要なことなんですが、「予算の確保」なんです。 CERN は世界で最も大きな予算を編成している科学組織で、年間予算は大体 800億円~1000億円くらいです。

下の収支は10年くらい前のものですが、以後も大体同じような予算です。スイスフランで書かれてありますが、非常に大ざっぱにというと、この数字に「億円」をつければ、桁としての大体の目安となると思います。




これを見ると予算のほとんどが「加盟国からの分担金」でまかなわれていることがわかると思います。つまり、単独運営をしている組織ではないのです。

コトバンクの CERN には以下のようにあります。




この分野の実験的研究には巨大な粒子加速器が不可欠であるが,加速器の建設には莫大な費用がかかるので,アメリカとソ連以外の国は単独ではこの負担に耐えられない。




この「加速器」とある中の、LHC というものには2兆円などの莫大な予算がかかっています。

上に「ソ連」とあるのは、CERN が創設された 1950年代はロシアは旧ソ連だったからですが、上にあるように、この CERN というのは、各国から予算を集めて運営している組織です。

しかも、それでも赤字を計上したりしていて、とにかく、お金のかかる実験をしているのですが、いずれにしても、「成果を出し続けていかなければならないという宿命」を負っています。

1000億円といえば、南太平洋あたりの小国の GDP にも匹敵する金額で、決して小さいとは言えない額です。

特に資金を出している主体がヨーロッパの国々です。
それで、「今年は何の成果もありませんでした」というわけにはいかない。
現在のヨーロッパの経済的問題は書くまでもないと思います。

場合によってはユーロ崩壊などとも言われている中で、どこかの国の誰かが、

「CERN へ金出すのをやめればいいんじゃないか?」

と言ってそれを実行したら、他の国も追随してしまうわけで、そうすると CERN は機能しなくなってしまうのです。さすがに、今の経済状態の中で、科学研究に単独で 1000億円を出せる国はあまりないはずです。

なので、それを避けるために、 CERN は成果を発表し続けなければならない。
次々とノーベル賞クラスの発見をしなければならない。

そういうあたりが、暫定的な発表に繋がっているのだと思います。
正直、心情はよくわかります。



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メディアとそのコンテンツ

「ネットゲリラ」より転載。
テレビのチャンネルとか雑誌とか新聞の困るところは、消費者がその媒体の会社方針が大嫌いであっても、その中に「どうしても見なくてはならないコンテンツ」が存在する場合がよくあることだ。
いくら私がフジテレビが嫌いでも(右翼だからじゃないよ。左翼でもあの韓流ゴリ押しは耐えがたい。韓国の映画監督にはすごいのもいるが)、フジ系列で野球放送があれば、そこを見るしかない。いくら私が朝日新聞が嫌いでも、筒井康隆が朝日で新連載を始めるとなれば、今後朝日を買うべきか否か、悩まざるを得ない。今は朝日よりは政治姿勢が多少まし、という程度で毎日などを買っているが、どうしたものか。まあ、記念に最初の掲載日の朝刊だけ買っておくか。
何はともあれ、メディアとコンテンツの関係は難しいということだ。そのメディアにコンテンツを提供するクリエイターも、いろいろと悩むだろう。昔なら右か左かで適当に決めていられたが、今では原発賛成反対、消費税賛成反対など、さまざまな問題があり、主要メディアは明らかに反国民方針なのだから、クリエイターが国民目線に立つなら、どのメディアにも協力などできないという困った状態である。
まあ、私がテレビ局のオーナーなら、全番組を野球中継と古い映画やテレビドラマの再放送とニュース番組と教養番組だけにするね。新聞社のオーナーなら、堂々と庶民の立場に立った政治姿勢を打ち出す。おそらく、東京新聞はそれで飛躍的に部数を伸ばしつつあるはずだ。それで政府から弾圧されたら、それこそ男子の本懐というものだろう。


(以下引用)

テレビ誌編集者「強引な韓流押しでフジテレビのイメージは急落。」『フジだけは観ない』人が急増

1 シンガプーラ(茸). 2012/07/03(火) 12:49:47.94 ID:ra9mxbUo0フジテレビの視聴率が低迷している。
「強引な韓流押しと番組内で商品や自社番組をわからないように宣伝するステルスマーケティングがいまだに続いている。
これでフジの局イメージは急落した。たしかに『フジだけは観ない』という連中は増えている」(テレビ誌編集者)
それに、フジは"番組疲労"も起きている。色あせた『笑っていいとも』や『SMAP×SMAP』を意味なく続けているのも原因だ。
フジ自身も薄々悟っているのか、テレビの広告ビジネスより、サンケイビルなどの買収で不動産事業に軸足を移している。
テレビ局としての衰退は誰が見ても明らかだ。 2 アムールヤマネコ(やわらか銀行) 2012/07/03(火) 12:52:44.19 ID:O+nrV0/K0 韓流デモって意味あったんだな 3 リビアヤマネコ(茸) 2012/07/03(火) 12:53:09.67 ID:otQ7dpeq0 嫌なら見るな 5 スノーシュー(茨城県). 2012/07/03(火) 12:53:36.70 ID:jMGh3ZhW0それがフジとスポンサーの望んだ結果でしょ 7 ボブキャット(西日本) 2012/07/03(火) 12:54:07.40 ID:nEs69bFk0 ネトウヨ大勝利 8 マヌルネコ(東京都). 2012/07/03(火) 12:54:33.57 ID:3gF3222l0台場の埋め立て地が沈没しますように... 12 ハバナブラウン(dion軍). 2012/07/03(火) 12:55:29.27 ID:rTgWGPgn036: リビアヤマネコ(鳥取県):2012/06/28(木) 13:37:13.97 ID:jU20atsG0

