忍者ブログ

プーチン大統領年頭の挨拶

私が別に持っているブログに書いた記事だが、こちらにも転載。主眼はもちろん私の駄弁ではなく、プーチンの挨拶である。言は人を表す。このプーチンの言葉のどこにも偽りや偽善は無い。偽善者の言葉は、読む人が読めば一目で分かるものだ。



「阿修羅」より転載。

善と愛が増えれば、私たちはより自信を持ち、強くなれるのです。そうすれば必ず成功を手に入れることができるのです。

そういうことである。
なお、この記事タイトルは「新年の演説」だが、これは演説ではなく、国民への挨拶だろう。



(以下引用)


http://japanese.ruvr.ru/2014_12_31/281842070/


31.12.2014, 19:54


プーチン大統領 新年の演説(全文)






© Photo: RIA Novosti/Alexei Druzhinin


親愛なる友人の皆さん!

数分後には新たな年2015年が訪れます。

いつもと同じように、私たちはこの祝日をどきどきしながら待ち、願い事をし、プレゼントを交換し合い、家族や近しい人々、友人たちと一緒に新年を迎えるというこの素晴らしい伝統を喜んでいます。雰囲気は良く、思いやりや寛大さが私たちの心をあたため、心は明るい考えや善良な行いのために開かれ、希望を抱かせます。

もちろん、今は各人が何よりもまず家族の安泰について考え、近しい人々には健康や幸福を祈っていることでしょう。我々ロシアの繁栄は、皆さん一人ひとりの幸福と成功によってつくらています。

祖国への愛はもっとも強い感情の高まりに数えることができます。これはクリミアそしてセヴァストーポリ市民が自分の生家に戻ろうと固く決意した際、その同胞支援のなかで十分に発揮されました。このことは最重要な道標として祖国の歴史の中で永遠に刻まれることでしょう。

今、去り行く年を総括するとき、皆さんが結束し、連帯してくださったこと、真実、名誉、公平、自分の国の運命に対する責任を深く感じてくださったこと、ロシアの国益を主張する不動の決意を表してくださったこと、勝利の日も試練の時もロシアとともにいて、われわれの最も大胆で大規模な計画の遂行を目指してくださったことに心からの謝意を表したいと思います。

今から数年前はソチでの五輪開催は夢物語のように思われていました。ところがこれは単に実現されただけではありません。われわれは冬季五輪史上、最高の五輪を準備し、 開催しただけではありません。これで大勝利を収めたのです。この勝利には、私たちの国の全市民の貢献があります。つまりこれは五輪参加選手たちと彼らを支えた人々全員 の貢献なのです。

来るべき年、私たちの解決せねばならない課題は少なくありません。そしてこの年がどうなるかは私たち自身の手で作るままになるのです。それがどれだけ効果的に創造的に成果を出すようになるかは、私たち各人にかかっています。これより他の方法はありません。そして私たちは計画したすべてを遂行し、実現せねばなりません。これは自分のため、私たちの子どものため、ロシアのためなのです。

友達の皆さん! 新年はもうすぐそこまで来ています。近しい人たちを迎え、一番温かい言葉をかけあいましょう。理解と信頼、忍耐と配慮を示してくれたことを感謝しましょう。善と愛が増えれば、私たちはより自信を持ち、強くなれるのです。そうすれば必ず成功を手に入れることができるのです。

皆さん、おめでとう! 2015年、明けましておめでとう!

拍手

PR

雪深し

正月三が日の間くらい、全国民は会社も学校も休んで家でゆっくりしろ、という天のお告げだろう。雪など、そのうち溶けるし。私自身は正月だろうと休めない仕事で、風邪をひいているのに出勤して雪の中での仕事である。それで風邪は悪化したが、家ではひたすら寝ていて、何とかやりすごしている。下は風邪で朦朧とした頭で夢うつつに作った句。

風強し 幾葉落ちけむ ハナミズキ (夢人)

解説:風邪をひいて鼻水がすごい。ティッシュを何枚使ったことか。(私自身はハナミズキがどういう植物かはまったく知らない。変な名前の植物だ、と思っているだけだ。)


(追記)気が付かない人がいるかもしれないので、注釈も。
tissue:動植物の細胞組織。薄くて軽い織物。
tissue paper:薄葉紙。
ついでに、
a tissue of absurdities:うそ八百




(下記記事のように引用が明瞭な場合は今後「以下引用」は省略させてもらう)

