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夢二夜

二日連続で夢を見た。チベットかネパールでの英国人男女のラブストーリーである。ほとんどそのまま映画になるような夢(と言うより、夢の中で映画を構想したらしい)で、題は「風の中の人」。主題曲も夢の中で聞いた。4つの下降音が4回繰り返される単純なメロディで、3回目は一部上昇音になる。透明感のある女性コーラスで歌われ、歌詞はこんな感じ。「who in the wind, who on the hill, I know his(your) name, cause I love him(you)」
男は30歳くらいの、メガネをかけた冴えない風貌の小男で、考古学者(あるいは民俗学者)、女は20歳くらいできれいな、貴族階級の女性。男は女性にはまったく自信が無い。女はその男を愛しているのだが、男同様に、彼に自分を愛して貰える自信が無い。そのふたりのじれったい恋愛の成り行きが、チベット(か?)の青空を背景に描かれる。ついでに言うと、その女性には妹がおり、こちらは誰でもが目を奪われる美貌で、奔放な恋愛生活を送ってきた。その妹がやってきたことでゴタゴタがおこり、結局はそれがきっかけで主人公の二人が結ばれることになる。まあ、日本の少女漫画をハリウッド映画にしたような感じだ。なお、主人公の女性は、子供の頃は、美少女の妹とは比較にならない冴えない少女で、その少女に優しく接したのが主人公の男であったために子供の頃からこの男に思慕の気持ちを持ち続けていた、というわけである。ありきたりの話だが、映画にすればかえってそういう平凡なラブストーリーの方が気持ちよく見られるものだ。
話の骨格が単純なだけに、幾らでもサイドストーリーやエピソードを付け加えることもできる。たとえば妹の恋人として、ルパート・エヴェレットみたいな感じの皮肉屋の男(やはり貴族がいいか)を同伴させ、その男が姉(主人公)にちょっかいを出したために話がこじれる、とか。
ハリウッド(あるいはイギリス)で映画化するなら、アイデア料は無料でよろしい。(笑)

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こんな夢を見た

奇妙な夢を見た。
その中での私は、別の人物であり、おそらく家庭の主婦。こうした別人格を主人公とした夢を見たのは珍しい。その主婦(若い)が、空を飛ぶ傘(らしき飛行機械)を手に入れて、空中遊泳冒険をするという夢だ。ただ、操作方法はよく分からないので、前半は常に落下の危険との戦いである。後半は、その「傘」を操縦してあちこちを訪れるのだが、「壁を越した向こう側は常に異世界」であり、たとえば自宅の庭で怪鳥モアを飼っている家、何やら大きな「顔無し」風の影が二、三たたずむ海岸、米兵やヤンキーガールがビーチやその対岸(湾全体)を占領して豪華な夜間パーティをしているカーニバル風の風景などがある。最後のパーティの場に落下した主人公は「傘」をヤンキーガールや米兵に奪われそうになるが、辛くも脱出し、その後、猫や犬の迫害を受けながらやっとのことで家に帰る。だが、そこで主人が若い娘と恋愛をしているらしい現場を見る。(たぶん、それは誤解か、あるいは誤解ではないにせよ「恋愛未満」くらいの感情。)
夢はそこまでで、私は主人公と一体化して、涙など流しながら目覚めたのだが、結論は「我々は自分の現在の生活を大事にしていない」「壁の向こうは異世界」「家ほど素敵なところはない」くらいか、つまり、『オズの魔法使い』と『不思議の国のアリス』と『千と千尋の神隠し』のミックスだ。風景は『千と千尋』に近く、空中飛行は『オズ』(傘に摑まって飛ぶのは言うまでもなく『メリー・ポピンズ』だが、「家から異界への脱出」という点ではあれとは真逆である。あれは異世界からの訪問者の話だ。)、出逢う者すべてがキチガイ的で主人公にとっては敵のような感じ、というのは『アリス』である。主人公が若い主婦(というのは夢の後半からの設定のような気もするが)というのが今日的で、アニメ化したら案外イケルかもしれない。つまり、若い主婦の「ここではないどこかへ」という脱出願望への批判的解答だ。
なお、夢の中には出てこないが、傘に摑まって長時間の空中遊泳をするのは不可能だから、リアリティを出すためには「ヘリウム入り飛行服」のようなものを着用させるべきだろう。(アニメ化するなら、そのデザインには工夫が必要。『魔女の宅急便』のようにスカートのままの空中飛行というわけにはいかないだろう。かといって、色気ナシも困る。)もちろん、ヘリウムより強力な仮想の「浮遊物質」でもいい。「スーパーヘリウム」とか。メルヘンにリアリティは不必要と言われるかもしれないが、導入部くらいはある程度のリアリティが必要だろう。