テレビの終焉は近いな・・・・

かつてのフジテレビ(2008/09/03水)

23.5% 19:00-19:57 CX* クイズ!ヘキサゴンII
23.6% 19:57-20:54 CX* はねるのトびら
15.1% 21:00-21:54 CX* ザ・ベストハウス123
18.0% 22:00-22:54 CX* 爆笑レッドカーペット

↓↓↓↓↓
昨日のフジテレビ(2012/06/28水)

*7.6% 19:00-19:57 CX* おじゃマップ
*9.3% 19:57-20:54 CX* はねるのトびら
*9.9% 21:00-21:54 CX* ホンマでっか!?TV
*7.0% 22:00-22:54 CX* ピカルの定理
14 アンデスネコ(兵庫県). 2012/07/03(火) 12:56:04.89 ID:ngT9WZAC0韓国から金貰って喜んで宣伝してたんだろうけどそれ以上の損害が出たなw
韓国で表彰されてたフジ会長は経営責任取って辞めるべきでは? 15 ギコ(やわらか銀行) 2012/07/03(火) 12:56:06.16 ID:i8cWwbtc0 >たしかに『フジだけは観ない』という連中は増えている」(テレビ誌編集者)

視聴者じゃなくてフジ見ないやつは「連中」扱いなのかw 18 イエネコ(東京都) 2012/07/03(火) 12:58:10.07 ID:h0haNGFT0 安くて視聴率の取れる韓流ドラマ24時間流せば解決するじゃん
頑張ってねフジテレビさん
マジざまあああああああああああああああああ死ね 20 ハバナブラウン(dion軍). 2012/07/03(火) 12:58:25.73 ID:rTgWGPgn0視聴者の求めるものじゃなく、製作者にとって都合のいいものを流し続けてきたら、視聴者が離れるのは当たり前だろ
当然の結果が出ているだけなんだから、胸を張って生きればいいじゃん 22 サーバル(家). 2012/07/03(火) 12:58:45.65 ID:g+U6kSmb0嫌なら見るなって言ってた奴らは今ごろ何してんの? 23 ジョフロイネコ(茸) 2012/07/03(火) 12:58:54.49 ID:bKQGLcVe0 マジで視聴率落ちててワロタ
デモ効き過ぎだろ 24 三毛(埼玉県). 2012/07/03(火) 12:59:09.28 ID:vbqw9rUE0F1やれよ 26 マーブルキャット(WiMAX) 2012/07/03(火) 12:59:23.37 ID:U/Rn4mwa0 『フジだけは観ない』という連中は増えている(テレビ誌編集者)

連中呼ばわりかよ 27 ヒマラヤン(東日本). 2012/07/03(火) 12:59:32.20 ID:PMujgFBv0今までのフジの視聴率はテレビ欄の真ん中にいたおかげなのか... 29 ボンベイ(福岡県). 2012/07/03(火) 13:00:03.14 ID:sV7GAjs20嫌ならみるな 30 リビアヤマネコ(やわらか銀行). 2012/07/03(火) 13:00:03.15 ID:77vCIUgU0冗談じゃなくデモ以降マジでフジは見てないからな。 31 スミロドン(茸) 2012/07/03(火) 13:00:55.78 ID:NdXcajgr0 韓流関係ない番組も面白くないんですよねぇ、フジは 32 シャルトリュー(兵庫県) 2012/07/03(火) 13:00:59.60 ID:0bbIUxSq0 地井さんの訃報で知ったけど北の国からってフジだったのな、どうしてこ(ry 33 リビアヤマネコ(やわらか銀行). 2012/07/03(火) 13:00:59.84 ID:77vCIUgU0それとテレビに出てる奴がみんな胡散臭くて見ててすげえ気持ち悪いんだよ 34 ハイイロネコ(東京都). 2012/07/03(火) 13:01:33.69 ID:K9CtxyKO0とりあえず芸人やタレントを一切出すな
そうすりゃ少しはマシになる 36 バーミーズ(空) 2012/07/03(火) 13:01:46.33 ID:8ec4XUgHi 今TV欄の真ん中にある局が首位なの?
つーか、今やTV本体で番組表見るでしょ。
端っことか関係なくね? 42 バーミーズ(東京都) 2012/07/03(火) 13:03:01.59 ID:ZCHhDZKY0 >>36
>ど真ん中の位置にあるTBSは万年4位のまま 39 キジ白(関東地方) 2012/07/03(火) 13:02:19.63 ID:sRzTL52AO フジテレビ
大好きな韓流を沢山流せばドラマ、歌番組ヒット間違いなし
スタッフ
テーマ曲にはどんなに雲の上の声だろうが絶対使わねえけどな
海猿は事実、某韓国籍歌手にテーマを歌わすようとしたが監督他全て拒否
で、別の外人w 40 ハバナブラウン(dion軍). 2012/07/03(火) 13:02:32.86 ID:rTgWGPgn0それまでも韓国を特別扱いしてきたメディアだけど、ここ5年ほどの韓国推しは異常すぎた
まともな神経を持った人間なら、そのあまりの不自然さに嫌悪感を抱くレベルで酷かった
韓国推し担当キチガイは、一度ゲッベルスに師事して「宣伝とは何か?」を学べよ

