忍者ブログ

貧困の固定化と、社会的移動の低下は日米とも同じ

「孤帆の遠影碧空に尽き」というブログに引用された、米大統領選についての立命館大学教授中本悟の文章を孫引き引用する。

トクヴィルの『アメリカの民主主義』は名著である、とかねてから聞いており、或る時、ブック・オフで文庫本の後篇だけ見つけたので買って少し読んだが、確かに名著であるなあ、とは思った。しかし、こういう堅い本は、なかなか通して読むだけの気力が無くて、その後篇さえ読まないうちに引っ越しなどにまぎれて本も行方不明になった。
ついでながら、私は「新古書店問題」が著作家に経済的悪影響を及ぼしていることは知っているし、またブック・オフの背後に怪しげな新興宗教がいるらしいという噂も聞いてはいるのだが、何しろ貧乏人には新刊本はあまりに贅沢品であるので、仕方無くブック・オフをしばしば利用していた。しかし、京都に来てからは、ブック・オフは一軒も見たことがないのはなぜだろうか。
閑話休題。(「それはさておき」と訓読するらしい。馬琴あたりが愛用しそうな偉そうな漢語である。まあ、まさしく「閑話」にすぎない話を転換する場合にはぴったりの語ではある。)下の記事に書かれた内容は、「アメリカの民主主義は終わった」というようにまとめることができるだろう。そして、もちろん、それは日本でも同じである。いや、日本では「第二次大戦の敗戦の後に親切なアメリカから貰った」民主主義を本質的に理解することもなく、民主党政権が民意をまったく無視して好き放題にやる、という状況に至ったのだが。



(以下引用)


フランスの政治思想家にして政治家でもあったトクヴィルは、1831年に建国後の若きアメリカを旅して、かの名著『アメリカの民主主義』を著した。その冒頭に、「合衆国滞在中、注意を惹かれた新規な事物のなかでも、境遇の平等ほど私の目を驚かせたものはなかった」と述べ、この若きアメリカの「境遇の平等」が民主主義を発展させ、政府と社会を動かす原動力になっていることを喝破したのだった。

この「境遇の平等」すなわち「機会の平等」は、長らくアメリカン・ドリームを実現してきた条件であった。貧困の固定化と社会的移動の低下は、アメリカン・ドリームとアメリカン・デモクラシーを危うくするものである。ドリームとデモクラーシーによって、アメリカは1930年代の大不況を乗り越え、福祉国家を誕生させた。また1960年代には、「福祉国家」によっても救済されなかったマイノリティを救済し、社会統合を進めてきた。

中間所得層問題は、中間所得者と自認する人々をめぐる有権者の票争いだけではない。いかにして、中間所得者層を再興し、アメリカン・ドリームとアメリカン・デモクラシーを蘇らせるのか、そのゆくえを象徴する問題なのだ。【10月8日 http://www.sekaikeizai.or.jp/active/article/1008nakamoto.html】



拍手

PR

他人と争わないビジネス

「阿修羅」から転載。
私は元暴走族とかを売り物にする人間が大嫌いなのだが、下記記事の元暴走族の事業家の言葉は非常にまっとうである。しかも、発想がいい。

「誰とも競合しない分野を開拓する」

というのは、頭は使うし、成功したらすぐに誰かに真似されるという宿命はあるが、商売の王道だろう。
そもそも、同じ内容の仕事で何年も生きていける、というのは大昔の職人くらいのものだ。今の時代は、「手早く成功して手早く店仕舞いする」のが合理的だろう。だいたいの新興企業が失敗するのは、うまく店仕舞いできないからだ。最初から、「この仕事は3年を目途にする」くらいの計画で新規ビジネスは行うべきだろう。残った金は会社従業員全員で、適宜配分して、お終い、というわけだ。
ついでだが、私は「宮古島振興計画」というのを昔考えたことがあって、その計画の中に、ヤギを飼育してカマンベールチーズ(下記記事では「シェーブルチーズ」と書いている)を作る、というものもあった。カマンベールチーズは高い値段で売れるので、利益率がいいだろう、ということだ。そして、ヤギは飼育が容易である、というのも確かだろう。ただし、ヤギ肉は臭くて、馴れない人は食えたものではないから、肉食用にはお勧めしない。沖縄にはヤギ肉料理の好きな人も多いが、同じ沖縄人(「沖縄県民」と言うよりは、やはり「ウチナーンチュ=沖縄人」と言ってしまうのである。「県」になる前には「琉球国」であったという意識のせいかもしれない)でも、私には絶対に食えない。


