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八方美人も美人の一種

「NHK NEWSweb」から転載。
割と、友好的な会談内容だったのではないか。まずは、話をすることが大事だ、ということだろう。だが、米国に向けている顔と中国に向けている顔が違う、と安倍総理は右サイドからも左サイドからも批判されそうでもある。私はむしろ、ここで安倍総理が取った姿勢を評価する者だが。写真を見ても、いつもの緩んだ顔とは違う、真剣な、いい顔である。もしかして、やっと大人になってきたか。(笑)まあ、「積年の非を一朝にして知る」ということもある。総理になった子供が、後で成長するということも無いではないだろう。
だが、中国よりも大問題は対米関係であり、フクシマその他の内政である。今のところは、落第点だらけの学科試験で、一つだけ赤点すれすれの及第点が取れるかもしれない、というだけのことだ。


(以下引用)

日中首脳会談 戦略的互恵関係の推進で一致

4月22日 19時56分
日中首脳会談 戦略的互恵関係の推進で一致
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安倍総理大臣は、訪問先のインドネシアで中国の習近平国家主席と会談し、日中両国が、戦略的互恵関係を推進していくことで、地域と世界の安定と繁栄に貢献していく必要性があるという認識で一致しました。
アジア・アフリカ首脳会議に出席するため、インドネシアを訪れている安倍総理大臣は首脳会議の会場となっているジャカルタ市内の施設で日本時間の午後7時前から、およそ30分間にわたって、中国の習近平国家主席と会談しました。
会談の冒頭、習主席は「先のAPEC=アジア太平洋経済協力会議での会談は重要な意味があった。中日両国民の共同努力の下で、ある程度、中日関係は改善してきた。せっかくの機会なので中日関係の発展について、安倍総理大臣の見解を聞かせてほしい」と述べました。
これに安倍総理大臣は「去年11月の首脳会談以降、日中関係が改善しつつあると評価している。日中関係の発展は、日中両国・国民の利益であり、戦略的互恵関係の推進によって、地域や世界の安定、繁栄に貢献していくことはわれわれの責務だ。青少年の交流を含め、さまざまなレベルで交流と対話を深めていくなかで、日中関係を発展させていくようともに努力を重ねていきたい」と応じました。
そして、両首脳は日中両国が戦略的互恵関係を推進していくことで地域と世界の安定と繁栄に貢献していく必要性があるという認識で一致しました。
また、安倍総理大臣は、習主席が歴史認識について尋ねたのに対し、「私自身も私の内閣も、村山談話や小泉談話を含む歴代内閣の立場を全体として引き継いでおり、今後も引き継いでいく。きょうのアジア・アフリカ首脳会議での演説でも述べたとおり、日本は先の大戦の深い反省の上に平和国家として歩んできており、その姿勢は今後も不変だ」と述べました。
一方、習主席が、中国がAIIB=アジアインフラ投資銀行の設立を提唱していることに触れたのに対し、安倍総理大臣は「アジアの高いインフラ需要に応えるためのものだという認識は共有しているが、その一方で組織のガバナンスの問題や、借り入れ国の債務の持続可能性といった課題について、問題を提起をしている」と述べました。

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大人であることと子供であること

「馬鹿国民帝国日本の滅亡」から転載。
少年法改正(「改定」と言うべきだろう。「正しく改める」のではないから。)や18歳参政権議論の意図が徴兵制の準備だという見方に少し感心したので転載した。
若者人口はどんどん減少するのだから、兵隊不足になるのは当然のことだ。18歳以上を大人とすれば、徴兵年齢適齢期人口が自動的に増えるわけで、それが政府の意図だというこの見方には一理ある。
現実的には、時代が進むに従って日本人の幼児化も進んでおり、18歳の人間など、頭は完全に子供だろう。私自身、頭が大人になったのは、40歳くらいからだったと覚えている。「名探偵コナン」の逆で、「頭脳は子供で体は大人」というのが大方の成人男女ではないか。そういう意味では、成人年齢は40歳、選挙権や被選挙権も同じく40歳くらいが適当だろう。
で、子供というのは「保護」の対象であり、大人としての権利は無い。いや、権利を与えるべきではない。子供に自動車を運転させ、武器を持たせたらどうなるか。結婚や性交を自由に許したらどうなるか。それが大人並みに扱われるから多くの問題が生じるのである。
まあ、そういうことだ。
もちろん、幾つになっても頭脳が子供という人間もいるし(私も政治意識以外の多くの面でそうだ。)大人並みの分別を持ったひねた子供もいる。年齢だけではひとくくりにはできないのだが、概して言えば、現在の日本人の適正な成人年齢は40歳、といったところだろう。
なお、日本人の幼児化の最大原因は、現在の学校の在り方にあると私は思っている。現在の学校制度やその教育内容で、政治意識、社会意識が育つはずはない。そして、政治意識、社会意識が無い、ということを子供頭脳と言うのである。子供であるとは「義務感」「責任感」の欠如を意味する。ただ勉強だけが義務という育ち方をした人間に社会的責任や義務の念が生まれるはずはない。実は、日本のあらゆる教育機関は、小学校から大学まですべて「保育園」なのである。18歳の人間など、本当はオシメが必要だろう。まあ、安倍某のように比喩的にも現実的にもオシメの必要な老人もたくさんいるが。