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「いらないもの」を切り捨てる社会

「内田樹の研究室」から転載。
実は、この文章から触発されて50行ほどの文章を書いてあったが、パソコンの操作ミスで消してしまった。(追記:実は書きかけ状態で投稿してしまった、というのが正しい。ひとつ前にすでにUPされていた。それで、下の「傑作論文だったのに」が嘘であることもばれてしまった。(笑)まあ、既に人目に触れたからには、今更削除することもないだろう。内田樹の文章は同じなので、同じのを二度読まされたと怒る人には謝っておく。しかし、これは重要な文章なのだから、何度読んでもいいのだよ。)
それは、「近代合理主義とは切り捨て主義である」ことと、「切り捨てによって我々の生活は精神的に貧困になっている」という趣旨の文章だったが、まあ、下の引用文章でもその趣旨の想像はつくだろう。
私の文章は傑作論文だったのに(笑)、残念だ。
題名だけでも書いておくと「捨てない技術」というものである。(追記:これも嘘であった。そうつけようかな、と思っているうちに、うっかり別題のまま投稿ボタンを押したのだ。)


(以下引用)


『七人の侍』の組織論




どういうタイプの共同体が歴史の風雪に耐えて生き延びることができるか。
これはなかなか興味深い問いである。
前に、住宅についてのシンポジウムの席で、「コレクティブ・ハウス」を実践している人から質問があった。
その人は20世帯くらいで住まいをシェアしている。子どものいる若い夫婦同士はお互いに育児を支援し合って、とても助かるのだが、高齢者の夫婦などはいずれこちらが介護せねばならず、若い人たちは「他人に介護してもらうためにコレクティブハウスに参加したのではないか・・・」という猜疑のまなざしで老人たちを見つめている、という話をうかがった。
どうすればこの共同体を継続できるのでしょうというお訊ねだったので、「残念ながら、そういう共同体は継続できません」とお答えした。
あらゆる共同体では「オーバーアチーブする人」と「アンダーアチーブする人」がいる。
必ずいる。
全員が標準的なアチーブメントをする集団などというものは存在しない。
存在する意味がないから、「作ろう」と思っても作れない。
あらゆる集団はその成員の標準的なアチーブメントに及ばない「マイナーメンバー」を含んでいる。
幼児や老人や病人や障害者は集団内では支援を与えることより、支援を受けることの方が多い。
けれども、これらの「マイナーメンバー」を支援するときに、「自分は損をしている」というふうに考える人間には共同体に参加する資格がない。
あらゆる人間はかつて幼児であり、いずれ老人になり、高い確率で病人となり、心身に傷を負う。
だから、集団のすべての構成員は時間差をともなった「私の変容態」である。
それゆえに集団において他者を支援するということは、「そうであった私、そうなるはずの私、そうであったかもしれない私」を支援することに他ならない。
過去の自分、未来の自分、多元宇宙における自分を支援できることを喜びとすること。
そのような想像力を用いることのできない人間には共同体を形成することはできない。
申し訳ないが、コレクティブ・ハウスというコンセプトはたぶん成功しないだろうと申し上げる。
それはそこに参加する人間の「現時点での利便性」にもとづいて選択された共同体だからである。
そこには「歴史を貫いて維持しなければならない共同体」の統合軸がない。
共同体に蓄積された資産を「次世代への贈り物」であると考えることのできない集団は短期的に崩壊する。
「では、どんな共同体なら生き延びられるのですか?」と重ねて質問があったので、ちょっと考えてから、こうお答えした。
教育のための共同体、医療や介護のための共同体、それから宗教の共同体くらいでしょうか。
とっさの返事にしては、なかなか適切だったように思う。
これら三つの共同体はどれも共通した特徴を持っている。
それは「構成員のうち、もっとも非力なもの」を統合の軸にしているということである。
教育共同体は若く非力な人々に知識や技芸を伝授し、成熟に導くためのものである。医療共同体は病み、傷ついた人々を支援するためのものである。信仰共同体は隣人を慰め癒すためのものである。
そのような共同体だけが永続性を持ちうる。
集団成員のうちの相対的に有力なものに優先的に資源が配分されるような「弱肉強食」共同体は長くは続かない(いずれお互いの喉笛を掻き切りあうようになる)。
集団成員のうちのヴォリュームゾーンである「標準的な能力をもつ成員」の利便を最優先に配慮する「平凡」共同体も、やはり長くは続かない(全員が均質化・規格化して多様性を失ったシステムは環境変化に適応できない)。
もっとも耐性の強い共同体とは、「成員中のもっとも弱いもの」を育て、癒し、支援することを目的とする共同体である。
そういう共同体がいちばんタフで、いちばんパフォーマンスが高い。
これは私の経験的確信である。
それゆえ、組織はそのパフォーマンスを上げようと思ったら、成員中に「非力なもの」を意図的に組み込み、それを全員が育て、癒し、支援するという力動的なかたちで編成されるべきなのである。
その好個の事例が『七人の侍』における勝四郎の果たした役割である。
この七人の集団は考えられる限り最小の数で構成された「高機能集団」である。
その構成員はまず「リーダー勘兵衛」(志村喬)、「サブリーダー五郎兵衛」(稲葉義男)、「イエスマン七郎次」(加東大介)。7名中の3名が「リーダーが実現しようとしているプロジェクトに100%の支持を寄せるもの」である。この比率は必須。
「イエスマン」はリーダーのすべての指示に理非を問わずに従い、サブリーダーは「リーダーが見落としている必要なこと」を黙って片づける。
その他に「斬り込み隊長久藏」(宮口精二)と「トリックスター菊千代」(三船敏郎)もなくてはならない存在である。
自律的・遊撃的な動きをするが、リーダーのプランをただちに実現できるだけの能力をもった「斬り込み隊長」の重要性はすぐにわかるが、「トリックスター」の組織的重要性はあまり理解されていない。