ある意味では、「怪しげな存在」が世界を我が物にしている、という現実の象徴みたいな夢である。そして、異世界は敵意に満ちている、という「アリス」的主題も面白い。また、「上から見る」世界は「横に見る世界」とは違った様相を見せる、つまり「越境」による視点変換というのも大きな要素である。要するに、我々の日常生活は、(普段は壁に遮られていて見えないが)実は敵意に満ちた異世界に取り囲まれている、ということだ。
なお、アニメ化するなら、キャラデザインには高野文子さんを希望。(ただし、「黄色い本」以前の画風でね。)




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貧困大国アメリカから貧困という伝染病を輸入する日本

「晴耕雨読」より転載。
安部芳裕はユダ金やその世界支配について詳しい人物である。
堤未果の「貧困大国アメリカ」が出たのはかなり前だが、ここに書かれているように、素晴らしい本だ。残念なのは、彼女が川田龍平と結婚したことで、旦那は新自由主義の走狗政党の議員、女房は新自由主義批判者という夫婦がどのような会話ができるのだろうか。(例によって、頼りない記憶で書いているので、間違いがあればゴメン)
川田龍平は薬害エイズ訴訟をきっかけに議員になったのだが、エイズは治ったのか? エイズは不治の病だと聞いたのだが、最近は一向にエイズのことは話題にもならない。世の中の話題はそんなものばっかりだ。その一方で、利権関係による下部構造・権力構造だけはまったく変わることがない。
話が脱線したが、「貧困大国アメリカ」の姿はこれからの日本の有様、つまりコーポラティズムに完全支配され、国民が奴隷化された姿を示している。



(以下引用)



2013/7/29


「堤未果さんの貧困大国アメリカ読了。 TPP参加後の日本がどうなるかを知るには最適な良書:安部芳裕氏」  TPP/WTO/グローバリズム

https://twitter.com/abe_yoshihiro

堤未果さんの(株)貧困大国アメリカ (岩波新書)読了。

TPP参加後の日本がどうなるかを知るには最適な良書。

小規模農家が壊滅し、企業が農業を始めると何が起こるか。

競争で生産力を高めろとかいう人間にぜひ読んでほしい。




米国立法交流評議会(ALEC)は、州議会に提出される前段階の法案草案を、議員が民間企業や基金などと一緒に検討するための評議会。

ALECは上位100企業の半数がメンバーになっていて、ここで決まった法案が各州で州法となっていく。

刑務所産業はますます盛ん。

ALECが規制緩和させて、最低時給17セントで使え労働法が適用されないる囚人が労働者として重宝される。

スリーストライク法(三回で終身刑)や厳罰化で囚人を増やし、競争力アップ。

ウォール街でも刑務所REITが人気商品に。

巨大化して法の縛りが邪魔になった多国籍企業は、やがて効率化と拝金主義を公共に持ち込み、公的予算を民間企業に移譲する新しい形態に。

ロビイストが政府関係者に働きかけ、献金や天下りと引き換えに企業寄りの法改正で生涯(「障害」の誤記だろう)を取り除いていく。

2013年2月28日、安倍首相は所信表明のなかでこう明言した。

「世界で一番企業が活躍しやすい国を目指します」と。

コーポラティズムの特徴は国民の主権が政治と癒着した企業群によって合法的に奪われる。

法改正のたびに国家本来の機能は解体され、国民の選択肢が奪われる。





(追記)「櫻井ジャーナル」記事の一部を転載し、上の記事の補強をする。下記記事の元記事を追跡しようとしたところ、パソコンがフリーズしてしまった。つまり、記事閲覧に禁則処理がされていたわけだ。ネット規制はどんどん厳しくなっている。



(以下引用)

:カテゴリ未分類

 アメリカでは5人のおとなのうち、人生のどの時点かで、4人が失業、貧困の瀬戸際、あるいは生活保護を受けるような状況に追い詰められるという。ワシントン大学のマーク・ランク教授の調査に基づく数字だ。「1%」と「99%」という表現がよく使われるが、決して大げさではない。アメリカの悪夢が始まっている。










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朝鮮戦争勃発の犯人は

「陽光堂主人の読書日記」から記事全文転載。主眼は「櫻井ジャーナル」の引用だが、そちらは未読だったので、とりあえず、こっちを転載する。
朝鮮戦争が南北どちらから始めたのかは藪の中だが、少なくとも日本での「定説」のように北の侵入によるものとは断定できない、ということは多くの人が知っておいたほうがいいだろう。


(以下引用)

朝鮮戦争を先に仕掛けたのは米韓

 朝鮮戦争は1950年6月25日に始まり、3年後の1953年7月27日に休戦協定が成立しました。今年はそれから60年ということで、昨日は関係各国で式典が開かれました。

