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街頭インタビューという嘘

「阿修羅」から転載。記事は「wantonのブログ」かららしい。
表マスコミ、特にテレビのワイドショーがいかに信頼できないか、下の写真を見れば一目瞭然なので、できるだけ拡散するのがいいだろう。
同一人物(無名の一般人としてだが、明らかに仕込みである。)が、あちらでもこちらでもインタビューに答えている。(笑)


(以下引用)



ミヤネ屋でヤラセ?
酒井法子&押尾裁判で同じ女性がインタビューに登場
https://twitter.com/joyponta/status/469373198463549441



TBS「サンデージャポン」で同一人物が複数の街頭インタビューに登場
https://twitter.com/joyponta/status/469373198463549441


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良心の外部委託

「クレアなひととき」(「in deep」の管理人氏の別ブログ)から転載。
「神」というものについては、私は単純に、「神が人間を作ったのではなく、人間が神を作った」「人間が神を作ったのは、人間の中に『神性』があるからだ」と考えている。つまり、人間の中には野獣性もあるが、神性もある、という、当たり前の思想をしている。
これが当たり前でなくなるのは、「神が人間を創った」派の人々、たとえばユダヤ教やキリスト教の人々がこの世界には存在し、しかもその連中が政治的にも経済的にも文化的にも精神的にも世界をかなり支配しているからである。
さらに、どういうわけか、もともとキリスト教徒のほとんどいない日本ですら、「外部の神(的なもの)」を信じる者はいる。つまり、自分の頭で考え、自分で善悪を判断する代わりに、「権威的なもの」に思考も判断もすべてお任せするわけである。これはユダヤ・キリスト教の信者と同じ精神構造である。
こうした「良心(あるいは良知、ボン・サンス)の外部化(外部委託)」というのは、生きる上ではなかなか便利なもので、たとえば兵隊などは、上官の命令があれば相手が武器を持たない農民や市民だろうが、女子供だろうが、平気で殺せるようになる。実はこれは会社員なども同じであり、上司や会社の命令であれば、法律に違反しようが、倫理道徳に反しようが、平気で実行できるのが「有能な人間」として会社などでは重用されるのである。


「神が存在しなければ、作る必要がある」(ヴォルテール)



(以下引用)




最近、手当たり次第に Amazon などで本を買っていて、ほとんど古本なんですが、「一冊一冊理路整然と読んでいく」ということができない私は、手が空いた時に、その時の気分でどれか一冊手に取り、すでに読んだページ以降の適当な場所を開いて、10分くらい読み、また手が空いたら別の本を・・・という、実にいい加減な読書方法なのですが、しかし、それだけに、パッと目にしたフレーズが忘れにくいというものがあります。

今日、パッと開いて目にした部分で、とても「なるほど」と思ったのは、下のフレーズでした。


神とか、真理とかいうものがわれわれの「外」にばかりあるものならば、神とか真理とかに従うということは、われわれ自身が「外」から縛られることになりますので、われわれは決して自由になれないのであります。

神とか、真理とかいうものが自己の「内」に埋蔵されている神性であるからこそ、神に従うということ、真理に従うということが、自己に埋められている神性をのびのびと外に出すことになるのであります。


これは、谷口雅春の『生命の実相』からですが、この、

> 神や真理が私たちの「外」にあるのなら、私たちは決して自由になれない

ということは、以前からそんなようなことを思っていたこともありますが、現実には、さまざまな宗教では、たとえば、その宗教の聖典などを読めば、このことはどこかに必ず書かれてあることだと思うのに、「その宗教を伝えている人がそれを大きく言わない」というところに問題があるような気がしています。

世界中にある多くの宗教の多くの信者たちの中の多くが、

> 神は「外」にいる

というような概念を持っていると思うのですよ。

これでは、宗教を信仰すればするほど、自由になれない。

神(あるいは真理)は、「自分の内部にいる」と考えなければ、どこまでも「外部の神」に精神的に縛られてしまう。

上の文章を書いている谷口雅春も新宗教の代表ではあるわけですけれど、「人間と自由」という問題と、「宗教と自由」ということについて、漠然とそう思ってはいたことですけれど、上の部分は、文字として読んで刮目した部分ではあります。

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劇場型恋愛について(承前)

さて、右近の下の和歌だが、


わすらるるみをばおもはずちかひてしひとのいのちのをしくもあるかな


多くの人は、句読点や分かち書き、漢字無しでこの歌を読むと次のように読むのではないだろうか。漢字交じりで書くと、こんな感じ。(って、これは駄洒落ではない。)