トリックスターとは「二つの領域にまたがって生きるもの」のことである。それゆえ秩序紊乱者という役割を果たすと同時に、まさに静態的秩序をかきみだすことによって、それまでつながりをもたなかった二つの界域を「ブリッジ」することができるのである。
菊千代は「農民であり、かつ侍である」というその二重性によって、絶えず勘兵衛たちの「武士的秩序」を掻き乱す。だが、それと同時に外見は微温的な農民たちの残忍なエゴイズムを自身のふるまいを通じて開示することによって、農民と侍のあいだの「リアルな連帯」を基礎づける。
七人の侍のうち、もっとも重要な、そして、現代においてもっとも理解されていないのが、林田平八(千秋実)と岡本勝四郎(木村功)の役割である。
平八は五郎兵衛がリクルートしてくるのだが、五郎兵衛は自分がみつけてきた「まきわり流を少々」という平八をこう紹介する。
「腕はまず、中の下。しかし、正直な面白い男でな。その男と話していると気が開ける。苦しい時には重宝な男と思うが。」
五郎兵衛の人事の妙諦は「苦しいとき」を想定して人事を起こしていることにある。
私たちは人を採用するとき、組織が「右肩上がり」に成長してゆく「晴天型モデル」を無意識のうちに前提にして、スキルや知識や資格の高いものを採用しようとする。
だが、企業の経営をしたことのある人間なら誰でも知っていることだが(「麻雀をしたことがある人間なら」と言い換えてもよい)、組織の運動はその生存期間の過半を「悪天候」のうちで過ごすものである。
組織人の真価は後退戦においてしばしば発揮される。
勢いに乗って勝つことは難しいことではない。
勝機に恵まれれば、小才のある人間なら誰でも勝てる。
しかし、敗退局面で適切な判断を下して、破局的崩壊を食い止め、生き延びることのできるものを生き延びさせ、救うべきものを救い出すことはきわめてむずかしい。
「苦しいとき」においてその能力が際だつような人間を採用するという発想は「攻めの経営」というようなことをうれしげに語っているビジネスマンにはまず宿らないものである。
けれども、実際に長く生きてきてわかったことは、敗退局面で「救えるものを救う」ということは、勝ちに乗じて「取れるものを取る」ことよりもはるかに困難であり、高い人間的能力を要求するということである。
そして、たいていの場合、さまざまの戦いのあとに私たちの手元に残るのはそのようにして「救われたもの」だけなのである。
勝四郎の役割が何であるかは、もうここまで書いたからおわかりいただけたであろう。
彼は「残る六人全員によって教育されるもの」という受け身のポジションに位置づけられることで、この集団のpoint de capiton (クッションの結び目)となっている。
どんなことがあっても勝四郎を死なせてはならない。
これがこの集団が「農民を野伏せりから救う」というミッション以上に重きを置いている「隠されたミッション」である。
なぜなら、勝四郎にはこの集団の未来が託されているからである。
彼を一人前の侍に成長させること。そのことの重要性については、この六人が(他の点ではいろいろ意見が食い違うにもかかわらず)唯一合意している。
それは自分のスキルや知識を彼のうちに「遺贈」することによって、おのれのエクスペンダブルな人生の意味が語り継がれることを彼らが夢見ているからである。
勝四郎の存在意義は『マッドマックス2』におけるブーメランを操る野生児フェラル・キッドの説話的機能と相同的である。
『マッドマックス2』のラストシーンでは、夕陽を背に浴びて道路に立ち尽くすマックスのショットに、キッドのナレーションが入る。「私はその後、北の部族のリーダーとなった。年老いた今では昔の記憶はもはやおぼろげである。けれども、あのとき荒野に立ち尽くしていたマックスの姿だけは決して忘れない」
これは実はキッドのナレーションではない。
マックスが荒野に立ち尽くしたときに、「自分が死んだあとに長く語り継がれている自分についての伝説」を想像的に先取りしたものを「幻聴」しているのである。
なぜなら、「そうでもしなけりゃ、やってられない」からである。
車は壊すは、片足は折るわ、片目はつぶれるわ、ガソリンはないわ、食い物はないわ状態で荒野に放置されたマックスが「次の一歩」を歩み出すためには、「荒野にすっくと立ち尽くすヒーローについての物語」を語り継ぐであろう「次世代」を先取りする想像力が不可欠なのである。
同じ仕掛けは『マッド・マックス・サンダードーム』でも繰り返されている。
マックスのあの異常なバイタリティを担保しているのは、この「幻聴」能力だったのである。
知らなかったでしょ(私も今まで気づかなかったけど)。
『七人の侍』に話を戻すと、勝四郎は(フェラル・キッドと同じく)、六人の侍が死んだあとに、彼らについての「伝説を語り継ぐ者」という機能を先取り的に賦与されているのである。
それゆえ、勝四郎が生き残り、末永く「侍たちのこと」を回想してもらうということは、六人にとって「こんなところで犬死にするリスク」を冒すために譲れない条件だったのである。
勘兵衛はそれを洞察したからこそ、勝四郎を仲間に加えることを許した。
それはこの戦いで「たぶん我々はみな死ぬだろう」と勘兵衛が思っていたからである。
侍だから戦いで死ぬのは構わない。だが、できるものなら最高のパフォーマンスを発揮した上で死にたい。そのための条件を考えて、勘兵衛はこの七人を選んだのである。
話をいきなり現代に戻すが、当今の企業の人事担当者の中には「平八」と「勝四郎」の重要性どころか、「菊千代」の重要性さえ理解していない人間が多い(というかほとんどそうか)。
リーダーとイエスマンと斬り込み隊長だけで「効率的な」組織を作ろうとしている経営者がマジョリティである。
そういう時代に就活をしなければならない学生たちがほんとうに気の毒である。
もっとも集団のパフォーマンスを高めるのは「若く、非力な」成員を全員で「支援し、育て、未来に繋ぐ」という仕組みをビルトインさせたシステムであるという「当たり前」のことをビジネスマンたちは忘れている。