京都市中京区で61年ぶり20センチ超える積雪 観測史上3位タイの22センチ






雪で覆われた京都市中心部の烏丸通=3日午前3時30分、京都市下京区

写真拡大



 強い冬型の気圧配置の影響で、3日は日本海側を中心に大雪となった。


 降雪のピークは既に過ぎ、冬型の気圧配置は西日本からゆるみ始めた。気象庁は、雪崩や落雪に注意するよう呼び掛けた。気象庁によると、3日夕までの24時間の降雪量は、青森市・酸ケ湯46センチ、新潟県妙高市37センチ、長野県飯山市36センチ。酸ケ湯の積雪は3メートルを超えた。


 京都市内も3日未明にかけて大雪に見舞われた。京都地方気象台によると、京都市中京区で3日午前1時、昭和29年に41センチを観測して以来、61年ぶりに20センチを超える22センチを記録。京都市内で観測史上3位タイとなる積雪となった。


 4日午前6時までの24時間に予想される降雪量は、いずれも多い所で北海道と北陸40センチ、東北30センチ、近畿と東海、関東甲信20センチ。


拍手

恋愛という幻想による世界の美化

タモリの言い方が面白い。
男にとっては恋愛は片手間仕事であり、恋愛とそれ以外の仕事(日常の業務)は厳然と区別される。女は恋をするとそれが生活のすべてに優先する。仕事をしながら恋愛もする、という女は中身は男だろう。社会性という面から言えば、恋愛とその他の生活を明確に区別できる方が便利だ。だが、そういう恋愛が真の恋愛と言えるとも思えない。
すなわち、タモリの言うように「女は人を愛するプロ」であり、男は人を愛することのアマチュアだ。ただ問題は、そういう女の相手となって、親も兄弟も友人も捨てて、すなわち社会生活のすべてを犠牲にしても恋愛にのめりこむ男は、社会的見地からは人間のクズだ、ということだ。なぜあれほど素晴らしい女性が、あんな人間のクズと一緒になるのか、という事例は多いが、それは男から見ての話であり、女は恋愛のできる相手と恋愛をしているというだけのことだろう。相手のあらゆる欠点は、恋愛中の女にとってはどうでもいいことなのだ。
まあ、要するに恋愛とは、一過性だが何度も再発する精神病の一種である。(もちろん、「運命の人」など存在するはずはないw)
子供に対する愛は、また話が少々違うかと思うが、論じるまでもないか。
なお、恋愛は精神病だと書いたが、それが無価値だとは言っていない。大方の精神病も、当人にとって実は価値があるというものもあると私は思っている。むしろ、恋愛をすることで世界のすべてが輝いて見える、ということもあるだろう。自分がそう思うならば、それが正しいのであり、実際、その時世界は輝いているのだろう。
どこかで書いたステンドグラスの比喩(リルケの言葉だったか)で言えば、我々の見ている世界は、客観世界の白色光線が主観というステンドグラスで彩色されて壁に映ったものなのである。その色彩が美しければ、それでいいわけだ。



(以下引用)

タモリが男と女の“愛情の違い”を語る「女は人を愛するプロ」










タモリ

写真拡大











21日放送の「ヨルタモリ」(フジテレビ系)で、タモリが男と女の愛情の違いについて鋭く指摘する一幕があった。

同番組でママ役を演じる宮沢りえは、自信(夢人注:「自身」の誤記だろう。)が子どもを出産し、母親になったことでどういった心境の変化があったかを告白した。

宮沢は基本の自分は変わらないと話す一方で「(子どもが)自分より大事だと思える存在になるっていうのは(あった)」と胸中を明かした。

すると、岩手のジャズ喫茶マスター「吉原さん」を演じるタモリは「女性の愛情はスゴイ」「女は人を愛するプロなんだよね」と女性の愛の深さに感じ入る様子をみせた。

続けてタモリは「それにくらべたら男は愛するなんてことは仕事も同然よ」と、独自の視点で男女の愛情の違いを分析し、女性の愛情や女性が子どもに与える愛情は「スゴイもの」だと語った。










(追記)孔徳秋水氏のツィートより。私の言う主観と客観の間にこの「空」観を入れるといい。「空」を観じる(私流に言えば、「自分」という存在を完全に度外視して、世界を観、その価値を考えること。)ことで主観を離れ、客観世界を垣間見ることができるのではないか。だが、「自分」という存在(世界認識の主体)は、その外(自我の外)に存在する無限の客観世界と同価値なのである。




