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日本戦後史を一言で言えば

私などが書く長々しい文章など不要だなあ、と思わせる一言である。


(以下「阿修羅」から引用)



10. 2015年2月10日 10:37:29 : u41ShKyHb2



日本の政治は戦犯の孫とか戦後ドサクサの時に金儲けをした子供や孫たちがずっと権力を持ち続けてきた事が日本の独立を阻んでいる。売国奴が富を得て出世出来る社会である。

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人間の「馴致」

さて、この世に生れ出た時点で、人間は動物と同じ存在であり、その意味では完全に自由である。つまり、「すべては許されている」はずだ。
それが社会の中で育つに従って、いろいろな社会的規範を叩き込まれ、どんどん行動を縛られていく。つまり、自由を失っていく。
この「自由を失う」ことは、当人にとっては不快極まることであるが、訓練と習慣によってその不快さを意識しなくなる。これは動物を家畜化する(というよりは、家畜としての行動を叩き込む)「馴致」とまったく変わらない。その馴致機関が家庭であり、学校である。
その馴致訓練や馴致機関に欠陥があった場合、反社会的な個人が生じてくる。これがサイコパスと言われる人々である。つまり、社会的規範をまったく顧みず、自分の欲望のみに忠実であるような個性を社会側から見た言い方がサイコパスであるが、この種の人々の中で計算高い連中は、自らの正体をうまく隠して立ち回り、社会的にも高い階層に上ることも多い。思慮の浅い連中は、自らの欲望を抑えきれず、短絡的に犯罪に走る。(思慮が浅いことは、知力が低いということではない。むしろ、思慮の浅薄はその人の教養の程度、すなわち思考素材の質と量で決まる、と思う。)

自由とは何か素晴らしいもののように思われているが、私に完全な自由を与えたら、おそらく、自分の気に入らない人間をこの世からどんどん消し去り、最後には自分ひとりしかこの世界に存在しなくなるだろう。私は読んでいないが、藤子不二雄の「ドラえもん」中の「独裁者スィッチ」がそういう話のようだ。
人間が社会の中でしか生きられない以上、他人と協調して生きるためには自分の自由を制限することを全員が承認しなければならない。その意味で、家庭や学校での「馴致」訓練は必要なのである。ただし、それは「家畜化」でもあることに気を付ける必要がある、というだけだ。

さて、下の記事で、弁護団はこの殺人少女を「刑務所での刑務作業では更生できない。医療少年院ならそれが可能だ」と主張しているが、果たしてそうか。医療少年院でどういう「馴致」が行われるかは知らないが、過去16,7年間の家庭と学校での「馴致」で失敗したものが、医療少年院なら可能だというなら、それは素晴らしい。(刑務所での刑務作業が「更生」を目的としたものだという言い方自体に、何かピント外れなものを感じるのだが。あれは「懲罰」と「営利」が目的であって、刑務作業で更生するなら、工場労働者になれば誰でも人格者になる、とでも言うのか。)
私は基本的に犯罪者の更生というものを信じていないのだが、裁判における冤罪率と同じくらいの割合でなら犯罪者の更生というものもあるかもしれない。しかし、犯罪者の更生に回す金があるなら、犯罪の予防に金をかけるべきだ、と私は思っている。
それはつまり、家庭と学校の在り方を再検討するということでもある。


(以下引用)


佐世保殺害で弁護団「刑務作業では更生できぬ」


 長崎県佐世保市の高1女子生徒殺害事件で、殺人などの非行事実で家裁送致された少女(16)の付添人を務める弁護団(3人)が10日、医療少年院送致の保護処分を求める意見書を長崎家裁に提出したことを明らかにした。


 家裁送致の際の検察側意見は「刑事処分相当」だったという。家裁は同日、少女の観護措置を26日まで延長することを決定。観護措置の期間中に第1回少年審判が開かれる予定。


 10日、弁護団は同市内で記者会見を開いた。検察側の「(少女には)刑事責任能力があり、刑事処分が相当」との意見に対し、弁護団は、刑事責任能力については「争う予定はない」と述べた。


 その上で「少女の特質を考えると、刑務所で刑務作業を繰り返すだけでは、真の意味の更生ができない恐れが大きい。再非行の防止には、徹底した治療や矯正が必要で、それが可能な施設は、医療少年院をおいて他にない」と主張した。


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犯罪と合理的思考

前回の記事の「毒消し」として、「紙屋研究所」から次の記事を転載しておく。
ただし、世界的に犯罪自体が減っているわけではなく、「粗暴犯」が減っている、ということであり、知能犯、特に社会上層部の犯罪行為は、むしろ増加しているのではないか。もちろん、そうした権力者・権力階級の犯罪の大半は隠蔽されるのが当然であって、水面下で行われる犯罪は膨大なものだろう。
要するに、暴力的犯罪、特に殺人などというものは「割に合わない」から、時代精神が合理性に傾けば傾くほど粗暴犯は減るのが当然だ、というだけの話ではないか。それは慶賀すべきことだが、逆に言えば、殺人が経済合理性に合致すれば、「神無き時代」の合理的人間はためらわずに殺人を選ぶ、ということである。その種のニュースはマスコミ上でも枚挙に暇が無いだろう。しかも、東電による「放射能殺人」やアメリカによる「テロとの戦争」名目のイラク、リビア破壊に伴う殺人などは、誰からも裁かれないのである。
下記記事の後に、「余談」として、高齢者の犯罪が増えていることが書かれている(ここでは省略した。)が、これも「経済合理性」による犯罪がほとんどだろう。罪を犯して刑務所に入れば、飢え死にしなくて済む、という貧困老人が犯罪を行うのは、この上なく合理的な行動ではないか。


(以下引用)

2015-02-08 暴力はなぜ減っているのか? 『犯罪社会学研究』第38号

『犯罪社会学研究』第38号Add Starzakincogureneko




 保育園がいっしょだった親御さんと話していて、また地域で不審者情報が出たというので不安がっていた。その前日、ぼくはある学習会の講師で「犯罪は激減しています」としゃべっていたのであるが、その親御さんの意見をふんふんとうなずいて聞いていた。