忘らるる身をば思はず誓ひてし。人の命の惜しくもあるかな。


この読み方で、最初の句点の位置が間違っている、と判断できる人がどれくらいいるだろうか。
というのは、現代語で「思わず」は、「思わず○○してしまった」のように副詞的に使われることが多いから、「思わず」を「誓ひてし」に掛かる修飾語だ、と判断するのは大いにありそうだ、と私は思うのである。しかも、前回書いたように、我々は和歌の上の句と下の句の切れ目をそのまま意味の切れ目(句切れ)として読みがちだから、「~誓ひてし。」と句切ってしまうのではないか。
もちろん、古文に堪能な方なら、「誓ひてし」の「し」は、過去の助動詞「き」の連体形で、終止形ではないから、ここが句切れではなく、「誓ひてし」は、次の「人」という名詞(体言)を修飾するものだ、と分かるのだが、ここでは「一般人」つまり、古文の勉強など、いい加減にしかしなかった人のことを言っている。
言うまでもなく、正しい読みは、「思はず」の「ず」が終止形だから、ここが句切れで、次のようになる。

忘らるる身をば思はず。誓ひてし人の命も惜しくもあるかな。


しかし、問題はそれでは終わらない。いったい「忘らるる」の主語(主体)は誰、「人」とは誰、という問題がある。それが分からないと、この歌は意味不明である。
そこで必要なのが、「古文世界の理解」というもので、言い換えれば、王朝(平安)文学の世界の(生活習慣・生活感情)理解だ。ただし、以下に書くことは、私の個人的な理解であり、こんなことは古文の参考書にはほとんど書いていないと思う。あるいは、私が無知なだけで、古文常識かもしれないが、私は読んだことは無い。
それは、「和歌とは基本的には個人的詠嘆を歌うものではなく、何よりも、誰かに宛てたメッセージである」ということ、「それらの歌が残ったということは、そのメッセージが、たとえ個人的なものでも、それは他の人にも知られることを前提として詠まれたものだ」ということである。これが恋の歌であるならば、それは「自分たちの恋を他人に披露する」という側面があった、というのが、私の「古文常識」なのである。
特に、平安文学における(いや、大和・奈良時代も含めて)歌に詠まれた恋愛は、その恋愛を「他人に披露し、人々を面白がらせる」という側面があったというのが私の推測である。これを私は「劇場型恋愛」と呼ぶことにする。
たとえば、額田王の有名な「茜さす紫野ゆき標野ゆき 野守は見ずや 君が袖振る」は、おそらく宴会の席上で、座興として詠まれたものだろう、というのは、誰だったかは忘れたが、高名な大学の先生が言っていた説だ。私もそう思う。額田王をめぐる天智天皇と天武天皇(当時はまだ天皇ではないが)の心理的闘争が無かったとは言わないが、この歌が詠まれた時点では、額田王はかなりな年齢であり、大海人皇子(後の天武天皇)が額田王に「袖を振った」のも冗談なら、額田王が即座にそれを「たしなめて」みせたのも冗談に対する当意即妙の応答だったというのがたぶん、正しい解釈なのである。
これが「劇場型恋愛」の典型的なものだが、さて、「忘らるる」の歌もまた劇場型恋愛の歌だ、と私が思う理由は、そう解釈しないと、腑に落ちないからである。
前に書いた句切れで読むと、解釈は次のようになる。



現代語訳
あなたに忘れられる我が身のことは何ほどのこともありませんが、ただ神にかけて (わたしをいつまでも愛してくださると) 誓ったあなたの命が、はたして神罰を受けはしないかと、借しく思われてなりません。