(以下引用)



少年法の改正や18歳参政権が議論され、着々と”徴兵制”への布石が打たれております…





18歳はもう大人…だから、法律で大人として扱われ、戦場へ送られる…





上官や政府の命令に従わなければ、法律で処罰される…




反戦平和など唱えれば、罪人として扱われ、家族ぐるみで制裁を受ける…





戦時日本の復活が、ひとりのキチガイによって、強引に進められているところです…





”男女平等”などと叫ばれて、女性は幸せになってでしょうか?




結局、残った”男女平等”とは、「女も男と平等に働け」…これしかありません…





常に日本政府は姑息で卑怯な真似をして、国民や異国を騙し、欺き、虐げてきました。




そんな犯罪国家を、「我が国」などと言って、毎度許しているのが日本国民です…

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言葉の前で立ち止まれ

「世に倦む日々」のコメントの一つを転載。
転載した理由は、この中に書かれている「プロタゴラス」についての記述に興味を持ったからだ。
おそらく、この世界史教科書を読んだ学生の9割9分までは、「ソフィスト=詭弁家」という前知識を持っており、プロタゴラスとは、ソクラテスによって否定された、取るに足りない思想家、として歯牙にもかけず、テスト用に名前と主張概要だけを覚えて、試験が終われば完全に忘れ去るだろう。これが「学校で学ぶ」ということの実態ではないだろうか。
いったい誰が、そこで立ち止まって、このプロタゴラスの主張を考察するだろうか。テストに追われる学生にそんな暇などありはしない。そんな暇があれば、異性とつきあい、アニメを見、漫画を読んだほうがマシだ、と思うだろう。若者ならそうして当然だ。だが、易きに流れることは、成長に必要な「心や精神の負荷」を経験しないままに時間だけを食いつぶすということでもある。
さて、このプロタゴラスの主張はただの「詭弁家」の主張だろうか。私はそうは思わない。
それ以前に、このテキストの記述に問題は無いか。分けて考えていこう。

「プロタゴラスのように
「人間は万物の尺度」といって、
客観的真理の存在を否定したり、
国法や道徳の主観性を説くものもいた。」


「国法や道徳の主観性」は多くの人が認めるところだろう。禁酒法のように集団ヒステリー的に成立した法律は枚挙に暇が無いだろうし、かつての道徳が次の時代には弊履のごとく捨てられる例も枚挙に暇が無い。(だから法や道徳が無意味だというのではない。そこを誤解されては困る。プロタゴラスも、法や道徳が不要だとは言っていないだろう。「絶対視するな」ということだと思う。それは当然のことなのだ。)
「人間は万物の尺度」というのもまさにその通りだろう。人間の文化と文明は人類が「人間の尺度」で世界を理解し、その尺度を使って世界を変えてきた足跡なのである。
で、問題となりそうなのはプロタゴラスが「客観的真理の存在を否定」した、というところだ。
これによって、プロタゴラス(=ソフィスト)は「真理を否定する人々」であるから、彼らの言うことも「真理ではない」、従って、「ソフィストは嘘つき連中だ、詭弁家だ」ということになっていったかと思われる。
で、それの何がおかしいの、と言う人がいるかもしれない。

いいですか、プロタゴラスは「真理を否定した」のではなく、「客観的真理の存在を否定した」のですよ。

彼は、「真理が客観的に認識できる」かどうかに疑問を呈したのではないか。あるいは、「真理を共有認識にできるかどうか」は疑問だ、と言ったのではないか。
要するに、「客観的真理の存在を否定」とは「真理の否定」ではなく、「客観性というものの否定」だろう、というのが私の理解である。それならば、彼はまったくの「真理」を述べている、と私は思う。そんな、「真理は存在しない。だから私の言っているのもすべて嘘です」と馬鹿な主張をする人間がいるはずはない。
私のプロタゴラス理解が正しいなら、私も彼の一派である。厳密な「客観性」など存在しない。存在するのは「だいたいこんなもの」だけだ。その「だいたいこんなもの」が果たして麗々しい「真理」の名に値するか。
真理は確かに存在するだろう。だが、その客観性を証明することは不可能なのである。客観性を言い立てることから、思想的詐欺が始まる。いや、思想界だけのことではない。

それ(厳密な客観性、すなわち「認識の完全な共有」は不可能だ、という私の主張)を疑うなら、「私が認識している赤い色」とあなたが認識している赤い色が完全に同じ色であることを私に証明してみろ、と言っておく。

というわけで、下の短い文章もなかなか深遠な問題を幾つも含んでいる。私も高校世界史や倫理の教科書がまた読みたくなった。高校生の頃のようにテストに追われさえしなければ、学ぶことや考えることは娯楽にもなるのである。