 そういう話をしていたら福岡県で女子小学生が殺害され、この文書を書いている最中に和歌山県で男子小学生が殺された。「数十秒目を離したスキに…」「自宅のすぐそばで…」と報じられるので、うちのつれあいとかはもう四六時中娘に張り付いてないといけないかのような思いにとらわれている。



日本中、そして先進国で犯罪は減っている

 福岡市では犯罪が減っている。2002年をピークにして半分くらいに減っている。


 日本全国で同じような傾向をたどっている。


 さらにいうと先進国全体で犯罪は減っている


犯罪社会学研究 第38号(2013) 課題研究「犯罪率の低下は、日本社会の何を物語るのか?」 最初にそのことを知ったのは2013年7月3日の英誌「エコノミスト」の記事だった。それで関心をもって『犯罪社会学研究』という専門誌の竌38「犯罪率の低下は日本社会の中を物語るのか?」という特集(課題研究)を読んだ。





主要犯罪全体の発生率が低下しているのは、主要先進国に共通の現象である。(宮澤節生/同誌p.11) 


 ただ、先進国全体のこの傾向については、その原因は今一つよくわかっていないというのが結論のようだった。




結局、「国々の間での異同」と「各国の犯罪発生率の変化」を同時に計測する研究が現れるまで、多くの先進国において犯罪発生率が低下しているという現象に対する説得力のある説明は、得られないように思われる。(同前p.17)


 同誌では日本だけについていえば、いくつかの仮説が検証されている。研究者の文書なので「これがその原因だ!」みたいにセンセーショナルには書いてないけど、だいたいこんなところがその原因かな、というふうににおわせる、あるいは一定の結論を出している(以下はぼくの主観的なまとめなので、正確には同誌および個別の論文そのものを読んでほしい)。



警察のカウントの仕方

 一つは統制主体の問題。簡単に言うと、警察の側の方針変更で、統計数字がかわったんじゃないかということ。


 2000年代前半をピークに減っているのは刑法犯の「認知件数」である。


 認知は被害届を受理することによって変わる。だから、積極的に被害届を出すように促し、積極的に受理すれば増えていくのである。もう一つは、数え方。被害が連続して起きた場合にそれを1とするか2とするかは警察の裁量がはたらく。




 同誌の浜井浩一論文「なぜ犯罪は減少しているのか」では検挙人員がほとんど減っていないことを指摘する。




認知件数は、犯罪統計としての妥当性は高いかもしれないが、被害届の取り扱いなど、その時々の警察の事件に対する取り組み方針の影響を受けやすい。常に同じ対象を安定的に計測しているのかという信頼性からの観点から見ると、最も信頼性が高いのは実は検挙人員である。認知は、被害届を受けて事件を受理・記録しただけだが、事件ではなく人を検挙するためには、当該被疑者が罪を犯した事実を確認するなどきちんとした手続を踏まねばならないからである。(浜井/同誌p.56)




 1986年からの長期的な推移のグラフをみると、検挙人員はあまり動きがなく、認知件数だけが突如山をつくるように2000年代前半前後にもりあがり、元に戻り、やや減っていく傾向を示している。


この警察の方針の変化については、同誌で石塚伸一論文「日本の犯罪は減ったか? 減ったとすれば、その原因は何か?」のなかで少し触れている。また、浜井論文では4つの新聞沙汰になった事例をあげて、警察で統計の「操作」をしていたことを示している。




 警察の影響を除いた、本当のところはどうなのか。


 浜井は、「守備範囲は狭い」と断りながら、「犯罪被害調査」という統計を紹介する。この統計は、市民に対して犯罪に遭ったかどうかを調査して回り、そのサンプルから犯罪の発生率を推測するものである。これだと被害届を出したかどうかにはかかわりなく、被害の実態が浮かび上がることになる。街頭犯罪についていえば、次のようになっているという。




認知件数では、器物損壊を含めて街頭犯罪の多くにおいて2002-2003年をピークとして急上昇、急降下しているのに対して、実際の被害率は一貫して減少していることが確認できる。(浜井/同誌p.59)




 つまり、まあ、認知件数ほどじゃないけど、こうした犯罪は減少しているよっていうことになる。警察の方針変更とか統計いじりの影響をうけながらも、犯罪は減少しているとみていいってことだとぼくは感じた。



防犯技術の向上

 じゃあ、やっぱり、「なぜ犯罪は減ったのか?」。


 警察ががんばったとかいうことはあるだろうか。


 浜井論文では、警察白書で認知件数減少に大きく寄与している犯罪として、車上ねらい(29.6%)、自転車盗(15.7%)、自動販売機ねらい(14.8%)、オートバイ盗(13.1%)があげられていることを紹介している(認知件数の減少に対して、街頭犯罪全体が占める寄与率は85.6%で、つまり車上ねらいなどの街頭犯罪が減ったことがほぼそのまま認知件数全体の減少につながっているとしている)。


 浜井論文では、自動販売機堅牢化と駐車場における防犯カメラの効果についてのべている。自動販売機堅牢化は、2006年ごろに堅牢化が完了し、自動販売機ねらいの認知件数は他の犯罪と違った増減を示したという。




他の街頭犯罪とは明らかに異なる動きをしている。そして、それが自動販売機に占める堅牢化率と相関しており、自動販売機ねらいの認知件数の減少には、一定程度以上に堅牢化の効果があったものと推認できる。(浜井/同誌p.60)




 防犯カメラの効果については、浜井論文では、特に統計的な指摘はされていない。防犯カメラは導入に賛否があるものだが、浜井はキャンベル共同計画のレビューを参照し「防犯カメラは唯一駐車場における車両関係犯罪の防止に効果があることが確認されており」と述べている。この指摘は斉藤貴男『安心のファシズム』でも見られた。


