だが、それが行き過ぎて、コミュ力さえあれば、真面目さや実務能力は要らない、という植木等の「無責任男」のような学生が増えているような気がする。
そこで、提案である。
コミュ力絶対主義者を「コミュニスト」と呼ぶことにしたらどうか。(笑)
気の赴くままにつれづれと。
「この世界の片隅に」を実写化するなら、すず役は能念玲奈がいいなあ、と思っていたが、独立騒動からの芸能プロダクションと芸能界総がかりの能念玲奈いじめで、芸能界引退寸前まで行ってしまい、実現不可能なプランとなっていた。それが、アニメの声優としてすず役に抜擢されるとは、やはり同じように考える人はいるものだ。現在は「のん」と名前が変わったが、あの、ぽやっとした感じは、まさにすずにぴったりの個性である。
「ノンちゃん雲に乗る」という映画があったが、「のん」もこれから雲に乗って飛翔しろ。ヤクザ的支配の芸能界より上を行け。
「ミッフィーの信号機」は、ツィートが連続していたのでついでに転載した。ドイツ語のwachtは英語のwatchに相当するのかな、というのが興味深かっただけである。私がミッフィーファンというわけではない。まあ、子供が喜びそうな信号機で、こういうのもいいのではないか。
(以下引用)
ゆうき まさみさんがリツイート
映画『この世界の片隅に』キャストが本日ついに発表されました。主人公すずを演じるのはなんと、のんさん‼︎ 泣けるPVをまだご覧になっていない方はこちらから!konosekai.jp 原作本も続々重版中です! #この世界の片隅にpic.twitter.com/Cpkq1XZS9j
以下、ネタバレあり。
一言で言って、娯楽作品として大いに楽しんだ。
ゴジラが津波と原発を想起させる存在だと思いながらも、ゴジラによるドハデな破壊、ゴジラの制御不能ぶりに右往左往しつつアタックを繰り返す様子を、ワクワクしながら観たのである。ハリウッドのアクションを観る感覚に近い。
特に第4形態への変態を遂げたゴジラが巨神兵よろしく街を滅ぼし尽くすエネルギーを四方八方に放射し続けるシーンは、「ドキドキしてスカッとした」(小並感)。一瞬「あ、だいたいおさまったかな…?」的に安心しかけたところにゴジラのこの異例の攻撃。街が壊されまくるのに何もできない。「手の施しようがない」という感覚がぼくの中に起こり、(娯楽的な意味で)戦慄が走った。
唐突に白状するが、ぼくはテレビシリーズの『新世紀エヴァンゲリオン』の中で第拾話「マグマダイバー」と 第拾参話「使徒、侵入」が圧倒的に好きだ。
「マグマダイバー」はシンジとアスカが何のかんの言いながらイチャついて戦闘を組むのが好きだけども、「使徒、侵入」はシンジたちやエヴァもほとんど出てこないにもかかわらず、テンポよく並べられる官僚・軍隊的組織の命令・報告口調の連続がたまんないのである(特にマヤ萌え)。
「シグマユニットAフロアに汚染警報発令」
「第87タンパク壁が劣化、発熱しています」
「第6パイプにも異常発生」
「タンパク壁の浸蝕部が増殖しています。爆発的スピードです」
「汚染区域はさらに下降。プリブノーボックスからシグマユニット全域へと広がっています」
「人工知能メルキオールより自律自爆が提訴されました。否決。否決。否決。否決」
「今度はメルキオールがバルタザールをハッキングしています」
エヴァ第拾参話はこんなので埋め尽くされている。うぅ、この口調。思い出してもヨダレが出るわい。
「右舷に被弾は漢(オトコ)の浪漫」という諺があるが(ない)、戦闘・危機状態の官僚・軍隊的組織の命令・報告口調は、たぶん、ぼくが「オトコの子」だったころの「漢の浪漫」を呼び起こすのだろう。
ゴジラが急速に進化し続けるというアイデアや、官僚・軍隊的組織の命令・報告口調の激しい連続っぷりは、まさに「使徒、侵入」のそれである。『シン・ゴジラ』における前半の会議や報告のカットのすさまじいラッシュは、もともとの長大な(冗長な?)シナリオを急速に消化するためらしいけども、それが画面の中で危機感をあおるものになった(いっしょに見に行ったつれあいは「キーとなるセリフがいたるところで聞き取れんかった」とその効果に対してむしろ激おこぷんぷん丸だった)。