.”空”…それは、買ったばかりの新品のパソコンのようなもの…何にも入っていないから、無限の可能性がある 


2.[1/2 15:27] 手放せば手放すほど入ってくる…空っぽにすればするほど満ちてくる…
 
3.[1/2 15:25] たとえば、「交通安全は、譲り合い」というではないか。わずかなパンと魚を分け与えたら、3000人が満腹になり、かごいっぱいに余ったというのも、それほどおかしな”奇跡”ではない。

4.
[1/2 15:23] 愛の法則とは、余計なものを手放しなさいという教え。みなが余計なものを手放せば、みんながもっと豊かになれる。幸せになれる。








拍手

日本という「柔らかなファシズム」社会



私の記憶では、誰かの言葉に「一人在る時、人は高貴である。衆と共に在る時、人は動物である」というような言葉があったと思うが、集団的行動は集団的思考に基づくものだ。集団的思考は当然、集団の平均値となり、その中で声の大きい人間に支配されることになる。集団としての人間がしばしば動物的であることは確かだろう。一致団結し、リーダーの統制に従順に従う集団? それは羊の群れだろう。
アーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新」の一節に、「日本の下層階級は支配されることを大いに好み、権能をもって臨む者には相手がだれであろうと容易に服従する。(中略)もし両刀階級(夢人注:武士のことだろう。)の者をこの日本から追い払うことができたら、この国の人民には服従の習慣があるのであるから、外国人でも日本の統治はさして困難ではなかったろう」(岩波文庫下巻P141)とある。
日本人とは家畜民族であるようだが、それが日本社会の驚くべき規律と安全性をも作っている。だが、その秩序とは見えないファシズム、柔らかなファシズムではないだろうか。羊たちははたして自分たちの意思で牧羊犬を選んでいるのだろうか。



(以下引用)



小田嶋隆 @tako_ashi  ·  8時間前

好き嫌いは、個人の感情である限りにおいて、さして有害なものではありませんが、集団を束ねる原理として使われると、にわかに物騒なものになりますね。対象がなんであれ。

拍手

アメリカという国家の正体

私の持っている何本かのフラッシュメモリーが「生きて」いたらしく、昔書いた記事や昔保存していた他人の記事を再読している。その中から、白石隆氏の文章を転載する。
書かれたのはおそらく2002年前後だと思うが書かれた内容は今でこそその先見性が分かる。現在のアメリカの状況、日本の状況を考えながら、この文章を読むと書かれた内容の正しさがよく分かるだろう。



(以下引用)論点を明確にするため、冒頭を一部省略した。


現在われわれ日本人はどのように美化しようと実態はアメリカというお釈迦様の掌の上で遊んでいる孫悟空に過ぎないのである。アメリカがその気になればわれわれのちっぽけな繁栄など直ぐに消し飛んでしまうことだろう。日本国の繁栄は米軍による事実上の軍事的占領という土台の上に成り立っている空虚な幻想にすぎないのである。われわれ日本人は見てみぬ振りをしているが、いずれ今のようなあやふやな関係ではなく明確な形でこの軍事占領の問題に決着をつけねばならない時がやって来るだろう。これまでのように国際経済が安定を保った状態が続いておれば問題は表面化することはなかったろう。臭いものに蓋をする格好で「思いやり予算」で問題を糊塗しておけばそれで済んだからだ。しかし今やアメリカ経済も日本経済も土壇場にまで追い込まれている。経済は瀕死の状態であり破綻は必至である。もし経済が破綻すれば資本主義の当然の帰結として戦争が必要になるだろう。戦争は最大の経済需要をもたらすからだ。この時瀕死の重傷を負った日本国の政府と財界は国民をそそのかし扇動して経済回復をスローガンのもとに当然アメリカのお先棒を担いでその戦争に荷担することになるだろう。その先は見え見えだ。日本人が米軍の先兵としてアジアに中東に血を流すことになるだろう。現在の米軍による軍事占領という事実と先の日米ガイドラインの動向を鑑みれば行き着く先がこのような結論に達することは必至なのである。その時日本人はアメリカ国民と同様に今以上にアメリカを助けるために奴隷のようにこき使われ奉仕する家畜のような存在に成り果てることだろう。アメリカ国民と同様にである。アメリカ国民は我々と同じ被害者である。私のアメリカ観の結論をここで言っておこう。アメリカを支配しているのはアメリカ国民ではない。ほんの一握りの富裕階級である。この連中は国際的に連帯して国際金融財閥を形成している。彼らは金融をバックに企業を動かし、軍隊を動かす事実上の地球の支配者なのである。アメリカという国は彼らに富みをもたらす巨大な工場であり、アメリカ国民は彼らに収奪され搾取され富みを生み出すために必要とされる奴隷に過ぎないのだ。この事実をはっきりと認識しなければ問題の本質に近づくことはできないだろう。