 このような防犯技術の向上、それへの投資によって犯罪が減少していくことについては、「エコノミスト」にも指摘があった。




先進国で犯罪が急激に減少している。…最大の要因は、単純に警備対策が向上したことかもしれない。自動車のイモビライザ―は遊び半分の盗難を防いでいる。銀行強盗は、防弾スクリーン、警備員、印付き紙幣でほぼ姿を消した。警報機とDNAデータベース強盗の逮捕率を高めている。…小規模な店舗さえ、監視カメラセキュリティタグに投資している。一部の犯罪は今や極めてリスクの高いものとなっている。(「エコノミスト」2013年7月20日号)




 警察白書は、警察の側のさまざまな取り組みの強化を認知件数の減少と結びつけているが、それについての言及は浜井論文にはあまりない。



少子高齢化が影響

 浜井論文では「1960年以降1990年代半ばくらいまで殺人、強盗強姦、傷害などほとんどの伝統的暴力犯罪の認知件数は減少していた」(浜井/『犯罪社会学研究』第38号p.64)という事実の原因の一つを「少子・高齢化」ではないかとしている。




実は、年齢と犯罪は密接な関係があり、その関係を調べて見ると一般的な犯罪の過半数以上は30歳未満の若者によって行われるということがわかっている。…先進国のほとんどにおいて年齢階層別の検挙人員を人口比で見ると、10歳くらいから非行が始まり15-20歳でピークを迎え、就職・結婚とともに次第に減少していく現象が見られる。日本においても1990年までは、一般刑法犯(検挙人員)の約7割は30歳未満の青少年によって行われていた。つまり、少子・高齢化によって青少年人口が減少すれば、人口構成的に犯罪の担い手が減少することを意味している。(浜井/同誌p.64、強調は引用者)




 少子化は多くの先進国に共通する特徴であるから、これが原因の一つであるというのはうなずける。



人類史上最も暴力の少ない社会に生きている」

 ぼくが『犯罪社会学研究』の当該号を読んで一番びっくりしたのは、ここ千年近くのスパンでみると、暴力による殺人が減っていること、「人類史上最も暴力の少ない社会に生きている」(浜井/同誌p.66)という規定だった。




世界的に著名な心理学者であるピンカーは、様々な資料を駆使してヨーロッパでは西暦1200年ぐらいから、人口あたりの殺人率が減少していることを明らかにしている。(浜井/同誌p.66)




 ピンカーの議論は次のようにさらにくわしく紹介されている。




こうした長期的な暴力の減少は、殺人といった犯罪に限らず、戦争での死亡者数、死刑、拷問や奴隷においても同じように見られることを例示しながら、これらの人の生命身体や尊厳を傷つけるような力の行使の減少は、人類が種としても(文明)社会としても発展し続けていったことによって、あらゆる意味で暴力を回避する傾向が高まっていった結果であると主張している。(浜井同前)




 「いやあ第二次世界大戦で大量に人が死ぬ時代は別でしょう」とか思っていたので、なおびっくりした。さらに、最近の武装組織によるテロ事件の「頻発」などを連日のように聞けば「死亡者数、死刑、拷問や奴隷においても同じように見られる」という限定はとても重要だし、目を見開かされる思いだ。


 このデータが正しいと前提して、なぜこうした成果がかちとれたのか。




ピンカーは、人類の中で暴力が減少しているのは、私たちの中にある「内なる悪魔(inner demons)」と「より良き天使(better engles)」の戦いの結果、私たちを暴力へと駆り立てる「内なる悪魔」を、私たちを暴力から遠ざける「より良き天使」が凌駕した結果だと主張している。(浜井/同誌p.66-67)




 え? 「内なる悪魔」? 「より良き天使」?




ここで「内なる悪魔」と呼ばれているものは、個人レベルでは復讐心やサディズム、社会レベルではイデオロギーであり、「より良き天使」と呼ばれているものは、共感性、セルフコントロール、モラル感覚、理性といったものである。(浜井/同誌p.67)




 えー、人間の心が発達したっていうの? それはちょっとにわかに信じられないなあとこの浜井の要約だけ見るとそう感じる。


 しかし、ピンカーがこの結論を出すうえで、前提となる事実を述べている。そのことについて浜井は次のように要約している。




具体的には、統治機構、教育、貿易・経済、国際化といったものの発展が、復讐・暴力への衝動・情動や有毒なイデオロギーを制御し、理性の力によって暴力への誘惑を減退させることに成功したというのである。ピンカーは、これを文明化プロセス(civilizing process)や人間性の進化(humanitarian revolution)等の概念で説明している。(浜井/同誌p.66)




 これならわかる。というか、実感に沿っている。


 たとえば、戦争という巨大な暴力を発動させることを食いとめる条約、国家機構、国際機構がある。教育が浸透することで暴力をあおる団体がある日やってきてこれを煽動してもそれによって暴力には駆り立てられないような素地が生まれる。貿易や国際化がすすむことでお互いの国に依存するようになるし、お互いの民族や国を知る機会もふえる。


 日本だけを考えてみても、戦前と戦後ではこれらが果たしている役割は大きいだろう。 戦前には戦争を制御する装置が弱い国家機構と憲法しかなかった。戦後、これらは国家から起こるあらゆる戦争の原因を除去する構造をそなえた憲法にすげ替えられた。教育も日本という国家や「民族」を誇大視する偏狭な教育が反省された。貿易や交流の発展でとりわけ中国韓国の人たちがどのような人たちかを知る機会は増えている。いまヘイトスピーチのような煽動がされて暴力事件も起きているが、国全体が暴力へと駆り立てられるという事態にはいたっていない。予断は許されないが




 いずれにせよ、この千年、数百年の間に世界規模で殺人や暴力が減っているというのは、実にものすごいことではないだろうか。いや、素直に感動しない? 暴力によって人が殺されないということに人類は成功しつつあるっていうんだから。


 いま中東アフリカから大量に人が殺されたり死んだりしているニュースが頻繁に伝わってくる。テロ、内戦、暴力による死ばかり。


 しかし、ぼくらはそれに絶望しなくてよい、ということだ。いや、もちろんだからといって「いやー、よかった。めでたしめでたし」というわけではないが…。


 幸いにも、日本にいるぼくらは中東アフリカの出来事を距離をもって眺められる位置にいる。そこで起きている暴力を抑えるために、冷静なアプローチができるということだ。ピンカーが指摘したように「統治機構、教育、貿易・経済、国際化といったものの発展が、復讐・暴力への衝動・情動や有毒なイデオロギーを制御し、理性の力によって暴力への誘惑を減退させることに成功した」という確信にもとづいて、その道を強化していけばいいのである。