 オバマ大統領もワシントン市内で開かれた式典で演説し、「戦争は引き分けではなく勝利だった」「(北朝鮮の)抑圧と貧困とは対照的に、韓国の5000万人は自由と繁栄の中で暮らしている」などと主張し、「これこそが勝利だ」と調子の良いことを言っています。

 国連軍(実態は米軍)が介入しましたが、戦況は押され気味で、マッカーサーは原爆の使用を求めたほどです。何とか挽回して面子を保ったに過ぎません。

 朝鮮戦争は北朝鮮がいきなり侵入して始まったとされていますが、実際には米韓が先に仕掛けています。いつものことですが、真相は捻じ曲げられているようです。

 「櫻井ジャーナル」は昨日付の記事でこの問題を採り上げており、以下関係部分を引用します。(http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201307270000/)

   …(前略)…

 ところで、日本では、北からの攻撃で朝鮮戦争が始まったことになっている。おそらく「右」も「左」もそう信じている、あるいはそのように振る舞っている。が、日本以外では、単なる「公式見解」にすぎない。

 1950年6月25日より前から38度線の付近では1日に何度も軍事衝突が起こっていて、緊張は極度に高まっていた。元特務機関員の中島辰次郎によると、「開戦」の数カ月前からアメリカ側の命令で秘密工作を始めている。北への帰順兵を装って内部に入り込み、将校を殺害するという工作を繰り返していたという。「開戦」の2日前から、韓国空軍は北側を空爆、地上軍は海州(ヘジュ)を占領している。

 また、その当時、ダグラス・マッカーサーに同行して日本にいた歴史家のジョン・ガンサーによると、半島からマッカーサーに入った最初の電話連絡は「韓国軍が北を攻撃した」というものだった。

 朝鮮戦争でもカーチス・ルメイが登場、大規模な空爆を実施している。日本で非武装の住民を焼き尽くす作戦を展開した軍人で、後にジョン・F・ケネディ大統領と衝突する人物だ。アメリカ軍の空爆でで朝鮮の78都市と数千の村が破壊され、ルメイ自身の話では、3年間に人口の20%にあたる人を殺したという。この記憶は今でも朝鮮国民の記憶に残っていることだろう。

   …(後略)…


 米国が関わっている戦争は押し並べてこうしたパターンで、実際には先に仕掛けています。真珠湾攻撃も奇襲ではなく、そのように仕向けられていたことは今やよく知られています。もちろん、日本側にも手引きする人たちがいました。内通者がいなければこうした謀略は成功しません。

 米国という国は非常にたちが悪く、常に責任を相手にかぶせて善人のポーズを採ります。要するに偽善者なわけで、一体どうしてこんな悪い国が出来てしまったのか、よく研究する必要があります。

 「休戦」協定締結60週年ということで、朝鮮戦争はまだ終わっておらず、いつ再開されるか分かりません。「北朝鮮によって半島が統一されることになっている」という謀略情報も流されていますが、日本のマスコミは米国経由で色付けされた情報しか流さないので、惑わされないようにしなければなりません。

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戦う前に、まずは飯を食うべし(「サマー・ウォーズ」より)

山本太郎らが出演した反原発映画「朝日のあたる家」がほとんどの映画館から上映拒否されているらしい。その事件についての記事を「阿修羅」から転載するが、同記事へのコメントの中に、宮崎駿に上映推進のアシストをしてもらえ、というものがあり、またそのコメントを批判したコメントもあるのだが、私の興味を引いたのは、それらの中の最後のコメント(22)である。
幾つかのコメントを抜粋して転載する。言うまでもなく、最後のコメントが、私の意見に近い。
政治的行動の前に我々はまず毎日の飯を食わねばならないのである。原発関連会社で勤務している人々の中にも、本心では原発に批判的な人々もいるだろう。そうした人々を、表の姿だけで批判し、敵として分類するという、従来の政治的行動は、敵の数を増やすだけではないか? むしろ、敵の中にいる潜在的な味方を、こちら側に引きつけていく、そういう政治手法が、反原発運動(あるいはさまざまな社会悪との戦い)には必要だろう。





(以下引用)*一部の誤字に注を入れたが、注記しなくても分かるとは思う。


山本太郎さんも出演の映画「朝日のあたる家」全国で上映拒否が相次ぐ
http://www.asyura2.com/13/genpatu32/msg/641.html
投稿者 パラサガン 日時 2013 年 7 月 26 日 15:15:15: 6n31nAnvXCdXc
KABASAWA YOUHEI BLOG
http://ameblo.jp/takumiuna/entry-11580462182.html