言い忘れたが、山川の教科書の記述の問題は、日本語(あるいはすべての言葉)自体の持つ罠であり、「客観的真理の否定」と言う時に、「否定」の言葉が「客観」と「真理」の複合事物を受けるため、いったいどちらを否定しているのか不明になる、ということで、山川出版社に責任があるわけではない。これは読む側が注意すべきことだが、国語教師でそれを教える人はほとんどゼロだと思う。(「白い」と「馬」は別の観念ジャンルだから、「白馬」は「馬」ではない、という有名な「白馬非馬論」も、ある意味では正しいのである。)

要するに、デカルトが言うとおり、「物事は分けて捉えろ」というのが正確な思考の大原則だ、ということだ。


(以下引用)

Commented by カプリコン at 2015-04-18 20:40 x
「脱構築」という言葉の意味を貴ブログを読み読み続けることで自分なりに理解しているつもりです。
つい最近高校を卒業した我が子の世界史の教科書を読み始めたら面白くて、毎日数ページずつ読んでいます。山川出版のものです。自分が高校のとき初めて世界史の教科書と出会いのめり込んで学習したことを思い出しています。
ギリシャの文学のところで「民主政の発展とともに、哲学はしだいにその対象を自然から人間や社会に移し、市民生活に不可欠となった弁論を教える職業教師(ソフィスト)たちがあらわれたが、その代表者プロタゴラスのように「人間は万物の尺度」といって、客観的真理の存在を否定したり、国法や道徳の主観性を説くものもいた。これに対してソクラテスは独特の問答法によって人々の無知を悟らせ、ただしい徳を自覚して主体的に生きるべきことを説いた」とあります。30ほど前の世界史の教科書にも同じような文面でソフィストとソクラテスの対比が書かれていた記憶があります。
積極的平和主義なんて詭弁です。それにクロ現や報ステの報道のあり方に政府が干渉をするなんてこの国はいったいどこに向かっているのでしょうか。
この国のリーダーの中で天皇陛下だけが正しい歴史認識をのべ、日本国憲法の理念を大切にし実践をしている事実の重みを自分なりに考えています。 

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清々しいほどのゲス

「リテラ」から転載。
清々しいほどの人間のクズというと石原慎太郎、橋下徹などがすぐに思い浮かぶが、これまた飛び切りのゲスである。仮にも政府高官であった(ある)人間が、人としてのモラルのかけらも無い発言を得々として本にして出しているのだから、世も末だ。
だが、こうして口に出すこと自体、この男が小者であり、馬鹿であることの証明だろう。彼が言っていることなど、たいていの企業幹部や上級官僚は心にしまってただ実践しているのではないか。馬鹿に肩書きを与えてつけ上がらせるからこうなる、と彼らは苦々しく思っているだろう。政界から完全に引退してからならともかく、現役の内閣参与がこういう本を出したということは、これは国会で大問題にされて当然である。何と脇の甘い、「悪党気取りのチンピラ」か。
だがまあ、現在の政治状況なら、何を言っても何をやっても言い放題、やり放題だ、とこの男は舐めているのかもしれない。さて、本当にそうかどうか、この先が楽しみである。この本がマスコミで問題視され、政治問題になる確率は結構ある、と私は見る。もちろん、マスコミの取り上げ方が石原慎太郎の暴言や橋下徹の政治的不祥事と同じように「あの人はアレだから仕方がないさ。まあ笑って済ませばいいんじゃない?」でお茶を濁す(これこそまさにマスコミの犯罪行為なのだが)確率も高いのだが。

なお、現在の辺野古基地は地元住民の誘致もあって出来たというのは多くの人が知っていることで、「衝撃のスクープ」でも何でもない。そのことと辺野古新基地建設の是非はまったく無関係の問題である。




(以下引用)

安倍首相も実践? 内閣参与・飯島勲が不祥事をごまかす卑劣な手口を自慢げに公開!

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2015.04.11
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『ひみつの教養 誰も教えてくれない仕事の基本 』(プレジデント社)

 かつて小泉純一郎元首相の秘書官として政界裏工作やマスコミ対策に豪腕を振るい、現在は内閣官房参与の職にあって、安倍首相の強力ブレーンを務める飯島勲氏。そんな飯島参与が“世界水準のエリート”“リーダー”になるための秘訣を教えるというフレコミで出版したのが、『ひみつの教養』(プレジデント社)だ。


 ただの秘書経験しかない飯島氏がいつのまに“世界水準のエリート”に?と驚いていたら、その中身も想像を超えたとんでもないシロモノだった。


「私のこれまでの経験から、日本社会の中で組織を生き抜き、権力をつかむ方法を伝授する」という飯島参与だが、国際性やリーダーとしての資質論はほとんどなし。とにかく、自分の利益や地位を守るために手段を選ぶな、とばかりに、嘘やデタラメ、不公正、責任放棄といった卑劣きわまりないやり口を読者にアドバイスしまくっているのだ。