私は実際にアメリカで生活したことはないし、それどころか旅行もしたことがない。これまで述べたことはあくまで数少ない米国人の著作を通じて自分なりに考察して得たアメリカ観である。したがってその結論に不安がない訳ではなかった。しかし世界中で起こっている様々な出来事から類推して私のアメリカ観は絶対に正しいという自負をもっていた。ところが最近アメリカで生活した経験のある日本人がその体験を綴った本を出版しており、たまたまその本を買って読んでみたが、その内容は私のアメリカ観とドンピシャリに符合していたのである。その著作は
   「僕はアメリカに幻滅した ―― 繁栄の影でいま何が起こつているのか?」
という題名で作者は小林至氏、出版元は太陽企画出版である。この本にはとても具体的にアメリカ社会の実態が記述されており、アメリカを知る上で日本人には必読の書といえるだろう。文章がうまく内容が明快で分かりやすく書かれている。何よりも統計数字を利用した説得力のある説明がとてもよい。早速、母にこの本を読むように薦めた。母もよいと思ったのだろう別の家族のものに読むように薦め、今は山口家で読まれている。したがってここでその本の概要でも解説すべきところなのだが、都合のよいことに本日インターネット上でこの本の書評にお目にかかった。その書評の内容が私の意見を見事に代弁しているので以下にそのまま掲載しておく。むろん大マスコミによる書評ではない。「週間日本新聞」というインターネット上のとてもマイナーな貧乏新聞に掲載されたものである。評者は奇人とうたわれる太田竜氏である。

-----  ここから  -----


小林 至著 太陽企画出版(平成十二年十一月)


「僕はアメリカに幻滅した ―― 繁栄の影でいま何が起こつてゐるのか?」


小林至、この著者は、昭和四十三年生まれ。東大経済学部卒業。プロ野球(ロッテ)に入団。二年で解雇。平成六年渡米してコロンビア大学経営学大学院卒業。平成八年、米国フロリダのケーブルテレビ会社に入社。平成十二年六月解雇されて日本に帰国。六年間の米国生活の体験記、といふ。


この人とこの著書は、今時、貴重だ。東大は東大でも、野球部員。そして、卒業すると、プロ野球に入る。東大野球部からプロ野球に入団する人は滅多に居ない。野球選手のみならず、スポーツ選手は、概むね、知識教養はお粗末であらう。しかし、東大を卒業していれば、まあ、或る程度の学力はある。野球では通用せず、二年で退団。そしてそのあと、米国に留学してMBA(米国の大学院経営学修士)を取る。近頃では、米国でMBAの資格を取る日本人売国奴志願者はきはめて多い。そしてその全員が、ユダヤ化され、骨の髄までの売国奴と化するであらう。しかし、この著者の場合は、少し違ふ。コロンビア大学でMBA(経営学修士)を取つたあと、金融界に入らずに、スポーツ関係の小さなテレビ局に入つた、といふ。つまり、この人の四年間の仕事上の地位は、中より以下。生活して見ると、米国の社会の仕組みは、貧富の差を拡大して社会を二極分化させる、最悪のものであつた。日本では、米国を地上天国のやうに描き出すアメリカかぶれの言論が充満して居る。それ以外のアメリカ観は、事実上、日本のマスコミには存在しない。この著者も当然、さうしたマスコミ言論で洗脳されていた。しかし、現実に米国で生活して見ると、大違い。いや、「違い」、といふ程度でない。そのことに著者は気付いた。のみならず、その会社から解雇されるときの会社側の仕打ちがすさまじい。


「人間味を捨てた者だけが『勝ち組』になれる」(二百三十四頁)、それが米国である、という。
つまり、米国で「勝ち組」の人間になるといふことは、ロボットか、動物に喩えれば爬虫類(三百三十六頁)だといふ。
「冷血で残忍ならば、誰でも米国式合理性を身に着けられる」。
「圧倒的大多数の米国人は、正義感が強く、むしろお人好しが多い。ところが残念なことに、そういう人間は、馬鹿をみるやうに、この国(米国)の社会制度がなつているのです。」(同上)
 この観察は全く正しい。このやうに冷酷で残忍な「勝ち組」は、人間味のある行動をとる普通の人々を軽蔑する、という。全くその通り、であろう。米国の勝ち組は爬虫類だ、とはまさにぴつたりの表現だ。