『風立ちぬ』より、この夏注目している映画があります。
山本太郎さんやいしだ壱成さんも出演している『朝日のあたる家』
この映画に出演された俳優の山本太郎さんが公開当日の舞台挨拶で
「皆の祈りみたいな映画」と語られたそうです。

原発事故の悲劇を描いた映画
ストーリーはまさに福島事故後の被災者家族を描く内容となってます。
静岡県、湖西市。自然に囲まれた美しい町。そんな町に住む平田一家。お父さん(並樹史朗)は農業。お母さん(斉藤とも子)は 主婦。長女(平沢いずみ)は大学生。妹(橋本わかな)は中学生。日本中どこにで もいる平凡な家族。
そんなとき起こった大きな地震。原子力発電所で事故。やがて避難勧告。 そして避難所へ。1日で帰れると思っていたら、何ヶ月も帰れない。父は仕事を失い。 母はノイローゼになり、妹は病気になる。
ようやく許可された一時帰宅も、1時間の制限付き。荷物を取ってくることしか許可されない。福島と同じ事態にな っていたった。もう他人事ではない。あかねたちの家族もまた、大きな悲しみの渦に巻き込まれて行く・・・。
なんとこの映画ですが、監督の太田隆文氏がブログで
日本各地の映画館から上映拒否が続いてると発信されてます。

 映画「朝日のあたる家」
 全国の映画館と交渉を続けている。
 原発事故を題材とした映画なので大手映画館チェーンは
上映拒否だと分かっていたが、原発ドキュメンタリーを上映
する独立系の映画館からも拒否が続いている。
 「最近は原発映画に客が入らない」
 というのが理由らしい。しかし、湖西市の完成披露上映会では
 3千人が来場。浜松の特別上映でも満員御礼。
 このフェイスブック、ツイッターには
 「どこで上映していますか?」「**市では上映しますか?」
 「**館で上映してほしい」
 との連絡が日本中から毎日のように来る。
 「地元で上映されるときに応援します!」
 そういってくれる反原発団体も多い。
 さらには、出演者の山本太郎さんが参議院選に当然。(「当選」だろう。)
 時に人だ。(「時の人」だろう。)
 彼のファンからもコメントを多数頂いている。
 「映画も応援します!!」
 これだけ条件が揃っていることを伝えても、
 「だったら、どこかの映画館で大入りになれば考えます」
 との返事。どこもここも同じ答え。
 何を考えているのか!
 憤慨の日々が続いている......。

原発事故の悲劇を描く映画「朝日のあたる家」監督日記
http://cinemacinema.blog.so-net.ne.jp/2013-07-25-1
なぜ東京の映画館ですら見れないのか。
原発映画は日本ではNGなのだろうか。
故郷が原発で奪われて、家族の幸せまでも原発で踏み砕かれた・・
これはまさしくリアルな現実を見るかの内容です。
是非、全国の映画館で見れるよう声を上げていきたいと思います。
 




04. 2013年7月26日 16:26:38 : pmBTrmPnxQ
Ghibliの宮崎駿監督にたのんだらどうでしょう、もし引き受けてくれたらすべて動く。
彼も反原発だと思う。

05. 2013年7月26日 18:00:44 : FHQvE0Nn9U

>04さん
 希望に溢れた提案ですが、まず、無理でしょう、見て見ぬ振りか、万が一引き受けたとしたら
 電通、東電、配給会社、財界上げて、潰しに掛かり、見て見ぬ振りで終わってしまう、
 ただ、宮崎駿監督自身がチケットを買って見に行く事が最大の効果だと思う、
 皆が見に行けば、キチガイが一番嫌がる事です
 このままでは キチガイが支配する、闇の世界が広がって行く、
 キチガイ役人と金の為なら何でもする穢多が経営する電力会社を日の当たる所に引きずり出そう






21. 2013年7月27日 02:12:50 : F6QaS73zWk
ジブリは原発推進だよ
原発施設にグッズ売り場があったの知ってるだろ?
スポンサーは電通、読売だぜ
反原発?んなわけない
反原発、反文明に見えて
実はアレルギー緩和映画
いかに破壊された世界が美しいかを描くんだな
馬鹿に都合の良い解釈をさせるための映画
まぁ百歩譲っても反面教師の左翼って所か
やべぇのばかり作ってるぞ
そういや久石譲も中電原発のCMに娘を歌わせてたな


22. 2013年7月27日 03:07:07 : 7oSKGju5kA
>>21
大人は何処からか稼いで飯食わにゃならんのよ。
「原発で無い電気でアニメ作りたい」…が本音の方。
俺も人生のかなりの処CX方面の金で飯喰わせて貰って来たが
生業立てる前から姿勢の気に食わない局がCXだったさ。今も変わらん。
将来も多分変わらん。
そういうもんだ。
 