(以下引用)




<読者の質問>
 鳥取在住のサラリーマンです。貯金は600万。「ホンマもんの成功法則」を拝読し、限られた資産、不動産を入手し、大屋業に君臨することを目指そうと決意しました。まずは次回の宅建の試験を突破することが目標です。

 並行して、競売物件や埼玉や北海道などの格安中古物件を改修して回していきたいと考えています。日本において、大屋業で最初に入っていく際の注意点やアドバイスありましたら、お願い致します。

<丸尾孝俊の回答>
 600万かぁ…。不動産じゃないかもしれんのぉ。地震が多い日本で、アパート買って家賃収入っていうのは、じつは微妙や。倒壊、出火、何もなくなって、廃材処理とかに金がぼぉぼぉいっていうのは避けて通らなならんかもしれん。だから、最初そこじゃないな。とにかく大屋業が絶対っていう話じゃないねん。修繕費もかかるし、客が入れへんかったりするからな。

 となると、まず身近でどういうものが売れてるか考える方がええな。
鳥取県と言えば…砂丘…メロンの産地やな…カレー、名産なんやろな…。もっと具体的なことがわかればええんやけど。まず、親が何しとるとか、周りの環境、こんな友達いてるとか。状況によっては、限りなく安い農地買うて、ウィークエンドかなんかに生産者募って、利益折半にするとか、そんな方がええんかもしれんと思ったりする。

 農地やったら地震きて、野菜ひっくり返っても起こしたらしまいや。リスクが減るわけや。おれが、みんな何故やれへんのかなと思ってんのはヤギや。ヤギ飼ってチーズを作るねん。シェーブルチーズや。

 沖縄では食べるけど、本州ではそれほど普及してへんねや。このビジネスの良いところは、ヤギってのは安く生産できんねん。病気は少ないし、手間もほとんどかからない。餌は雑草でええし。ごっつい安上がりや。だから、ヤギは大昔前から豚のライバルやったんや。

 あとは、シェーブルチーズを居酒屋から家庭にまで普及させる工夫できたらキミが日本で第一人者になんねや。

 敵おらんとこで勝負するねん。敵の根を抜いてまでっていうのはやったらいかんねん。敵にも従業員がおったり、いろいろ生活があったり、悲しむ者もようさんおったりする。共存を考えると、敵がいないとこを自分で切り拓く、そこに新しい誰かが資本持って追いついてくるっていう状況。そっちの方がええねやて。

 自分に非がないやん。自分はキチっと天国行ける状況っていうのを常に保つっていうのがおれはええと思うな。


▓ 丸尾 孝俊
元暴走族総長。16歳から仕事をはじめ、吉本興業など数々の職種を経て独立。1995年に単身インドネシア・バリ島に移住し不動産業を興し従業員数5千人以上のゼネコンPASTIグループに。資産数千億を超える大富豪。

拍手

亀の首(ネック)が消えたか?