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「不要なもの」は本当に不要か

「内田樹の研究室」の今日の記事が面白いので、全文転載する。
少し前から、近代合理主義の欠陥、つまり「重要部分だけを残し、それ以外の細部を切り捨てることで目的に最短距離で達する」という考え方が、現代人の生活がどんどん不幸になっている根本原因なのではないか、と考えているが、それは内田樹の考え方に触発されたものかもしれない。もっとも彼はそれを近代合理主義のせいだとは言っていないが。

少しだけ説明する。たとえば、我々が一瞥で見ている情景は膨大な情報を含んだアナログなものである。ところが、我々はその中から、自分に必要な情報だけを選択し、それ以外は意識から切り捨てる。たとえば、時計が今何時である、というような情報だ。その時、時計自体の色も形も、その背後の壁も部屋の様子もすべて無視されることになる。
別の例。人間関係でいえば、「この人間は自分にとって利益となる相手」だと思えば、その人との関係だけを継続し、それ以外の人間とはおざなりな付き合いだけをする。
現代人の生活とはそういうものである。だが、それによって切り捨てられたすべては、実は我々の生活を豊饒にする可能性を持っていたのではないだろうか。
そして、そういう「効率性」と「合理性」が生活習慣となると、それ以外の生活方法は自然に不可能になっていくのである。
今日は暇だから自然でも眺めよう、などと思っても、「すべてを無目的に見る」ということは、ほんの数分もできなくなるのである。
これは些細な例だが、こうした「切り捨て」は個人のみならず社会全体を貧相なものにし、見かけの豊かさとは逆に、空しい社会を作っていくのではないだろうか。

まあ、下記記事はそういう風に考えを発展させてくれる文章だ。少し前の「生活保護叩き」の根本点に関連する話でもある。



(以下引用)