単純化すると見誤る。
別にジブリに限ったもんでもない。
人の在り様ってのは多面的なもんだ。表面の事象が本質と言えるなら巷の其処此処は粛清の嵐だろう。
そうやって味方の筈の隣人を態々敵として増殖させてしまっている事も多いかと思う。





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アナザーチョイスを提示すると発狂する人々もいるが

「ユルネバ!」から転載。
日本(あるいは世界)の未来像を描く上での参考として転載保存しておく。
「木質ペレット(粒)による発熱・発電システム」は、私が以前に書いた「ニトロセルロースの燃料利用」に似ているが、それよりも実現は容易であり、実際実現しているのだろう。要するに、木を燃やして燃料にしていた古代に帰るだけのことである。木は燃えても灰になるだけでほとんど公害を出さない。灰は土になるだけだ。二酸化炭素を出す、というなら、すべての燃料は二酸化炭素を出すのである。
ついでに言えば、二酸化炭素による地球温暖化の嘘が世界的に暴露されるのは間近だろう。そもそも、地球が温暖化すれば暖房費が世界的に軽減され、人類が住める土地も増え、いい事ばかりなのである。南極や北極の氷が溶けようが、どこかの小さな島が水没しようが、温暖化の巨大なメリットとは比較にならない話だ。人類は死から我が身を守る「温暖のためのエネルギー」を得るために数万年も苦労してきたのであり、地球自体が温暖化するなら人類にとってこれほどいい話は無い。だが、残念ながら、地球は温暖化はしていない、と私は思っている。
温暖化の話はさておき、「木質ペレットによる発熱・発電システム」はまさに「持続可能、かつ、ほとんど無害なエネルギー」であり、これからの社会を構想する上での一つの重要なポイントになるだろう。
「廃棄野菜の有効利用」も私自身、ずっと前に考えていたことだ。野菜だけではなく、魚なども乱獲されて廃棄されている魚は膨大にあると言う。そういうものを保存可能な形にして安価に利用できれば、「これ以上の経済発展が不可能な社会」においての新たな脱出口になるはずである。
というわけで、私自身はこの本を読む気は無い(自分もずっと同じことを考えていたのだから読む必要は無い。)が、おそらくこの本はいい本だろう。そして、上に書いた2点は、あらゆる人が未来社会を構想する際に心に留めておいたほうがいい、と思う。


(以下引用)*赤字は引用者(夢人)による強調。


013年07

月24日
本「里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く」藻谷浩介, NHK広島取材班



 希望が湧いてくる。
 いい本ですよこれ。

 特に現実に「里山資本主義」が動いている第四章「「無縁社会」の克服」など涙無くしては読めません。

 里山資本主義というのは小難しくいえば「持続可能性」に重きを置き、「外部性依存」を下げることで結果的に、お金を使わずとも豊かに暮らせるシステムのことです。著者チームはこれを謙虚にマネー資本主義のサブシステム・バックアップシステムとして有効だ、と書いてありますが本音では、これをもっと社会に組み込む、いや組み込み直すことで「人間らしい生活」を取り戻していかねばならん、と。

 実例詳細は本書に譲りますが、木質ペレットによる発熱・発電システムや、上述の廃棄野菜と地域通貨の交換システムはいま現実に動いてるわけで、もうどんどんこういうものはやっていかないと!

 手前味噌ですが我が家でも母がほんのわずかな庭で家庭菜園やってるのですがこの季節、キュウリなんか成り過ぎて困ります。あと非沖縄人には若干使い勝手の悪いゴーヤが山のようにできる。あと茄子にトマトに……ご近所中配り回っているわけですが、こうすると、GDPは下がるわけです。
 ここがポイントで、つまりこういうことをすればするほど、日本銀行券は動かないか、小さい環境で(銀行などを通さず)くるくる回るようになるので、旧来の指標では捉えきれなくなる。
 そうすると、そういう数字を信奉する人々、そういう数字でしか物事を見れないように自分を自分で改造したショッカーの怪人みたいな人達がですね、発狂するんです。

 どのように発狂するかの実例が見たければ藻谷さんの前作「デフレの正体」に対する溢れるほどあるAmazon星一つレビューを読まれるがよい。
 ものの考え方にはいろいろあって、まして経済などという複雑なものに対しての切り口は様々あっていいはずです。なのにこういう、
「アナザーチョイスがあるよね」
という話をするだけでアナフィラキシーショックみたいな劇症アレルギーが発症して爆発する。
 これ全部そうで、原発もそうだし教育に福祉に医療、
「知恵と工夫と手間と新技術で、違うやり方してもいいよね」
って話をしてる「だけ」なのに、別に今までを否定してるわけでも新しいのを強制してるわけでもないのに、怯えるように耳をふさぐんです。