「阿修羅」から転載。
私は亀井静香ファンなのだが、彼のネックは石原(人間の屑)慎太郎との「友情」で、彼がしばしば石原との政治的連携をしようとする姿に、いつもがっかりしていた。
若い頃(青嵐会時代)の「盟友」である石原に対し、亀井が友情を感じているのは無理もないことだが、石原という男は政治家としては最悪の人間であり、その石原と亀井がとうとう決別したらしいことは目出度いことだ。これで亀井を安心して応援できる。
私は石原(人間の屑)慎太郎の悪口ばかり書いているが、彼にはある種の魅力や才能もあることは確かだろう。「前頭葉の委縮した」ボケ老人という言い方や見方は大間違いである。頭脳の働きに関しては立派なものだ。ただ、人格が低劣で、「人間の屑」である、というだけである。
作家としての才能もたいしたものであり、彼の「人間としての評価」を決定づけた「太陽の季節」「処刑の部屋」「完全な遊戯」も、悪徳の文学的表現もまた文学である、とするならば、見事な達成である、と言える。そういう文学がはたしてこの世に必要か、と言えば議論の余地はあるのだが。まあ、マルキ・ド・サドやマゾッホが存在したことで文学の空間が広がったのと同様だと言える。それほどの大物ではないが。
しかし、石原がそのサディスト的本性のままで政治の世界に出てきたことは大間違いである。
サディストとは究極のエゴイストでもある。
エゴイストが自分のエゴを満足させるために政治を行った結果、それが一般大衆の利益にもつながった、ということがはたして歴史上あったかどうか。
もちろん、凶悪な独裁者が、同時にいい政治「も」行うということはあるのは当然であり、それでなければ国家の維持はできない。したがって、政治家の評価は総合的に判断する必要があるのだが、その政策だけを見ても石原や橋下、あるいは現自民党執行部や現民主党執行部、あるいは権力の腰ぎんちゃく政党の公明党幹部などが全員、「政治家落第」であることは今さら言うまでもないだろう。
話が長くなり、中身もとっちらかった。とりあえず、亀井静香と石原(人間の屑)慎太郎が決別したことを慶賀しておく。



(以下引用)



盟友亀井静香が激怒「石原慎太郎は間違っている」 (日刊ゲンダイ) 
http://www.asyura2.com/12/senkyo137/msg/791.html
投稿者 赤かぶ 日時 2012 年 10 月 27 日 21:11:14: igsppGRN/E9PQ


http://asumaken.blog41.fc2.com/blog-entry-7263.html
2012/10/27 日刊ゲンダイ :「日々担々」資料ブログ


親としてのエゴしかない新党結成

任期途中で突然、仕事を投げ出した東京都の石原知事。批判もどこ吹く風の唯我独尊ぶりで、26日の定例会見も大半を新党関連に費やし、20分後には「約束があるので」と一方的に打ち切った。で、向かった先は映画の上映会。まだ現職の都知事なのに、責任感はまったくない。ホント、いい加減な老人だ。

こんな男が新党結成だなんてチャンチャラおかしい。マトモな感覚の国民は相手にしないだろう。“盟友”だったはずの亀井静香前国民新党代表にも、あっさり袖にされてしまった。

「石原さんも本音では自信がないのでしょう。亀井に“助けてほしい”と言いに来た。それをビシッと断ったのです」(政界事情通)

新党結成宣言の夜、会いに来た石原に対し、亀井はこう話したという。

「オレが国民のため、日本のためにオールジャパンでやろうと言った時には断っておきながら、今になって何サマのつもりだ。アンタが今やろうとしていることは、国民のためじゃない。それこそ我欲じゃないか。政治家というのは、国民のために己を殺すものだ。アンタは間違っている。オレは合流しないぞ」

まったく、亀井の言う通りだ。そもそも、「石原新党」構想は、亀井や「たちあがれ日本」の平沼代表らが提唱し、働きかけてきた。しかし石原は煮えきらず、今年4月に“白紙撤回”を表明したのである。

「それもこれも、長男の石原伸晃を総理にしたいという野望のためです。一方で、新党構想には、三男の宏高を当選させる目的がある。日本のためだ何だとエラソーに言っているが、石原都知事に政治理念などない。親のエゴで動いているだけなのです」(前出の事情通)

そんな男だから、亀井も愛想を尽かしたのだ。政治ジャーナリストの鈴木哲夫氏が言う。

「亀井さんの頭の中には、菅政権末期から『救国内閣』の構想がある。それが石原新党へとつながっていった。亀井さんが描いているのは政界再編で、自民党政権に戻してはいけないという思いが強い。そのためには小異を捨てて、大同団結するという発想です。そこが“純化路線”の石原氏や平沼氏とは相いれないのでしょう。どちらかといえば、小沢氏の『オリーブの木』に近い。今後は第三極の一角として、例えば民間人を旗に立てて、その下に政治家が集まるような形を考えているようです」

