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「侠」という精神

「侠」もしくは「任侠」(「仁侠」という言葉もある。)とは何か、ということを考えてみたい。
「侠」という言葉は、簡単に言えば「弱きを助け、強きをくじく」というフレーズで定義できるだろう。さらに言えば、その「強き」とは「社会的強者」つまり「権力の座にいる者」である。政治家、官僚、大金持ち、etcだ。
暴力団も権力の一部だが、ヤクザは、大衆小説や大衆映画ではそれこそ「任侠の徒」だとされている。つまり、「ヤクザ=暴力団」ではない、とする見方と、「ヤクザ=暴力団」だ、という見方の二つがあるから話はややこしくなる。だから、ヤクザ映画では「良いヤクザ」と「悪いヤクザ」の両方がいて、最後は良いヤクザが悪いヤクザの親分を叩き斬って、観客の鬱憤を晴らさせる、というのがパターンだ。
本当に良いヤクザがいるのか、私は疑わしく思っているのだが、ヤクザという存在は、庶民(弱者)が個人では立ち向かえない権力に、堂々と敵対し、戦う、という側面もあることは確かだ。なぜなら、権力が法秩序を自分たちの権力維持の防御壁にしているのに対し、ヤクザは最初から法秩序から除外された存在だからだ。つまり、アウトロー(無法者)である。そして、無法者も、集団を作ることで、法秩序が簡単には潰すことのできない存在となる。彼らは、法に保護されていないから、法を恐れもしないわけで、これは権力の座にいる者にとっては敵にするよりも懐柔して味方に付けるほうがいい、という判断が下されることも多い。したがって、先に書いたように、現代の暴力団は権力の下部組織の一つだ、と見るべきだろう。警察と暴力団の仲の良さは、よく聞くところだ。
さて、「侠」というテーマに話を戻すが、「弱きを助け、強きをくじく」という精神は男らしさの極致であり、西洋の騎士道精神もこれと似たものだ。一方、世間でもてはやされる「武士道精神」とは、お家や主君のために滅私奉公することを理想とする、実に権力にとって都合の良い精神であり、侍が「弱きを助け、強きをくじく」働きをしたという話は(「七人の侍」などのフィクション以外では)聞いたこともない。ただ、その、「名誉を重んじ、死を恐れぬ精神」が尊敬や畏怖の対象となってきただけだ、と私は思っている。もっとも、「名誉を重んじる精神」というのも、主君や主家のために命を投げ出させる意図で作られた装置であったのだろう。武士に戦場で死の恐怖を克服させ、敵に立ち向かわせるには、「名誉」(または「恥」)という概念がずいぶん役に立ったはずだ。つまり、主君にとって便利な道具であった、ということだ。
キリスト教を、「奴隷の宗教」だ、とニーチェは言ったそうだが、武士道は「社畜の精神」と言えるだろう。つまり、奴隷が奴隷であることを誇りとする、そういう倒錯的な精神だ。もっとも、「武士道」という言葉は明治以降のもので、それ以前には「士道」と言っていたのではないか。(だいぶ前に「葉隠」を読んだが、そこでは「武士道」だったかもしれない。)「武」の字が入ることで、「勇猛な精神」が実質以上に強調され、本来は「サラリーマン道」である「士道」の本質が見えにくくなったかと思う。
さて、またしても「侠」の話から話が逸れたが、毎度言う通り、私の文章は「行雲流水のごとし」で、思いつくままに書いているのだから仕方がない。最初から結論ありきの「論文」ではなく、まさに随筆であり、筆に従って書いているわけだ。
「侠」について、西部劇の「シェーン」なども例に挙げようかと思っていたが、この映画を見たことのない人に内容を伝えるだけの技量も気力も無いので、「侠」の精神が知りたければ、ヤクザ映画よりは「シェーン」を見たほうがいい、とだけ言って終わりとする。もっとも、古いヤクザ映画の中には、まさしく「任侠(あるいは仁侠)」精神そのもの、という映画も多いようだ。


