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怪物化する国家権力

長い記事の最後のページだけ転載する。その前の部分も無意味ではないが、時間の余裕のある人が読めばいい。前の部分に書かれているのは、今村復興相辞任問題に対する、まともな意見である。つまり、マスコミが政権の末端の人間の「失言」を大騒ぎし、その大騒ぎの「成果」としての政権のトカゲのしっぽ切りだけで大喜びしていることの下らなさを指摘しているのである。実際、稲田や麻生のような「安倍政権中心部分」はどんな失言をしようが不祥事を起こそうが無事である。
下の記事では言葉をぼやかしているが、日本の「国家主権」つまり、政治を決定する主体が「日本会議」を中心とするキチガイたちにあるのは明らかである。不正選挙があるかぎり、国民が主権者となることはない。まさしく「主権簒奪」が第二次安倍政権で行われたのである。
そうして奪い取った主権を強固にするための法律が「共謀罪」であるのも明らかだろう。日本でテロが起こるとしたら、イスラムとも中国とも北朝鮮とも無関係の、安倍政権への「暴力革命」しかないからである。
当たり前の話だ。不正選挙が存在し、選挙による政権交代が不可能であるなら、暴力しか政権打倒の手段はあるはずがないではないか。


(以下引用)

復興相辞任のウラにある「本当の問題」~日本の危機に気づいているか 強まりつつある国家権力の恐怖

現代ビジネス 5/4(木) 14:01配信

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無茶な政策を無理矢理突き進めている

 だが、さらに今回感じる問題は次のことだ。

 第二に、すでに今回の復興政策は6年をかけて幾層にも積み上げられてしまっており、もはやこの帰還政策から引き返せない時点にまできてしまっている(ただし筆者は工夫次第でまだ引き返せると思うのではあるが)。

 理想的なコミュニケーション状況ができたとしても、それは政策と現実の矛盾を顕わにするだけである。政府がその齟齬に向き合おうとすれば、政策の根幹から転換しなくてはならない。

 今村氏が復興大臣に就任したのは平成28年8月。その時にはすでに政府の政策は帰還政策として確定していた。

 そして今の復興庁には何の権限もなく、政府が決めたスキームを淡々とやっていくマシーンにすぎないのだから、大臣とはいってもとくに自分の思いで何かを変更できる立場にはなかったと思う。

 とはいえ政策は現実と矛盾しているから、事態が進めれば進めるほど次々と現場との軋轢は大きくなってくる。

 そして大臣は大臣だから、当然、その政策矛盾が引き起こす現実の問題についてはその責任追及の矛先が向けられていく。そうした責任追及をノラリクラリかわせばよいものを、今回は真っ向から真面目に挑んでしまった、そんなふうに見える。

 はじめから実態にあわない無茶な政策を無理矢理突き進めているのだ。あとから来た大臣が矛盾なく答えられるはずがない。

 ある意味ではこんな無茶苦茶な状況の矢面に立たされて、しかもしっかりとした権限――なかでもこの復興政策の方針転換を図る権限――も与えられず、ただ失敗する政策の責任だけを追及されるというのでは、復興大臣を任される人間は気の毒だという気もする。


この矛盾を強要している主権の力

 だとすると、最大の問題は次のことになる。

 この矛盾した政策を強要し、推し進めていく力とは一体何なのか、ということである。これが最後、三つ目に論じたい問題である。

 この力が何なのか、筆者はいまその具体的な実像がよく分からないでいる。「一強」の力を振りかざす安倍政権なのか、それを支持する国民なのか、その両方なのか。いやまたその背後にはもっと別の何かがいるのか。

 いずれにしてもこうは言える。我が国には今、この東日本大震災・福島第一原発事故の復興に典型的に見られるように、有無を言わせず無理な政策をゴリ押しする力が働いている。

 それは「こうだ」と決まれば、異論を許さず、遮二無二それ一本で突き進んでいこうとする、非常に強い主権の力だ。

 いま国家主権の力が異様なまでにふくれあがりつつある。

 これは大変、危険な力だ。

 国家主権は、たしかにこの国を守ろうとする力ではある。だがこの力は、必ずしも国民を守ろうとする力ではない。それどころか、国民を犠牲にしても国家を守ろうとする力である。

 そしてそれは、この力を実際に現場で突き進める政治家をも守ろうとするものではなく、国家主権が進もうとする道を踏み外すような作動があれば、その者の意志がたとえ主権に忠実であろうともその者を容易に処分し、政治プロセスからはじき出そうとする、そんな力だ。

 そして、その政治家が排除されたあとには、この排斥の事実がさらに人々を主権の力におもねる方へと導き、もはや国民も政治家も、自ら望むものとは違う方向へと国家を運営していかざるを得なくなっていくのではないか。

 今回のケースは、そういう国家主権の非常に強い――そしてしばしばコントロール不能な――力の発動を垣間見せているもののような気がしてならない。

 この仮説は恐い。しかしそれは沖縄でも顕著に表れつつあり、それどころか福島や沖縄を超えて、各地に色んな形で現れ始めている。筆者はそう感じる。

 例えば大阪では、あの財務省が主権に近い者に忖度して、某学校法人と奇態な契約を交わして問題となっている。これも主権をめぐる強い力に従っておけば間違いないだろうという雰囲気がそうさせたものではないか。

 さらに恐いのは、その裏側でいま組織犯罪処罰法改正法案(いわゆる共謀罪関連法案)が審議されていることだ。我々国民や政治家、そして官僚が毅然とした態度で主体的に職務を全うし、公に奉仕している状況であれば、共謀罪関連法などそれほど怖くはないのだ。

 だがみなが排除・排斥を恐れ、人を見れば足を引っ張り、権力を見れば忖度をはかってしまわざるを得なくなっている状況で、共謀罪など導入すれば一体何が起きるか。

 筆者は今、こうして書きながら、いつ自分にその排斥が襲いかかるのか不安でならなくなっている。

 そしてその不安は同じくこの国の国民がみな共有しているものではないか。その排除への不安がさらに排除をエスカレートさせていく――私たちはまさに排除の悪循環の入り口に立っているように思う。

 こうした排除・排斥(あるいはその反面である権力へのへつらいや忖度)で目の前の状況を乗り切ろうとする短絡的な思考から脱し、いかに現実に向き合い、お互いを認め合って、しっかり話をし、正しい問題解決の道へと導く適切な政策形成に努力する状況に立ち帰ることができるのか。

 我々がいま考えなければならない真の課題はこれである。

 資質の低い政治家を世論が官邸から追い出したなどと喜んでいる前に(そして筆者は、これまで同じように排斥された政治家がみな資質の低い人だったとは思えない)、私たちが本当に考えるべきこと、なすべきことはもっと別にあるはずだ。

 このことを、この事件を分析する中から考え、広く訴えてみたかったのである。

 5月3日の憲法記念日、その憲法を愚弄するかように首相はその改正の意義を高らかにうたった。

 筆者はどちらかというと改憲必要論者である。だが、こういうやり方、いい方で進めるのなら、改憲はあるべきではないと思う。

 憲法改正は誰かの思いでやるのではなく、国民の総意と納得で進めたい。でなければそれは主権による押しつけになろう。そして憲法の機能とは本来その逆のもの――主権を抑制するべきもの――のはずなのである。



山下 祐介



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