 米国の一般人の間では「医者と弁護士は悪者」、といふ評価が常識化した(百二十三頁)、という。いづれも、ユダヤ禍の典型である。 十五、六世紀、ユダヤ教のラビがユダヤ教徒に対して与えた、史上、有名な訓戒に、
「お前たちは、子供を教育して、弁護士、医師、キリスト教会の僧侶、この三つの職業に進ませなさい。そしてそのことによつて、キリスト教会の支配体制を打倒して、我々ユダヤ人が世界の主人と成ることができる。」
とある。その後、十八、九世紀に成ると、第三項の「僧侶」に、「科学者」が追加される。この方式が、もつとも完璧に実現されたのが、英国、オランダ、そして米国、この三ヶ国であらう。とりわけ、米国はその中でも飛び抜けている。前掲書、四十五頁に、
「貧困層以下の人々の割合(いはゆる先進十二ヶ国)」(図表12)が引用されている(国連統計、二〇〇〇年)。
 それによると、


 第一位  オランダ(14・4%)


 第二位  米国  (14・1%)


 第三位  英国  (13・1%)


つまり、貧しさ度上位三ヶ国が、見事に、ユダヤ化フリーメーソン化のもつとも進んだ国なのだ。これを言い換えれば、ユダヤイルミナティ国際金融寡頭権力の本拠地、である。


日本は第九位、三・七%。


とある。ところが、あら不思議。日本では、まぎれもない地上最悪の地獄たる米国を、地上最高の天国楽園唯一普遍の理想文明の国、としてほめたたへるアメリカかぶれ国賊売国奴がマスコミと学界政界官界宗教界芸能界財界を完全に掌握している。これは一体何のことか。摩訶不思議、とはこのことだ。


斎藤貴男著「機会不平等」(文芸春秋社、平成十二年十一月)。


この本は、この十年ないし十数年、とりわけ平成元年(一九八九年一月)以降、狂つたやうに推進されている「アメリカ化」によつて、日本の国家社会の全分野に於て、惨澹たる状況が展開されつつある、その記録である。成るほど、良く調べられている。しかし、にも拘はらず、あれよあれよといふ間もなく、最短期間で日本の伝統がたたき潰され、アメリカ化される。つまり、日本の国家と民族の解体破壞壞滅死亡宣告である。そしてその悪逆無道なやり口に対して、意味のある抵抗はゼロに近い。一体、これは何のことか。


小林至氏は、米国の正体(本質)は、金権寡頭権力体制だ、と述べている。米国には、「民主主義」など、ひとかけらもない、と断定しておられる。全く正しい。いや、正しい、などと改めて云々するのも阿呆らしい。そんなことは常識中の常識だ。しかしそれでは、何故そのあまりにも当り前の常識が日本のマスコミによつて日本国民に伝へられないのか。何故日本のアメリカ問題専門家学者官僚ジャーナリストマスコミ芸能界宗教界そして政治家などによつて、その自明の事実が、日本人に教へられないのか。
日本のエリート指導者階級全員、一人残らず、売国奴、国賊、である。これが、その理由である。


日本は完璧に亡びた。「日本国」と自称するしろもの、それは、ニセモノの日本国、以外の何者でもない。
小林著に曰く。
「日本中央競馬会もさうですが、博打業界といふのは、本当に宣伝が上手です。テレビ映りがよく、話術に長けた金融界の教祖たち。刺激に満ちた金融ニュース番組。ノンストップで報道される株価の動向。インターネットが可能にしたリアルタイムでのアクセス。これらに加へ、過去数年間の記録破りの利益を背景に出てきたにわか長者が大々的に取り上げられるわけです。「博打であることを肝に銘じていても、楽しくて魅惑的なゲームに見えてきます。」(二十四頁)。
 宣伝が上手、といふ。これは現象論だ。そのやうに見えるであらう。しかし、そんな水準に甘んじていてどうする。


