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初夢は「ゴジラ」

初夢というのは1月1日の夜、つまり1日と2日の間の夜に見た夢だと聞いたことがあるが、それは見なかった、というか見た記憶が残っていないので、先ほど寝覚めの前に見た夢のことを書く。
まあ、他人の見た夢の話ほどつまらないものはないとも言うが、別に夢だからつまらないのではなく、他人の話はたいていつまらないだけだろう。某女性の話では、相手との会話が続くのは、相手が話している間、ロクに聴かないで、自分が話すことを頭の中では考えているからだそうだwww 夢ではなく現実の話なら、(第三者のゴシップでも悪口でも)自分の利益になることもあるが、夢の話ではそれもないからつまらないわけだ。
で、私の初夢は「ゴジラ」の夢で、それも、ゴジラの子供(大人の人間より少し大きいくらいの背丈か。ミニラのようなギャグ的アホキャラではない。本物の恐竜である。)が100匹か1000匹くらいの大群で人間界(都市)を襲うという話である。私自身も、あるビルの中に逃げ込むが、外から子供ゴジラが侵入した気配があって、なかなか怖かった。このあたりは「ジュラシックパーク」か何かの影響だろう。
ちなみに私は子供のころはSF映画、特に東宝SF映画が大好きで、「ゴジラ」や「モスラ」は見たが、亀が空を飛ぶという「ガメラ」などの東映SF映画はアホ臭くて見なかった。「大魔神」は見たかったが見る機会が無く、大人になってテレビで見た。
これもちなみにだが、私は「ゴジラ」に関しては初代ゴジラ(ゴジラ第一作)原理主義者で、それ以降のゴジラ映画はひとつも認めていない。作られたこと自体が第一作への冒涜だと思うから、見ることすら拒絶してきた。まあ、庵野秀明の「シン・ゴジラ」は良かったが、あれは庵野のゴジラであり、やはり初代ゴジラの持つ恐怖感には及ばないと思っている。つまり、高層ビルの立ち並ぶ現代では、あの巨体の持つ威圧感がどうしても失われるので、口から吐く怪光線などでしかその破壊力が表せないわけだ。
で、私の初夢に戻るが、夢の最後のあたりはたぶん半分覚醒状態で、私自身が夢の続きを「作った」のだと思うが、ゴジラ対策の秘策を持つ若い貧乏女性科学者に、孤独な大金持ちの老婆が資産をすべて贈与し、その研究を完成させる、というところまでの話だった。なかなかフェミニズムに配慮し、また資本主義批判的でもあり、私らしいのではないかwww


付記:文中の「相手との会話が続くのは、相手が話している間、ロクに聴かないで、自分が話すことを頭の中では考えているから」を発展させると、「相手の話をキチンと聞きながら、その間に自分の話すべき内容も同時に思考する」という、苫米地英人の「二重思考」技術になる。

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地震被災復興支援と大阪万博の軽重

なるほど。言われればその通りだ。
コメ2は、いかにもありそうである。3も同様。

万博に使う金で石川支援しないの?

Category: 未分類  
1: 名無しさん 2024/01/01(月) 19:43:16.56 ID:SnypO9PS0


引用元: https://nova.5ch.net/test/read.cgi/livegalileo/1704105796/



2: 名無しさん 2024/01/01(月) 19:43:40.13 ID:Ygfm2K6od
復興万博で支援金全部万博に行きますよ

3: 名無しさん 2024/01/01(月) 19:43:42.17 ID:sy7HTvkR0
復興増税するわ

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日本が破滅に向かう理由(巨額の政府負債と人口減少)

宋文洲のツィッターに載っていたジム・ロジャーズインタビュー動画である。
人口減少による税収減少は、どんどん増大する政府負債を返却不可能にする。つまり、税金は上がり、国民生活は窮乏化するしかない。やがては国家破産である。これが、人口減少と無能政府の未来である。


https://twitter.com/i/status/1719496509031641093

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社会が貧しかった時代の「見えない階級」と、現在の「見える階級」社会

