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明月飛鳥氏の「日本国憲法」嫌悪

「反戦な家づくり」過去記事だが、明月飛鳥氏の「日本国憲法否定論」「革命(独立戦争)肯定論」を思考素材とするために転載する。まだ深く考えていないが、私はそのどちらにも否定的である。
もちろん、日本の「独立」は完全に肯定し、希求するが、その手段と当然の帰結(闘争と、それに当然伴う人命の多数の毀損や投獄など)を考えると、闘争ではなく、「議会を独立の意思を持つ政党で過半数を占める」という迂遠だが平和的な手段で目的を達したほうがいいという考えだ。そもそも、闘争で死ぬのが他人ならいいが、自分や自分の家族なら御免だwww 
まあ、あと100年後くらいに独立できたらいいのではないか。それ以前に、まず国内の膨大な不都合(格差社会など)を解消しないと、独立しても何のメリットも無いだろう。つまり、日本人が今の奴隷根性のままでは独立しても新たな支配者ができるだけだろうし、「独裁的大統領」が生まれるだけだろう。とりあえず、米国と堂々と交渉できる政治家を生み出すことだ。まあ、自衛隊が米軍の指揮下にある現状で、独立闘争など不可能に決まっている。それが「国軍」と名を変えても実体は変わらないだろう。
少し思ったのだが、ここに書かれた明月飛鳥氏の思想は、「天皇」関係以外は安倍や日本会議の思想とさほど変わらないのではないか。

(以下引用)

「戦わない日本」は正しかったのか?

タイトルに反戦を掲げるブログが、いったい何を言ってるのか?と思われるかもしれない。
ついにあいつは極右になってしまったのか、とリベラル諸氏に唾棄されるかもしれないが、やはり言わずにいられない。

「戦わない日本」は正しかったのか?

オリンピック一色のマスコミは、閉幕と同時に今年もアリバイのように戦争関連の番組を流すのだろう。そして、8月限定の「非戦の誓い」を誰もが口にする。
それで1年分の免罪符を手に入れて、残りの11ヶ月を安穏と過ごす。
 
日本の侵略戦争が極悪であり、二度と繰り返してはいけない ということには、何の異論も無い。
日本が受けた原爆や空爆という無差別殺戮も、決して許してはいけない。
その反省が、日本国憲法に込められているというのも、ウソではないと思う。
 
しかしそこには、重大な誤魔化しがあるのだ。
戦わない日本は、戦えない日本になった。
戦わない日本は、戦争の責任をとらない日本になった。
戦わない日本は、戦争と戦わない日本になった。
この事実から、誰もが目をそらし、知らないふりをしている。
 
それとこれとは別問題だろう と言う方にはお聞きしたい。
憲法に1条と9条が共存しているわけを。
護憲派の皆さんは「1条はちょっとモゴモゴ」と口を濁しながら、「9条最高!」と声を上げるが、そのモゴモゴは何なのか、はっきりさせてもらいたい。
 
1条と9条が共存している憲法など、学生時代に障がい者の同級生を虐待し、それを面白おかしくメディアで語っていた外道が、「ボクちゃん反省したので平和の祭典やっちゃいます、テヘ!」と言ってるようなもんだ。
これまで護憲派の皆さんに忖度してあまり口にしなかったけれども、私は日本国憲法を見ると胸くそが悪くなる。
 
日本を平穏に武装解除したいマッカーサーと、天皇制を護持したい幣原喜重郎のあうんの呼吸でできたのが日本国憲法だということについては、細部はともかく大枠はほぼ定説になっている。
 
もちろん、その背景に侵略された国の怒りはもちろん、多くの日本人の反省もあったことは確かだ。
しかし一方で、マッカーサーをして
「天皇を起訴すれば、間違いなく日本人の間に激しい動揺を起こすであろうし、その反響は計り知れないものがある。まず占領軍を大幅に増大することが絶対に必要となってくる。それは最小限10万の軍隊が必要となろうし、その軍隊を無期限に駐屯させなければならないような事態も十分ありうる」(上記記事より引用)
と言わしめるほどの、国体護持=戦争の反省などしていない世論があったということだ。
 
つまり日本国憲法は、戦争をしない非戦の誓いだけから生まれたのではなく、戦争を反省しない非省の意思も込められているのである。
そのことから目を背け、「憲法バンザイ 大好き!」と言っている時点で、すでに戦争との戦いを放棄しているのだ。
 