ラスト以外に、ウェットな「救国の信念」の吐露、セリフ、描写がない。
無駄で役に立たないオモテの会議のウラで集まったのは、環境省の役人=尾頭ヒロミなどのオタクである。
現代において実際に国の危機を救う理性は、暑苦しい政治信念を話す人ではなく、このような有能なギーク(ややコミュ障の気のある)たちではないか――そういう感覚が小気味よかった。
『真田丸』を見ながら、有能すぎる事務官僚・石田三成のコミュ障ぶり、そしてそのあからさまな敗北に忸怩たる思いを抱く人々は、自分もオタクであり、「オタク(この場合、フリークとかギークの意味に近い)こそ世界を救うのに…。何やってんだ三成」という気持ちがあるからだろう。『シン・ゴジラ』での尾頭ヒロミに萌える構造と裏腹である。
#真田丸 第三十二回 ツッコミが間に合わない。辛い。コミュ障三成とタヌキ家康の「応酬」みんなの感想+補足TLまとめ - Togetterまとめ
#真田丸 の三成は、仕事できるのかもしれんがこいつアカンわってのがすごく説得力あります。簡単に人をバカって言うし、ホスト役しない(できない?)くせに宴開くし、対人仕事がほんとダメすぎて上に仕えてこその人材だなと。「自分は滅多に間違わない」は、笑うところでした。
https://twitter.com/a_okina/status/764791697351979008
◯◯先生タッチで描いてみた尾頭ヒロミまとめ - Togetterまとめ
ウェットで大上段な熱い演説をぶつような政治家やヒーローはいらない。もし救国のリアルが描きたいなら、それはこういう黙々と、そして嬉々として自分の領分の仕事をこなしていく「有能なオタク」が選ばれるべきなのだ――そういう観念が今の日本には広く行き渡っているに違いない。
うう、オタク的スペシャリスト以外にもジェネラリストとしての政治家は出てくるよな。「ラーメンのびちゃった」とぼんやりという、あの一見役立たそうな首相代理。あいつは、熱い演説なんかしねえ。その代わりにオタクというスペシャリストたちの仕事を、あちこちを調整して成就させてくれるのだ。
ジェネラリストの役割は熱い信念じゃなくて、そこなんですよ。ボンクラっぽくてもいい。風通しを良くしてくれさえすれば。みたいな。
「ラスト以外に」と書いたのは、ラストにおける主人公・矢口蘭堂の、やや湿っぽい使命感溢れる訴えや、「この危機を救えるのは自衛隊しかない」的な大声でのセリフにかかった過剰なニュアンスに少しばかり白けるからである。
ただ、『シン・ゴジラ』に政治的なものを見出す人もいるようだが、全体的にぼくはそういう色彩のものとしてみることはできなかった。
「自衛隊が救国の組織として活躍するプロパガンダ映画」だとか「日本は捨てたもんじゃないというナショナリズム称揚映画」だとか「緊急事態条項の必要性を訴えたアベ映画」だとか。
あるいは逆に「制御不能の原発を人知によって押さえ込み、核兵器を人間の力で使わせないようにした反核映画」だとか。
だいたい、『ゴジラ』シリーズにおける自衛隊の協力はもはや長年の伝統になっていて、そこである意味滑稽なまでに「遵法」の構図を見せられるのは、もう「お約束」の域である。
このように自衛隊の実際の出動は、必ず法律に則って行われる。自衛隊が協力した『ゴジラ』や『ガメラ』では、その出動命令あるいは要請シーンを律儀に挿入することで、自衛隊が勝手な判断で出動することはないことを、くどいほどに強調しているのだ。(須藤遙子『自衛隊協力映画』大月書店p.111-112)
今回も律儀にこのシーンは挿入された。しかも、民間人がいるために発砲できないシーンまでご丁寧に入れられて。
