井口和基氏のブログ記事の一節だが、近未来の経済の土台となりそうなヒントがここにありそうなので、転載する。文中に頻出するネトウヨ的政治思想や差別的発言は、まあ、脳内で除去して読むのが無難だろう。
要は、情報交換が簡単にできる時代にはカネという存在(物体としての通貨だけでなく電子情報としてのカネも含む)は不要になり、物々交換で社会が成り立つようになる、という、革命的な思想である。まさに、経済学の革命だろう。
まあ、単なるヒントのようなアイデアであり、実際には、たとえば電車に乗るのにいちいち物々交換をするわけにはいかないだろう。通貨というものは便利だからこそ人類の歴史を支配してきたのであり、その貴重さや重要さのために人類史を悪にまみれさせたのだ。
で、そのカネというものが不要になる、というアイデアは面白いが、問題はそこからどうアイデアを発展させ、現実に導入するかである。マルクスの「資本論」並みに「非資本論」「反資本論」という大部の著書を書く人が出てくると面白い。ピケティあたりやらないか。
ちなみに、物々交換だとカネと違って「蓄積」が困難なので、巨大な富の集積ができず、必然的に原始共産制的社会になるかと思う。
(以下引用)容量的問題のため、中盤の個人的感想の部分は面白いがカットする。
要は、情報交換が簡単にできる時代にはカネという存在(物体としての通貨だけでなく電子情報としてのカネも含む)は不要になり、物々交換で社会が成り立つようになる、という、革命的な思想である。まさに、経済学の革命だろう。
まあ、単なるヒントのようなアイデアであり、実際には、たとえば電車に乗るのにいちいち物々交換をするわけにはいかないだろう。通貨というものは便利だからこそ人類の歴史を支配してきたのであり、その貴重さや重要さのために人類史を悪にまみれさせたのだ。
で、そのカネというものが不要になる、というアイデアは面白いが、問題はそこからどうアイデアを発展させ、現実に導入するかである。マルクスの「資本論」並みに「非資本論」「反資本論」という大部の著書を書く人が出てくると面白い。ピケティあたりやらないか。
ちなみに、物々交換だとカネと違って「蓄積」が困難なので、巨大な富の集積ができず、必然的に原始共産制的社会になるかと思う。
(以下引用)容量的問題のため、中盤の個人的感想の部分は面白いがカットする。
まあ、私は経済学者でも、経済アナリストでもないが、もう一度、
「どうしてお金というものができたのか?」
という問題に戻って考えるべきだろうと思う。
「お金」なるものが誕生した時というのは、どういう時代だったか?
なぜ「お金」は必要だったか?
そもそもお金ができる前は、物々交換であった。
そのその太古の時代には、
いつ(When)、どこに(Where)、だれがいて(Who)、何をしているか(How)、何を考え(Why)、何を持っているか(What)、
つまり、いわゆる「5W1H」が分からなかった。
だから、それを知らないで、物々交換するには非常にリスクがあった。だから、その間自分が持つ物資を運搬するのは大変だから、「その代わり」になるものを必要とした。
西洋では、それが金のブレスレットになり、我が国では、木簡になった。
しかし、いまやスマホかパソコンかタブレットがあれば、そういう情報交換ができる。
つまり、いきなり物々交換の交渉ができる。
一番流行っているのは、SNSにおける親父と若い女の子の性交渉だろう。つまり、女性器と男根との物々交換である。
昔なら、ガールに出会いたければ、ガールのぶらつく場所までいかなければならなかった。
それができないから、後ろから前川文科省事務次官が公費を使ってガールズバーで行ったわけだ。
しかしいまなら、スマホでSNSで交流できるわけだ。
つまり、情報を得るのにお金が必要ない。
いまなら、太陽電池をスマホに繋げば、基本的にはあまりお金がいらない。スマホの現物を買うのと通信費程度である。できたものを使うという意味あれば、ほとんどお金がかからなくなっている。
もし人間がテレバスを使えたら、情報交換にまったく金が必要ない。
物々交換の前段階としての、自分が欲しいものと相手が欲しいものとの確認作業=情報交換、これのためにこれまでの文明は相当な労力を要したのである。
昔なら、自分が書いた原稿をわざわざ電車に乗って、出版社まで持ち運ばなければ、漫画ができなかった。
しかしいまなら、自宅で作った漫画の原稿をpdfにしてインターネットで転送すれば終わりだ。電車や徒歩は必要ない。
フェイスツーフェイスもネットでできる。
つまり、いまや我々の世界は、お金を本質的に必要としないのである。仮想通貨すら必要ない。仮想通貨もビットコインもお金にすぎない。
もう「お金」は本質的ではない。お金の元金保証の「金=ゴールド」も必要ない。
要は、物々交換さえできれば、それでOKなのである。
どこかのお店で飯を食いたい。ワカメうどんを食いたい。
そういう場合、「自分はいまワカメうどんを食いたい」と言う情報をネット上の「どこか」に上げる。
その代わりに「自分は何を持っている。何ができる。何が余っている」とそこに「情報添付」する。
すると、「わかめうどんは作れるが、その添付情報が必要だ」という人がいれば、そういう人が交渉相手になる。
自分の身の回りにそういう人同士がいれば、ワカメうどんを出前してきた人がそれを食べる人から必要なものを受け取ることができる。
これで物々交換が終了するわけだ。
一旦、その間でお金を通じてお金による売り買いは必要ない。
つまり、いまの金融を維持してきた一番の原動力は、実は情報不足なのである。わざと不便にする。不便にすればするほど金が儲かるのである。
(中略)
私の個人的考えでは、人類は基本的に金など必要としないのである。
ほしいのは現物やリアルなサービスである。
必要な時必要なものが手に入りさえすれば良い。
したいことがしたいときにできれば良い。
逆に、人は自分がしてあげたいということが必要なときにできれば良い。
欲しい物、提供を受けたいもの、これと、ほしくない余っているもの、提供できるもの、があれば、その間を情報交換できれば、物々交換ができるのである。
労働も物の一つである。提供できる。
だから、私は子供の頃から、あまり金を稼ぐという行為に馴染めなかった。
それよりは、なにか生み出すこと、行動、行為、アイデア、概念、理論、。。。こういうものに価値を感じたのである。
いまの金融は、基本的に2000年前に中東に始まったユダヤ人のファミリービジネスにすぎない。たいした意味はない。
いくら経済理論で武装しようが所詮はそれだけのことである。
とまあ、後半は私個人の妄想だから、スルーしていただければ幸いである。
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