自らの手で、自らの戦争犯罪を裁くことが出来ず、憲法をその身代わりにした日本は、戦争と戦うことを放棄したばかりか、主権そのものを放棄してしまった。
数人のA級戦犯に責任をおしつけ、昭和天皇を筆頭に膨大な戦争犯罪、戦争責任を不問にしてもらうことと引き替えに、自らのことを自ら決める主権を放棄したのだ。
その象徴が在日米軍である。
敗戦直後にマッカーサーが「天皇を起訴すれば10万の軍隊を無期限に駐屯」することになると言っていたが、何のことはない天皇が存続し76年経った今でも、4万の軍隊が事実上無制限の権限をもって無期限に駐留している。そして、そのことにごく少数の人以外は違和感すら感じていない。
 
安倍晋三が悪行の限りを尽くしても、菅義偉がいかに無能無策を続けても、利権にまみれたオリンピックのためにコロナ激増で医療崩壊を招いても、温和しくお行儀良く言うことを聞く「戦わない日本」の姿は、戦争犯罪を自ら裁くことをせず、その代わりに憲法というまやかしをもらって喜んできたことの帰結だ。
原発が目の前で爆発しても、ほんの数ヶ月で忘れてしまう「戦わない日本」は、原爆を落とされた被害者が「過ちは繰り返しませぬ」と言ってしまう日本の延長線にある。

NETFLIXで、映画とドラマをみた。
映画は「タクシー運転手」。ドラマは「ミスター・サンシャイン」。
いずれも韓国の制作で、前者は1980年の光州事件(蜂起)を、後者は19世紀末から20世紀初頭の抗日義兵がテーマとなっている。

とくに後者についてはネトウヨが反日だと言って叩きまくっているが、抗日義兵の話なのだから反日なのは当たり前だ。バカじゃないか、と思いつつ、没入度200%で見入ってしまった。
光州蜂起については、2007年に作られた「光州5.18」のほうがよりリアルに伝わってきたように記憶するけれども、この作品も普通のオッチャンの目を通して描くことで、心に響く映画になっている。

そもそも朝鮮半島は大国の中国に常に圧迫されながら、なんとか独立を保ってきた歴史がある。中国依存派と独立派の対立は、歴史物語のメインテーマと言ってもいいのかもしれない。
19世紀末、そこに割って入ったのが日本だ。1880年代から干渉を強め、1894年の日清戦争から日本は李氏朝鮮(大韓帝国)を事実上の支配下に置き、王妃を暗殺し、朝鮮軍を解体し、ついに1910年には国をまるごと潰して併合してしまう。いわゆる日韓併合である。

この日本の傍若無人の行いに対して、朝鮮各地で義兵が決起する。あるときは散発的に、あるときは大挙して戦い、いずれも勝利はしなかったけれども、その歴史は世代を超えて受け継がれていく。
1919年の三・一運動から戦時中の抗日独立運動、1960年の四月革命、1980年光州蜂起、1987年民主化闘争と続き、やっと植民地と軍事独裁からの解放を勝ち取った。
義兵の戦いや三・一運動は日本軍に鎮圧され、独立運動は李承晩と金日成という独裁を生み出し、四月革命は朴正煕のクーデターに倒れ、光州蜂起は全斗煥のクーデターで新たな独裁に終わってしまった。それでも諦めずに戦いを受け継いだ結果だ。

今の韓国の政体がすばらしいということではなく、日本人が戦争責任をとらず、主権を放棄したかわりに棚ぼたで手にした形ばかりの「民主主義」を獲得するために、韓国ではこれだけの戦いを経てきたということを言いたいのだ。
そして、どちらかと言えばこれが世界史の「普通」なのである。

憲法1条と同じように、護憲派やリベラル諸氏が口を濁すのが「独立」だ。
「対米従属はアカン」とか「日米安保粉砕」とかは言うのに、なぜか「日本独立」になると、それはモゴモゴといたって歯切れが悪い。

独立について書き始めると長いので、今日は簡潔に書くけれども、要するに「日本独立」は極右のスローガンだと思っているのだろう。
しかし、実質植民地にされていることは、政治に関わっている人たちは、とくに安保粉砕などと口にする人は、皆よ~く知っている。だったら、独立闘争しかないではないか。
植民地に内実のある民主主義など成立しっこない。独立して、自分たちのことは自分たちで決める、と国民が腹をくくってはじめて、民主主義は機能する。
なんとなく極右に間違われるから なんていう情けない理由で、本質から目をそらせてはいけない。

私が、自由党を支援したのも、いろいろ言いながらもれいわ新選組の近くでウロウロしているのも、一番大きな理由はじつはここにある。
小沢一郎さんの言うところの「自立と共生」は、私の解釈では「独立と民主主義」だ。
「戦わない日本」を手に入れるために、主権を放棄して戦争とも「戦わない日本」になってしまった戦後日本の姿を、ラディカルに揺さぶり目を覚ます可能性が、まだきっとあると信じたい。

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