「東海アマ」氏の新年の記事で、内容のほとんどに私は不同意だが、「読み物」としては面白いので転載する。とうとう「自分には超能力がある」とまで言い出したwww
しかし、アマ氏の記憶力には脱帽する。社会的事件の数々をよく覚えているものである。検事にでもなれば、権力の有力な手下になれただろう。
その異常な記憶力がまともな論理性と判断力を伴わないのが彼の悲劇だったのではないか。
彼の言う「正義」や「人情」など、彼の妄想だろう。1940年代に人々が「協力し合って」生きてきたのは、国民のほとんどが貧乏だったという「原始共産制的」社会だったからにすぎない。貧乏人は互いに助け合うしか生きる術はなかったわけだ。もちろん、伝統的文化(落語など)で得た精神も根底にはあるだろう。「寅さん」の作られた時代は、人情社会が滅亡しかかっていたからこそ、そういう「人情噺」が作られたのである。
人間が「自分の生存に有利なように」合理的に行動するのは当然であり、その結果がエゴイスト社会になるのは、実は「1億総貧乏人」社会から脱出した結果であると言える。「昔は良かった」と、この記事を読んでいるあなたは本当に思うのか? それは「昔の中のいい部分」だけを見ているからだろう。昔から、暴力と金力、つまり権力は社会を支配していたのである。

(以下引用)



 日本の未来を担う若者たちが、自分の地位や収入ばかりに関心を向けて、「正義」に強い関心を示さなくなっていることは、これまでも何回も指摘してきた。
 だが、「正義=合理性」を求める若者たちの意思だけが、歴史と未来を作り出してきたのだ。
 正義を求めないことは、未来を放棄していることに等しいと私は思う。
 社会を良くしたいと思わない人々が増えれば、間違いなく社会は悪くなるのだ。

 日本から人口増加が失われたのは2008年だ。だが、世帯数は、それでも増加している。つまり、大家族が減って、孤立した小家族が増えたということだ。
 人間社会にとって、もっとも大切なことは、助け合う連帯関係を持った集団がいるということだ。
 連帯のある国には未来がある。だが日本には連帯がない。
 https://news.yahoo.co.jp/articles/902c09781864ff47765290e1362caee1c8119c8d

 今から半世紀以上前まで、日本社会には、たくさんの共同体互助会があった。
 家族ももっと規模が大きく、「大家族共同体」というべき互助会だった。
 これを「親族共同体」という血縁ネットワークが支えた。
 さらに、企業自体も「職場共同体」だった。それは「同じ釜の飯を食う互助会」でもあった。

 半世紀前、日本人は、今の何倍ものコミニュケーション環境に置かれ、人々の対話は桁違いに重い存在だった。
 これらの互助会が、「やっていいこと、悪いことの評価」 「困ったことを助け合う」社会を作り出していた。

 だから、互助共同体のネットワークにいれば、犯罪を犯すことも、窮乏に苦しむこともなかった。「みんなで、一緒に生きていた」からである。
 何か間違いがあったり、失敗したりすれば、家族・親族がすぐに親身になって助けてくれた。人々は、「助け合い」そのものを生き甲斐にしていた。
 人に対して優しくできることが、人生の意義そのものだった。

 親族共同体には、「おせっかいばばあ」という妖怪がいて、私のように結婚できない男が老人になるまで放置されることは許さなかった。他人の不幸を、寄ってたかって解決しようとしたのだ。
 「幸せは、みんなで享受するもの」だった。みんな、他人の幸せが嬉しくて仕方なかったのだ。

 そんな時代の、日本人の哲学、世界観、人生観、価値観をひとつの言葉で表すとすれば、それは「人情」と呼ぶのがふさわしいのではないかと思う。
 だから、古き良き時代の人情を求めて、人々は寅さん映画を見ようとした。
 人情を題材にしない映画やドラマなど見向きもされない時代だった。

