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「左翼文学」と「右翼文学」

ただの思い付きだが、「左翼文学」はあっても「右翼文学」はない、と言うか希少である、というのは何を示しているのだろうか。もちろん、文学そのものから政治性を排除した作品のほうがはるかに多いが、第二次大戦後の世界の文学潮流は左翼文学が席巻したと言えるのではないか。
まあ、左翼文学というのの定義は曖昧だろうし、それ以前に「文学」という言い方もかなり抵抗を人に与えるとは思う。しかし、「右翼文学」はほとんど存在しない、というのは面白い事実ではないだろうか。三島由紀夫は幾つかそれらしいものを書いてはいるだろうが、彼以外には思いつかない。それは、「右翼とは何か」という問題を考えるヒントになるかもしれない。
右翼が「保守主義」と近しいと言っても、たとえば古典に題材を取れば右翼というわけでもない。芥川龍之介は初期に古典を題材にした作品をいくつも書いたが、まったく右翼的ではない。
では、左翼はなぜ文学と親和性が高いのか、と言えば、それは明らかに「政治や体制への不満」は文学化・作品化しやすいからだろう。もちろん、「現在の体制」だけでなく、「世界が進みつつある方向への懸念」もSF的な文学となる。オーウェルの「1984年」などがそれだ。
つまり、右翼は現在の社会や現在の政治や伝統を肯定しており(あるいは不満を特に持たず)、左翼のように文学と政治を結び付ける(文学を社会改革の道具とする)ことを好まないのではないか。三島由紀夫も「政治思想」としては他者に理解不能な文章しか書けなかった、というのは前に私が書いた文章で明白だろう。
まあ、右翼というのは要するに「反左翼」として発生したもので、その心情を単純化すれば「社会全体の根底的改革は有害無益だ」となるのではないか。そんなのは当たり前であり、現在の文化というのは過去を土台としており、その土台を変えれば、ビルの一階部分を破壊するようなもので、ビル全体が大破するに決まっている。どんな社会も細部は欠点があるが、それを修繕するのが政治であって、社会全体の体制の破壊は利益と被害とどちらが大きいか分かったものではない。おそらく「革命」の結果は新しい利益集団が生まれ、新しい支配者が生まれるだけだろう。
ちなみに、オーウェルは「社会主義者」だったが「共産主義」には断固として否定的だったようだ。その点では私とまったく同じである。

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