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不死鳥の家族

ホアキン・フェニックスのウィキペディア記事の一部だが、フェニックス一家の遍歴が面白い。
兄、リヴァー・フェニックスがもし生きていたら、どんな俳優になっていただろうか。

(以下引用)

生い立ち[編集]


プエルトリコサンフアンにて生まれる。父ジョン・リー・ボトムはカリフォルニア州フォンタナ出身[6]元カトリック教徒[7]で、その後宗教団体「神の子供たち(Chidren of God)」の宣教師になっていた[8]。ボトム家はイングランド系、ドイツ系、フランス系の祖先を持っている。母アイリン・シャローンはニューヨーク州ブロンクス出身の東欧系ユダヤ人ハンガリー系ロシア系ハーフ)で、同じく宣教師として活動していた。


1969年、両親は結婚時に「神の子供たち」に入信し、熱心な信徒として活動した。ホアキンがプエルトリコという土地で生まれたのも同団体のコミュニティが南米に形成されていたからで、特に祖先の出自などとは関係ない。後に兄のリバー・フェニックスは幼少時に目撃した同団体の腐敗と異常性を告発しているが、1978年に両親も信仰心を失って団体を離脱した。一家は新しい生活の為にフェニックスという名字に改名してアメリカに戻り、まだ4歳だったホアキンは生まれ故郷から引き離されている。


俳優一家として[編集]


アメリカから戻った一家だったが、生活基盤を失った状態では貧困に苦しむより他になかった。両親は共働きで生活費を工面しようとしたが5人兄妹を育てるのは苦しく、兄妹も街頭に出て歌や演奏を行って金銭を恵んで貰う日々を送った。そんな折に兄妹の一人が子役を探していたスタジオの社員からエキストラとして雇われ、CMに出演する機会を得た[9]。これを契機に兄妹はそれぞれ子役から芸能界への道を進むが、ホアキンは子役に進む兄弟達と距離を置いて父と南米を回る旅に出ており、この経験から現在でもスペイン語を流暢に話す事ができる。


キャリア[編集]


1982年、自らも俳優の道に進む決意を固め、兄が出演していたテレビシリーズで初演を果たしている。当初はリーフ・フェニックスという名義で活動していたが、15歳の時から本名と組み合わせたホアキン・フェニックスを使用するようになった[10]。映画出演は1986年の『スペースキャンプ』で、翌年には『ラスキーズ』で初主演を務めている。1980年代後半から1990年代後半にかけ、映画やテレビで子役として出演を重ねていった。


1993年に兄リバー・フェニックスジョニー・デップの所有するナイトクラブを訪れたが、そこで兄が麻薬の大量服用で死亡する事件が起きる。事件現場にも居合わせていたホアキンが平静さを失って救急隊員に電話している通話記録が繰り返しテレビで放映され、マスコミの過剰な取材攻勢に嫌気が差して一時的に映画界から距離を置いた。翌年に友人の薦めで俳優に復帰し[11]ガス・ヴァン・サント監督の『誘う女』(1995年)やオリバー・ストーン監督の『Uターン』(1997年)などで憂鬱な雰囲気を持った青年を演じた。また『秘密の絆』(1997年)では再び主演を務めた。


グラディエーター』(2000年)ではリドリー・スコット監督から主役の宿敵であるローマ皇帝コモドゥス役に抜擢され、主演のラッセル・クロウに一歩も引かない演技を見せた。同作でアカデミー賞やゴールデングローブ賞など名立たる映画賞の助演男優賞にノミネートされ、個性派俳優としての知名度を確立した。その後も『サイン』(2002年)、『ホテル・ルワンダ』(2004年)、『ヴィレッジ』(2004年)などの話題作に出演を続ける.[12]。またその間には『ブラザー・ベア』(2003年)で声優にも挑戦している。


そして『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』(2006年)でカントリー歌手のジョニー・キャッシュを劇中歌も自ら担当して演じきり、ゴールデングローブ賞主演男優賞グラミー賞を同時受賞し、二度目のアカデミー賞ノミネートを受けた[13]。同年、映画芸術科学アカデミーからアカデミー会員に推挙された[14]

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