 そんな共同体(互助会)社会が失われていったきっかけは、おそらくバブル経済だろう。70年代末から80年代にかけて、金儲けのチャンスに沸く時代がやってきた。
 大半が不動産バブルによるものだったが、そのボロ儲けを狙って、雨後の竹の子のように、組織詐欺師が沸いて出てきていた。
 まずは豊田商事、ネズミ講で有名な天下一家の会、法の華、アースウォルカー、ライブリイ、WAO、統一教会や創価学会の金集めも、ほとんど詐欺に類した手口だ。

 これは「人情より金儲け」という価値観の転換がもたらした時代の結実というしかない。詐欺に欺される人は、他人を助けるより、自分が金儲けで優位に立って他人を見下せるという願望を利用されたのではなかっただろうか?

 みんなが、人情などより、金儲けだけが人生最高の価値と信じる新自由主義の時代がやってきた。
 土台になったのは、私には学校教育における儒教的序列付け、学歴競争をもたらした競争主義ではなかったかと思う。
 人に序列をつける学校教育での価値観が、バブル時代になって金儲け競争の凄惨な社会を産み出したと考えているのは、私一人だろうか?

 やがて、序列付け価値観は、深刻な差別を生み出し、子供たちの間に陰湿なイジメをもたらした。私も暴力的なイジメを受けた世代ではあるが、それは在日朝鮮人問題と絡んでいた。だが、今のイジメは、学校教育の序列主義がもたらしている残酷なものに見える。
 あれほど「他人の喜びが自分の喜び」だった社会なのに、他人の苦しみが心地よいような荒んだ心情を子供たちにもたらしている。

 私も、相当にひどい誹謗中傷と嫌がらせを何十年も受け続けているのだが、私の場合は、反原発姿勢を嘲笑し侮蔑するものや、学歴問題を持ち出すものが多い。
 https://note.com/love2mac2002jp/
 いまどき、中卒という中傷を平気で行える神経は、たぶん、この人物の出自が韓国系であることを強く疑わせるものだ。

 精神のねじ曲がった、この人物も、おそらく陰湿なイジメの犠牲者だったことが窺えるが、この男は、自分へのイジメを、他人に転嫁することで、気分を晴らそうとする世にも矮小な人間性である。
 竹中平蔵が、和歌山市の下駄屋出身だったことに通じるものがある。

 問題の本質は、若者たちが「他人を見下す」ことが正義であるかのように洗脳されてしまっていることだ。
 他人を見下せる気分を味わうためには、大家族であっては困る。孤立した小家族で、美人妻、イケメン夫、高級車、豪邸というアイテムを得て、みんなが羨むライフスタイルを作りたい。人との助け合いなど、まったく興味がない。

 パレスチナで大虐殺があっても、ウクライナで民衆の苦難があっても、どこかで人々が飢えていても、何の関心も持てない。
 ただ、自分の生活を他人が羨むようなものにしたいことだけが、人生のモチベーションになっている。
 他人を見下せない人生に、何の価値もないと考えているのだ。
 「人間は、他人と連帯して生きている」真実を見失った若者たちばかりになった。

 この傾向が始まったのは、たぶん1980年代だと思われるので、すでに40年以上だ。
 こんな差別化の価値観に乗って、レクサスやロードスターというブランドが登場してきた。社会全体が消費税のために貧しくなった今では、たぶんジムニーとかNBOXになっているのかもしれないが。

 若者たちは、他人を見下すのに一生懸命で、自分たちがなぜ貧しくなっているのか、その本当の理由を知ろうとしないし、怒ろうともしない。
 日本社会の問題が消費税にあることを理解しようともしない。そして、若者たちの多くが、自分たちを苦しめている元凶の自民党や維新党を支持しているのだ。