 たとえば、人材活用。飯島氏はなんと実力主義を否定し、「バカ」の重用を提唱する。


「ここは思い切って『バカ』を徹底的に利用するのがいい。明らかに能力不足の部下であったなら、むしろ大きな権限を与えて重用する。その部下は大喜びするだろうし、自分に対して敬意を払う」


 逆に有能な人材を重用しても、それは当然だと思われ感謝もされず、自分を軽視さえする。しかし「バカ」を重用すれば恩を感じて絶対的味方になるというのだ。


「実力主義は組織存続のための最小限にとどめ、人材登用はまず『敵』『味方』で行うのが現実的な知恵だ」

さすが、郵政解散で党内に「抵抗勢力」なる仮想敵をつくって、世論を誘導し、権力維持をはかった小泉首相の参謀である。


 一方、上司に対してはどう対処するか。飯島氏は「上司が『カラスは白い』と言ったら正しい返事は、どっち?」と読者に質問を投げかけたうえで、当然のように「カラスは真っ白」が正解だと断言する。


「組織で理不尽はつきもの。上司がちょっとおかしなことを言ったからといって笑って受け流さなければ社会人などやっていられない」


 しかも、飯島参与は「私なら『白いカラスを連れてきて、やっぱり上司の言う事は正しいと宣伝する』」という。




 部下を「バカ」呼ばわりし、上司には徹底的に媚びへつらう。そんな飯島流処世術が上から目線で語られていくのだが、まあ、これくらいなら、勘違いジジイの自慢話として受け流してもいい。問題はミスや不祥事への対処法だ。


 飯島は「これらはすべて私が実際に経験したことをもとにしている。すぐに現場で応用できるはずだ」と前置きして驚くべき卑怯な手を伝授する。


「会社のスキャンダルが表沙汰になったら、一切の責任を誰かに押し付けて、一目散に逃げることをお勧めする。(略)設備投資がほとんどなく、アイデア一発勝負で起業でき、慢性的人手不足のIT産業なら、重大な不祥事が明るみにでた時点で退職金をもらって遁走すべきだろう。
 投資関連会社なら、大金を稼ぐなり、ノウハウさえ盗みなりすれば、あとはどう蒸発するかを考えたほうがいい。このような業種にいるのならメディアや捜査当局と戦うメリットは一つもない」


 さらに、メディアや捜査当局と対峙しなければならなくなっても、明白な違法行為でない場合は、「価値観の違いであると強弁すること、絶対に謝ってはいけない」と断言する。


 そして、マンションの景観についての業者と住民とのトラブルになり、業者が「申し訳ない」と謝ってしまったことで裁判に敗訴したことを例に出し、「突っぱねればよかったものを」と残念がるのだ。


 また、みずほ銀行が不祥事の際に、頭取が謝罪会見に出席したことを例に出し、トップが謝ってはならない、と主張する。


「みずほにとって頭取の謝罪にプラスの効果はまるでなかった。喜んだのはマスコミだけだ(略)第一に、はじめの釈明、謝罪に役員が出てきたことだ。これによって問題が大事かのような印象を広めてしまった。謝罪に関しては、広報と担当部署が書面で済ませてしまうのが一番いい」


 カメラの前で謝れば、マスコミの扱いも大きくなるから、無味乾燥な書面がベストだという。また会見じたい、法的に義務付けられているわけではないから「無視できるだけ無視したほうがいい」となる。



 そして会場は自社でやるとエンドレスになるため時間を区切ってホテルで。また、違法農薬を使った中国産の米の売買が発覚した場合を例に、会見での具体的発言をレクチャーする。


「『商品の回収など生ぬるいことでは問題を反省したことにはならない。現地法人の経営者を即刻クビ、法人を解散させる』と、記者をびっくりさせる大げさな幕引きをするという手もある。後日、同じ人間を経営者に、別の名前の会社が、同じ場所で発足するという算段だ」


 メディアの追求は一過性のものだから、時間が経てば後追いしないと飯島氏は嘯く。


 企業に社会的責任が求められる昨今の傾向とは真逆の、無責任きわまりない手法のアドバイス。こんな人物が内閣参与を務めているという事実に愕然とするが、実は飯島氏は政治家に対しても、同様の事実隠蔽、責任放棄をすすめている。


 例えば第二次安倍内閣改造で経産相になり、その後政治資金の問題で辞任した小渕優子議員について、飯島参与は自分なら「辞任を防ぐ手立てがあった」と豪語するのだ。


 飯島参与はこれまで数多くの閣僚の身体検査を行ってきたが、ほとんどの政治家は怪しい領収書の一枚や二枚は必ず出てきたという。そこで指示するのが政治資金収支報告書の“修正”だった。


「収支報告書はいくらでも修正できる、という特徴を最大限に利用し、閣僚候補の報告書から怪しい領収書が見つかった場合は、ただちに怪しげな記載事項についての修正を行わせていた」