上の解釈(現代語訳)の中の「借しく」はもちろん「惜しく」の誤植だが、原典を尊重してそのままにしておく。
それはともかく、この歌を純粋に個人的な歌(メッセージ)だと考えると、不自然に思わないだろうか。「あなた(ここでは『人』と言っている。つまり、『誰かさん』だ。)は私との恋の誓いを破ったのだから、神罰で死にますよ」と言っているのである。いかに、自分を振った相手だからと言って、ここまで言うだろうか。だから、私はこれを「多くの人に披露し、ウケることを狙った歌だ」と推理するのである。
現代人は恋愛というと、中島みゆきの或る歌のように「道に倒れて誰かの名を呼び続ける」ような壮絶なもの、あるいは失恋というと、『よつばと!』のよつばが言うように「あの、殺したり、死んだりするやつな」と思っているから、恋愛の和歌というものもその手の重苦しい、生きるか死ぬかのものと想像しがちだが、平安朝廷における恋愛の大半は、「遊戯的恋愛」だった、というのが私の考えだ。むしろ『蜻蛉日記』の作者のような、陰鬱な恋愛は稀な例外だったのではないか。もちろん、「死ぬの生きるの」という恋愛歌が和歌には多いのだが、それを本気で詠んだ、とは私は思わないのである。なぜなら、それらが「人々に知られ、遺されている」からだ。
そもそも、恋愛の和歌にはパターンがあり、それは「私はこんなにあなたを愛しているのに、あなたは私を愛していない」ということを手を換え品を換え言い表すことである。
だからといって、その恋愛が本気でないとは言えない。言えないが、「外野席をかなり意識した恋愛」であることは確かだ、と私は思っている。何しろ、狭い世界だから、それは当然ではないだろうか。
そもそも、「汝(なれ)の命」とか「君(公とも書く)の命」と言わないで、「人(誰かさん)の命」とぼやかしたところに、この歌が個人に宛てたメッセージではなく、自分の失恋をネタにして周囲の人々の笑いを誘う目的の歌だったという、私の「非常識」な解釈の出発点があるのである。
この歌に深い思い入れのある人には申し訳ない「実も蓋もない」解釈だが、それでこの歌の価値が下がるものではないだろう。
平安の恋愛和歌の解釈として、この『劇場型恋愛』の概念は、あるいは、なかなか画期的で有用なものではないだろうか。












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みつくくるとは

休日くらいは、のんびりとした話でも書くことにする。
最近、ネットテレビで私が見ているのは「ちはやふる」というアニメである。ちはやという芸者に振られた竜田川という相撲取りが豆腐屋になる、という話ではない。高校のカルタ部の話である。と言うより、カルタ・クイーンを目指す少女の話だ。その少女は顔はきれいだが色気の無い「残念美人」で、彼女をめぐって精神的暗闘をする二人の少年がいる、というような内容だが、まあ、恋愛になりそうで恋愛にならないモヤモヤ感がなかなか楽しい少女マンガのアニメである。いい年をした男がこんなのを見るのか、と笑われそうだが、漫画やアニメを楽しむのは年齢や性別とは無関係だ。その作品の出来が良ければ、多くの層に受け入れられる、ということである。
娘から聞いたところでは、この作品は海外でのファンが非常に多いらしい。百人一首(カルタ取り)という、日本人でも現代ではあまりやらないゲームが外国人に理解できるのか、不思議だが、このアニメの随所に出てくる「日本的な美」「日本的な詩情」が外国人を魅了するのではないか、と思う。そういう日本的な美感(風景の美、和歌の美)を実にうまく表現したアニメなのである。
さて、実はここからが本題である。
和歌はわからん、(これ、駄洒落ね)という人は案外多いのではないか?
実は私もそうだった。いや、今でもあまり分からないのだが、多分日本人の平均レベルよりは分かっていると思う。その程度の人間が言うのも何だが、和歌を理解できない、というのは一生の損である。もちろん、俳句も漢詩もすべてそうなのだが、古典文学というものは、少しでも理解できれば、それは一生の精神的財産になるのである。
で、和歌がわからん、というのにも理由があり、それは「歴史的仮名遣い」と「句読点の不使用」のためだ、ということを書いておきたいわけだ。その好例となりそうなことを、この前、仕事(単純な肉体労働で、何かを夢想しながらでもできる、という利点がある。)をしながらつらつら考えた。それが今回の駄文の動機だ。
先に、もう一つ和歌の読解のポイントを書いておけば、それは「初心者は、上の句と下の句の切れ目に捉われすぎる(囚われ過ぎる、と書くべきか)」ということである。和歌の意味の切れ目は必ずしも上の句と下の句で都合よく切れているわけではない。これは「句切れ」という、中学古典初歩の知識だが、これが理解できていない人は非常に多いと思う。それほど、我々は「5・7・5/7・7」という分け方が生理的に沁み付いているのである。これは俳句(あるいは連歌)の影響だろう。
さて、その例となる和歌だが、これについて書く内容についてはかなりな構想を頭の中で作り上げたはずなのに、肝心のその和歌が何だったのか、思い出せない。まあ、落語に出てくる、「ちはやふる」についての横丁のご隠居の講釈レベルだろうから、失われても日本の文学史にとっての大損失というほどではない。思い出したら、また書くことにする。