書き忘れたが、現代では「侠」の精神が払底している、というのが私が言いたかったことの一つだ。つまり、真の男らしさというものが無くなり、ただ粗暴なだけの、「男」を誇示する言動が男らしさとはき違えられているのではないだろうか。真の男らしさは、根底に弱者へのいたわりと優しさがあるはずだ、と私は思っているのである。仏様のような穏やかさと真の男らしさは矛盾はしない、ということだ。これは私が実際に知っている或る人物を念頭に置いて書いている。
いざという時に勇敢な行為ができれば、それが男らしいということである。
太平洋戦争の時の話だが、(男らしさや勇気を誇示している代表である)ヤクザや暴力団員というのは、実は兵士としてはまったくの役立たずであることが多かったようだ。





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ああ世は夢か幻か

「我が回想賦」というブログから転載。
ディアボロの歌という、浅草オペラの曲をユーチューブで探しているうちに、脱線して、こういう超ナツメロに行き着いたのだが、私はAKBとか何とかいうのには全く関心が無いのだが、なぜか、昔の歌、それも大正や明治の頃の歌が大好きなのである。
ところで、私はそれほどの老人ではないが、なぜか田谷力三の実物を見たことがある、というのが自慢の一つだ。しかも、それは日劇ミュージックホールの最後のステージを、「黒テント」の演出家(名前は失念)が演出した、いわば昭和の最後を象徴するような舞台の上でのことだったのである。つまり、大正演芸の最後の生き残りが、昭和の最後の舞台に出た、という稀有なステージの目撃者となったわけだ。しかも、私は演劇にまったく興味が無い人間で、その時も日劇ミュージックホールがこれで最後だから、見ておこう、という友人の誘いに乗せられて、渋々見たのである。それが一生の精神的財産になるのだから、人生とは不可思議なものである。
なお、「世は夢か幻か」のネタである野口男三郎事件について書かれた、ある推理小説があって、これもなかなか面白いのだが、おそらく今では入手不可能だろう。そういうものだ。題名もおそらく「(ああ)世は夢か幻か」であったと思う。(今、調べてみたが、おそらく鮎川哲也の「ああ世は夢か」だと思う。なんとなく、鮎川哲也の名前が思い浮かんでいたのだが、ピッタシカンカン(死語)だったようだ。)
なお、こういう、自分の生まれていなかった時代へのノスタルジーについては、「春の港に生まれた鳥は」という漫画が、一番ツボを抑えていると思う。作者は高野文子。

なお、「美しき天然」は、きれいに歌った歌よりも、ソウルフラワー・モノノケ・サミットという得体の知れないグループの歌うそれが、チンドン屋(ジンタ)の哀愁を感じさせて、面白い。
一聴に値すると思う。




(以下引用)

2014年6月10日 (火)

ああ世は夢か幻か


「美しき天然」という唱歌のメロディーが好きである。 


   空にさえずる鳥の声


   峰より落つる滝の音(後略) 


 しかし、この歌ほど悲惨な運命をたどった楽曲はない。まず、ジンタというサーカスの客寄せの宣伝の曲に使われた。 


 そして極め付きは、殺人者が獄中で作詞したのが巷に流れ、「美しき天然」の替え歌になってしまったことだ。 


 1902年というから明治の末期である。東京の麹町で、11歳の少年が圧殺され、臀部の肉がはぎ取られる事件がおこった。 


 犯人は、東京外語生だった野口男三郎といい、「男三郎事件」として有名になる。男三郎はある家の入り婿になったが、義兄はらい病患者だった。 


 らい病(レブラ)には人肉が効くという迷信があり、それを信じた男三郎は、少年の臀部の肉を煮て義兄に食わせ、スープを飲ませたのである。 


 逮捕された男三郎が、獄中で作った詞はこうである。 


  1,ああ世は夢か幻か


   獄舎に独り思い寝の


   夢より醒めて見廻せば


   あたりは静かに夜は更けて  


  2.月影淡く窓を射す


   ああこの月の澄む影は


   梅雨いとけなき青山に


   静かに眠る兄上の


  3.その墳墓を照らすらん


   また世を忍び夜を終夜


   泣き明かす


   愛しき妻の袂にも 


  このもの悲しい詞を、演歌師が「美しき天然」のメロディーで歌い、一世を風靡したのである。


  少年時代にこの歌を歌い、私は父にひどく叱られた。


 (去年の名月)