 B・K・エヒクマン著「アメリカ人の心の複製」(Cloning of the American mind)はこの際必読だ。エヒクマン女史には「新世界権力のための教育」(一九九一年)、「マイクロチップを埋め込まれるといふこと。教育体制権力はどのやうにして我々をビッグ・ブラザーの更にその先へ突き出したか」(一九九四年)、 といふ著作があるといふ。「ビッグ・ブラザー」とは、例のジョージ・オーウェルの「一九八四年」に登場する未来の独裁者を意味する。つまり、我々が、「一九八四年」に描かれた状況よりもはるかに高度化した独裁体制に既に組み込まれている、といふ。


斎藤貴男著「機会不平等」は、オルダス・ハクスレイの「すばらしき新世界」の「優生学」を問題として居る。「優生学」は、左翼イデオロギー、右翼イデオロギー、そのいづれにも関係ない。むしろ、左翼、右翼を超越している。その上に君臨する何者かである。そのことに、この斎藤といふ著者は、ほんの少々、気付いている。それは結構だ。それにしても「優生学」といふ日本語の訳語は良くない。その意味するところは、優勝劣敗。優れた者を生かし、劣つた者を殺すこと。従って、勝ち残つた者同士の競爭は、加速度的に強化されて行く。その結末は何か。


ジョン・コールマン博士によれば、三百人委員会は、地球人口八、九割殺戮処分計画を実行しつつあるといふ。コールマン博士のこの警告は、荒唐無稽な放言か。いやさうではない。英国(ユダヤイルミナティ世界権力の本拠地)には、この二百年来、
マルサス→ラッセル卿→H・G・ウェルズ→オルダス・ハックスレイと、
この人類大殺戮作戰を暗示又は公然と煽動する、作家学者思想家の系列が存在する。


小林至氏は、「米国崇拜もいい加減にしろ!」(七十九頁)、 と言はれる。
しかしこれは表層しか見て居ない。「米国式」、といふ表現は現象論だ。「米国」の主人公は、実はイルミナティ世界権力である。 この深層を明示しない限り、小林至氏の著作は、体制の安全弁に成つてしまうであらう。


------ ここまで ------


価格が一部1800円と少し高いが、買って読むに十分価値のある本である。一読をお薦めしたい。

拍手

紅白歌合戦と正月の遊びのこと

私はノスタルジックなものが好きなので、明治、大正、昭和初期の文化を好ましく思っている。日本の文学、詩歌などもこの頃までのものが好きだ。
現代の文化ではマンガとアニメ以外にはほとんど興味は無い。特にJポップなど、まったく聞く気も起らないから、当然、紅白歌合戦など、ここ20年ほど見ていない。例外は、植木等が出た(最晩年のころだ)回のみで、小林信彦のエッセイによると、植木等をそれまでまったく見たことの無かった、氏の子供が、植木等にもの凄いオーラを感じたようだ。(「輝いて見える」と言ったのだったか。)実際、私にもそう見えた。見たいと思ったが見なかったのが、昨年の丸山明宏(美輪明宏)である。彼の「ヨイトマケの歌」は、日本歌謡史に残る名作で、彼が芸能界には珍しく歯に衣着せぬ発言をする根底には、この「ヨイトマケの歌」的な精神が確固としてあるのだろう。昨年のそのステージも素晴らしいものだったようだ。(昨年だったか、一昨年だったか、紅白自体に興味が無いので不確かだが。いや、今の時点では昨夜の紅白が既に昨年であった。)

さて、下に引用したのは、私の父親より少し上の世代の人の書いた懐古的な記録で、ネット上にあったその記録を保存してあった中から、正月向きの話題を選んで掲載した。これ自体、かなり古い記事なので、今ではそのサイトもあるかどうか不明である。サイトの名前も失念した。まさに往時茫茫である。
私自身は昭和中期に子供時代を送ったが、その頃も正月の子供の遊びのメインは凧揚げと独楽回しだった。後は、子供雑誌の付録に道中すごろくなどもあった気がする。道中すごろくは兄弟で自作して遊んだような記憶もうっすらある。沖縄では百人一首などの優雅な遊びをする家庭は少なかったと思う。トランプ遊びの方が一般的だったか。
今の子供の正月の遊びはたぶんテレビゲームだと思うが、凧揚げや独楽回しのように手先の技術を要する遊びや、トランプ遊びのように他人を相手に頭を使う遊びを子供の頃にやらないで育つと、何かが欠落してしまいそうな気がするのだが、それは取り越し苦労だろうか。テレビゲームでの思考とは要するに「合理的選択」の連続にしかすぎないのであり、そういう思考だけで育った人間は、人間社会を「経済的合理性」だけで判断する人間になりそうな気がするのである。