この『ガメラ』以降は自衛隊からの注文が細かくなり、「こうやったらリアルですとか、こんなシチュエーションはありえませんとか、防衛庁から返ってきた資料をもとに脚本を直す」というのが通例となっていく。(須藤前掲p.108)
自衛隊協力映画のストーリーは、このように製作側と自衛隊の双方の意向を折衷し、多くの過程を経て決定される。(同前p.102)
須藤によれば、自衛隊が映画に協力する基準があり、例えば「防衛省・自衛隊の実情または努力を紹介して防衛思想の普及高揚となるもの」「防衛省・自衛隊を悪者にするなど、マイナス効果になっていないか」などの項目がその中にはある(須藤p.54)。
つまり自衛隊にいいように描かれている、ということなのだが、須藤もそのこと自体を問題にしていないように、ぼくも言いたい。だからどうだというのだ。
『シン・ゴジラ』には実在の組織が出てくるけども、はっきりと1から10まで物語の全体が虚構であるという構えで見るので、現実評価などが忍び込みようがない。
逆に言えば、そういう心づもりで見るので、反核メッセージだとか3.11の比喩だとかという現実連関もスッパリ棄て去り、頭を空っぽにして見ることになる。
まあ、中には本気で「自衛隊SGEEEEE」「日本も捨てたもんじゃない」のように見てしまう人もいるんだろうけど、『太陽にほえろ!』とか『西部警察』とか『踊る大捜査線』とか『相棒』とかを見て「警察カッコイイ! あれが警察というものだ」と思ってしまうのに似ている。んなわけねーだろ。
そんなものが見たいのなら、現実の3.11における自衛隊の活動や原発事故収拾の活動のドキュメントを見た方がよっぽどいい。
そして、反対に、ここから反核メッセージなんかも読み取らなくていい。
こんなところでうっかりもらった「反核」の心なんか、2分後くらいにはもう忘れている。
1955年に描かれた杉浦茂『ゴジラ』は、映画『(初代)ゴジラ』を換骨奪胎したマンガで、一応映画のストーリーに似せてはあるし、原水爆のことも色濃く描かれているのに、一抹のシリアスさもない。下の図にあるようにゴジラが爆雷で死なないことが水爆との関連で描かれているが、セリフにも画面にも微塵も深刻さはない。反核メッセージはほとんど消え失せている。
(杉浦茂「ゴジラ」/『原水爆漫画コレクション 4 残光』平凡社p.51)
ただまあ、面白い映画には間違いなかったが、もう歴史を変えるほどの面白い作品かというと、そこまではアレだった。ネットの評価が高すぎるなと言わざるをえない。
魚類と両生類の中間のような、あの眼のキモさ。
「キモいー、キモいー」と言いながら、今日も小3の娘は、第一第2形態の死んだ魚のような眼のマネをしているし、つれあいは「第一第2形態が落としていった、あの赤いドロドロがキモかった」と騒いでる。
どんだけ好きなんだ、お前ら。
*1:ブコメで指摘があったので訂正。一家で勘違い。
(夢人追記)実物を見ないで空想している段階が、一番楽しいのではないか、と思うのが、この「シン・ゴジラ」で、下の記事もその空想のいい材料になる。なるほど「リオ・ブラボー」か。あるいは、同じハワード・ホークスの「ハタリ!」の感じかな。「日本沈没」の映画も見たが、あの映画の中の丹波哲郎総理大臣はじつにかっこ良かった。これは多くの人(たとえば竹熊健太郎氏など)が同意見のようだ。日本の男、日本の男優のカッコ良さというのは、アニメ顔のジャニーズ風タレントではなく、おっさん俳優が演じたものが多い。三船敏郎が「世界のミフネ」であったように、これは世界的にそう見られていると思う。笠智衆のようなお爺さん俳優もいいが、今や、そういう役者はほとんど死んでいる。
唐沢なをきさんがリツイート
私も「猫も杓子も」と思っていたのだが、「禰子も釈子も」という解釈もあったのか。(「釈」の旧漢字が出て来ないので、新漢字で代用。)そもそも、神社の氏子を「禰子」ということはまったく知らなかった。「釈子」は昔の本にはよく出てくる。まあ、猫と杓子が同類視されている時点で、「猫も杓子も」はかなりシュールなイメージの言葉ではある。