 収支報告書の“修正”ではなく“改ざんのススメ”ともいえるものだが、飯島参与はこれを自分の手柄だと言わんばかりに自慢し胸を張る。そして小渕議員に関しても問題発覚の経緯から十分に“改ざん”が可能だったと主張する。


「実は小渕氏の政治資金問題を最初にスクープしたのは『週刊新潮』ではない。スクープ記事が発売される約一カ月前、内閣改造直後の九月一八日付の「しんぶん赤旗」が、『小渕経産相。第三の“財布”/企業・団体献金二七五八万円』と報じている」


 よって「しんぶん赤旗」の報道が出たときに、さっさと収支報告書を“修正”していれば、辞任することもなかったと、小渕事務所や経産省に説教するのだ。


 それだけではない。同じく“うちわ”問題で辞任した松島みどり元法務相についても、「私は四〇年以上選挙に関わっているが、社会通念上「うちわ」に見える公職選挙上の『法定ビラ』など無数に存在している」として、こう断言する。


「そのまま突っぱねればよかった」


 政治家としての使命や有権者に対する責任を一切顧みない、自分の地位や権力を維持するための方法が延々書かれているのだが、しかし、今の安倍政権、安倍首相のふるまいを見ていると、まさにこの飯島流処世術を実践しているのではないか、という気もする。自分の不祥事や失言は一切謝罪せず、すべてメディアのせいにして、味方だけを重用する──。


 実際、飯島参与の安倍首相との結びつきはかつての小泉元首相との関係をはるかに凌駕する濃密さだという見方もある。本書でも、飯島氏は安倍晋三首相と菅義偉官房長官のことを気持ち悪いくらいに持ち上げまくる。


「将来のための不人気政策を実行し、かつ国民の信頼を得られる稀有な政治家である。この二人が舵取りをしていることに日本の幸運を感じると同時に、私のすべてを尽くして応援していきたいと決意を新たにした」


 そして、返す刀で、官邸に敵対するものを徹底的に攻撃するのだ。たとえば、今、問題となっている辺野古移設について飯島氏は「衝撃のスクープ」と章立てしてこんなことを言い放っている。


「経済的に厳しい状況に置かれていた辺野古地区では、村の発展の決め手として米軍誘致を決定、村長が村議会議員全員の署名を集めて、米軍の民政長官に陳情したという。慎重に対応していた米軍側も、村の熱心な陳情と、海兵隊の訓練場の必要に迫られたことから、誘致に応じたそうだ」
「(それなのに)現在の辺野古には、東京からカネを巻き上げることしか考えない住民、他県出身者の反対派左翼運動家も流れ込み、ますます事態を複雑にしてしまった」


 都合のいい部分を抜き出して事実をゆがめる手口も安倍首相そっくりではないか。このひどい政治状況はもしかしたら、頭の悪い暴走首相と卑劣な政界仕掛人の合体がもたらしたものなのかもしれない。
野尻民夫


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デカルト主義からデ・カルト主義へ

「大摩邇」から、私の興味を引いた記事を二つ転載。
(引用1)は「るいネット」から、(引用2)は「in deep」からのものであるようだ。
まず(引用1)だが、少々首をひねるところはある。丹田呼吸は「出息入息を念じつつ行なう」という部分である。いちいち呼吸を「念じつつ行なう」なんて、それこそ呼吸をするということだけに意識が囚われてしまい、「ものの観方、考え方が深まるままに楽しい生活ができ」云々ということと正反対になりそうである。もちろん、これは「最初のうちは」念じつつ行ない、後ではそれが身について「赤ちゃんの頃は自然にやっている」のと同様に無意識なものになるのだろう。
切迫した呼吸は瀕死の人間の特徴であり、これを怪我や病気でもない人間が日常からやっているとすれば、あまりいいものではないだろうと推定できる。
この「丹田呼吸」は単なる「腹式呼吸」と何が違うのだろうか。
そもそも私は武道などでいう「丹田」という概念がよく分からないのである。腹式呼吸では、あくまで呼吸は胃のあたり、臍の上あたりが膨らむだけだろうから、丹田呼吸とは別なのだろうか。「下腹部の充実した」というのは、「気力が漲った」という状態に近いように思うのだが、いったいなぜ下腹部が気力と関係するのか、どうもよく分からない。
まあ、意識を感覚器官の集まった頭部からできるだけ遠ざけ、下におろすことで「落ち着かせる」ということ、そしてその「落ち着かせる」のに適当な位置は人間の重心部分である下腹部(上肢と下肢の中間部・腰骨で覆われた不動部分)なのか、というのが私が今適当に推測したことだ。
要するに「落ち着く」という日本語はまさに絶妙なもので、「落ち」て「着く」のが「落ち着く」であり、その反対が「浮つく」である。我々現代人はほとんどの人間が浮ついた生き方、浮ついた生活をしているのは誰でもそう感じているだろう。そこで、「少し落ち着け」ということになるが、浮ついた人間の特徴が、切迫した、せかせかした態度、せかせかした呼吸ではないか。「丹田呼吸」などと事々しく言わなくても、「落ち着く」ためには深呼吸をし、呼吸を鎮めるのが有効だ、ということはほとんどの人が経験的に知っている。その「落ち着き」を非常の際にも保てる人間を達人と言うのだろう。
しかし、