(追記)

歌だけは、今ネットで探し出したので、先に掲載しておく。和歌に不案内な方にこそチャレンジしていただきたいのだが、ぜひ、自分でこの歌の解釈をしてみてほしい。歌はひらがな書き(これが本来のものだろう。平安時代の貴族女性は漢字の知識はあまり無かったというから。ただし、厳密には、本来は濁点も用いていなかったはずである。)と、漢字交じりの二つを、少し離して転記しておく。




038 右近
原文

わすらるるみをばおもはずちかひてしひとのいのちのをしくもあるかな



忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな
 




*句切れではないが、意味上の切れ目のヒントとして分かち書きにしたのが下のもの。ここまでくれば、解釈にかなり近づけるだろう。




忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな











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イマジン

昨日の記事の続きのようになるが、(公平を期するために)「日本民族解放戦線」から、記事の後半にある、ノーベル平和賞批判の部分を転載しておく。
私も、ここに書かれたことにはまったく同意見で、特にアウンサンスーチーとダライ・ラマについてはまったく同じことを、同じようにウィキペディアなどに書かれた彼らの経歴から推理して書いたくらいだ。
しかし、憲法9条がノーベル平和賞を受けることの意義は、全人類的な意味、あるいは歴史的な意味がある、と思っている。それは、世界は平和を希求しており、戦争に反対するものであることを明確にし、戦争を引き起こす一部勢力を人類全体の敵として批判する動きがここから出てくる可能性もある、と思うからだ。憲法9条がノーベル平和賞を受けた場合、あるいは、未来において、ここが全人類史的なターニングポイントであった、となるのではないか、と私は考えている。それは夢想であり、妄想かもしれないが、すべての新しい現実は、最初は空想や夢想から始まるのである。


Imagine, all the people living in perfect peace!




(以下引用)



ノーベル平和賞の真の目的は以下の二つ…

①エスタブリッシュメントの世界経済コントロール政策提案に対する報償

②反西欧エスタブリッシュメントの人間を権力側に取り込むための装置

過去の受賞者を見て検証してみて欲しい。→Wikipedia

あまりにも見事にどちらかにあてはまっているではないか…

この賞はエスタブリッシュメントの政治的な意図が反映されているだけで、あまりありがたがっていると洗脳されてしまうので注意が必要だと思われる。


ちなみに、北ヴェトナムのレ・ドゥク・トは受賞を辞退しているし、ガンジーも5度も候補に上がっていながら固辞している。

一方、受賞したミャンマーのアウンサン・スー・チーの場合は、彼女の夫はイギリス人で、彼女自身もその経歴から見てイギリスのエージェントと目されている。

他にも、ノーベル平和賞受賞者であるダライラマ14世に関しては、1959年に彼の亡命を手引きしたのはCIAである(証拠がある)。それ以来、アメリカはこの人物をプロパガンダに利用してきた。共和党あたりがダライラマをやたらと持ち上げるのも、中国との駆け引きにおける政治的な意図がアリアリなことは誰が見ても明らかだろう。



とにかく「ノーベル平和賞」なんてものは、そういう西欧エスタブリッシュメントのために造られた政治的な駆け引きの「道具」の一つに過ぎない。今年は誰が受賞するのかは知らないが、注意して見るべきであろう。

村上が文学賞をとらなかったのも、西洋にとって政治的な意味がほとんど無いからだろうな…。(何かの受賞演説で、パレスチナ人の側に立った批判をしたこともあったからね)