下の「猫ぢゃ猫ぢゃ」の絵は可愛い。でも、「猫踊りゐて裏がへる盆の月」の「裏返る」がよく理解できない。かなり俳句の達者な人だな、と思うし、旧仮名遣いも正確だと思うのだが、この「裏返る」は何なのだろう。月が裏返るのか。おそらく、行事としての盆と什器としての盆を掛けて、猫の盆踊りを見て腹を抱えて笑った月が、お盆のように空で裏返ってしまった、ということか。マザーグースの世界みたいだ。
羽海野チカ世界展8/4〜17池袋西武 @CHICAUMINO 21時間前
(追記)気になって、今、少し調べたら、「猫踊りゐて」の句を作った人は本格的に俳句をやっておられる方らしい。どちらかというと、鋭いナイフで世界を切り取るような、私の苦手なタイプの俳人らしいが、そのような人が、「ねこぢゃ! ねこぢゃ!」のようなイラストを描くのが面白い。
「剥製の吊られてゐたり 晩夏光」
晩夏の光をあっさりと「晩夏光」と表現するのは、並みの人間には、簡単なようで実は難しいのではないか。しかも、「剥製」と「晩夏光」の二文字で、この室内の埃っぽい感じも出ているように思う。(本当は空調の利いた室内だろうが、これはイメージの問題。)いやまあ、私などは最初から剥製など見たくもない人間だが。人間の内臓とか虫とか皮膚病とか死体とか、見たくないものは見ないで生きていければ、それが一番だという弱虫だwww
「朝焼の窓へ凭れぬ 巻煙草」
煙草と言えば巻煙草以外には見たこともない人が現代では多数派だろうが、これは単に語調の関係で五音の言葉にしただけだろうか。嫌煙派全盛のこの時代に愛煙家であることを広言するのはなかなか「反時代精神」があって偉いと思う。そもそも俳句をやっているというだけでも反時代的ではあるが。「朝焼け」と「煙草を窓辺で吹かす」というのは、いいイメージだと思う。
ダラダラ過ごしているのを責められた時に、いい反論材料となる研究結果をお伝えしよう。
学術誌「Journal of Health Psychology」に掲載された新研究よると、「頭がいい人たちは、のんびりと時間を過ごすことが多い」らしい。
IQが高い人たちは簡単に退屈しない。そのため、「何かをすること」より「何かを考えること」に多くの時間を費やす、と研究は示している。一方で、考えるのがあまり好きではない人や、すぐに退屈する人たちは、刺激を求めてより活動的になるという。
研究に携わったフロリダ・ガルフ・コースト大学の研究者たちは、30年に渡って作り上げた「認知欲求テスト」を生徒たちに受けてもらった。
テストには「問題の新しい解決法を考えるのが好き」とか「やらなければいけない範囲でしか考えない」といった項目が書かれており、どれくらい同意するかを生徒たちに答えてもらった。そしてそれを基に、30人の「考えるのが好きな人」と「好きではない人」を選んだ。その後、7日間生徒たちの腕に計測器を付けて、彼らがどれだけ活動的な生活を送ったかを調べた。
その結果、「考えるのが好きな人」は「好きではない人」より、平日はずっと活動量が少なかった。週末は両グループの間にほとんど違いはなかった(違いがない理由は、まだわかっていない)。
主任研究者のトッド・マッケルロイ准教授は、知能指数が高くてもそうでなくても、体を動かさないことで健康へ悪影響が及ぶと話し、こう進めている。
「考え深い人たちが非活動的になるのを防ぐ鍵、それは『自覚』です。自分が不活発な生活を送っていることを自覚し、それが体に良くないと自覚することで、よりアクティブになれる可能性があります」とマッケルロイ氏は述べている。
「怠け者」以外にも、IQが高い人は、より罵る言葉を使う、遅くまで起きている、片付けるのが苦手、という傾向を示した研究もある。
もしこれが正しければ、知能が高い人ってそんなに魅力的じゃないかも……?