 この確信は、フランス風刺画事件や日本のヘイトスピーチのようなものも、克服できるのではないかという楽観を与えてくれる。


 もちろん、中東をどう平和にするか、ヘイトスピーチをどうなくしていくか、専門家でもないぼくには具体的な妙案があるわけではない。


 しかし、さっきあげた確信は、むちゃむちゃアホっぽい言い方になるけど、みんなでいろいろ知恵を出していけば何とかなっていくよ、という楽天的な気持ちをわかせてくれるのだ。




 ぼくはマルクス主義者なので、根本的にヘーゲルと同じような歴史観をもっている。つまり人間の歴史というのはジグザグはあっても対極的には理性が勝利していく、というものだ。*1


 この浜井論文に描かれていることは、犯罪学者の中では“常識”のようなものかもしれない。しかし、単なる犯罪の統計・傾向の問題だけでなく、この論文はぼくの歴史観まで裏打ちしてくれるものだった。


暴力の人類史 上 特にピンカーの著作は非常に興味深かった。注をみると、まだ日本語訳は出されていないようである。*2誰かやってくれないだろうか。……と思っていまググったら、あるな! 邦訳が! しかもつい最近! 


 タイトルが『暴力の人類史』。あー、売ることだけ考えたら原題のサブタイトル「暴力はなぜ減ってきたのか」がよかったかもねー。「なぜ世界から暴力は減ってきたのか」くらいにしたらバッチリでは。


 いや、まあこんな大部の本、『暴力の人類史』みたいなカタくて大仰な感じのタイトルにした方がいいのかな。ケチつけてすんませんでした。




 邦訳が出てるんだったら、上記にぼくが述べたことはピンカーの意図を正しく言い表しているかどうかわからんので、とりあえず読んで確認することにしよう。


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人を殺してはいけない、か

まず、最悪の真実から書くことにする。
それは、ドストエフスキーの或る小説(「カラマーゾフの兄弟」だったかと思う。)に書かれていた、

「神が存在しなければ、すべては許される。」

という言葉である。
私は、この言葉は、ドストエフスキー以外には古今の哲学者も文学者も言わなかった「最悪の真実」であり、文明社会に投じられた、核兵器にも似た破壊的な威力を持つ言葉だと思う。
そして、それが恐ろしいのは、実は人類のほとんどは、この言葉が真実であることを心の奥底では分かっているところだ。だが、この言葉が真実であることを認めたら、あらゆる法と道徳は壊滅状態になるのである。
いいですか、

「すべては許される」のですよ。

殺人も、強姦も、近親相姦も、暴力も、拷問も、略奪も、嘘も冒涜もすべてである。
我々がそれらを犯罪としモラルに反する行為だとしているのは単に社会秩序を守るための便宜にすぎないことは、法や道徳がどうして発生したかを考え、そして法や道徳が場所や時代によってどれだけ変わるかを考えれば分かることである。
ドストエフスキーは、この言葉を、

「しかし、神は存在する」

という思想を前提として述べているのだが、問題は、ここで或る人が「神は存在しない」と確信したらどうなるか、ということだ。
その人が「神が存在しなければ、すべては許される」と考え、「神は存在しない」と確信したなら、「人間にはあらゆる行為が許されている」と自動的に答えが出るわけだ。
そして、その人が自分を他に優越する存在だと見做していれば、彼の思考はたぶん、こう続くだろう。
「ただし、自分の行為には、人間たちが勝手に作り上げた法律や道徳によって規制がかけられている。では、それに従う必要はあるか。
私は、他人が勝手に作り上げた法や道徳に従う意義を認めない。それらは私の自由を縛るものだ。この世に偶然的に生まれて、自分の人生から最高の果実を得るためには、私は世間では悪とされていることをも堂々と行う必要がある。なぜなら、悪は私が自分の欲望を達成するために必要な行為だからだ。もちろん、世間の意気地無しどものように、法や道徳を小心翼々と守り、安全で迂遠な道を行くこともできる。だが、そんな生き方の何が面白い。
奪え、殺せ、弱者を踏みにじれ、そしてすべてを手に入れろ。それでこそこの世に生まれた甲斐がある。力の無い、弱虫どもは奴隷の一生を送るがよい。俺は、強者として、超人として生きる」

これが私の考えるニーチェ的な「実存主義」である。
そして、こうした考え方は、本人が意識しているかどうかは別として、若者の一部には必ず存在していると私は推測している。ISISなどのテロ組織に参加する若者は、イスラム教への関心よりも、むしろテロの持つ「超人的な力」を求めて参加していると私は見ている。
現代では、すでに、神の存在を考えること自体がナンセンス扱いされる、というのが普通だろう。ならば、「神の存在しない世界」で、道徳や倫理(すなわち、法的定義以外の「善と悪」という判断基準)というものがどんな基盤の上に成り立つだろうか。私は、その基盤を見つけるのはかなり困難だと思う。法の場合は刑罰が厳然として存在するから、強制力も支配力もあるが、道徳に関しては、当人の人生経験と読書体験くらいしか基盤が無いのである。偉い人が「道徳を守れ」、と言う、その偉い人自身が道徳的には最悪の人物だったりする。

このへんで、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問題に答えておこう。
答えは単純である。

「法律で禁じられているから」

これだけだ。道徳という不確かなものではこの問題に答えることはできない。

「なぜ法律は殺人を禁じているか」

は、別の問題だ。ちなみに、法はあらゆる殺人を禁じてはいない。言うまでもなく、戦争においては、敵を殺せ、と国家が命令する。そして死刑制度は国家そのものが殺人を行うことだ。つまり、法律は「絶対的に殺人はいけない」とはまったく言っていないのである。