「かような呼吸によって深く禅定に進み行けば慈悲の心を得、迷いを断ち、證に入るであう。」

とはまた凄いことを言うものである。呼吸法一つで人生問題すべて解決、みたいなものだ。現代なら「公共広告機構」から誇大宣伝で捕まるんじゃないか。まあ、これは「古代宣伝」だから「誇大」でもいいのか。(笑)

(引用2)を載せた理由は、私自身がこの引用された言葉とは反対に「懐疑主義」を大事なことだと考えているからだ。(これはここまで書いた記事内容自体からも分かるだろう。)しかし、懐疑主義がもたらす「否定的感情、マイナス感情」というものは確かに存在しているとは思う。
新興宗教信者などを「馬鹿だなあ」と否定するのは簡単だが、彼らがそれによってある種の「幸福」を得ていることは確かだろう。その幸福までは否定はできない。そうすると、「論理的整合性」だけを追及する生き方と、盲目的「信者的」生き方と、どちらが「良い人生」なのか、軽々には言えない、ということである。
そもそも私自身、デカルト「信者」、西洋式合理主義思想「信者」だ、と片づけてもいいのである。ただ、その「合理主義」にすら疑いを持っている、という点では純粋合理主義信者ではないのだが、「あらゆるものを疑え」というデカルト主義を突き詰めれば、「懐疑主義そのものをも疑え」となるわけで、純粋デカルト主義者だとは言えそうだ。デカルト主義の極点はデカルト主義の否定にあり、ということ。(笑)
今思いついたが「デカルト」という名は「デ・カルト」と分けられ、「de」は「分離・否定」を意味する。カルト(cult:偽宗教・狂熱)を分離し、否定するわけだ。私は「デ・カルト主義者」を名乗ることにしよう。要するに「中庸主義者」にすぎないのだが。




(引用1)

丹田呼吸法というのがあります。
「丹田」は、臍の下あたり、女性でいえば子宮あたりとも言えます。
そこを意識しての呼吸で、赤ちゃんの頃は自然にやっているそうです。
(やり方はリンク等を参照してください。)

現代人は、ストレスを感じやすくなっており、それが胸式の浅い呼吸を引き起こし、体調不良につながり…、と悪循環に陥りやすい構造にあります。
だから、意識的にこの丹田呼吸をすることで、身も心も健やかになれるそう。

釈迦の教え「大安般守意経」の中にも、この呼吸についての記載があります。

『釈迦がある時、祇園精舎で多くの弟子を集めて正しい呼吸の重要さについて話された。出息入息を念じつつ行なうならば、おのずと下腹部の充実した丹田呼吸になっている。この呼吸法は眼も疲れず病まず、そしてものの観方、考え方が深まるままに楽しい生活ができ、後で悔を残すような楽しみに染まらないことを覚えるであろうと。かように出入息法を修行するならば大いなる果と大いなる福利を得るであろうと。かような呼吸によって深く禅定に進み行けば慈悲の心を得、迷いを断ち、證に入るであう。』(リンク)より


(引用2)

不安、あるいは恐怖や絶望といったものは、最も忌むべき感情(あるいは「感覚」)であるということは、様々な方々が様々に述べているので、ある程度の真理はそこにあるのかもしれません。

これに関しては、最近たまに引き合いに出させていただく中村天風が「なぜ、現代の生活は不安や恐怖が多くなるのか」ということについて、

「現代の人々は、科学教育の弊害として、疑いから考えるようになり、それが多くの人間を、消極的な考えが基本の小さな存在にしてしまっている」

というようなことを言っています。

「現代の人びと」といっても、天風さんが亡くなったのは約 50年前のことで(享年 92歳)、その時代に生きた方の「現代」ですから、今からみれば結構昔ですが、どうして科学教育がそのような傾向を人に持たせるのかというと、以下のように述べています。


科学は証明を必要とする学問であるから、証拠がないと是認しない。証拠がなければ、承諾しない、というのが科学の研究者の態度だ。すなわち、1+1=2というやり方。

ところが、この世の中の事柄が、すべて1+1=2でわからなければ承諾しないという態度で応接すると、むしろわからないものの方が多いという事実を発見するのである。

科学は万能の学問ではない。それは、何事も科学的態度で応接し、1+1=2でなければ承諾しないという考え方で、人生を活きていると、知らない間に、わからない事柄の多い人生の中に、自分のいる姿を発見してしまう。

そうすると、ますます不可解に混乱して、人生が少しも安心出来ない世界になる。ただ不安と恐怖のみが、その人の人生を襲うことになり、それ以外には何物も人生になくなってしまう。