 だから2024年になっても、消費税は廃止されないだろうし、若者たちの生活が向上することもないだろうし、生活苦から出産子育てを避ける風潮も止まらない。
 「人情社会」に回帰したいと願う若者は見当たらないし、ガザの大虐殺に憤る若者の姿も見ない。
 つまり、世界の人々に連帯して喜びを共有しようとする若者が見えない。

 こんなことでは、日本社会は、このまま崩壊に向かうしかないと確信するしかないのだ。日本人全体が、意図しない集団自殺に向かう運命しか残されていないように見える。
 何が正しくて、何が間違っているのか? どんな社会を目指さなければならないのか、ネット上を見ても、希望の持てるビジョンが、どこからも示されていない。

 何度も書くが、我々は、「人情社会」を復活させることしか、未来を生きることはできない。人々が連帯して、間違っていることを許さないと声を上げることしか、社会を変えることはできない。
 ガザやウクライナの現状に憤らなければ、我々自身が同じ運命に向かうしかないのだ。

 元旦、私は相変わらず一人で生きている。もっとも子供の頃、家族と一緒にいた以外は、ただの一度も、正月を他人と過ごしたことはない。
 まあ、落ちこぼれ人生だから仕方ないのだが、残念なことに、私は世間の女性たちから配偶者として選ばれないまま年老いてしまった。まあ婚活経験もゼロだが。
 だが、私にとって、正月は厳冬の山で過ごしていた方が快適だった。

 私には、わずかな超能力があって、ほんの少しだけ未来が見えるのだ。そして、今の私の耳には、日本が滅亡する跫音しか聞こえない。
 消費税廃止の機運が見えなければ、日本社会が元気を取り戻すこともできない。
 だが、未来を担う若者たちの誰からも、消費税をやめろという声が聞こえてこない。だから、日本社会は、このまま韓国とリンクして滅亡してゆくのだろう。

 今年か来年には、誰一人経験したことがない、恐ろしい天災がやってくると、たくさんの人が予言している。出口王仁三郎に至っては、日本人は3%も生き残るのが難しいと言った。
 http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5967194.html

 2025年7月には、史上最悪の天災がやってくると竜樹諒が予言している。
 https://bunshun.jp/articles/-/58981

 日本が本当に良くなるのは、何もかも失って、1940年代のように助け合わなければ生きてゆけない社会になってからなのか、と私は思っている。
 高さ100mを超える津波が襲ってきて、何もかも破壊される。実は日本人は、そんな災厄を繰り返し受け続けてきた。
 だから、世界有数の優れた民族になったと考えている。
  
  このまま人口が増えなければ、地球社会の主役は、最大の人口を持つインドが担うことになるだろう。
 中国は確実に崩壊する。もしかしたら大半の人が死んでしまうかもしれない。
 もちろん、その前に、中国を脱出できる人々が大量に日本に移住してくる。韓国も同じだ。

 これから、我々は北朝鮮という国と民族が、この世から消滅するような事態を目撃することだろう。そして、中国は、自国崩壊の矛盾を台湾侵略に転嫁しようとする。
 そのとき、尖閣諸島で、戦後80年で初めての軍事衝突が起きる。その先は、日本本土への核攻撃も大きな可能性を持っている。
 2024年、中国共産党による尖閣侵略から日本社会は、動乱に叩き込まれると覚悟するべきだ。

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「二酸化炭素→植物の光合成→(適度な)酸素生産」のサイクルが地球の生命の原理