Img221


 


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「夢」の功罪

小田嶋隆ツィッターから転載。
いつもながら、見事なものだ。彼がフランスにでも生まれていれば、ラ・ロシュフコーの再来、箴言の名手としてもてはやされていただろうが、今の日本ではこうした苦い真実を口にする人間は好まれない。
若い人々が、マスコミや支配層の提供するエサで「夢」を持ち、その夢が現実化しないことで鬱状態になる。周囲から押し付けられる「良識」で自分を雁字搦めにし、さらに鬱状態を悪化させる。これはまさに「煩悩」と「同調圧力」と言うべきだろう。
ところで、私は「我々の生の刻々は、その人の主観で解釈されたもの、つまり夢である」という意味で、自分自身を「酔生夢人」とも名乗っている。(本当は「名宣る」と書きたいが、こちらは一般的な表記ではないようだ。)その意味の「夢」と、「あなたの将来の夢は何ですか」の「夢」の意味はまったく違うことは言うまでもない。で、私は後者の意味の「夢」は大嫌いなのである。こういう場合は「目標」と言うべきであり、夢というフワフワした言葉を使うべきではない。ここでの「夢」は、砂糖でデコレーションされた煩悩だ。
「夢は必ず実現する」などという言葉は、学校や予備校などが宣伝広告でよく使うが、それは「あなたが我々のところに来て、金を払えば、あなた自身のしかるべき努力の結果あなたの夢が実現することも可能性としてはある」ということだ。それに「必ず」という冠を付けるのは詐欺もいいところだが、こうしたキャッチコピーは詐欺とは看做されていない。
そして、この「夢はかならずかなう」というフレーズは、成功した芸能人も、成功したスポーツマンも、よく口にするのである。そのほとんどは、子供や若者へのメッセージを頼まれたとき、マシなセリフを考えるよりも、こうしたできあいの安全な文句を口にするほうが楽だからだろう。
成功した人間が、「夢の99%は実現しないよ」などと言えば、確かに若者にとってこの世は暗黒になるだろう。そして、そういうことを口にした人間がマスコミや社会から袋叩きに遭うのは目に見えている。それを言っていいのは、たいして成功していない人間だけだ。それなら、「あいつがあんなことを言うのは、成功できなかった人間の僻みさ」、「酸っぱいブドウって奴だ」ということで、軽く嘲笑され、無視されるだけで終わる。
ところで、成功した人間というのは、確かに大きな夢を持っていた人間でもあるだろう。言い方を変えれば、大きな煩悩を持っていた人間だ。自分の今の状態に満足している人間がそれ以上の努力などするはずは無いのだから、社会的にそれ以上上に行くはずはない。そういう意味では、夢を持つことが成功の原動力だ、というのも確かだ。ただし、それは社会的地位の上昇という意味での成功でしかないし、それが真の幸福かどうかは別の話である。
まあ、若い人は、とりあえず、社会的地位の上昇を目指すのが無難な選択ではあるだろう。出家遁世(あるいは「入家遁世」というのもアリだ。働く女性が結婚して家に入るのも、ある意味では「遁世」になる。だが、現在の日本は専業主婦の存在を許さないようになりつつある。)など、いつでもできるのだから。





(以下引用)


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米国債の現況

「ギャラリー酔いどれ」より転載。
日本と中国の増減よりも、ベルギーの150億ドル減、というのが興味深い。保有額に対する比率では中国や日本の増減比率よりはるかに高い。ベルギーやオランダという国は、ユダ金との関係が深いのではないか、と私は見ている。つまり、ユダ金自体が米国の財政破綻に向けての備えを始めているのではないか。7月1日に米国で経済的大事件が起こる、という噂もある。