 ごくつまらない例を挙げれば、iPhoneがやってきた時我が国最大のキャリアの、世界で見ても屈指の巨大キャリアの社長は
「我々にはプラダフォンがある!」
って絶叫したんですよ。
 ポジショントークとかってレベルじゃない、ハッキリ言ってこの「怯え」は異常です。

 これはなぜか。

 ここ深入りするのは本書とは関係が無いのでやめますが、お考えめされると夏の暑苦しさが一層増してイヤな汗が出ていいですよ。藻谷さん自身がそこに辟易してる様も書かれててご同情申し上げる。


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民主主義と選挙と日本人の政治意識

昨日の「徽宗皇帝のブログ」でも少し触れたが、今回の参院選の結果を見て、伊丹万作の「政治に関する随想」というエッセイを想起したので、未読の方のために「青空文庫」からその文章を転載しておく。
伊丹万作は伊丹十三の父親で、映画監督・脚本家として有名。代表作は「無法松の一生」で、この脚本は稲垣浩監督の手で二度映画化され、どちらも日本映画屈指の名作となった。私自身が好きな邦画のナンバーワン(二つあるが、私は坂妻版より三船敏郎版を推す)である。


(以下引用)

政治に関する随想

伊丹万作




 私は生れてからこのかた、まだ一度も国民として選挙権を行使したことがない。
 私はそれを自慢するのではない。むしろ一つの怠慢だと思つている。しかし、ここに私が怠慢というのは、私が国民としての義務を怠つたという理由からではなく、たんに芸術家として、与えられた観察の機会をむだにしたという理由からである。すなわち、いまだかつて投票場に近寄つたこともない私は、投票場というものがどんな様子のものかまつたく知らない。したがつて作家としての私は投票場のシーンを描写する能力がなく演出家としての私は投票場のシーンを演出する能力がない。そして、それは明らかに私の怠慢からきている。このような意味においては私は自己を責める義務があるが、その他の意味においては少しも自己を責める義務を感じたことがないし、今でも感じていない。
「選挙は国民の義務である」ということは、従来の独裁政治、脅迫政治のもとにおいてさえ口癖のようにいわれてきたが、そのような政治のもとにそのような言葉が臆面もなく述べられていたということほど、国民を侮辱した話はない。
 選挙が国民の義務であるためには、その選挙の結果が多少でも政治の動向に影響力を持ち、ひいては国民の福祉に関連するという事実がなくてはならぬ。そんな事実がどこにあつたか。
 なるほど国民の一部には選挙権が与えられ、有権者は衆議院議員を選挙することができた。しかし、国の政治はそれらの議員が行うのではない。政治は選挙とはまつたく関係のない政府の閣僚によつて行われる。そしてこれらの閣僚を決定するのは内閣の首班と軍人であり、内閣の首班を決定するものは、軍人と重臣であつた。このようにしてできあがつた政府は、その立法権を行使して国民の意志や利益とはまつたく相反した悪法を、次から次へ無造作に制定して行く。行政機関であるすべての官庁はただ悪法を忠実に履行して国民の幸福を奪い去ることだけをその任務としている。そして、この間にあつて国民の代表であるはずの議員たちは何をするのかというと、一定期間、その白痴的大ドームの下に参集して、もつぱら支配階級の利益を擁護するための悪法の制定に賛成し拍手を送る。それだけである。
 政治をしない議員を選出するための選挙が国民の義務であり得るはずはない。いわんや、このようなむだな投票を棄権したからといつて、私は毫もおのれの良心に恥ずるところはない。むしろ、日本国民中の有権者の全部が、なぜいつせいに棄権して、あのような欺瞞政治に対する不信を表明し得なかつたかと残念に思うくらいである。
 こうして、私は投票は例外なく棄権することに決めていたから、投票日がいつの間に過ぎたかも知らず、議会の経過を報道する新聞記事にも眼を通すことなく、要するに私にとつて、我国の政治というものは世の中で最も愚劣で、低級で、虚偽と悪徳に満ちたものとして、いかなる意味でも興味の対象となり得なかつたのである。
 しかし、今は事情がすつかり違つてきた。国民の選んだ人たち、すなわち国民の代表が実際に政治を行うという夢のような事態が急にやつてきたのである。
 こうなると、選挙というものの意味は従来とはまつたく違つてくるし、したがつて私も選挙、ひいては国の政治ということに至大の関心を持たずにはいられなくなつてくる。
 いつたい、今まで私のように政治に対してまつたく興味を持たない国民が何人かいたということは、決して興味を持たない側の責任ではなく、興味を奪い去るようなことばかりをあえてした政治の罪なのである。国民として、国法の支配を受け、国民の義務を履行し、国民としての権利を享受して生活する以上、普通の思考力のある人間なら、政治に興味を持たないで暮せるわけはない。にもかかわらず、我々が今まで政治に何の興味も感じなかつたのは、政治自身が我々国民に何の興味も持つていなかつたからである。