私は(何度も書いてきたように)「地球温暖化」論自体が虚偽、あるいは詐欺ではないかと思っているが、その主な論点である「二酸化炭素犯人説」になると噴飯ものとしか言えない。二酸化炭素は地球上の植物の生命の元であり、植物はすべての動物の生命の元だから、二酸化炭素が増加して何が悪いのか。これは、動物は酸素を吸って生きるから、二酸化炭素の増加は動物の生命を脅かすという迷信的思想が元になっていると思う。二酸化炭素も窒素も、動物の生命維持にはほとんど影響はない。植物がちゃんと存在したら、その光合成で酸素を産み出すから、動物も存在できるのである。純粋な酸素だけの中で長期的に生存できる動物はいないだろう。
そして、人類の生存にとって「温暖性」は生命線であり、地球温暖化はむしろ恩恵だ、というのも何度も書いてきた。温暖化による地球上の氷の融解と海面上昇が嘘だというのも、すでに明白だろう。つまり、仮に温暖化が進んだとしても、それは人類の生存可能区域、耕作可能区域が広がるという恩恵しか無いのである。豪雪地帯の生活を知っている人間なら、温暖化を悪だと言えるだろうか。

(以下「大摩邇」から引用)

フリーマン・ダイソン:大気中の二酸化炭素の増加の結果、地球全体がより緑豊かになっている Rhoda Wilson

さてはてメモ帳さんのサイトより
http://glassbead.blog.shinobi.jp/env/freeman%20dyson
<転載開始>

Freeman Dyson: The whole Earth is greener as a result of increased carbon dioxide in the atmosphere By Rhoda Wilson on December 28, 2023 • ( 5 Comments )


https://expose-news.com/2023/12/28/freeman-dyson-the-whole-earth-is-greener-as-a-result-of-increased-carbon-dioxide-in-the-atmosphere/ 


故フリーマン・ダイソンによれば、コンピューターモデルは気候を理解するのに役立つが、気候を予測するのは非常に難しい。


「宇宙から測定した結果、二酸化炭素によって地球全体がより緑豊かになっている、それはつまり、農業の収穫量を増やし、森林を増やし、生物界の成長を増大させているのだ、それは気候への影響よりも重要で確実なことだ」と、ダイソンは2015年、Conversations that Matterのインタビューで語った。


 


フリーマン・ダイソン[Freeman Dyson]1923-2020)は、場の量子論、宇宙物理学、ランダム行列、量子力学の数学的定式化、凝縮系物理学、原子核物理学、工学の研究で知られるイギリス生まれのアメリカ人理論物理学者・数学者。 20世紀の物理学で最も有名な人物の一人である。


2006年、ダイソンは『The Scientist as Rebel(反逆者としての科学者)』を出版し、地球温暖化における人間活動の役割に疑問を呈した。 2008年のPhysics Worldのインタビューでは、気候変動対策に費やされている資金は、代わりに「貧困、感染症、公共教育、健康など、より緊急で重要な他の問題」に向けられるべきだと述べた。彼はまた、気候変動の潜在的な利益について考えることは、「私たちに害を及ぼすことはないだろう」と述べた。


2015年、彼はConversations that Matterのホストであるスチュアート・マクニッシュ[Stuart McNish]と共演した。 「人為的な気候変動は存在する」と、彼は述べた。 「どの程度なのか、それが良いことなのか悪いことなのかが問題なのです。」


「まず第一に、私たちは詳細を理解していません。おそらく、それは一般に言われているよりもずっと少ないだろうし、そして最も重要なことは、二酸化炭素の気候変動以外への影響は非常に大きく、圧倒的に有利であるにもかかわらず、それが考慮されていないということです」と、彼は述べた。 人工衛星によって測定された結果、「大気中の二酸化炭素の結果として、地球全体が緑を増している。」



ダイソンは、大気中の二酸化炭素(CO2)が植生に及ぼす影響を「37年前」、つまり1978年頃から研究し始めた。


彼は、二酸化炭素の増加によって、農業の収量が増加し、森林が増加し、生物界のあらゆる種類の成長が促進されていると説明した。「そしてそれは、気候への影響よりも重要で確実なことなのです」と、彼は言った。