『七人の侍』の組織論




どういうタイプの共同体が歴史の風雪に耐えて生き延びることができるか。
これはなかなか興味深い問いである。
前に、住宅についてのシンポジウムの席で、「コレクティブ・ハウス」を実践している人から質問があった。
その人は20世帯くらいで住まいをシェアしている。子どものいる若い夫婦同士はお互いに育児を支援し合って、とても助かるのだが、高齢者の夫婦などはいずれこちらが介護せねばならず、若い人たちは「他人に介護してもらうためにコレクティブハウスに参加したのではないか・・・」という猜疑のまなざしで老人たちを見つめている、という話をうかがった。
どうすればこの共同体を継続できるのでしょうというお訊ねだったので、「残念ながら、そういう共同体は継続できません」とお答えした。
あらゆる共同体では「オーバーアチーブする人」と「アンダーアチーブする人」がいる。
必ずいる。
全員が標準的なアチーブメントをする集団などというものは存在しない。
存在する意味がないから、「作ろう」と思っても作れない。
あらゆる集団はその成員の標準的なアチーブメントに及ばない「マイナーメンバー」を含んでいる。
幼児や老人や病人や障害者は集団内では支援を与えることより、支援を受けることの方が多い。
けれども、これらの「マイナーメンバー」を支援するときに、「自分は損をしている」というふうに考える人間には共同体に参加する資格がない。
あらゆる人間はかつて幼児であり、いずれ老人になり、高い確率で病人となり、心身に傷を負う。
だから、集団のすべての構成員は時間差をともなった「私の変容態」である。
それゆえに集団において他者を支援するということは、「そうであった私、そうなるはずの私、そうであったかもしれない私」を支援することに他ならない。
過去の自分、未来の自分、多元宇宙における自分を支援できることを喜びとすること。
そのような想像力を用いることのできない人間には共同体を形成することはできない。
申し訳ないが、コレクティブ・ハウスというコンセプトはたぶん成功しないだろうと申し上げる。
それはそこに参加する人間の「現時点での利便性」にもとづいて選択された共同体だからである。
そこには「歴史を貫いて維持しなければならない共同体」の統合軸がない。
共同体に蓄積された資産を「次世代への贈り物」であると考えることのできない集団は短期的に崩壊する。
「では、どんな共同体なら生き延びられるのですか?」と重ねて質問があったので、ちょっと考えてから、こうお答えした。
教育のための共同体、医療や介護のための共同体、それから宗教の共同体くらいでしょうか。
とっさの返事にしては、なかなか適切だったように思う。
これら三つの共同体はどれも共通した特徴を持っている。
それは「構成員のうち、もっとも非力なもの」を統合の軸にしているということである。
教育共同体は若く非力な人々に知識や技芸を伝授し、成熟に導くためのものである。医療共同体は病み、傷ついた人々を支援するためのものである。信仰共同体は隣人を慰め癒すためのものである。
そのような共同体だけが永続性を持ちうる。
集団成員のうちの相対的に有力なものに優先的に資源が配分されるような「弱肉強食」共同体は長くは続かない(いずれお互いの喉笛を掻き切りあうようになる)。
集団成員のうちのヴォリュームゾーンである「標準的な能力をもつ成員」の利便を最優先に配慮する「平凡」共同体も、やはり長くは続かない(全員が均質化・規格化して多様性を失ったシステムは環境変化に適応できない)。
もっとも耐性の強い共同体とは、「成員中のもっとも弱いもの」を育て、癒し、支援することを目的とする共同体である。
そういう共同体がいちばんタフで、いちばんパフォーマンスが高い。
これは私の経験的確信である。
それゆえ、組織はそのパフォーマンスを上げようと思ったら、成員中に「非力なもの」を意図的に組み込み、それを全員が育て、癒し、支援するという力動的なかたちで編成されるべきなのである。
その好個の事例が『七人の侍』における勝四郎の果たした役割である。
この七人の集団は考えられる限り最小の数で構成された「高機能集団」である。
その構成員はまず「リーダー勘兵衛」(志村喬)、「サブリーダー五郎兵衛」(稲葉義男)、「イエスマン七郎次」(加東大介)。7名中の3名が「リーダーが実現しようとしているプロジェクトに100%の支持を寄せるもの」である。この比率は必須。
「イエスマン」はリーダーのすべての指示に理非を問わずに従い、サブリーダーは「リーダーが見落としている必要なこと」を黙って片づける。
その他に「斬り込み隊長久藏」(宮口精二)と「トリックスター菊千代」(三船敏郎)もなくてはならない存在である。
自律的・遊撃的な動きをするが、リーダーのプランをただちに実現できるだけの能力をもった「斬り込み隊長」の重要性はすぐにわかるが、「トリックスター」の組織的重要性はあまり理解されていない。
トリックスターとは「二つの領域にまたがって生きるもの」のことである。それゆえ秩序紊乱者という役割を果たすと同時に、まさに静態的秩序をかきみだすことによって、それまでつながりをもたなかった二つの界域を「ブリッジ」することができるのである。
菊千代は「農民であり、かつ侍である」というその二重性によって、絶えず勘兵衛たちの「武士的秩序」を掻き乱す。だが、それと同時に外見は微温的な農民たちの残忍なエゴイズムを自身のふるまいを通じて開示することによって、農民と侍のあいだの「リアルな連帯」を基礎づける。
