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経済学的に見た「正義」と「公正」

昔書いた文章をフラッシュメモリーから発掘したので、載せておく。面白い内容だと私自身は思うし、「経済学」的意義もあると思うので「徽宗皇帝のブログ」向きだとは思うが、本文に書いてあるように、末尾がぐずぐずなので、ここに載せておく。繰り返すが、これは現代社会の根本的な間違い(か?)を指摘していて「面白い」と私は思っている。

(以下自己引用)文中の菅総理は菅直人。私は鳩山・小沢へのクーデターの一員として菅総理を嫌っていたし、今も好感は持っていない。


まるでまとまっていない文章だし、結論もグズグズだが、読み手自身の考察のきっかけくらいにはなるだろうから、ご笑覧を願おう。


 


 


 


経済学的に見た「正義」と「公正」


 


 


「これからの正義」について私も考えてみようというわけだが、まず話を経済的側面に限定しておく。そして、正義ではなく「公正」について論じることにする。


正義と公正に違いがあるかと言えば、多分ある。それは「公」という字が冠についているかどうかという違いである。「公」の字がつくとなると、「正義とは個々人の主観にすぎない」という議論は排除されることになる。すなわち、「最大多数の人間が許容する正義」が「公正」だと定義できるだろう。


誰が何と言おうと俺こそが正義だと主張するのは個人の勝手だが、それが多くの人の賛同を得なければ公正のレベルには達しないわけだ。


では公正は正義より上かというと、そうでもない。これは、客観が常に主観より価値があるわけではないのと同様であり、話が面倒だから、ここでは正義と公正の価値の上下は論じない。


 


さて、経済学的に見た公正の問題とは、当然ながら「分配の問題」である。内田樹風に言えば「社会的リソース」の配分の問題だ。すなわち、様々な社会的資源をどのように配分するのが公正であるかということだ。


わかりやすい例を言えば、「働かない人間を社会が養うのは公正か」という問題がある。実は、この問題こそが、社会全体に常に多くの軋轢を生んでおり、生んできたのである。富裕層や「有能な人間」はそうした「穀潰し」を社会が養うのは不正義だと常に主張してきた。政治は時には福祉政策によって「穀潰し」を養い、時には福祉削減政策を行って「穀潰し」を死に追いやってきた。


ここで私が「穀潰し」という差別語を使うのは、福祉反対論者の心の底には必ずこの観念があると思うので、それを代弁しているわけだ。社会的弱者と言っても、その中には働いている人間が無数にいるのだから、働かずに生きている人間を「穀潰し」と表現するのは不適切ではないだろう。ただし、大金持ちのドラ息子はここでは考慮の対象外とする。あくまで、福祉の対象者としての「穀潰し」を社会が養う必要があるかどうかを考察しようというわけだ。


 


独力では生き切れない人間を社会が制度的に養うのは、それ以外の人間の取り分を奪うから不公正である、というのが「福祉否定論者」の考えだろう。


その考えへの批判は簡単だ。


我々の社会は、「穀潰し」を養うのに十分以上の余力がある。


人類の科学の進歩は、食物生産能力の面でも、エネルギー獲得の面でも、人類全体の人口をさらに二倍にしても養えるだけの能力を持っているはずだ。これはべつに証明された事実ではないが、世界の姿を虚心坦懐に眺めれば、そう推察できる。


つまり、マルサスの主張(人口増加に食糧生産は追いつかない)は、科学の進歩の前に破綻した、というのが私の主張だ。何の数字的根拠も資料的根拠も無いが、それは直感的に分かる。直感で分かることは数学的前提のようなもので、証明の必要もないことだ。


 


では、なぜこれほどの貧民が世界におり、これほどの飢餓があるのか。


すべては配分の問題である。配分があまりに異常であり、富裕者の優位性を維持するために下層民への配分が意図的に異常に低く抑えられているからである。


しかも、富裕者は、その持っている富を必要とすらしていないのだ。当たり前の話だが、生活のためだけなら、年間に1000万円もあれば優雅そのものの生活ができるはずだ。では、年収が何十億円とある人間は、その金をどう使うのか。使いようなどないのである。死蔵するだけだ。つまり、世界の富は流通などしていないのだ。もちろん、帳簿の上で移動するマネーゲームの金は別の話だ。


実体経済の上で流通すべき巨額の金が、超富裕者の懐に入ることで、残りの人間が貧困生活を送ることになる。


これが世界の現実である。


で、私はこれを不公正だと見るが、法律上はこの状態が公正と見做されているわけだ。


こんなのは公正か?