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憲法9条は「世界憲法」となるべきである。

「The Huffington Post」から転載。4月11日の記事だから、もう旧聞に属するだろうが、私はノーベル賞委員会が、この推薦を受理した、ということは知らなかった。記事の所在は「日本民族解放戦線」というブログで知った(ただし、そちらは「東京新聞」記事)のだが、管理人氏はノーベル賞(特にノーベル平和賞)のいかがわしさをブログ中で嗤っており、それは「9条を平和賞に」という考えにも否定的だということだと思われる。しかし、私は9条に平和賞が授与されるということは、世界に憲法9条の存在を知らしめることになり、また安倍政権が戦争に前のめりになることへの足かせにもなると思う。特に、世界に憲法9条の存在を知らしめることは、大きな意義があるだろう。あるいは、この思想が世界に広まる、という動きがここから生まれたならば、日本が世界に貢献する最大のものになるのではないか。
70年近くもの長期に亘って、世界の先進国の中で、ほとんど日本だけが戦争に関与せずに済んだという事実そのものを見れば、憲法9条の力がはっきりと分かるはずだ。だからこそ、安倍戦争政権は是が非でも憲法9条を廃棄したいのである。
ノーベル平和賞という欺瞞に満ちた賞も、仮に9条に授賞する(受賞させる)ならば、それによって初めて真の世界平和に貢献することになるかもしれない。
私の夢想だが、「世界憲法」というもの(各国の憲法の範例となるもの)を世界の賢人たちに作ってもらい、その中に(人権思想とともに)この9条を入れるというのはどうだろうか。敗戦ですべてを失った日本は、不死鳥のように復興したが、その原動力は「不戦」にあった。一方、戦勝国アメリカは、いまだに戦争を世界中で行い、暴力で世界の政治と経済を支配しながら、世界中の嫌われ者となっている。はたして、真の勝利者はどちらになるのか。

日本は美しい自然と魅力的な文化、そして平和の国として世界の中で独自の位置を占めるべきである。




(以下引用)





「憲法9条をノーベル平和賞に」一人の主婦が発案 委員会が推薦受理

The Huffington Post  |  投稿日:   |  更新: 2014年04月11日 14時35分 JST



戦争の放棄を定めた憲法9条をノーベル平和賞に推した「憲法9条にノーベル平和賞を」実行委員会(事務局・神奈川県相模原市)に、ノルウェー・オスロのノーベル委員会から推薦を受理したとの連絡があり、正式に候補になったことがわかった。朝日新聞デジタルが報じた。

連絡はメールで9日夜、実行委に届いた。「ノーベル委員会は2014年ノーベル平和賞の申し込みを受け付けました。今年は278の候補が登録されました。受賞者は10月10日に発表される予定です」との内容だ。

(朝日新聞デジタル『「憲法9条をノーベル平和賞に」推薦受理 実行委に連絡』より 2014/04/11 11:34)

事務局の岡田えり子さん(53)は「受理されてうれしい。受賞者は個人か団体となっているが、受賞者を日本国民としたことを委員会は受け入れてくれた。これで日本国民一人一人が受賞候補者になった」と話したという。


今回の取り組みは、神奈川県座間市の主婦鷹巣直美さん(37)が始めた。2013年5月に署名サイトを立ち上げ、5日間で1500人の署名が集まった。ノーベル委員会に送信すると返事があり、推薦締め切りは毎年2月1日で、国会議員や大学教授、平和研究所所長、過去の受賞者らが推薦できる。また、受賞者は人物か団体のみで、憲法は受賞できないということがわかった。鷹巣さんは、考えた末、受賞者を「日本国民」にしたという。

鷹巣さんは受賞者を「日本国民」にした。「9条を保持し、70年近く戦争をしなかった日本国民の受賞に意味がある。みんなが候補として平和を考えるきっかけになれば」

この取り組みを相模原市の市民団体「9条の会」などに報告すると、協力者が次々現れ、8月には「憲法9条にノーベル平和賞を」実行委員会が発足。実行委は今年2月1日までに大学教授や平和研究所長ら43人の推薦人を集めた。推薦状に2万4887人の署名も添えてノーベル委員会に送った。

(朝日新聞デジタル「憲法9条にノーベル賞を 主婦が思いつき、委員会へ推薦」より 2014/04/02 18:43)

署名は4月11日現在、4万人を超えているという。鷹巣さんは「一人ひとりの小さな平和への願いがつながって、候補にまでたどりつくことができました。たくさんの方々の協力に感謝でいっぱいです」と話したという。



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他者への共感や同情心がなぜ政治として現れないのか

スカイヲーカーさんのブログを先ほど見ると、今日の徽宗皇帝のブログで私が書きたかったことが、そのまま書かれているような記事があったので、転載させて貰う。スカイヲーカーさん自身はちょっとした金持ちで、御自分の生活には不安は無いはずだが、こうして日本の若者全体の不幸を気の毒に思っている。こういうのがまともな人間の感情というものであり、安倍、石破、麻生、高市その他の自民党議員や、橋下、石原といった売国奴たちにはこうした人間らしい感情がまったく欠落しているのである。そのような非人間たちが政治の中心にいることが、今の日本を悲惨な状態にし、これからの日本を絶望的状態に追い込むのだ。そして、そのような状態を作ってきたのが、今の大人たちである。つまり、我々が自分の子供たちを殺しているのである。