七人の侍のうち、もっとも重要な、そして、現代においてもっとも理解されていないのが、林田平八(千秋実)と岡本勝四郎(木村功)の役割である。
平八は五郎兵衛がリクルートしてくるのだが、五郎兵衛は自分がみつけてきた「まきわり流を少々」という平八をこう紹介する。
「腕はまず、中の下。しかし、正直な面白い男でな。その男と話していると気が開ける。苦しい時には重宝な男と思うが。」
五郎兵衛の人事の妙諦は「苦しいとき」を想定して人事を起こしていることにある。
私たちは人を採用するとき、組織が「右肩上がり」に成長してゆく「晴天型モデル」を無意識のうちに前提にして、スキルや知識や資格の高いものを採用しようとする。
だが、企業の経営をしたことのある人間なら誰でも知っていることだが(「麻雀をしたことがある人間なら」と言い換えてもよい)、組織の運動はその生存期間の過半を「悪天候」のうちで過ごすものである。
組織人の真価は後退戦においてしばしば発揮される。
勢いに乗って勝つことは難しいことではない。
勝機に恵まれれば、小才のある人間なら誰でも勝てる。
しかし、敗退局面で適切な判断を下して、破局的崩壊を食い止め、生き延びることのできるものを生き延びさせ、救うべきものを救い出すことはきわめてむずかしい。
「苦しいとき」においてその能力が際だつような人間を採用するという発想は「攻めの経営」というようなことをうれしげに語っているビジネスマンにはまず宿らないものである。
けれども、実際に長く生きてきてわかったことは、敗退局面で「救えるものを救う」ということは、勝ちに乗じて「取れるものを取る」ことよりもはるかに困難であり、高い人間的能力を要求するということである。
そして、たいていの場合、さまざまの戦いのあとに私たちの手元に残るのはそのようにして「救われたもの」だけなのである。
勝四郎の役割が何であるかは、もうここまで書いたからおわかりいただけたであろう。
彼は「残る六人全員によって教育されるもの」という受け身のポジションに位置づけられることで、この集団のpoint de capiton (クッションの結び目)となっている。
どんなことがあっても勝四郎を死なせてはならない。
これがこの集団が「農民を野伏せりから救う」というミッション以上に重きを置いている「隠されたミッション」である。
なぜなら、勝四郎にはこの集団の未来が託されているからである。
彼を一人前の侍に成長させること。そのことの重要性については、この六人が(他の点ではいろいろ意見が食い違うにもかかわらず)唯一合意している。
それは自分のスキルや知識を彼のうちに「遺贈」することによって、おのれのエクスペンダブルな人生の意味が語り継がれることを彼らが夢見ているからである。
勝四郎の存在意義は『マッドマックス2』におけるブーメランを操る野生児フェラル・キッドの説話的機能と相同的である。
『マッドマックス2』のラストシーンでは、夕陽を背に浴びて道路に立ち尽くすマックスのショットに、キッドのナレーションが入る。「私はその後、北の部族のリーダーとなった。年老いた今では昔の記憶はもはやおぼろげである。けれども、あのとき荒野に立ち尽くしていたマックスの姿だけは決して忘れない」
これは実はキッドのナレーションではない。
マックスが荒野に立ち尽くしたときに、「自分が死んだあとに長く語り継がれている自分についての伝説」を想像的に先取りしたものを「幻聴」しているのである。
なぜなら、「そうでもしなけりゃ、やってられない」からである。
車は壊すは、片足は折るわ、片目はつぶれるわ、ガソリンはないわ、食い物はないわ状態で荒野に放置されたマックスが「次の一歩」を歩み出すためには、「荒野にすっくと立ち尽くすヒーローについての物語」を語り継ぐであろう「次世代」を先取りする想像力が不可欠なのである。
同じ仕掛けは『マッド・マックス・サンダードーム』でも繰り返されている。
マックスのあの異常なバイタリティを担保しているのは、この「幻聴」能力だったのである。
知らなかったでしょ(私も今まで気づかなかったけど)。
『七人の侍』に話を戻すと、勝四郎は(フェラル・キッドと同じく)、六人の侍が死んだあとに、彼らについての「伝説を語り継ぐ者」という機能を先取り的に賦与されているのである。
それゆえ、勝四郎が生き残り、末永く「侍たちのこと」を回想してもらうということは、六人にとって「こんなところで犬死にするリスク」を冒すために譲れない条件だったのである。
勘兵衛はそれを洞察したからこそ、勝四郎を仲間に加えることを許した。
それはこの戦いで「たぶん我々はみな死ぬだろう」と勘兵衛が思っていたからである。
侍だから戦いで死ぬのは構わない。だが、できるものなら最高のパフォーマンスを発揮した上で死にたい。そのための条件を考えて、勘兵衛はこの七人を選んだのである。
話をいきなり現代に戻すが、当今の企業の人事担当者の中には「平八」と「勝四郎」の重要性どころか、「菊千代」の重要性さえ理解していない人間が多い(というかほとんどそうか)。
リーダーとイエスマンと斬り込み隊長だけで「効率的な」組織を作ろうとしている経営者がマジョリティである。
そういう時代に就活をしなければならない学生たちがほんとうに気の毒である。
もっとも集団のパフォーマンスを高めるのは「若く、非力な」成員を全員で「支援し、育て、未来に繋ぐ」という仕組みをビルトインさせたシステムであるという「当たり前」のことをビジネスマンたちは忘れている。