上に書いたような答えでは当然誰でも不満に思うだろう。だが、実際に、「神が存在しなければ、すべては許されている」のであり、殺人だけを禁ずるいわれは無い。
動物でも人間でも「敵は殺せ、味方は殺すな」が原則であり、「殺すこと」自体が禁じられている、というのは実は幻想である。言い換えれば、法律や道徳は壮大な「虚構の体系」だと言える。しかし、その虚構は社会の平和と秩序を守っているのである。誰かを殺せば、その遺族によって自分も殺されて当然である。だから法は殺人を禁じる。そしてそれは十分に合理的なものであり、殺人はこうして禁止されるわけだ。しかし、哲学上の問題として言うならば、「人を殺していけない」絶対的な理由は存在しない、と私は思っている。

念のために言うが、私は人を殺すことを勧めているわけではまったくない。まして、「お前は人を殺していいと言ったのだから、お前を殺す」などという言いがかりは迷惑である。(人を殺していい、とは少しも言ってない。「人を殺していけない絶対的な理由は存在しない」と言っているのであって、それ以外の理由は無数にあるだろう。「社会の平和と秩序の維持」も立派な理由だ。そもそも、なぜ無益に人を殺す必要があるのか。)

私自身は、人間の文化の大半は美しい虚構であり、虚構であっても(あるいは虚構だからこそ)大きな価値がある、と考えている。道徳もその一つである。私が悪が嫌いなのは、端的に言って、それが醜い行為だからだ。善は行動の美なのである。

エゴイズムによる行動ほど醜いものは無い。そして、悪とはすべてエゴイズムから来るものだ。上に書いた「超人思想」(石原慎太郎が自分を実存主義者だと規定するなら、その思想はこんなものではないか、と私が空想したもので、ニーチェ的なものだろうとは思うが、私はニーチェを詳しく読んでいないので、確かではない。)も、要するにエゴイズムでしかない。醜い思想である。
エゴイズムによる行動の醜さは、たとえば行列への割り込みのような日常的事象の中から拾い上げてみたほうが、よく分かると思う。巨大な悪は、エゴイズムからのものでも、その巨大さだけで(常人には為しえない行為という)一種のヒーロー性を帯びてしまうのである。

では、美とは何か、特に行動の美とは何か、という問題が次に出てくるが、これもまたそのうち、気が向いたら考えてみることにする。





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命は平等か

私が、今の日本で一番価値が無い命だと思うのは、某総理大臣やそのお仲間たち、大阪市の某市長、東電経営者や東電経営陣の命であるが、多くの人は、総理大臣や国会議員や市長、大企業経営者やその幹部の命には価値があり、ニートやホームレスの命には価値が無い、と考えるのだろう。私は、ホームレスやニートの中にも聖人に近い人間がいる、と推測している。
では、認知症の超高齢者や植物状態で延命措置を受けている重病患者の命はどうか。つまり、正直に言って、他人の負担になり、他人に迷惑をかけながら生かされている人間の命はどうか。あるいは、暴走して大事故を起こし、他人を死なせながら自分だけ大怪我程度で助かった暴走族の命はどうか。あるいは、明白な殺人犯の命はどうか。
これらがすべて平等だ、という建前を私は取らない。
暴走族や殺人犯の若者ならば、改心して正道に戻る可能性があるから、若い順に助けるべきだ、という考えも取らない。「美徳は切り売りできない」ものであり、やった悪事の償いなど、けっしてできるものではないと思うからだ。それができると言うなら、殺人犯には殺した人間を生き返らせてみろ、と言いたい。と言っても、冤罪というものが存在する以上は死刑制度に簡単に賛成するわけでもない。死刑制度の話は、また別の問題だ。
なぜ人を殺してはいけないのか、ということを論じたいと思うのだが、それには落ち着いて考える時間的余裕と、そうした思索に自分自身を投入できるだけの精神的状態が必要なので、とりあえず、命は平等か、という問題だけをここでは提起しておく。
一つだけ言えるのは、自分の命と自分の家族の命は、世界中の他の命に優先する、というのが一般的な人情だろう、ということだ。ただし、それが正しい考え方だというわけではない。我々が自己犠牲の物語にほとんど必ず深い感動を覚えるのは、そういう本能的生存欲や動物的肉親愛以上のものが、人間世界にはありうる、ということを無意識に感じているからだろう。


(以下引用)*くだらないコメントもたくさんあるが、カットせずに転載しておく。


医者「命は平等というのは建前。すでに命は平等じゃない」


 
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1 ななし 2015/02/08(日) 10:38:32.92 ID:PEvo8ujj0.net ?PLT(12121) ポイント特典
「能率的に死なせる社会」が必要になる 建て前としての"命の平等"は外すべき
東洋経済オンライン2015年2月8日(日)10:10

自己決定の尊重という大原則が医療現場を、そして患者本人をも縛っている。人間の死と日々向き合う医師がただす大いなる矛盾と、逡巡の先に到達した着地点。『医師の一分』を書いた里見清一氏に聞く。

(中略)

――日本では対応能力が限られる中、今後高齢の死者が急増します。

命は平等かという問題について、私も揺れ動いてるところはあります。ただ建前としての“命は平等”というのはもう外してもいいのかな。現実問題、すでに平等じゃない。

救命センターの研修医時代、パンク寸前で受け入れ制限せざるをえなくなったとき、指導医はこう指示しました。労災は受ける、自殺は断る、暴走族の“自爆”は断る、子供は無条件に受け入れると。僕もそれを正しいと思った。現実的に命に上下は存在すると思っている。老衰の人に点滴して抗生物質使って、無理やり生かしてどうする? はたしてそれがいいんですかね? 貴重なベッドを老衰患者でずっと塞いでしまうことが。

――医学的な重症度以外に、社会的な価値も考慮に入れるべきだと?