 そもそも「国民の幸福」ということをほかにして、政治の目的があろう道理はない。しかるに従来の政治が、国民の幸福はおろか、国民の存在をさえ無視したということはいつたい何を意味するか。
 それはほかでもない。今までの我国の歴史をつうじて一貫している事実は、支配階級のための政治はあつたが、国民のための政治はただの一度も存在しなかつたということなのである。そして、実はここに何よりも重大な問題が横たわつているのである。国民は、今しばらくこの点に思考を集中し、従来の政体、国体というものの真の正体を見抜くことによつて始めて十分に現在の変革の意味を認識し、まちがいのない出発点に立つことができると信ずる。
 なお、次に最も注意しなければならぬことは、支配階級のための政治は必ず支配階級のための道徳を強制するという事実である。すなわち、このような政治のもとにあつては、ただ、支配階級の利益のために奉仕することが何よりも美徳として賞讃される。したがつて、支配階級の意志に反して国民の利益や幸福を主張したり、それらのために行動したりすることは、すべて憎むべき悪徳として処刑される。このことは、従来国民として、いかなる行為が最も道徳的なりとして奨励せられてきたか、いかなる人々が最も迫害をこうむつたかを実例について具体的に検討してみれば、だれにも容易に納得の行く事実である。
 すなわち、今の日本人にとつては政治的転換よりも、むしろ道徳的転換のほうがより重大だともいえるのである。なぜならば政治的転換はほとんど知識の問題として比較的容易に解決ができるが、支配階級の教育機関によつて我々が幼少のころから執念ぶかくたたき込まれた彼らの御都合主義の理念は、それが道徳の名を騙(かた)ることによつて、我々の良心にまでくい入つてしまつているから始末が悪いのである。昨日までの善は、実は今日の悪であり、昨日までの悪が実は今日の善であると思い直すことは、人間の心理としてなかなか容易なことではない。
 しかし、改めてそこから出直すのでなくては、いつまでたつても我々はほんとうの政治を持つことはできないであろう。
 もともと支配階級の押しつける道徳というものは、国民をして、その持つところのすべての権利、ときには生きる権利までも提供して自分たちのために奉仕させることを目的とするがゆえに、必然的に利他ということを道徳の基礎理念とする。
 しかもこの利他ははなはだしく一方的のもので、利他的道徳を国民に強要する彼ら自身が国民に対して利他を実行することは決してないのである。この奇怪なる利他を正当なる自利に置きかえることによつて我々は新しい道徳の基礎を打ちたてなければならぬ。
 特定の個人や、少数の権力者たちへの隷属や、犠牲的奉仕に道徳の基礎を置いたふるい理念をくつがえして、人類の最多数のため、すなわち、我々と同じ一般の人たちの幸福のために、自分たちの仲間のために奉仕すること、いいかえれば広い意味の自利をこそ道徳理念の根幹としなければならないのである。
 この根本を、しつかり把握しさえすれば、現在我々が直面しているもろもろの事態に対処して行くうえに、おおむね誤りなきを期することができるはずである。たとえば、今回の選挙に際しても、多くの候補者のうちから、きわめて乏しいほんものをえり分けることは決してむずかしいことではない。
 現在、私はまだ病床にしばりつけられている身体であつて、候補者に対する判断も、ラジオをつうじて行う以外に道がない有様であるが、現在までに私の得た知識の範囲では、あまりにも低級劣悪な候補者の多いことに驚いている。彼らは口では一人残らず民主主義を唱えているが、その大部分はにせものであつて、本質は、先ごろの暗黒時代の政治家といささかの差異もない。反動的無能内閣として定評ある現在の幣原内閣の閣僚たちに比較してさえ、古くさく、教養に乏しく、より反動的なものどもが多いのである。
 試みに、彼らの職業を見ても、重役、弁護士、官吏、料理屋、農業会長、統制組合幹部といつたような人間が多く、最も多く出なければならぬ労働者、農民、教育家、技術者、芸術家、学者、社会批評家、ジャーナリストなどはほとんど見当らない。社会人として、人格的には四流五流の人間が多く、良心よりも私的利益によつて動きそうな人間が圧倒的に多いのである。