(以下引用)


◆http://richardkoshimizu.at.webry.info/201406/article_138.html
richardkoshimizu's blog 2014/06/18
中国の米国債保有高89億ドル減 昨年2月以来の低水準 ― 米財務省


密かに米国債を売り払う中国。

その一方で、ユダヤ米国様の言いなりで
米国債を買い増しするブラック国家、日本。

ドル崩壊に向けて、中国はドル紙くず資産の減量に走り、しかも、
残った米国債は米国外に移している。 

米国による「凍結」を避けるためだ。

日本はいつまでも金融ユダヤ人の言いなり

米ドル暴落を阻止するために、徹頭徹尾利用されている



☆http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140618-00000011-xinhua-cn
XINHUA.JP 6月18日(水)
◎中国の米国債保有高89億ドル減 昨年2月以来の低水準―米財務省


米財務省は4月の国際資本純流入が1368億米ドルで、
長期資本純流出が242億ドルとなり、
さらに外資の米国債保有高は136億ドル純減したと公表した。
6月17日、騰訊財経が伝えた。

4月の中国の米国債保有高は89億ドル減の1兆2632億ドルで、
昨年2月以来の低水準となった。

日本の4月の保有高は95億ドル増の1兆2097億ドルだった。

保有量が三番目に多いベルギーは150億ドル減の3660億ドルだった。

日本の保有高は過去最高に近い水準だったが、

その増加分は中国の減少分によってほぼ打ち消された。



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警察(公安)は理由など無くても人を逮捕できる

「春と修羅☆」から転載。
少し古い情報だが、下地真樹氏の逮捕理由がこんなものだったことに唖然としたので、備忘的に保存しておく。



「大阪での震災瓦礫焼却に反対していた阪南大の下地准教授らが、


JR大阪駅構内を通り抜けたとの容疑で逮捕・拘留された挙句、


あまりにも逮捕理由が無茶過ぎて、釈放されるというコントのような事


件が勃発。」


だそうである。つまり、公安(または警察)は、どんな理由でも人を逮捕・拘留できる、ということである。その後釈放されたとしても、この逮捕・拘留が現実に行われたという事実は重い。そして、こうしたカフカ的な不条理がこの現実世界で起きていることを国民の90%くらいは知らないと思う。(下記情報は「iwj」つまり、岩上安身氏らの「independant web journal」だけが報じたものかと思われる。) ほとんどの人が知るのは、このキチガイじみた逮捕理由ではなく、下地教授に「逮捕歴」がある、という汚名だけになるだろう。
日本はすでに「特高時代」の日本に戻っているのである。つまり、今は「戦前」だ。
安倍総理らによる平和憲法破壊工作(立法)以前に、実質的に行政はその方向で動いているわけだ。




(以下引用)



2012/12/29 【大阪】下地真樹氏 釈放会見  


2012年12月29日 23:59 --> 2012/12/29 【大阪】下地真樹氏 釈放会見


「ほとんどコントだ。可視化云々の話でなく映像に撮っておくべき」。


 


がれき広域処理に対するJR大阪駅前における抗議行動が威力業務妨害等


にあたるとして2012年12月9日に逮捕・勾留されていた


下地真樹・阪南大学准教授ほか…



大阪での震災瓦礫焼却に反対していた阪南大の下地准教授らが、


JR大阪駅構内を通り抜けたとの容疑で逮捕・拘留された挙句、


あまりにも逮捕理由が無茶過ぎて、釈放されるというコントのような事


件が勃発。


 


公安警察が何故、一介のタレント崩れな市長の手先に成り下がっているのだろうか??