実質的にはみんなそう思ってやっています。家族に「もう歳だからあきらめる」と言わせて、あくまで家族の選択として苦痛だけ取ってお見送りする。医者は患者の価値を決めちゃいけないと建前上なってるから、家族にそう言わせてるだけです。

90とか95の老人をさらに生かす見返りに、働き盛りの人にあきらめてもらうのは、やっぱりおかしいですよ。アル中で肝臓悪くした親父が子供や嫁さんからの肝臓移植を希望する。好き勝手した人間がそこまでして長生きしたいと言う。敏感な人が遠慮して身を引き、鈍感な人がのさばるなら、それはもう不公平でしょ。生きたいという意志を無条件で尊重しなきゃいけないかというと、できることとできないことがある。

――矛盾と疑問だらけの現実に、今後どう対処していくのでしょう。

僕が役人だったら、能率的に死なせる社会のことを考えますよ。だってそうしないと間に合わねえもん。

ただ現場の医者として、それは怖い。この患者はここまで治療すればOKという明確な方針で進めてしまうと、僕はナチスになりかねない。自分はがん専門だからまだラクで、慢性腎不全なんか診てる同僚は大変ですよ。90歳で判断能力もない患者を押さえ付けて透析して点滴して、もう10年やってるから今さらやめるわけにはいかない、家族も決められない。今日び医者は訴えられるのが怖いから、逃げにかかって延命措置をする。

――結局、誰かがどこかで線を引く日が来るのでしょうか。

誰か考えてるんですかね? たぶん左右両極端には行けず、宙ぶらりんのまま状況見て、多少右へ左へってことをやっていくんだと思う。それとも何とかなっちゃうんですかね。今では孤独死を、それでもいいと思う人が増えてるように、日比谷公園で一晩に3人5人死ぬことに慣れちゃって、そんなもんだと思うようになれば、キャパうんぬんも何もどうとかなっちゃうのかもしれない。

仮に医者が安楽死させるなら、良心の呵責(かしゃく)に苦しみながらやるべき。自分を守るためにガイドラインを作れ、法律で決めてくれというのは違うんじゃねえかな。今の国会議員に僕は人の命なんか決めてほしくねえや。結局、今そこで患者を診ている医者が、引導を渡す役を引き受けるしかないんじゃないですかね。
http://news.goo.ne.jp/article/toyokeizai/entertainment/toyokeizai-59971.html

2 ななし 2015/02/08(日) 10:41:34.74 ID:u8OxOBC40.net
脳死判定が恣意的になったりするんだろ
怖いわ

9 ななし 2015/02/08(日) 10:44:44.37 ID:Unv7baNO0.net

11 ななし 2015/02/08(日) 10:45:05.40 ID:aCk/EQmH0.net
建前無い社会は殺伐としちゃうよ

13 ななし 2015/02/08(日) 10:45:53.55 ID:0/A084S80.net
それはあるが医者が判断する領分ではない
その程度のこともわからないバカ

14 ななし 2015/02/08(日) 10:45:55.36 ID:IAa4eNKH0.net
確かに同じ年齢でも会社経営者とフリーターじゃ
どっちに価値があるか明確だしな

41 ななし 2015/02/08(日) 10:56:19.62 ID:wmftilAg0.net
>>14
23歳フリーターと23歳経営者
俺ならフリーターを助けるね

43 ななし 2015/02/08(日) 10:56:58.00 ID:iWPQDUUo0.net
>>41
なんで?

66 ななし 2015/02/08(日) 11:08:01.80 ID:2ujcTdjn0.net
>>43
マイナスの価値
なにも金銭換算することばかりが能じゃない
23歳の経営者って胡散臭い方が確率的に高い
真面目な自営なら別としてね

91 ななし 2015/02/08(日) 11:18:12.86 ID:Z7mTgPvI0.net
>>66
一理ある
悪どい方法で稼いでる奴はむしろ害悪や

177 ななし 2015/02/08(日) 11:57:05.13 ID:vgc39l9t0.net
>>66
ひねくれ過ぎて気持ち悪いな

180 ななし 2015/02/08(日) 11:57:24.72 ID:yYJytCJN0.net
>>66
だが医療費を回収できるのは23歳経営者

18 ななし 2015/02/08(日) 10:47:03.08 ID:pmZX1hTD0.net
だれもが思ってることは
俺の命が最優先!
だよね

20 ななし 2015/02/08(日) 10:48:53.70 ID:bmaKY/CH0.net
もう、というか近代化の時代だからこそ
建前は必要なんだろうが

27 ななし 2015/02/08(日) 10:51:04.87 ID:Rh1O9fFt0.net
まあ、自殺未遂とかは完全に後回しで良いかなとは思う

28 ななし 2015/02/08(日) 10:51:07.84 ID:ThKjUWq1O.net
こんなこと言うヤツは医者として下だな

31 ななし 2015/02/08(日) 10:52:21.47 ID:1sBu+N710.net
金銭的価値だろ?
そりゃお金を持ってる人が多く医療費を払えるに決まっている
でも金銭に全てを集約して考える考え方もどうなのかな

34 ななし 2015/02/08(日) 10:54:02.10 ID:/12R0qYA0.net
これは医療スタッフ誰でも思う事
酒飲んで暴れて大怪我しておいて勝手に救急車呼びやがって!
こなくていいんだよてめーら

35 ななし 2015/02/08(日) 10:54:48.64 ID:ThKjUWq1O.net
アル中は精神病だ
アルコール含め薬物依存ってやめたくてもやめられないから問題なのに
好き勝手やってるとか医者のくせによく言えるな

125 ななし 2015/02/08(日) 11:36:29.40 ID:LNv1PbMK0.net
>>35
やめたくてもやめられない状態になったのは本人の問題だろ
大半の人間はそうはならないから

128 ななし 2015/02/08(日) 11:39:11.54 ID:ThKjUWq1O.net
>>125
じゃあなんでアルコール依存症専門外来ってのがあるんだよ