CO2が植物に与える影響を研究し始めた当初、彼はその影響は10%程度だろうと考えていた。 しかし35年後、彼はその影響が約25%であることを発見した。 CO2は約40%増加し、「その約半分は植生を増加させるために使われた。 「食糧生産にも、生物多様性、種の保存、その他あらゆることに、非常に有益なのです。」 これは観察可能な証拠によるものだ、と彼は付け加えた。


気候モデルは優れた予測モデルであるという考えについて、彼は、1960年代に二酸化炭素の増加と地球の気候の温暖化を関連付けた最初の気候モデルを開発した、日本の気候専門家である眞鍋淑郞がいつも言っていたこと、そして今でも言っていることを思い出した。


それらが気候予測を苦手とする理由は簡単だ、とダイソンは説明する。 「それらは、重要であろういくつかの要因しか含まれていないモデルです・・・しかし、モデルから抜け落ちているものがたくさんある・・・現実世界はモデルよりもはるかに複雑なのです。」


「私は、これらのモデルのどれもが本当に予測可能だとは思わない」と、彼は付け加えた、なぜなら気候変動はあまりにも複雑で、多くの要因が関係しているからだ。あなたはすべてをモデル化することはできません、それは道、見えない道です」と、彼は言った。


気候科学者の中には、太陽の温度は変化しないので、太陽の影響はないと主張する者もいる。 「太陽の温度が変化しないのは事実です」と、ダイソンは言った。 「しかし、太陽の活動は変化します。」


ダイソンが言及している活動とは、黒点と磁気嵐のことである。「これらは11年周期で非常に強く変化し、気候に影響を及ぼしている」と、彼は言った。


ニル・シャヴィヴ[Nir Shaviv]は太陽活動の影響を研究しており、「彼は、この太陽周期、黒点周期が気候に非常に直接的な影響を及ぼしていることを発見しました」と、ダイソンは言った。「太陽の活動が気候に影響を及ぼしている証拠は明らかです。」


「大きな追加の証拠がありました。それは小さな氷河期でした。17世紀に起こった小氷河期は、太陽が約70年間眠りについた時期と重なる」と、ダイソンは述べた。「マウンダー極小期と呼ばれる、太陽の黒点が発生しない時期があり、同時にヨーロッパでは非常に寒い気候が続きました。 ですから、これは相関関係のかなり強い証拠です。 しかし、現代の観測では、もっと直接的な証拠があります。」


気候アラーム論者のもうひとつのトリックは、水蒸気を「方程式から外す」ことだ。 水蒸気は大気の約90%を占めている。 だから、水蒸気を方程式から外すことはできない、とダイソンは言った。 「火星には水蒸気が存在しないので、火星の話をするのであれば、水蒸気を差し引いても構わないのです」と、ダイソンは笑った。


CO2は他の面でも非常に有益であり、それを減らそうとするのはクレイジーだ」と、ダイソンは述べた。 「事実は、二酸化炭素は増え続け、私たちは石油や石炭を燃やし続け、そしておそらくそれは私たちに良いことをなすーその結果、地球はより緑豊かになるでしょう。」


ダイソンは、ビョルン・ロンボルグ[Bjorn Lomborg]著の『Cool It: The Skeptical Environmentalist’s Guide to Global Warming』という本を紹介した。 「それは私が見た中で、最も優れた要約です」と、ダイソンは言った。 「(ロンボルグは)科学者ではなく経済学者ですが、非常に健全だと思います。 そして、経済的な根拠に基づいて、かなり良い主張をしています。」


「人為的な気候変動は確かに存在します。 問題は、それがどの程度なのか、そして良いことなのか悪いことなのかということです。 それはまったく別の問題です」と、彼は言った。 「全体的には良いことであり、多くの人が想像しているほど大きな影響はないと言えます。」


https://youtu.be/BQHhDxRuTkI 


重要な会話 二酸化炭素は世界をグリーンにしているか?フリーマン・ダイソンへのインタビュー、高等研究所、201569日(23分)