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自分の思い通りに生きること

「マドモワゼル愛」さんのブログの今日の日記に素晴らしいことが書かれているので、転載する。
私は(愛さんには申し訳ないが)星占いなどはまったく信じていないが、占いというもの自体は有益だと思っている。それは、人が迷う時、あるいは自分自身の思考の枠の中に閉じ込められて打開の道を見つけられない時に、占いの言葉で新しい思案や発想が生まれたり、あるいは新しい道に踏み出す勇気やきっかけを与えられることがあるからだ。
要するに、「思考のガイド」の一つ、発想法のアイテムとして占いを使えばいいのである。通常の「マインドマップ」などの方法だと、思考素材が自分自身の通常の思考の内部に限定されているので、飛躍的発想は生みにくい。そこに「異物」を投入すると思考に飛躍性が生まれるわけだ。占いもその一つと考えればいい。ただし、占いを絶対視する人間には、こうした占いの使用法は不可能だ。
さて、マドモワゼル愛さんは、占い師としてというより、優れた見識を持った人間として私は高く評価している。世界政治や経済の見方が、優れているのだ。
そして、ここでは人生の生き方についても素晴らしい言葉を書いている。

ほとんどの人間の人生は、実はそのほとんどの時間を他人のために生きている。特に仕事はそうだ。労働というものは基本的に自分の時間を金のために切り売りすることであり、社会の中で生きるためには、それは仕方がないのだが、それが人の心をどんどんすさませる。ひどい場合には仕事のストレスから自殺したりする。
しかし、労働と遊びは実は行為自体は同じものである。プロ野球選手はシーズンオフにはゴルフをするが、そのゴルフは彼らには遊びだ。しかし、プロゴルファーにとってゴルフは仕事である。同じ行為が一方では遊びになり、一方では仕事になる。
はたして仕事とは何なのか。
会社経営者は自分のやっていることを仕事だと言うだろう。だが、私などから見れば、これほど楽しい遊びはないだろうな、と思う。モノポリーをして遊ぶより、大会社を経営する方が楽しいに決まっている。
各都市の市長は自分のやっていることを仕事だと言うだろう。それがつらいなら、やめればいいではないか。その後を継ぎたい人は無数にいる。
本当に仕事と言えるのは、苦痛に耐えることが絶対的に付随している活動だ。つまり、世間一般の社会の中下位の人々がやっている仕事こそが仕事なのだ。
もちろん、社会のお偉方にも「責任逃れ」とか「恫喝」とか「演技」とか、いろいろ仕事はあるだろうが、それで何億円もの報酬が貰えるのだからいいではないか。その辺のホームレスを東電や関電の社長や会長にしたほうが、よほど誠実な会社経営をするのではないか。
いや、話が脱線した。
本題に戻ろう。「仕事」とは苦痛を伴うのがお約束なのだが、生きるためには仕事をするしかない。それならば、せめて自分のやりたい事をやる、というのが賢い生き方というものである。しかし、たいていの人間は賢くないから、「他人のために生きる」ような仕事を選んでしまう。
もちろん、仕事とは世間の需要に応えるためのものだから、すべて「他人のため」という面はある。問題は、自分のやっていることにまったく充実感が得られないような仕事を、それ以外の仕事を選べるにも関わらず選んでしまう、という場合だ。
そこで、これから人生に本格的にスタートする若者は、いや、人生に悩んでいる人なら誰でも下のマドモワゼル愛さんの文章を熟読するとよい。自分の今後の生き方について、大きな手がかりと勇気を与えられるだろう。

(以下引用)


小学生の低学年の頃、「路傍の石」という小説が映画化されて学校で見に行きましたが、丁稚奉公の主人公がひどくいじめられるのが、我慢できず、私は映画館からの帰り道に「あんなところ出て行けばいいんだ。死んだっていいじゃないか」と、ぶつぶつ言っていたことをよく覚えている。友人たちは、「かわいそう、、、かわいそう」と言っているので、さらに腹が立って「死んだって、出て行った方がいいんだよ」と。

私自身、何の実力も実績もないのに、強い独立心と希望があるだけだったが、それでも何とかやってこれて、思ったことがある。

人は独自性で生きて行った方が、本当は苦労もなく、うまく行く、、、ということである。

普通は逆に思う人が多い。何かやりたいけど、安定しないし、自信がないと。しかしそれは嘘である。一般の道にこそ危険があり、罠があり、罠にはめられたことさえ気づけなくされている。

人はなぜ違った顔、形で生れてくるのだろう。それはその人の独自性を天や地が求めているからだ。
なので、独自性を生かして生きて行こうとすると、必ず、その人のための人生が切り開かれていく。そこには、安全も、報酬も、未来もすべてがセットされて用意されている。

こんな簡単な開運法はない。

勝手にやりなさい。本当はそれでいいのだと思う。どうせ、人のため、、とか、家族のため、、、とか言い出すと、結局は何ひとつ責任のとれない人生に逆になる。

いやいやながら安定を求めたところで、安定が得られる道理もないのだし。

勝手にやれば、エネルギーがわいてくる。やることがすべて楽しくなる。自分がやったことだから、潔く責任も取れる。楽しくやるからなぜか伸びる。

もちろん、勝手にやってうまく行かない場合も多いが、その際にはそれは勉強になる。次のステップに生きてくる。

要するにいいことづくめ。

みなが楽しく勝手にやっていけば、自然な秩序が生まれて行く。みんなが勝ってにやったらバラバラになってしまうというのは嘘。それは、人を強制して使うことで良い思いをしているサイドからの価値観でしかない。

強制された秩序は収容所的な秩序で、そんなものは、社会にとっての害悪ですらある。

とにかく時代の変化には勢いがついています。その際に、重要なポイントは、独自性にあります。あなたが自分の独自性で行動していく、と決意したときから、あなたの本当の運命の星が働くようになっていく。

独自性がホロスコープであり、独自性を拒否した者には、星は何も語りかけてはくれない。運命学のこうした基本を、これまで語って来なかった責任は私たち運命学者にもある。

あなたはあなたひとりだけの表現、独自性の表現のために生れてきた。その表現の中に多くのギフトもぎっしりと詰まっているのです。それを見ないで年老い、死んでしまうのではあまりにもったいない。
星はあなたのために配置され、あなたのために働こうといつでも用意して待っているのです。



(付録)

今、小田嶋隆のツィッターを見ていたら、先ほど私が書いた記事に縁のある部分があったので、コピーしておく。
そうですか、「日曜大工が趣味の大工さん」もいますか……。


(以下引用2)



小田嶋 隆‏@tako_ashi

大工の趣味が日曜大工だというのは実はよくある話だと思うが。









18時間 小田嶋 隆‏@tako_ashi

不可思議なのは、ギャラの出る原稿の仕事から逃避するためにやっていることが、ギャラの出ないテキストを書くことだったりすることです。じゃあカネが嫌いなのかというと、カネは欲しい。要するに私は義務ということが嫌いなのかもしれない。








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それだけで人生は生きるに値します。

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