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政府が憲法を本当に守れば、すべての社会問題は解決する

「晴耕雨読」から転載。
私自身は、料理など、そこにある材料から自然に決まるものだ、という主義(もちろん、プロの料理は話が別)だからレシピなど興味は無いが、日本国憲法を最高級のレシピ本にたとえたのは理が通っている。で、料理をする人間(政治家・官僚)が、そのレシピ本を無視して勝手に不味い料理を作ってきたのが、日本の戦後政治であったわけだ。
とは言っても、戦後かなり長い期間にわたって、憲法はそれなりに守られてきた。憲法無視の政治が目立つようになってきたのは、中曽根政権のころからだろうか。サッチャー、レーガンと同じ頃であるから、これは世界支配層がその頃から新自由主義の姿勢を明確に打ち出したということなのだろう。そして、アメリカでは9.11を境にしてはっきりと人民奴隷化政策が打ち出された。日本では小泉政権がそれと歩調を揃えている。どちらの国でも、民主主義の否定、人権の否定、そして憲法の無視が行われてきたわけである。
ここでもう一度、日本国憲法の価値について考えることは有意義だろう。「日本国憲法(第九条)をノーベル平和賞に」という運動も、(ノーベル賞自体のいかがわしさは別問題として)日本国憲法の価値を見直させる上では意味のあることだと思う。


(以下引用)

2014/4/30

「日本国憲法は最高級のレシピ本! 自民党の草案はジャンクフードのゴミレシピの羅列:アーサー・ビナード氏」  憲法・軍備・安全保障
watanabe氏のツイートより。

日本国憲法は最高級のレシピ本! 内橋克人の憲法対談 世界9月号

アーサー・ビナード(詩人):

日本国憲法は古いどころか新品、というか、まだ未使用・・・。

今まで、『正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し』本気で取り組んだ内閣はあっただろうか。

古くて手垢がついたどころか憲法9条はまだ新品同然だ。

これ(日本国憲法)は世界的に見ても超一流の憲法です。




それに比べると今の日本内閣は三流。

一流のものを三流に合わせようとしているのです。

日本の多くの市民は、いまの政治・経済状況を、憲法とちゃんと結びつけて、日常的に憲法という次元で考えることをしてないんですね。

少しでも結びついていれば、自民党案を読んでみて「バカにしやがって! こんなの憲法じゃない!」と、憤慨か失笑以外の反応はありえないはず。

でも、本物の憲法が何なのかを一般の生活者はあまり理解していないようですし、憲法を使った経験もないんです。

たとえるなら憲法はレシビ本の一種。

社会という料理、政治、経済という料理をつくるための基本的レシピが書いてある。

そして、日本国憲法は世界的にみて、最高級のレシピ本。

どの部分を取り上げても、まともな料理として社会と経済をつくろうとする人の味方ですね。

滋養豊富な社会をつくるためにはこうするといいよ、また、こんなことはやらないほうがいいよというアドバイスと、料理を台無しにして食い荒らそうとする勢力に対していろいろな歯止めもかけています。

ただ、何かをつくらないとレシピ本の価値はわからない。

料理を一度もやったことがなくて、生まれた時からコンビニ弁当とマックしか食ったことのない人に、このレシピ本、すごくいいよとお勧めしても、あっ、そう。と言われるだけ。

自民党の草案はジャンクフードのゴミレシピの羅列。

社会の栄養の仕組みがわかっていれば、読んで吐き気がする。

ところが、毎日ファストフードを食わされている人にどうやったら本物の和食のよさを伝えられるか、それが課題なんです。

思えば日本国憲法は未使用の新品で、悲しい意味で、とてもきれいというか、ずっと飾ってある感じがするんですよね。

アメリカ合衆国憲法はとっくに、1947年に生き血を抜かれて、岩手県の平泉に眠るカサカサのミイラと同じ状態で飾ってあるだけだから、憲法が米国議会で議論の中心になるなんて、戦後のアメリカで生まれ育った者にはなかなか想像がつかない。

それなのに(湾岸戦争時)日本の憲法は注目され、議論され、自衛隊派兵を阻止する歯止めの役割を果たした。

ぼくはびっくりして、アメリカ合衆国憲法とは何かを、日本国憲法から教わったわけだ。

憲法が本当に歯止めになれるんだったら、ワシントン、ジェファーソン、アダムス、フランクリンたちがつづった母国のそれも、マンハッタン計画を阻止するはずだった。

なぜならマンハッタン計画は全部違憲だから。

そういうことが、日本国憲法を通して少しずつ見えてきました。

日本国憲法は、ぼくにとってはアメリカを見抜くレンズなんです。

そして、アメリカ合衆国憲法と日本国憲法を合わせて読んでみると、そこに歴史の流れが見える。

その意味でもずいぶんお世話になっている。

日本国憲法が強力な歯止めになり得るところは、とりわけ九条と、それから生存権ですね。

この二点に関しては、ワシントンとジェファーソンとアダムスとフランクリンには書けなかった。

基本的人権のことを彼らも考えたけれども、特権階級の白人男性だけだし、やはり時代の限界が憲法にあらわれていると思います。

のちに、奴隷制の廃止、女性の参政権といった事項は、修正事項を足して成立させたわけです。

日本国憲法では、平等と生存権が最初から背骨になって、九条もばっちり備わっています。

アメリカ憲法は実によく出来ているけれど、18世紀の政治では、まだPR業界が存在しないから、政治家は政治家の言葉で喋っていました。

その時代と現代の言論空間は決定的に異なる。

ジェファーソンは言葉の達人だったが、20世紀、21世紀の大手広告代理店の言葉のまやかし技術は見通せなかった。

日本国憲法は、そういう巧妙な手口にも立ち向かうものとして、誤魔化しにくいように、九条で「武力による威嚇」まで禁じているでしょう。

威嚇とは戦争なんだよ、すなわちそれは犯罪だ、と。

これは大事なことです。

威嚇は戦争を商売としてでっちあげる際に使う広告の技術でもありますから。

日本国憲法のすごさがここだなと、比較しながら思った次第です。


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