上記のビデオがYouTubeから削除されている場合は、こちらBrighteonでご覧いただけます。




<転載終了> 

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現代倫理学(4)


「道徳・倫理の発生機序」


「道徳・倫理の発生機序」

道徳や倫理(この違いは明確ではないが、「倫理」に「理」という字が入っている以上、「道徳」を「合理的なもの」として集成した体系が「倫理」だと思われる。)は「禁止の体系」だと言われる。そして明らかに部族や社会の秩序維持手段として発生し成長したと思われる。
その根幹となる「禁止」は何か、と言えば、総体的には「欲望の禁止」だろう。ほとんどすべての道徳や倫理、あるいは宗教で「欲望」は禁止対象となっている。
だが、欲望の充足こそは人間が最も求めるもので、人生の目的と言っていい。それが禁止されるのが道徳や倫理だから、普通人が道徳や倫理、あるいは宗教を敬遠し、嫌うのは当然であり、中で「意識の高い人間」たちが、「道徳や倫理や宗教のような『人間性の自然に反するもの』がこれほど歴史の中で重視されてきたからには、それには単なる欲望の満足以上の貴重な精神的価値、人生的価値、社会的価値があるのではないだろうか」と考え、深く考察してきたわけだ。私のこの小論もそのひとつだ。
幼児や小児は道徳や倫理を知らない。そこで、彼らは自分の欲望を満足させるために泣いたり喚いたりして大人を困らせる。この、「欲望の達成は他者の迷惑になる」ということが倫理や道徳の発生機序だろう。大人は幼児や小児が何かを求めて泣きわめくと、それを与えて黙らせるか、脅すか叩いて黙らせる。この「脅し」が宗教での「地獄」などである。「叩くこと」が一般社会の「法律」である。他人の物に手を出す(盗む、奪う)と刑法で罰せられる。これは小児を叩くのと同じである。言葉で説得して相手の行為を止める(黙らせる)のが「道徳」や「倫理」である。だから、基本的に幼児や小児には通用しない。ただ、幼児や小児が欲望の対象として求める物は高価なものではないから、通常はそれを与えるだけで済む。
道徳や倫理は法律より「運用が困難」である。法律の背後には政府があり、警察や軍隊という暴力装置がある。しかし、道徳は基本的に「自分自身が自分の法律であり、法秩序の維持者」なのである。誰の心の中にも「自分ルール」があるが、それは自分の知った大人の影響や、自分の読んだ本の影響でできている。そうした個々人のルールの平均的なものが社会秩序の維持に役立つ場合、それが社会道徳となる。(「公衆道徳」は、普通は公の場でのルールだから、社会道徳とは少し違う。社会道徳は、ひとりでいる時も、個人を規制していることが多い。)
たとえば、「他人に暴力をふるってはならない」というのは基本的な社会道徳だろう。だが、それを守らないどころか、あえて無視する人間もいる。つまり社会の中の野獣だ。学校という治外法権の小世界では、よく見られる人種である。また、刑務所の中などでは、「ルール」はあっても「道徳」は無いだろう。道徳とは自ら進んで服する自己規律なのである。刑務所のような下層社会でなく、逆に社会の上位者の世界には特殊な「自分たちに都合のいいルール」があるようだ。これも「道徳」ではない。道徳の大半は、「他人への肉体的精神的危害を禁じる」もので、それを厳しく守ると他人より上に行けないものなのである。戦争という殺人行為は明白に道徳に反するが、しかし国家の命令では兵士はその殺人行為に従事するしかない。戦争において「戦争反対」を叫んだ宗教者は驚くほど少ないのである。つまり、彼らの「殺すなかれ」は大嘘であるわけだ。
「道徳」は普通は「人生を良く生きるためのアドバイス」であることが多い。しかし、大多数の人にとっては、その背後に道徳の履行を強制する「創造主」のような絶対的存在が無いから、その道徳を守るかどうかは個人の選択に任されている。