 このようなものがいくら入りかわり立ちかわり政治を担当しても、日本は一歩も前進することはないであろう。何よりもいけないことは、彼らのほとんど全部が時代感覚というものを持つていないことである。それは、彼らの旧態依然たる演説口調を二言三言聞いただけでもう十分なほどである。彼らは時代の思想を、時代の文化を理解していない。彼らは時代の教養標準からあまりにもかけ離れてしまつている、彼らは、蓄音機のようにただ、民主主義という言葉をくり返しさえすれば、時代について行けるように考えている。したがつてその抱懐する道徳理念は、支配階級に奉仕する奴隷的道徳をそのまま持ち越したものであり、いまだにこれを他人にまで強要しようとしている。
 このような候補者の現状を見るとき、我々は制度としての民主政体を得たことを喜んでいる余裕がないほど、深い、より本質的な憂欝に陥らずにはいられない。
 では、何がこのような現状を持ちきたしたのであろうか。現在の日本には、候補者として適当な、もつとすぐれた人材がいないのであろうか。そんなはずはない。決してそんなはずはないと私は信ずる。しからば、なぜそのような優れた人材が出ないで、ぼろぎれのような人間ばかりがはえのように群がつて出てくるのか。
 思うにそのおもなる原因は二つある。すなわち一つは国民の政治意識があまりにも低すぎることであり、一つは現在の立候補手続きが人材を引き出すようにできていないことである。
 現在の国民大衆の政治意識がいかに低いものであるかは、彼らの大部分が反動的政党を支持して平然としていることによつて最も端的に表明せられている。国民大衆が反動勢力に投票するということは、露骨にいえば自分たちの敵に投票することであつて、いい換えればそれは民主主義に対する裏切行為であり、自殺行為なのである。
 彼らはまだ、それだけの判断すらもできない。したがつて、自分の行為が何を意味するかを知らないで投票している。その結果、彼らは自分たちとはまつたく利害の相反した特権階級の御用議員どもを多数に議会へ送り込み、いつまでも国民大衆の不幸を長続きさせる政治をやらせようとしているのである。
 現在の劣悪な候補者の多くは、明らかにこのような民衆の無知蒙昧を勘定に入れ、それを足場として一勝負やるために現われてきたものである。すなわち、彼らの自信の強さは、おそらく民衆の無知に正比例していると考えられるが故に、もしも、今後民衆に対する政治的教化が進歩し、民衆の政治意識が健全に発育すれば、彼らの大部分は自信を喪失して次第に消散するであろう。すなわち、現在のごとき粗悪な候補者どもを退治する唯一の道は、国民一般の政治教養を高め、もつて彼らの足場を取りはらつてしまうこと以外にはないのである。
 しかし、それだけではまだ十分ではない。粗悪な候補者どもの退場にダブツて、真に民主的な文化国家にふさわしい、優秀なる人材、良心的な候補者を多数登場させなくてはならぬ。それには少なくとも現在の立候補に関する法令、手続などを根底から改めなくてはならぬ。
 私一個の意見としては、立候補を成立せしめる基礎を候補者自身の意志に置く現行の法規を改め、これを候補者以外の多数の推薦者の意志に置くことに改め、候補者自身は選挙費用として一銭の支出も許さぬことにしなくては理想的な選挙はとうてい望み得ないと信ずる。また、かくすることによつてのみ、真に優秀な、そして私欲のない代議士を得ることができると信ずる。
 右のような私案は、現在の過程においてはおそらく一片の理想論として、何人からも顧られることがないであろう。しかし、由来理想と現実とを区別する客観的な規準などというものはどこにもありはしないのである。たとえば、アメリカ人にとつてきわめて現実的な課題であつた原子爆弾の製造は、日本人にとつては一つの幻想にすぎなかつたではないか。しかし、この問題についてこれ以上執拗にうんぬんすることはここでは差し控えたい。
 いずれにしても、日本の政治をよくするために、そして真にそれを民衆のものとするために、何よりも緊急なこと、そして何よりも有効な処置は、まず何を措いても民衆に対する政治教育を盛んにすることである。
 それには種々雑多な方法があるであろうが、しかし、肝腎なことは、それを何人の手にもまかさず、我々自身の手でやるということである。ここに、勤労大衆の一人として映画の仕事にたずさわる我々の深く考えなければならぬ問題がある。
 もちろん、我々は芸術を政治に奉仕せしめる愚を犯してはならない。また、娯楽と宣伝とを混同してはならない。しかし、同時に我々は映画の間口の広さを忘れることはできないし、その能力の多様性、浸透性を無視することもできない。
 我々は、我々の芸術良心に従い、かつ十分それを満足させながら、現実の政治に役立つような映画を作ることも決して不可能ではないのである。このような場合に、その種の作品の中で、我々が政治というものをいかに扱うべきか、それに対する私の答はすでに今まで述べてきた中に十分明らかとなつているはずである。(四月九日)
(『キネマ旬報』再建第三号・昭和二十一年六月一日)


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