私利私欲の石原とは、決別して正解だ。

拍手

日常の芸術化

私にとって長い間の謎の一つが「茶道」であった。お茶を飲むだけのことをなぜあれほど面倒臭い儀式にし、しかもそれがなぜ、血で血を洗う戦国時代の武将たちの間ですら広まったのか。
戦国武将に関しては、お茶の席が一種のアジール(「聖別された逃避所・緩衝地帯」という意味としておく)であり、そこでは敵と味方さえも平和のうちに政治的密談を行うことが可能であった、という説があり、戦国武将にとってはこのメリットは大きかったのかもしれない。だが、一般人にとっては「茶を飲むことの儀式化」がなぜ必要だったのだろうか。日常のストレスからの逃避の場ならば、日常以上に強いストレスと緊張を要するような様々な作法や慣習の存在はナンセンスだろう。
茶道の達人たちの中にはそういう外面的な作法に拘らなくてもいい、という人もいるようだが、作法を抜きにした茶道は「茶を飲むだけ」に見える。そこに「茶道の精神」があれば、茶を飲むだけの行為も実は茶道になる、というのが結論になるのかもしれない。ちょうど、キリスト教におけるパリサイ派の「外面的規範を厳格に順守せよ」という行き方に対し、「内面性こそが大事である」、というイエス・キリストの教えが対立するようなものが、茶道にもあるようだ。
では、「茶道の精神」とは何か、と言えば、私は「日常の芸術化」である、と考える。もっと気どった言い方をすれば「日常の聖化」である。もっと普通に言えば、「日常を美に変える」ということだ。つまり、我々の日常の意識の深度が1か2であるならば、それを10にも100にも深めた意識で日常のあらゆることを見直し、その深度で生きることが茶道の精神ではないか、と私は考えている。私が味わう茶の味は、はたしてその茶の味の可能性を100%引き出したものだろうか。私が茶碗を扱う手つきは、果たして「美しい」だろうか。私が茶を入れる段取りは「芸術」だろうか。
もちろん、「茶」は「日常の芸術化」の象徴にすぎない。その意識で毎日を生きることで我々は人生を「高次元の生活」に変えられる、というのが茶道の意味ではないか、と私は妄想するわけである。
茶を飲むことは誰にでもできる。しかし、「茶を本当に飲む」ことは誰にでもできるわけではない、というこの誰にでも参加可能な、不思議な「日常の芸術化」が昔から多くの人の心を捉えてきたのではないだろうか。
コリン・ウィルソンが日本の茶道を知っていたら、ここにこそ「至高体験」に至る道がある、と言ったかもしれない。
なお、念のために言えば、私は世間的な意味での「茶道」体験は一度も無い。利休その他の先人たちも自分たちのやっていることを「茶道」とは言わなかったはずだ。「茶の湯」が「茶道」になったことと、お茶の儀式化や形骸化は並行して進行した気がする。




(以下「がま仙人のブログ(ガマ仙人の徒然草)」より転載)




ワシんちからスーパーまで
買い物に行く間に
日本庭園があって
そこにひっそり茶室がある
(この写真)

たぶん茶室だと思う  (茶室じゃなくてもいいけど)
しかも一畳半のものである
もしこれが茶室だとすると
ここのオーナーは相当すごいレベルだと思う

で一畳半の茶室の話をしよう

一疊半の茶室はすべての無駄を省いた
究極の茶室で利休が理想としものだ
禅僧として修行していた孫の宗旦が
利休のわび茶の思想を受け継ぎそれを極め
清貧に徹して「乞食宗旦」といわるまでになった
宗旦が設計する一疊半の茶室は、ついに
床さえ抜いてしまうという徹底ぶりだったんだね