まあ、まだ言い落としていることがあるかもしれないが、とりあえずここで筆を擱くことにする。

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現代倫理学(3)


現代倫理学(3)悪の本質=他者への共感の欠如


「悪」について考察する。
悪を倫理で取り扱う困難さは、「悪は個人的には利益を生むことが多い」という事実に基づいている。つまり、「悪が成功すれば、その実行者には利益を与え、社会全体には不利益を与える」のである。この不都合な事実を明言した倫理学者や哲学者や宗教家はほとんどいないと思うが、この事実を知らない人間もまたほとんどいない。だから、石川五右衛門ではないが、「世に盗人(悪人)の種は尽くまじ」であるわけだ。企業家や政治家など、世間で大成功をおさめ、警察に逮捕もされない大悪党はゴマンといる。つまり、警察や検察は「正義の味方」ではなく「権力の手下、権力の護り手」であるからである。このことを言明する宗教家や倫理学者もいない。しかし、自分の身に置き換えて考えれば、自分が警察や検察の人間なら権力者に立ち向かうことがまず不可能であることは容易に分かるはずだ。
簡単な話だが、善は善に反する行為はできないのに対し、悪は、必要な場合は善(偽善)もやすやすと行えるのである。現実世界では善は悪に勝てないのが道理だろう。
そこで、倫理が扱えるのは「個人的道徳」のレベルの問題だけという、情けない話になる。しかし、それは果たして小さなことなのか。つまり、倫理というのは自分の人生の導き手としてダメな案内人なのかどうか、もう少し考えたい。
私が世間の悪人たちを見ていて思うのは、その精神の卑しさである。そういう卑しい精神で一生を送る、その人生とは、巨万のカネがあろうと惨めな人生、生きるに値しない人生だ、と私は思う。
「卑しい精神」と言うとあまりに漠然としているが、「他者への尊重、愛情、優しさ、同情、献身」が欠如した精神と言えるだろうか。別の言い方をすれば「自己愛」だけが精神を満たしている人間、エゴイスト、特に残酷なエゴイストである。これは、まさに「悪」の特徴なのだ。
例を挙げるなら、『悪霊』のスタヴローギンである。彼は「何事も為しうる」能力と財産と身分を持ち、超絶的な美男子である。にも関わらず、人間に位階をつけるなら、彼はあの作品の中の人物で最下位になるだろう。それは、彼が他者をまったく尊重せず、他者を平気で踏みにじることのできる人間だからである。単に興味本位で、安月給の下級官吏のひと月の給料を盗んで恥じない人間なのである。それで一家が困窮することも分かり切っているわけだ。他人の不幸を平気で見ていられる人間を、私は人間の屑だと思う。企業経営者などにもその手の人間は多いのではないか。で、そういう人間の人生は楽しいのか、生きる価値があるのか、ということだ。
ここで、善というのを何か凄いことのように思うかもしれないが、要は「他者の尊重、敬愛」があるかどうかというだけのことだ。その反対になるのが高慢な自負心だろう。自己愛だけで満たされた人間は他者を尊重するはずがない。逆に、どんなわずかなものであれ、人間は自己犠牲を行う時、一番美しい。おおげさな言い方をすれば、自己犠牲をする時、人間は神に近づく、という印象すらある。『悪霊』の中で、シャートフが殺される前夜のシャートフとキリーロフの描写は、神々しさを感じさせる。これは、下級官吏の給料を盗む時のスタヴローギンの下劣さと対照的である。
つまり、善とは他者の尊重である、というのが私のテーゼだが、それは「美しい」行為でもあるわけだ。当人がその美しさを知らない時ほど、その美しさは輝かしい。悪を行う時人間は醜く、善を行う時、美しい。それだけでも倫理の価値は十分なのではないだろうか。
だが、これはまだ考察不十分な思想であるので、もう少し考えたい。

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酔生夢人
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仙人
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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