144 ななし 2015/02/08(日) 11:43:03.19 ID:ljgvxl4T0.net
>>128
放置すれば社会的損失になるから

148 ななし 2015/02/08(日) 11:44:35.15 ID:UcaVgGSa0.net
>>128
金に成るからだよ

38 ななし 2015/02/08(日) 10:55:22.25 ID:5R+I/gaP0.net
高給取りエリートとニートでは命の価値が違うのはあたりまえ

39 ななし 2015/02/08(日) 10:55:47.92 ID:ITHo6C1p0.net
だけど医者がいうことじゃないな

42 ななし 2015/02/08(日) 10:56:24.41 ID:4V82t/jj0.net
>>39
むしろ現場の意見しか説得力無い

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悩むことの意義と無意義

「岩下俊三のブログ」から転載。
私は、親と子はまったく別個の存在と思っているし、子供の犯罪に親の責任があるとは思わないので、この文章を掲載したのは文章冒頭に書かれた中村本然氏のこととはまったく無関係に、「悩むことの意義」について考えてみるためである。さらに言えば、かなり前に、ある若者から社会(大人たち)に投げかけられた「なぜ人を殺してはいけないのか」という問題について考えるためである。
先に結論から言えば、「悩むことで(人格が)大きくなる」者もいれば、悩むことでノイローゼになり、鬱病になり、人格破産する者もいるというのが常識的な結論になるだろう。「みんな悩んで大きくなった」というのがたとえば旧制高等学校時代の若者(当時は知的階級の若者の多くは哲学的問題に悩むのが常だった。もっとも、一般庶民は別か。)の話だとするなら、彼らが日本を戦争に導き、日本を破滅させたではないか。
ついでに言えば、下の文章に引用された歌の「ソクラテスもプラトンもみんな悩んで大きくなった」は、テレビコマーシャルで野坂昭如が歌ったものだと思うが、私の記憶では「ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか、ニ、ニ、ニーチェかサルトルか、み~んな悩んで大きくなった」という歌詞であり、悩んで大きくなったのはソクラテスやプラトンではなく、ソクラテスやプラトンを読んで理解しようと悩む若者のことである。そして、果たして悩むことでみんな大きくなったかと言えば、私の考えでは、悩むことで大きくなる者半分、劣化する者半分、といったところだ。
で、今の若者は、悩むことなど馬鹿らしい、というのが大半だろう。「あれかこれか」の選択があれば、少しでも経済合理性があるのを瞬時に選び、快楽性の高いものを瞬時に選べばそれでいい、という思考なのではないか。(これを私は「実存主義」の一種と見ている。もちろん、「主義」ではなく、無意識的な、実存主義的思考、ということだ。)それは、テレビゲームなどで培われ、学校のテストや入試で培われた「反射神経的選択能力」であり、そこには悩むことの意義など最初から存在していないのだ。そして、それが果たして悪いことなのか、私は判断しかねているのである。というのは、私自身は悩み多き青春時代を送ってきた人間であり、その自分自身の人生前半を無価値だったとまで言うのはためらいがあるし、また、悩みの無い(幸福な)青春を送りたかった、という後悔もあるからだ。(トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」の中に、こうした「悩むように生まれついた者」から「悩まない(幸福な)人々」への憧れと羨望が見事に描かれている。もちろん、「悩まない」とは「物事を深く考えない」、ということである。)
話が長くなったので、「悩むこと」について簡単な結論を出しておく。
悩むことに意義があるのは、それが生産的な、前進的な思考である場合のみだろう。そして、「悩む」とは、通常は、実はそれが思考の堂々巡り、結論の出ない泥沼状態であることを意味する。(しかも、ほとんどが苦痛と悲哀を伴っている。)つまり、「悩むこと自体に意味がある」というのは、どんな滅茶苦茶なフォームであれ、球数を多く投げていればいい投手になる、という野蛮な時代のトレーニングのようなものではないか。間違った練習方法は、むしろ体を悪い状態(間違ったフォーム)に固定するものだ、というのが正しい理解だろう。悩むことによって思考が深化し、人間が大きくなるのではない。「考える」こと、しかも堂々巡りではなく、前進的に考えることでしか思考力は高まらないだろう。これは何十年もの間、考えているようで何一つ「考える」ことができなかった私自身の経験から言っている。「思考の堂々巡り」、これこそが最悪の習慣である。(言うまでもないが、これは「同じテーマについて考える」ことの否定ではない。思考が、毎度同じようにしか進展しないことを言っているのである。「同じテーマについて考える」ことは、むしろ大事なことである。それは優れた科学者や芸術家や哲学者の特質だろう。)

「なぜ人を殺してはいけないのか」については、いずれ気が向いた時にでも考えたい。たぶん、そこで「実存主義」(前出の歌の中のニーチェもサルトルも実存主義らしい。そして、石原慎太郎は自分自身を実存主義者だと規定している。)についての私の解釈も論じることになるかと思う。

岩下俊三氏の書かれたものを批判する内容になってしまったが、実はこの「実存主義」的思考が現代の若者の特質だ、と仮定すれば、そして石原慎太郎を(日本における)実存主義の旗手だとすれば、現代は無数の小石原慎太郎で溢れている、ということであり、中村桜州の事件はそれを如実に示したものだと考えることもできる。つまり、話の大筋では、私は岩下俊三氏と一致しているように思う。ただ、「悩むことの意義」という点ではかなり意見を異にする、というだけである。



(以下引用)



速報:紀ノ川小5殺害事件犯人逮捕

thumd4217
空海の研究では一目置かれていた僧侶であり、高野山大学の教授でもある中村本然氏がわが子を通して「図らずも」つきつけた日本の教育や社会の問題は
大きいと言わざるを得ない。

就職もせず(できず)親の家にひき籠って次第に変調をきたしている若者は決して特異な例ではない。高い教養と人格を備えた本然氏であろうともかかる建前だけの、デオドラントな見せかけだけの無臭な社会にあっては最も身近な息子ですら繋ぎ止め制御することが出来なかったのである。

しかも、

大手メディアは「人権」を盾にすべてを覆い隠し、本質的な問題提起から逃げようとするばかりである。すべてをさらけ出しているのは誤報も含めネットだけだ。これではほんとのNEWSを知ることはだれもできなくなってしまう。

メディアリテラシーの問題?バカ言ってんじゃない。単にビビってるだけだろうがっ!!