 


いや、彼らはそれを自分で稼いだんだから、それを死蔵しようがどうしようが勝手だ、と言われるだろうが、果たして、それは本当に自分の手で稼いだと言えるのか。詐欺だろうが何だろうが、法的に許容される手段であれば問題ない、というのが社会的合意のようである。で、私はそれを不公正と見るわけだ。


要するに、100人の人間が利用する資源が100あって、それをその中の一人が99独占したら、残りの人間にとってそれは公正か、という話である。「手続きが正しければ、それでも公正だ」というのが法律家的判断だろう。そんな法律など、糞喰らえである。では、その法律とやらが、その99を独占するためにその男が作ったものならどうなる? 実はこれが各国の中央銀行の起源であり、自由貿易制度や金融システムの起源だというのが私の考えだ。法律など、法律を作る人間を抱きこめば、いくらでも作れる。その程度のものだ。経済システムも国家財政も然りである。


我々が見るべきことは、現在の科学水準から見れば、全世界の人口を養うのは実に容易なことだ、という事実だ。工場などの生産能力は、商品価格維持のためにその半分以下に抑えられ、過剰生産された農産物は、これも価格維持のために廃棄される。全世界の工業製品が、本当に必要な機能だけに限定された堅牢な製品になれば、あらゆる国の国民に安価な工業製品が行きわたり、収穫された農産物や漁獲物を無駄なく加工して配分すれば、全世界の飢餓など解消されるはずだ。


つまり、ここにも配分の誤りがある。


仮に、世界政府を作ろうという人間が、そのように貧困や飢餓や戦争の無い世界を作ろうというのなら、私はNWOだって受け入れる。だが、全世界から血と汗と涙を絞り取ってきた悪魔が、世界に奉仕することなど絶対にありえないことである。


 


さて、話が飛躍したが、こういうわけで、「穀潰し」を養うかどうかが問題になるのは、社会に余力が無い場合であり、社会に余力があれば、こんなのは問題にすらならないことだし、むしろ社会的弱者を救うのは大いに褒められることだ、と私は考える。


 


考えてみればいい。あなたの前に可愛い子猫がいる。これは生産性ゼロの存在だ。では、あなたはわざわざ足を上げて、それを踏みつぶすか?


子猫が例として不適当なら、では汚らしい老人がいたとしよう。援助すればあと数年は生きる。援助しなければ数日で死ぬ。これを死ぬに任せるというのが現在の福祉削減の方向である。子猫は「可愛さ」という能力があるから生かしておくが、汚い老人は殺してもいいな、というのが大方の人間の気持ちだろう。そんなものである。まあ、私もそう思うし、私自身がそう見られている可能性もある。では「可愛い老人」を目指すか? それくらいなら死んだ方がましである。要するに、金のない老人は社会的に存在価値がない、というわけで、多くの人々は老年が近付くにつれて、必死で蓄財に励むのである。そしてますます嫌悪すべき存在になるのだが、まあ、それはどうでもいい。


子供は可愛いから保護し、援助するが、老人を保護し、援助するのは金の無駄だなあ、と大半の人は心の中で思っているだろう。それは無理からぬことではあるが、少し立ち止まって考えよう。


どんな人間であれ、少なくとも社会的に無害な存在なら、生かしておくだけの人情味のある社会こそが、人間らしい社会と言えるのではないか? それが野獣の世界とは違う人間の世界ではないか? 福祉削減や福祉の廃止というのは、私から見れば野獣の世界に戻るということなのである。


また、人間の価値を能力や効率性だけで考えるというのも問題がある。簡単な話、仕事などまったくしたことのない陽気なプレイボーイと、仕事一筋で趣味などまったくない仕事人間と、女ならどちらを選ぶか。人間の生活は、仕事だけではないのである。私はプレイボーイなど大嫌いだが、後者のタイプが定年離婚という目に遭うのも自業自得だと思う。