 



貴重な情報 RT @秘密保護法案を作成したのは内閣官房内閣情報調査室。


 


内調は職員約210人のうち、約90人の生え抜き職員以外は各省庁からの


出向者で構成される。


トップの内閣情報官をはじめ、約50人と最多数を占めるのが警察庁の出身者。


主軸は公安(警備)警察である





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「批判への批判」への批判

「fromdusktildawn」氏(分裂勘違い君)がリツィートしていた「 finalvent」氏(極東ブログ筆者)のツィートを転載。わざわざ、あの頭脳明晰なfromdusktildawn氏がリツィートするくらいだから、意味深長な発言かと思って考えてみたが、さほど意味深とも思えないのは、こちらの思考力不足か。

「思考から批判的対象が阻害(夢人注:後で「阻害→疎外」と訂正。)され、批判実体のように見えるとき」

というのがよく分からない。要するに、批判対象の実体を見失って、自分で勝手に作り上げた虚像を批判するようになった時、ということか。それならば、なかなかいい言葉である。実際、我々、つまり普通の人間が批判をする時に陥りやすい陥穽がこれだろう。私も橋下や安倍本人を知らないのに批判ばかりしているわけだから。あるいは政府とか権力という実体の無い抽象的存在やユダ金という実体不明のヌエ的集団への批判を繰り返しているのだから。
しかし、そうした「批判への批判」というもの自体が「批判そのものの無効性」の主張となりがちだという危険性もまた存在する。そして、どちらが罪が軽いかと言えば、「虚像への批判」の方だろう。なぜなら、ここで問題となる「批判対象」は、巨大権力であるからである。
常に批判対象とならないかぎり、「絶対権力は絶対に腐敗する」ものであるのは言うまでもないだろう。そしてその腐敗(批判が無効である社会の腐敗と言っていい。)のもたらす地獄は、アメリカや日本やウクライナを見れば明瞭だ。
極東ブログ氏がだいたいにおいて体制擁護的姿勢を持っていること、そして分裂勘違い君もまた資産者側(権力に近い層)にいる人間であることを考えれば、下の発言は「体制(権力)批判者への悪意と冷笑」に近いのではないだろうか。



(以下引用)




finalvent @finalvent · 19 時間

ちなみに「疎外」というのは、マルクスもフランス語でaliénationを使ってるけど、意味は、「それが自分であったものがこれじゃなーいとなること」。











finalvent @finalvent · 19 時間

阻害->疎外
























finalvent @finalvent · 19 時間

「こいつならいくら馬鹿にしてもいい」と思ってる人は人の愚かさにも素晴らしさにも気づかない。













finalvent @finalvent · 19 時間

批判的思考において、思考から批判的対象が阻害され、批判実体のように見えるとき、実は思考は終了してる。政府批判、天皇制批判、社会制度批判も。




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それ、本当に壊していいの?

この前、「アナと雪の女王」(「じょおう」って発音しにくい。「じょうおう」と言いたくなる。)に少し触れたが、その時に頭にあったのが、下のブログ記事。ながたかずひささんの「ユルネバ!」である。(「ユルネバ」という名前のブログは他にもあるようだが、どういう意味だろう。ゆるくてねばねばしている、スライムみたいなものか。それとも「you'll never know」の前半だけか。)
余談はともかく、この「アナと雪の女王」への女性たちの支持は、前に書いたように、「今の自分は本当の自分の姿ではない」という、女性たちの、現実への不満の現れではないか、というのが私の推測だが、べつにこういう気持ちは女性だけのものではもちろんない。(ボードレールの詩に「ここではないどこかへ」というものがある。誰でも、時々、ここではないどこかへ行ってしまいたくなるものだ。)
しかし、男はわりと平気で現実に甘んじる(あるいは妥協し、あきらめる)から、たとえば中高年で離婚を言い出すのはたいてい奥さんのほうだ。旦那は、「ここまできたらしょうがないや」という感じで古女房で我慢するが、奥さんたちは古旦那がどんどん老人化していくのが我慢できないようだ。そして、現在の状況を壊せばすべて良くなる、という思い込みから離婚、となる。まあ、実際、離婚すれば女性は若返り、男はいっそう爺ィ化するような感じがあるから、女性が間違っているとは限らないが、少々危険なトライであることは確かだ。
また話が変るが、(多分、「変化」ということからの連想だ。)、先ほど見ていたネットテレビの「ハゲタカ」の中で、ドラマ中の人物が「昔は伝統というと守るものだったが、いつのまにか壊すものになってしまった」というような述懐をする場面があった。
今の日本は全体に、「壊すことはいいことだ」という気風に染まっている気がする。特に政治において。(日本国憲法とかね。)その一方で、本当に壊すべき原子力村などの存在に手をつけることは決してしないのである。