過日イスラム国に殺された湯川遙菜の死体の写真を教育の現場でつかった教師が教育委員会やPTAといった「デオドラント建前社会」の権化から糾弾されたけれど、人間の「死」というものがなんであるか、また「報道」とはなんであるかを鋭く問題提起して「考えさせる」ことは重要であると思う。

近年、「考える力」や「悩む力」をなくした子供(若者)が増えている。

四択に早く答える訓練しかしていないロボットを育成することには異常に熱心な親は「悩み考える」時間を無駄だとして直ちにメンタルケアの専門家を有難がる傾向にある。

問題にいち早く対処してどうする?問題の前で立ちすくみ躊躇するから、豊かな人間性がゆっくり醸成されていくのだ。

昭和に流行った不良のを思い出せ!


「♪ソソ、ソクラテスもプラトンも~みんな悩んで大きくなった」

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夜明け前の闇の中で

「ロシアの声」から転載。
こうしたまともな考えが聞けるのは、今やネット以外では非西側マスコミだけのようだ。そのネットも日本では情報操作と、政府に批判的なブログやサイトへの弾圧が激化しつつあるように見える。国会は今や「テロとの戦争」で大政翼賛会になりつつある。まったく、日本人というのは学習能力というのがないのか。
まあ、ボヤキはさておき、世界のテロ組織の活動やクーデターのほとんどは米国とイスラエルが背後にいることは、今や世界的な常識となりつつあるが、問題は、ではそれが常識となっても、それに対して何ができるか、ということがさっぱり分からないことである。だから世界はプーチンをひたすら頼みにし、彼なら何とかしてくれるのではないか、と彼に希望をつないでいるのだが、彼とて超人ではないし、まして神様ではない。少しだけ良い傾向が見えるとしたら、ここに来てEUの中からロシアに対して歩み寄りを見せる気運が生まれつつあるように思われることだ。ギリシアは言うまでもなく、フランスのオランドやドイツのメルケルもプーチンとの対話に前向きのようだ、という話もある。
世界はソ連崩壊から9.11を経てここまでの「米帝支配」(古いね、どうも)一辺倒でだけはなくなりつつあるようだ。
今の日本も世界も「夜明け前の闇」であると信じたい。


14:11

キエフ、ワシントンの支援をウクライナ人の血であがなう

キエフ、ワシントンの支援をウクライナ人の血であがなう

米国はウクライナ紛争の長期化を望んでいる。キエフ政権は米国のおかげで存在できている。その対価は、自国通貨が暴落しているので、ウクライナ人の血で支払う、ということらしい。以上のような、ポーランド人ジャーナリスト、ヤクブ・コレイバ氏による署名記事が、リア・ノーヴォスチのサイトに掲載されている。



ミンスク交渉は大失敗に終わった。ウクライナ南部・東部における流血の惨事がついに停止されるか、との期待は水泡に帰した。これでひとつのことがわかった。モスクワ以外だれひとり、戦争の停止を望んでいないのだ、ということ。欧米もウクライナ政府も、戦争の終結を望んではいない。彼らの行動そのものがそのことの証拠だ。むしろ戦争を、自分の政略に利用しようとしている。


キエフは戦争を終結させることが出来るのである。まずは命令一下、戦闘行為を停止させ、ついで諸地域と交渉を行い、国の未来を決めていく。簡単な二者択一だ。妥協するか、それとも、物理的に弱らせることによって、相手の立場を変えさせるか。紛争のこの半年の経過を見るに、キエフは緊張緩和に努めてはいない。和平の光明が見えたと思うそのたび、キエフは懲罰作戦を再開した。


何を隠そう、キエフではいま、まったく新しい国家イデオロギーの建設が進んでいるのである。ウクライナという国家の文化的存立基盤の根本的変造である。ウクライナ東部市民にとってはただでさえ容認しがたい、クーデターを出発点とする政権の上に、全く合法的とは認めがたい国家機構が樹立されようとしているのである。


キエフが戦争終結を望まない以上、流血の惨事の停止という重責は、国際社会の肩にかかる。その筆頭は、ウクライナにおける「民主主義の強化」に50億ドルを「融資」した、かの米国である。今やウクライナに対し政治的・また技術的影響力を持ち、ウクライナを平和への途に赴かしめることが出来るのは、ひとり米国のみである。問題なのは、ウクライナで戦争が続くと、世界における米国の覇権が強化される、という構造があることである。米国の国家戦略についての深い洞察で知られるジョージ・フリードマン氏は言う。「米国には、戦争で勝つことなど必要ではないのである。必要なのは、戦争によって、地政学上のライバルに問題を抱えさせ、その潜在力の開花を妨げることだけだ」。


米国はここ10年、ロシアの経済的台頭を、また、時を追うごとに「頑固さを募らせていく」、つまり独立性を高めていくその外交政策を、警戒心をもって観察し続けた。国家戦略の立案を担うものたち、政治工学者たちは、このままではまずい、「国際関係における独立した引力源たるロシアは、無力化されなければならない」と考えられるようになった。そのためには、ロシア国境に戦争を起こすのが一番いい。主要な貿易相手国における、難民の大量発生、人道危機、経済破綻、これにまさる物はない。


膨大な資本投下と工作によって米国は戦争の扇動者たちを大統領・首相・将官の席につかせた。紛争が長期化し、血みどろになればなるほど、この「遠くの」、そして「小さな」戦争に、ロシアはどんどん資本を奪われ、「ビッグ・ポリティクス」にはますます手が回らなくなる。それが米国の狙いである。


今やノヴォロシアの側さえ、紛争終結を望んでいない。ドネツクもルガンスクも、キエフの現政権が続く限り、自分たちに政治的未来はない、どころか、物理的生存さえ危うい、そう理解している。


ウクライナ紛争の終結は遠い。もはやとうの昔に、国内の特定の地域の地位うんぬんの話ではなくなっているのである。ウクライナも、ウクライナ国内の諸権力も、グローバル規模の仁義なきチェス・ゲームに組み込まれてしまっている。ワシントンのグランドマスターが東欧の歩兵にチェックをかけている。その最終目標はモスクワ陥落だ。


ワシントンはウクライナ人が最後の一人になるまでモスクワとの戦争をやめない。そのことを、ヤツェニュークもポロシェンコも理解していない。


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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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