では、老人の価値は何か。別に老人であることに価値などない、と言えば話はそれまでだが、実は(体力の低下と体の脆弱化はどうしようもないが)、頭の中身に関しては、老人でもそれほどの能力低下は無いのである。多少、新しいものへの対応力が鈍くなったり、記憶するのが苦手だったりするが、今の時代、記憶だけならパソコンという外部記憶装置がある。つまり、知的にすぐれた人間なら、老人になっても十分な生産性がある場合もある、ということだ。いや、私まで生産性で人間を量ってしまっている。


ともあれ、人間の価値は、生産性だけではないし、老人でも生産性が高い場合もある、という話である。


 


で、福祉というものが、「与えるだけ」であることに我慢ができない、というのが実は世の中の福祉否定論者の本音だろうと思う。


あの「穀潰し」どもは、社会的にまったく貢献していない、そんな連中に金など出すな! ということだが、そういうご本人たちが実は社会から搾取するだけの存在であったりする。つまり、「穀潰し」よりも社会的害悪になっているわけだ。


しかし、それはともかく、社会的貢献をしなければ、存在価値はないか?


 


先ほども書いた、「可愛さ」によって貢献する存在や、未来の可能性を持った存在である子供たちを保護したり援助したりするのはいいが、汚らしい老人に金を出すのはいやだ、という議論にまた戻ろう。


とりあえず言えるのは、「社会に貢献しない存在でも保護し、援助して何が悪いの?」ということである。前に書いたように、それで誰かが損をしているという考えもおかしいのであり、もしも損をしているとすれば、100あるものをその99まで奪っている連中が存在するからである。社会的配分が1しかないから、そのうちの0.00000001の配分さえ許せない気持ちになるわけだ。


「有能さを自負している人間」の他人への冷酷さを見れば、そういう人間のほうが社会に不要だと私などは思う。そういう人間がいなくても、他の「有能な人間」の代わりはいくらでもいるのである。官僚やら陣笠代議士や会社社長などもそうで、取り換え不可能な人間などいないというのは、あの菅総理でさえ総理は務まるし、野田総理でさえ総理は務まるのを見ればわかるだろう。


東電の清水社長など気の毒なくらいで、原発事故さえなければあっぱれ有能なコストカッター社長として偉そうな老後を送れたはずなのである。どこかの製紙会社の御曹司にしても、いい大学を出ているし、ハンサムだしで、ああいう馬鹿なことさえしなければ、一生安泰だったのだ。つまり、本来たいしたことのない人間が、高い地位にいるために後光がさしているだけだ。


逆に言えば、その辺の係長を社長の座に就けても、まったく問題ないのであり、一般的に言って、ちょっと口がうまくてその場をごまかす能力さえあれば政治家も重役も務まるものである。あまり自分は有能だなどと自惚れないほうがいい。要するに、人間の能力など大差はない。ただ図々しい人間や野心的な人間は出世しやすいというだけだ。これは恐ろしいことに学問の世界ですらそうで、学問的実績よりも政治力で上に行く人間はあきれるほど多いという。


なんで長々とこんなことを書いてきたかというと、「無能な人間」と「有能な人間」の差などたいしてないし、能力による人間評価など、評価者の主観が半分だと言いたいのである。


野球なら3割打者と2割8分打者は1億円プレーヤーと5000万円プレーヤーの差があるが、実は、年間の安打数ではせいぜい20本程度の差しかない。いや、10本程度の差でも、打数次第ではもっと打率の開きが出る。では、この給料の差は妥当だろうか?私は、レギュラー選手である限りは、給与の差がこれほど開くのはおかしいと思う。


守備の下手な三割打者と、守備の上手い2割5分の打者と、どちらがチームに貢献しているか、簡単には言えないだろう。だが、後者の給料が前者を上回ることは、まずない。


では、会社社長や重役というものは、平社員の百倍の給料を貰う資格があるか?


あるとすれば、その経営判断が常に正しく、会社が常に大儲けをしている場合であり、会社がうまくいかないならば、平社員よりも給与は低くていいはずだ。彼の経営者としての無能性は会社の不業績で証明されたのだから。だが、経営不振で会社社長や経営陣が自分たちを減給したという話は聞いたことがない。まあ、オーナー社長なら仕方がないが、雇われ社長ですら減給されないのが不思議である。


要するに、我々の社会の能力主義とやらはあまりに度を越しており、野球のチームであれば、レギュラー全員の給与差が数千万も開くのはおかしいということだ。


逆に、能力でばかり人間を見る見方というのが現代社会を毒していると思うから、わざと極端な言い方をしてきたのである。


 

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