利休はそもそもわび茶を追求してたわけだから
それを徹底的に極めていけば
最終的には宗旦の一畳半の茶室になるんじゃないか
ワシはそう思う

ちなみに今伝わっている茶道は
わび茶じゃないよ
たんなる茶道だよ
きれいな着物着て
お菓子くって
茶碗ほめて
茶道具の値段でびっくりしてみたり
価値のわからない掛け軸を絶賛したり
嫁の嗜みとしての茶道
旦那芸としての茶道
身体動作は美しくなるだろうけど
本来のわび茶じゃない
ワシはそう思う

もともと茶の湯ってさ
禅宗の坊主たちが
眠気ざましで飲んでた茶を作法化して
時の権力者の嗜みになったというだけのもので
たいしたもんじゃない

(中略)

長くなってしまった
わしがいいたいのは
村田珠光や乞食宗旦が
日常やってた清貧な生き方
そのものが茶の道なんだということ
そして禅の道なんだということだよ

そういう達人の極めた道をみてみたいもんだ
ブルーシートの中にガラクタを
詰めるだけ詰め込んで安心しているホームレス
部屋を汚し、ゴミだらけにして
ねっころがってTVを見ている貧乏さん
ここには道とかはない

また
綺麗な着物を着て
窯の値段とか茶碗の値段とかしゃべっているおばちゃんたち
師範の免除がどうのこうのいっている旦那衆
そこにも道はない

あっさりした茶室のような小屋    (別にブルーシートでもいいよ)
掃除がいきとどいた庭に小さな花が咲き   (河川敷でもいいよ)
人知れず美しく貧乏している人がいたら
それは間違いなくわび茶を点てられる人です
作法とか関係なく美しいと思うよ

だって、わび茶とは生き方そのものなんだから




ちなみにね
「わびさび」という言語意識は
「美しい貧乏のなかの美しさ」という美意識に基づくもので
日本にしかない素晴らしい美意識です
ユダ金にとってはまったく迷惑な言語意識だよね






o 1. 坊主
o 2011年10月12日 06:30
o
写真の茶室、なんとも言えないほどの
味わい・風情があって、良いですね。




「一畳半の茶室の床を抜く」というのは
驚きました。

床を抜いてしまった茶室というのが
ちょっとイメージしにくいのですが
立ったまま、茶を点てたのでしょうか?





掃除がいきとどいた庭に小さな花が咲き
人知れず清貧に生きる人・・・

そこには、凛とした美しさがありますね。
2.
o 2. が
o 2011年10月13日 00:03
o 床抜きの茶室で
どうやって点てたのか
ワシにはわかりません

ゴザでもひいたのでしょうかね

「凛」という語感もすばらしいですね
日本語って随所に
すばらしいヒントがありますね

昔の人が残してくれた
魔法のキーワードですね
3.
o 3. ポン酢
o 2012年10月23日 14:53
o 古い記事に突然のコメント、申し訳御座いません。
臨済宗の泉田老師が、厳しい生活を過ごされる中「一服の抹茶で至福のひととき」との記事を読み、
禅とお茶の関わりを色々調べて行くうちに、利休さんと「わび茶」、そして茶道に辿り着きました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121019-00000122-san-soci

でも、何だか凄い違和感。
さらに茶道を調べて行くと、茶室への入り方だの座る位置だの、座り方だの立ち方だの、お礼の仕方だの、茶器の鑑賞の仕方だの、「もてなされる方の作法」ばっかが説かれていて。
利休さんや宗旦さんが追い求めた「わび茶」の神髄は、そこにあるのかなぁって。
もてなす方の「精神性」を言われる事はあっても、「作法」とか今の茶道みたいな「儀式化」なんて、考えてもいなかったんじゃないだろうかって。

そんな時に、この記事に出逢いました。
とても嬉しい気持ちになりました。
これで迷う事なく「わび茶」(茶道じゃナイですよw)を始められそうです。
有り難うございます。