(以下引用)


2014年06月12日

映画「アナと雪の女王」ディズニー





http://ugc.disney.co.jp/blog/movie/category/anayuki

 世間の人がレリゴーレリゴー言うもんですから。
(以下ネタバレあります)

 観て「とてもいい話」だとは思ったのですが、基本的に「おとぎ話」なので、なぜそんなに大人が号泣してインド映画観てる時みたいに合唱が巻き起こるのか(僕が観たのは21:30の回だったので起きなかったのですが)は、結局よくわかりませんでした。
 つらつら考えてもわからないので、そんな時には友人に訊いてみる。観てない友人4人にカクカクシカジカ筋を説明しましてですね。

A「よくある話ですよね。どこが号泣ポイントなんでしょう?」
僕「いやそれを今訊いて……」
A「観てわからないのに観てないのにわかるわけないじゃないですか」

 おっさるとおりです。

B「子どもはディズニー好きなんですよ!」
僕「いやでも僕好きじゃなかったよ子供の頃から」
B「あんたはな!あんたはなあ!」
僕「だから子どもじゃなくて大人が号泣をね」
B「ストレス溜まってんじゃないですか」

 出たストレス万能説。

C「40代50代の女性やろ? そら今までの人生振り返って間違ってないと。間違ってないと」
D「僕の妻もねぇ、観に行って感動してサントラ買いましてねぇ、もクルマの中ずっとレリゴー」
C「間違ってないんや。間違ってない」
D「伝えとくわ」

 話を見えやすくするために置かれたシチュエーションを常識的に置き換えてみましょう。

 宇和島あたりの旧家の名家の長男が激しいオタク気質で小さい頃から萌え絵ばっかり描いててですね、それ素直な弟が小学校持って行ったらえらい問題になって
「お前の兄貴はHENTAIか!」
ということで家族会議の結果お絵描き禁止。その両手を縛られるような辛い抑圧の中なんとか成人して大学は逃げ出すように阪大あたりで下宿、ここぞとばかり部屋中萌え絵ポスターとタペストリー貼りまくって掛ける音楽初音ミク、レコーダフル回転でアニメ録りまくってPixivかなんかに恐る恐る10年ぶりぐらいの絵をアップしたら閲覧も評価もうなぎのぼりで有頂天、ここでレリゴー。
「♪ありのーーーーままでーーーーーーー!」
 お兄ちゃん絶唱。

 ……と、この話聞いて「ああよかったねえお兄ちゃん」とは思いますけど、どこにその泣くほどの感情移入がありますか。
 あなたにはちょちょっとやっただけでYouTubeに上げられて世界中の人が驚くような特殊能力がありますか。
 子どもの頃明示的に「これこれだからこれをしてはいけない」と縛られた両腕がありますか。
 それはちょっと言葉が悪いですが自分自身を買いかぶりすぎじゃないですかねえ。
「わたしもこの縛りさえなければエルサのように氷の宮殿を作れるすごい能力があるの!」
 無いて。