(以下引用)


     

日本の将来は真っ暗。特に若者は不憫だ。

犠牲




















「政府が3日午前の閣議決定した2014年版「子ども・若者白書」によると、「将来に明るい希望を持っているか」という問いに、「ある」・「どちらかと言えばある」と答えた日本の若者は、1位のアメリカの91・1%に対し61・6%で、8~9割だった他の6か国をも大幅に下回った。」

「若者の自殺率は諸外国と比較しても深刻で、15~34歳の若い世代で死因の第1位が自殺となっているのは、先進7か国では日本のみだった。」



 戦後日本は、総じて夢も希望もない国だが、とりわけ、1990年以降人為的に不況が蔓延するためのオペレーションが継続しているので、不況の継続が先行きが暗いイメージを増殖させているんだろう。その通りだ。日本の現状は暗いし、若者が感じているように、先行きも全く見通しが立たない。必然的に、若者一人一人の明るい将来など全く期待できないだろう。先行きを悲観して、自殺する若者が続出するのも当たり前だし、子供の将来を悲観して子供を棄てたり殺してしまうのも理由がある。むしろ、そうならない方がおかしい。何せ、日本の国自体が、国民が不幸になるように、また、住みにくい社会をつくり、ますます将来の不安を促進しているのだから当然のことだ。

 米国の若者の91.1%が将来の希望を持つのは当然のことだ。何せ、米国は将来に希望があるからだ。米国には国民が十分に暮らせるだけの食料やエネルギーが確保されている。仮に、自由貿易を明日からやめて鎖国したころで農業でもやっていれば、何とか食っていけるし、餓死する心配はないだろう。但し、従来の世界一水準の豊かな生活は不可能になる。現在の大半の米国人や一部の中国人や韓国人などが豊かに暮らせるのは、日本人が朝から晩まで働いているお陰だ。日本企業が続々と企画する新商品が洪水のごとく米国市場や中国、韓国に流れ込むのは、日本が米ドルを基軸に認め、すべての労働対価を米国通貨に振り替えているからだ。米ドル取得を目的に経済活動に勤しむ日本企業が中国や韓国、東南アジアに進出し、インフラ整備を行い、工場を建設し、雇用を確保する。現地住民は日本企業からの指示通りに動くだけで豊かになれる。市場が豊かになれば、ますます米ドルの流通価値は上昇することになる。だから、米国人や中国人、韓国人や東南アジア人は、日本企業からいわれるままに過ごすだけで、豊かになれるのだ。

 世界で展開する日本企業は現地で工場を作り、現時採用するから日本企業の展開する地域においては、ますます繁栄する。しかし、一方で、日本国内では国内から第三国へ資金移動、技術移転、雇用の喪失が行われるのでますます苦しくなる。雇用機会が失われることで、貧富格差社会となり、一部の富裕層と大多数の貧困者に分かれる。大多数の貧困者階級は、普通に結婚もできないし、子育ても困難で、人間が従来から当たり前にできるはずの生活が困難になる。一部の富裕層は明るい未来が開ける。しかし、大多数の貧困層は人間が当たり前に過ごすだけの所得を得ることもできず、社会に漂流することになる。

 日本国民の富は、すべて外国人が支配し、使うことになっている。日本には主権がなく、自分の所有物を自分で使う権利がないのだ。国民の将来は、国民の選択により決められるのではなく、外国人によって決められる。日本は民主主義国家ではないし、国民の将来の選択権も存在しない。選挙も当然、セレモニーのようなもので、実際にはコンピューターによって、事前に結果は決められているのだ。だから、選挙なんて全く意味がない。だから、一番感受性の強い若者が、日本の将来を悲観するのは当たり前だし、自殺したり、将来を悲観して子供を棄てたり殺したりするのは当然のことだし、むしろ、将来に希望を感じる若者が存在すること自体がありえない。

 今後、米国の戦争にも駆出されるので、カネだけじゃなく、当たり前に生きる権利も蹂躙されるんだろう。全く、不憫だ。大多数の若者の大半は殺されてゆくんだろう。日本の若者の将来は真っ暗だ。本当に可哀想だ。


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酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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