拍手

着るだけで痩せて見える服

最近はいつも不愉快なニュースばかりなので、今日は明るいニュースを紹介する。
太めの女性の皆さんへの朗報である。
苦しいダイエットや運動などしなくても、「痩せて見える」服ができるそうだ。
服の柄を3D加工し、胸を大きく見せたり、体形を痩せて見せたりできるとかいうような話だが、これが商品化されるのが待ち遠しい人も多いだろう。
記事タイトルが「怠け者と軍人のための洋服」というから何か、と思ったが、この服は「迷彩服」としてまず実用化されるらしい。べつに「怠け者」と「軍人」が同類という意味ではなさそうだ。



(「ロシアの声」から転載。)



怠け者と軍人のための洋服


タグ: サイエンス, 解説, 国内
ゴンチャロワ・ユリヤ 24.10.2012, 17:04

Photo: SXC

ロシア・サンクトペテルブルグの学者たちは、3Dの特性を持つ新たな布を製造した。この布でつくられた衣服は、体型の短所を隠し、長所を際立たせるという。
新たな布の製造で重要な役割を演じたのは、サンクトペテルブルグ国立電子工学大学のニコライ・サフィヤニコフ職員。

これまで、立体的な柄が描かれた布はなかった。サフィヤニコフ職員は、多くの実験を行った。そして、布を形成している糸の網目を「対角線」にするという方法を見つけた。加えて、布の表面に高低がつけられた。これらの効果と人間の視覚特性によって、柄は立体的なものとして認識される。

3D布の柄は、サフィヤニコフ職員が開発した特別プログラムによって作られるが、製造するのは一般的な機械だ。

サフィヤニコフ職員はこれまでにも布を使った実験を行っている。サフィヤニコフ職員は、電磁波、太陽フレア、電磁嵐などから「遮断」する布の特許を持っているほか、特別プログラムを使ってコード化された糸でつくられた布の特許も取得している。これにより偽物の流通を防ぐことができる。

 サフィヤニコフ職員が3D布の開発を始めたのは2008年。3D布の特許は、サフィヤニコフ職員にとって「特許コレクション」の33番目の作品となった。

 3D布は、軽工業とファッション業界のための新たな展望を開いている。サフィヤニコフ職員は、「立体的な柄が描かれたTシャツ、ブラウス、あるいはネクタイがあったら、どれほど効果的に見えるか想像してみてください!見る角度によって、立体的になったり平面的になったり、あるいは柄の一部が変化します。人間が動くと、この布の特質は特に効果を表します。3D布は、たとえ柄が描かれていなくても、デザイナーたちの関心をひくはずです。なぜなら、この布をつかって作られた洋服は、体型を細く見せることができるからです」と語っている。

 このように、外科手術に頼らなくても、3D布でつくられたジャケット着ると、胸が大きく見せることもできる。またスポーツジムに通わなくても、この布で作られたワンピースを着れば、ウエストが細く見える。

 ロシア・イワノワ州の工場は、すでに新たな布の見本を製作した。現在、大量生産に向けて準備中だ。3D布を使って最初に大量生産されるのは、軍人のための迷彩服になる予定。

拍手

市民社会に根を広げる暴力の存在

「つむじ風」ブログ記事のこの部分が面白いので転記する。


(以下引用)


その喧嘩の啖呵は、これまた、尋常ではないことをツイッターに公開しまくっている。この人、何を考えているのであろう。こう言うことで日本のリーダーを本当に目指しているのであろうか?



 日本流ではない。



 どこかの国のようだ?! と思われるのは、必定だろう。



 罵詈雑言、悪態の吐き放題、先に吐いた方が勝ちの世界が、どこかにある。決して、我が国ではない。そう感じた者は私一人ではないだろう。



 このことが、出自の自己証明である。



 ヤクザの言葉に、『かまし』と言う言葉がある。ヤクザの喧嘩は、『かまし』の応酬だ。そのためにヤクザの子分衆は、日常、『かまし』の練習に明け暮れるのである。これは本当の話である。



 不肖、私の友人(別に親しくもしていないが・・)に、かつて、或組事務所にわらじを抜いていたものが居たが、その証言であるから、間違いはない。



 ヤクザの喧嘩は、初歩的には『かまし勝ち』で終わるのである。



(引用終わり)