(以下引用)

 

大正の遊び


正月の遊び


男の子の正月の遊びと言えば、家の中ではいろはかるた、双六、皆でやる福笑いなど


で、姉の友達が華やいだ服装で集まる、正月ならではの百人一首を見ているのも結構面


白かった。


子供たちも入れてくれる、百人一首の坊主めくりで皆で楽しんだものである。


家族合わせというゲームのことを、耳にするが、この体験はない。


「陸軍元帥大山巌の奥さんを頂きたい」と相手に呼びかけて、その相手が持っていれば渡


さなければならない。


「おわいにくでした」と断られてがっかりしたり、それでもなお持っていて断っているのでは


ないかと疑ったりする。一度外れると、同じ職業をのカードを集めかけている人に番が廻


ったとき、根こそぎ持っていかれる。


数多くの職業者の主人、妻、男子、女子、それに召使か何か、五枚組位の家族札わ集め


ると一点獲得となる。


というゲームだそうだが、その体験はない。


外ではメンコと凧揚げが一番の楽しみだった。


いくらでも空き地があり、凧揚げするのに場所探しの苦労はなかった。


高年の男の子は喧嘩凧で、相手の凧を引きずり落として、得意がっていた。


拍手

安倍政治の細目採点

「あいば達也の『世相を斬る』」から転載。
私は根が楽天的なのか、自分のブログで悲憤慷慨しているほどには実は悲観はしていない。私が絶対的に許せない政治的悪行は「戦争」であり、それに準ずるのが「失業者増加」である。
失業は、ほとんどの庶民にとっては「死刑宣告」に等しい。失業者数の増加は自殺者予備軍の増加である。もちろん、仕事があっても収入があまりに低く、まともな生活ができないという人もたくさんいる。そうした人々を救うのが政治の役目であり、それ以外のことはしなくてもいいくらいだ。
さて、下の記事の安倍政治の細目について、それらをどの程度心配するべきか、私自身が直観で判断してみる。もちろん、「右翼思想教育」などは長期的に国民をじわじわと洗脳する危険なものだが、短期的な危険性、という観点で判断してみる。危険性の高い順にA、B、C、Dとしてある。もちろん、Dだろうが、悪政であることに変わりはない。


◇集団的自衛権行使法整備 :危険性B
◇武器輸出の加速 :危険性C
◇原発再稼働及び新設計画 :危険性C(長期的には
◇特定秘密保護法の本格稼働 :危険性B
◇愛国教育の徹底 :危険性C
◇言論介入:危険性C
◇アベノミクスの深化と加速:危険性 D
◇大企業(財閥企業依存)経済の再構築:危険性D
◇TPP参加による自由市場主義の本格導入:危険性A
◇雇用形態のリストラクチャリング、非正規雇用の拡充:危険性A
◇アベノミクス修正補正 ◇税制改革(原則増税)と社会保障(原則縮小):危険性B
◇憲法改正、等々 :危険性C

補足すれば、憲法改正(正しくは改悪)は、実現しないだろう、という予感があるから危険性Cとした。もちろん、憲法改定反対の運動は継続する必要はあるし、油断は禁物だが、日本国民がいくら馬鹿でも、憲法9条を削除するのに賛成するほどのキチガイが国民の過半数を占めるとは思えないのである。むしろ、集団的自衛権(正しくは「権利」ではなく戦争参加「義務」)の法的整備の方が危険だろう。これは、憲法9条と矛盾するから、本来は法律が成立するはずはない、と私は思うのだが、例によって法匪たちが屁理屈をこねて成立させる可能性はある。アベノミクスは、成功したところで国民への恩恵は無いが、成功しようが失敗しようが国民生活とは無関係である、という意味で危険性はDである。(笑)
まあ、TPPさえのらりくらりと躱せば、後は何とかなるのではないか、というのが私の感想だ。(このあたりが私が根が楽天的だと言うゆえんだ。)そして、政府は案外とTPP妥結に(つまり米国政府に)抵抗しているように私には見えるのである。もしそうならば、安部政権を少し見直す必要がありそうだ。
TPP妥結を引き延ばせば、米国政府自体の混乱と騒動が来年には起こる可能性もある。(何しろオバマは任期末期のレームダック状態である上に、上院下院とも民主党は少数派である。)大統領選が近づけば、TPPどころではなくなる。つまり、日本の粘り勝ちだ。ナポレオンのロシア侵攻に対するクツゥーゾフ将軍の後退戦略の見事な換骨奪胎となるだろう。