これはつまり人生に対する信念が乏しいために他ならない。

「信念」とありますが、これは、何に対しての「信念」かといいますと、中村天風の宇宙観が、

「この宇宙にはすべてを完全にあらしめたいという力が働いている。宇宙真理は不完全なものはない。そして、人間には、その完全である資格が与えられている」

ということで、

・そもそも宇宙は完全なもの
・その宇宙が人間に与えたものも完全なもの


なのだから、とにかく、その作用は「完全」であると。
なので、どんなことでも疑う方向ではなく、「信念」の方向から考える、と。



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たった一人でも権力に立ち向かうことはできる

いやあ、ロックというかパンクというか、この女性はECB総裁会見という退屈なセレモニーを興奮のステージに変えたようだ。男二人に運び出される時のVサインと笑顔は、まさしく彼女の勝利を示している。上の二つの写真での彼女の姿もいい。フォトジェニックだ。
権力の猿芝居の場に対する、こうした愉快なテロは、もっと世界中で起こっていい。それによって権力というものの正体が露呈してくるだろう。

前に書いたように、ECBの求める緊縮財政とは、「政府の借金を国民に払わせる」ことであり、国民がそれに怒るのは当然である。EUやECBという存在そのものの意味や意義を欧州の人々は考えるべき時期に来ているのではないか。もちろん、私は、EUは解散するか、各国の主権(特に経済的主権)をもっと尊重する機構に改める必要があると思っている。



(以下「ハフィントンポスト」より転載)



ECB総裁会見に女性乱入 「独裁終わらせろ」紙吹雪で抗議

投稿日: 更新:
                                     

ドイツ・フランクフルトにある欧州中央銀行(ECB)本部で4月15日に開かれたドラギ総裁の記者会見で、女性が机に飛び乗って「ECBの独裁を終わらせろ」と叫んで暴れ、会見が一時中断する騒ぎがあった。時事ドットコムなどが報じた。


記者席に座っていた女性は会見開始直後、ドラギ総裁の前の机に駆け上がり、叫びながら紙吹雪のような物やビラをまいた。会場が騒然とする中で、総裁らは別室に待避。女性はその場で取り押さえられ、会見は数分後に再開した。


ロイターは、抗議したのはハンブルク出身の21歳の女性だと報じている。AP通信によると、この女性は、緊縮政策に反対する女性権利団体「FEMEN」の活動家という。

  • Germany European Central Bank
    ASSOCIATED PRESS
    A Femen activist stands on the table of the podium throwing paper at ECB President Mario Draghi, left, during a press conference of the European Central Bank, ECB, in Frankfurt, Germany, Wednesday, April 15, 2015. (AP Photo/Michael Probst)
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    An activist stands on the table of the podium throwing paper at ECB President Mario Draghi, left covered, during a press conference of the European Central Bank in Frankfurt, Germany, Wednesday, April 15, 2015. (AP Photo/Michael Probst)
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    A Femen activist is carried away after attacking ECB President Mario Draghi during a press conference of the European Central Bank, ECB, in Frankfurt, Germany, Wednesday, April 15, 2015. (AP Photo/Michael Probst)





(夢人追記)「阿修羅」の、この事件に関する記事の最後に面白いコメントがあったので、それを転載しておく。たぶん、記事元の「真実を探すブログ」管理人氏コメントだろう。私だけが頭がおかしいから前説のようなことを書いたというわけではなく、私と同じ気持ちの人間は案外多いのかもしれない。



海外のSNSなどを見てみると、意外と賞賛されていてビックリです。「今のECBは欧州各国の独立性を奪っている」と指摘する方も多く、今回の女性みたいに激怒している方も見掛けます。イギリスなんかでも同じ様な抗議運動がありましたし、これもグローバル化の影響の1つだと言えるでしょう。



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「イデオロギー拒否というイデオロギー」の陥穽

「世に倦む日々」記事の末尾だけ転載。
大事なことが書かれていると思う。
「右とか左とかいうイデオロギーはもう古い」というイデオロギーは、今けっこう流行っているのだが、イデオロギーから解放された政治活動は(それが明示的か暗示的かの違いがあるだけで)元来ありえない。そして、こうした「イデオロギー拒否というイデオロギー」は、現実の事態を不明瞭にし、民衆が戦うべき敵の姿を隠してしまうという悪質な効果がある。
これが、「世に倦む日々」氏が懸念していることだろう。これを氏は「脱構築」派の特徴と見ているようだ。
「脱構築」派とは、旧来の左翼と一線を画する、「社会主義や共産主義という大きな物語(観念的思考)ではなく、日常のデティールを大事にすることで現実の波(社会の蔵する重い問題)を軽やかに乗り切ろう」という新しいリベラルかな、と「脱構築」には疎い私は想像している。
まあ、旧来の左翼が「観念から現実へ」というタイプだったのに対し、新しいリベラル、あるいは左翼リベラルは「現実から現実へ」ということになるのではないか。だが、そこに陥穽がある。
つまり、「現実から現実へ」では、現実の細部に足を掬われるだけであり、現実の根本問題を解決する方向にはなかなか行かないのではないか、と私は思うわけだ。彼らは現実を良く研究しているから、その言葉はある程度の説得性はある。だが、いかにも「軽い」のである。彼らは間違ったことは言わないかもしれないが、現実を土台から改変するような提言もできない。現実を変える力は、実は観念にある。「脱構築」派は現実の悪の細部の悪のみを是正はするかもしれないが、それによって逆に現実の根本の悪を延命させるものだ、というのが「世に倦む日々」氏の焦燥を私が勝手に推測したものだ。
以上はただの推測にしかすぎないし、リベラルと左翼を同一視すること自体がおかしいのかもしれない。しかし、左翼リベラルという言葉は現在市民権を得ているようだから、左翼とリベラルには親近性があることは誰でも認めているのだろう。ただ、これが左翼リベラルとなると、旧来の左翼とはかなり性質が違ってくるように思う。もともとリベラリズムとは「自由主義」であり、それが左翼と結びつくのは、政治的進歩主義が社会主義的政策とほぼ同一だったからだろう。ところが、今や進歩主義とは「市民の自由と安全を制限し、企業の自由を拡大する」政策となり、社会主義とは真逆のものになっている。となれば、かつての左翼思想を廃れた古い思想と考えるべきではない、という結論になるのではないか。この点では私は「イデオロギーの重大性を見直せ」という「世に倦む日々」氏に与するものである。