 見方を変えて、これを親からの抑圧全般と捉えるところまで抽象化してみます。(エルサの場合は自他共に認める「危うい力」であり子どもエルサも封印に同意してるのでそれはちょっと拡大解釈すぎる気がするのですが)
 そういう場合問題になる(なりやすい)のは
「おまえはこういう子だから」
と言われてそのように思い込まされ人生が歪む、「やりたくもないことをやっている」「やりたいことができなかった」パターンです。
 しかし食うや食わずの途上国ならまだしも日本でならそれは、これも厳しいこと言いますが言い訳に過ぎず、やりたくないことあるならやめればいいし、やりたいことあるならやればいい。
 エルサの姿を観てカタルシスの涙流してる場合ではありません。
 その場合その涙と解消感は街角マッサージ同様、根本原因には何の影響もない「問題の先送り」に過ぎない。

 さて物語には続きがあって、当然そんな一時の現実逃避はノン・サステナブルであり、地元ですくすくマイルドヤンキーに育った弟が兄の下宿を訪ねてきます、
「ウチの家、兄ちゃんおらんかったら回らへんへねや。お願いやから帰ってきてーな」
「嫌!」
と一喝して追い返すのですがなんのかんのドタバタジタバタあって、実家の台所で弟の地元の彼女(これが名家の乗っ取りを狙っているひどい女)に包丁で刺されかかったところ飛び込んできた弟に助けられ、その瞬間
「愛がすべてだ」
と悟ったお兄ちゃんは……お兄ちゃんは……えー……同人誌がミッチリ詰まったリュックを振り回すと簡単にノせて(あれ凶器ですからね)、さらには御当主帰ってきた御当主帰ってきたと村を挙げての大歓迎。得意のイラストと人脈で人気ゆるキャラを生み出したり聖地巡礼で町おこし、それを優しい眼差しで眺めるヴェルファイア(黒もちろん2.4)に乗る弟と大阪の即売会に説得に行った時に案内頼んでそのまま仲良くなったオタク娘……

 この話ね?
 教訓とか主題めいたものを無理に見出そうとするなら、
「人の力や性質性格というものは、それ単独では良いものでも悪いものでもなく、ただ愛を持って周囲に貢献するような形で発揮される時にのみ価値を生みだす。そしてそれをそのように行うのは自分自身の意識と努力」
というきわめてあたりまえで納得のゆくスタンダード&クラシックなものでありかつ人類開闢以来懇懇と訴えられ続けてきたことであり、ビヨビヨ泣いて全く目新しいものを見出したかのように感動するようなもんでは……

 まあ、いまちっちゃいパン屋さん、で腕のいいところは本当に大繁盛で、駅から遠くてもすぐ売り切れてもみんな狂ったように並んで奪い合うように買い漁るのですが、確かに、確かに美味しいのですがそこまでせんでも、というか、じゃスーパーにコンビニに並んでるあれは何だ、ということになりませんか。
 なりますね。
 そのへんの不安と不満が、全世界的に共感を生んでるのでしょうか。
 でもそれやったらなおのことね?
 パンに不満あるんやったらやるべきことは、自分でパンを焼くことですよ。

 興行収入は現時点で日本で歴代3位(上は『千と千尋』と『タイタニック』)ワールドワイドでも歴代5位(アニメ最高位。ただしこちらは新しいタイトルほど有利になるので参考記録)。すごいですね、一番びっくりしてるのは製作陣ではないですか。

 そんなに小難しく考えなくても音楽は最高なので、それで得点荒稼ぎ感はあります。
 映像作品において音楽はほんとクリティカル。
 わたし吹替で観まして、けして吹替否定派でも原語原理主義でもないのですが、やっぱり「ミュージカル」は歌詞を日本語訳する物理的ハンデがかなりあると思いました。もちろん日本語キャスト陣は熱唱熱演でしたけれども(沙也加さんお母さんによく似てきました)、DVD/ブルーレイで初見の方は原語が無難かと思います。
 これは余談。

 いろいろ言いましたが「こんなにウケてそんなに泣く」メカニズムが僕にはわからないだけで、作品としては全く文句ないデキです。シナリオもタイトで私好み、あっという間の108分。邦題(原題「Frozen」)もまあ仕方ないかな&これはこれで。
 ご家族で、恋人と、あるいは独りでも、どうぞご覧あれ。

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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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