(以下引用)



 まあそれでも、15年は安倍政治が本格稼働する年になるわけだが、実は非常にタイトな日程で、安倍官邸は「戦後レジュームからの脱却」(戦前回帰)を行うことになる。筆者が記憶にあるものだけ書き連ねても、以下のようなものになる。大袈裟に言えば、政府が自ら、“民意を得たからやっちゃうよ革命”なのである。我々国民にかなり影響が及ぶであろう主なものだけ並べてみたが、戦後の政治シーンで、一つの項目の話題を出すだけでも、内閣が潰れそうな問題を、10個以上も並べ立てているのだか、驚くというか、驚がく的なのだ。しかし、国民の生活の中で、それらの驚愕の目標に敏感に反応している様子は窺えない。

◇集団的自衛権行使法整備
◇武器輸出の加速
◇原発再稼働及び新設計画
◇特定秘密保護法の本格稼働
◇愛国教育の徹底
◇言論介入
◇アベノミクスの深化と加速
◇大企業(財閥企業依存)経済の再構築
◇TPP参加による自由市場主義の本格導入
◇雇用形態のリストラクチャリング、非正規雇用の拡充
◇アベノミクス修正補正 ◇税制改革(原則増税)と社会保障(原則縮小)
◇憲法改正、等々

 昨日のコラムの見出しのように“ボコボコに なるまで待とう”と云う心境でなければ、以上のような国家観の革命的変革を黙って見過ごすことは、本来ありえないような気がする。上記の方向性が本当に実行されると云う事は、「お前たちを“いい所”に連れていくけどイイよね?」と聞かれて、“いい所”ってどこですか?と聞くのが普通だ。数多くの、いい所を例示されるので、記憶の曖昧な国民は、全部合わせると、どういう所に行くのか判らなくなるようだ。

 「TDLだろう、花畑だろう、食べ放題の回転すし、ストリップ劇場だろう、USJだろう、屠殺場だろう、東京オリンピックに、津々浦々の好景気だろう、美しい国だろう、みんなが力を合わせてだろう、誰にも負けないおとぎの国だろう、人類はみんな家族だろ、強いものはもっと強く、弱いものは弱いものらしく、だよね、そうだよね。今君はウンと言ったよ。」

 なんだか判らないけどいい所みたいだね。そんな感じの詐術なのだろうが、安倍内閣の羅列された遣りたいこと一覧表を見ながら、政治日程を考えると、かなりの無理がある事は承知でやっている節がある。統一地方選の時期まで待つとすると、安保関連、原発、TPP関連の問題を1年半と云う期間に集中的に片づけなければならない。憲法改正までは手が届かない段階で、参議院選挙の時期に到達する。来年中には、アベノミクスの副作用が顕著化するだろうから、経済大失政も国民の知るところとなるだろう。多分、ここまでくれば“ボコボコに なるまで待とう”の状況だと思うのだが、どうなのだろう。

 常識的には、ここまでくれば流石に国民も目覚めると思いたいのだが、まだボコボコ状態だと思わない可能性もある。それが、国民保有の1700兆円近い金融資産の蓄積だ。これを食い尽くさない限り、国民が怒らない可能性があるのかも?という不安はよぎる。現在政府は、この1700兆円の略奪方法を色々仕掛けているが、日経が煽るほど人は動いていないようだ。

 そうなると、最後の手段は預金封鎖に至るのだろう。この最悪のシナリオは、安倍政権でなくても起きうる話だ。消費税30%か、預金凍結。消費税30%か年金半額、医療費5割負担。そんな究極の選択時代が日めくりカレンダー程度の速度で動いているのは確実なようだ。もう一つ究極の選択もある。戦争を始めてしまうことで、第二次大戦同様に、お国を“御破算で願いましては”を画策する手も残されている事も頭の片隅には置いておくべきだ。無論、このような悲惨な状況が日本だけで起きるわけではなく、先進諸国全体に起きる可能性が地球規模であることも認識しながら、未来を展望していきたいものである。注:継続テーマなので、各回結論が出るとは限らない。

拍手

カレンダー

06 2025/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

カテゴリー

最新CM

プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

ブログ内検索

アーカイブ

カウンター

アクセス解析