(以下引用)


右も左もイデオロギーはもう古い。目の前の現実や事象に対して、それをイデオロギー的な意味づけで裁断する発想は間違っている。こういうイデオロギー拒否の相対主義の言説は、(学校で教師から脱構築の教育を受けた)若い世代に特に受け入れられやすい。この論法が切り返しとして提出され、人が納得してしまうと、危険な右翼的現実をストレートに批判する言論は封殺されてしまう。右翼批判が意味がなくなり、右翼批判の言論が成立し得なくなる。実際のところ、1980年代後半の脱構築ムーブメントがアカデミーで興隆して以降、日本の論壇はこの視角と思潮で染まり、右傾化現象を正しく捕捉して指弾する営為が難しくなった。逆に言えば、こうして目の前の現実を丸ごと肯定する思考の訓練と習慣の定着によって、戦後民主主義や社会主義を第一の価値観として持っていた者たちが静かに転向し、後退し、右翼を悪として批判する声を上げなくなり、右翼化するイデオロギー状況に保身で順応して行った。この30年間のマスコミの中で、そういう順応なり適応の態度を模範として見せてくれたのは、例えば三雲孝江がその一人として浮かぶ。日本の人々は、学校で習って身につけた戦後民主主義の原理原則へのコミットを薄め、脱構築の態度に変質し、そこからさらに右翼肯定へと変貌を遂げている。自らの思想的原点の固守が弱く、現実に流されやすく、多数に混ざりたがるのは日本人の特性でもある。

多数派の流れとなった右翼のイデオロギーは、決してイデオロギーとして客観認識されて捕捉されることなく、右翼の敵である戦後民主主義や社会主義の思想が一方的にイデオロギーとしてレッテル貼りされ、不当視され、悪性視されている。現在の日本語の用法では、右翼の政敵の思想をイデオロギーと呼んでいて、イデオロギーという言葉は、学問的な定義の一般性と中立性を失い、日常の会話の文脈として特定の思想性を指すものとなった。嘗ては、社会空間におけるイデオロギーのシェアが左右半々であったため、右翼の思想も左翼の思想もイデオロギーとして対象認識されていたけれど、現実の政治空間が右翼だけでオキュパイされると、その制圧支配を正当化するべく、右翼の思想は正常な常識とされ、正論とされ、イデオロギーの概念で対象化されなくなるのだ。除外される。そうした思想環境の中で、従来は左翼が生息した地平を脱構築がリプレイスしたが、脱構築が唱えるところの「右も左もイデオロギーはもう古い」の言説は、きわめて自己欺瞞的なレトリックであり、公平な相対主義の見地に立っているように装いながら、実は否定する対象として「右のイデオロギー」は全く意識されていない。「冷戦思考の二項対立はもう古いから」と脱構築が立論するとき、古い思考として非難され排斥されてきたのは、もっぱら冷戦に敗北した(とされる)左の思想だけだった。

現実の日本の政治社会が甚だしく右傾化していることは、タイムや、ニューヨークタイムズや、ガーディアンや、その他の欧米のプレスが注目して異常を報道しているとおりで、世界の中から見られている日本が客観的な事実である。否定できない。どれほど朝日がキャンペーンを張り、右傾化を懸命に否定しても、それは日本の国内を洗脳して間違った観念を植えつけているだけで、無駄で無意味な営みでしかない。世界は朝日の報道を正しいとは認めない。日本駐在のニューヨークタイムズや中央日報やドイツ紙の記者たちが、小熊英二のこの「右翼少数論」の記事を読んだとき、果たして彼らはどういう感想を持つだろうか。不感症による誤認か、もしくは正常性バイアスによる歪んだ認識だと評価するのではないか。

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