私にはヤクザや暴力団との面識は無いが、そういう連中は「見れば分かる」はずだ。というのは、彼らは自分たちがヤクザや暴力団であることをアピールすることがシノギ(生活手段)の大前提であるはずだからだ。要するに、他人に怖がられることで恐喝行為をし易くするわけだ。そのためには、自分が「そういう存在」であることをアピールする必要がある。「黒塗りのベンツ」や派手なヤクザ風背広は彼らの趣味と言うよりは制服的なものなのである。警官の制服と同じことだ。どちらも「威圧」が目的である。
他人を威圧することで生きている人間は、正体を隠そうとしても猫を被り切ることができなくなる。そのうちに「お里が知れる」わけだが、目のある人間は、最初からそれが見えている。橋下のマスコミ登場の初期から、私が彼に激しい嫌悪感を抱いていたのは、彼の正体が見えていたからである。
橋下は「喧嘩が強い」ことが自慢なようだが、相手の親が暴力団かヤクザであると知っていれば、誰でも逃げるに決まっている。つまり、ヤクザや暴力団はこの世の「特権階級」なのである。そういう存在に対し警察がほとんど手をつけず、見逃しているのは、尼崎の事件を見れば分かることだ。
あの事件の一番の問題は、何十年にも亘ってあのような悪事を働きながら、あの「私設暴力団」の存在が問題化しなかったことだろう。つまり、「問題化しないという問題」である。





拍手

婉曲と強調

「ネットゲリラ」のコメントの一つが面白いので、転載しておく。
橋下という人間は条件反射で言葉を口にするだけで、論理性がゼロであることがよくわかる。新聞側のこういう表現は橋下に対して親切な「婉曲化」であり、「強調」とは正反対である。
ついでに言えば、「抹殺しなければならない」ではなく、「抹殺し」に「行く」と言う事は、具体的な行動を意味する。明らかな肉体的暴行を意図するものであり、はっきりとした殺人予告、脅迫である。これこそ脅迫罪で告訴されるべきものだ。
橋下という人間が根っからのヤクザであることを自ら示したとも言える。
口先一つでのし上がった人間が、自分の口のために滅ぶということになれば結構な話だが、この件が不問にされるなら、どうせマスコミとは八百長喧嘩だろう、という見方が正しいことになる。



(以下引用)




橋下「佐野を抹殺しにいかないといけない」
毎日「橋下市長は『佐野を(社会的に)抹殺しにいかないといけない』など激しい言葉を述べた」
橋下・>>1「毎日新聞は悪意をもって『抹殺』という単語を強調している!」




(追記) 「カレイドスコープ」を今読んだところ、まったく同趣旨の言葉があったので、援用させていただく。


(以下引用)


ハシズム独裁を是とする「維新の会」の危険性と狂気



橋下徹は、「ハシシタ」報道の前から、自分のツイッターを使って、少しでも反論しようとする論客たちに攻撃を仕掛けていたようです。

特に、週刊朝日の「ハシシタ」連載報道の一連の記事を執筆したノンフィクション作家・佐野眞一氏に対しては執念深く攻撃を続けています。

「佐野を(社会的に)抹殺しにいかないといけない」と公の場で発言するなど、これは駄目でしょう。

これは橋下の佐野氏に対する殺人を匂わす発言と受け取られても仕方がない。

この橋下というヤクザ者気質を表現するには、週刊朝日の「橋下の本性」という言葉を使う以外にないでしょう。
彼には、狂気と異常性が確かに見て取れます。やはり非常に危険な男です。

週刊朝日はすでに謝罪しており、さらに2ページにわたって謝罪文を掲載し、連載も中止することを約束しているというのに、決して許さない橋下の異常な人格には後ずさりしてしまうのです。



拍手

カレンダー

01 2025/02 03
S M T W T F S
23 24 25 26 27 28

カテゴリー

最新CM

プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

ブログ内検索

アーカイブ

カウンター

アクセス解析