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定義の曖昧な言葉が拡散することの危険性

「徽宗皇帝のブログ」に書いた私自身の文章を起点に、もう少し論じてみる。まず、今日の朝五時頃、朝飯を食いながら私が見ていたアニメ「オーバーロード」は非常に面白い作品だが、原作者の思想は「弱さは悪」という思想であるという。さて、この思想は実は「悪という言葉の二重性」の問題を含んでいる。論理としての悪と倫理としての悪の二重性だ。
論理としての悪とは「マイナス価値」あるいは「誤り」と定義できるだろう。前者の意味は、つまり、利益より害(損)が多いということだ。その意味では「弱さは悪」ということは論理的には「正しい」ことになる。これは「ゲーム的思考」とも言える。ゲーム(スポーツや戦争を含む)においては弱さは明らかに悪(マイナス価値)である。だから、「オーバーロード」の中では、善人であっても弱者は(強者の援助が無いかぎり)徹底的に敗北する。そのリアリズムがこの作品の高い評価となるとともに、「作者は性格が悪い」という一部の人間の評価の原因にもなっているかと思う。
こうした「弱さは悪」という思想は、若くて力に溢れた人々の同意を得やすい。たとえば、福祉制度の対象となる弱者がそういう境遇になったのは自己責任であり、社会がそういう負担をすること自体が悪(誤り)である、という思想であり、これはアメリカのような資本主義社会では同感されやすい。それが極論になると、「労働者としての価値が無い人間は殺すべきである」という思想になる。

さて、ここで、議論をする場合の方法論としての、或る問題点を考えてみる。
それは「言葉の定義が無いままに議論をする」ことの危険性だ。あるいは、最近多いのは、言葉の定義があっても、議論自体はその定義と無関係に、「言葉の意味が不明のままに」行われるという事態である。
私が前に問題とした「通俗道徳批判」などがその代表例になるかと思う。
「通俗道徳」とは何か。それは、明治以降の「立身出世主義」や、日本古来の「上に弱く、奴隷的な従順性」を指すかと思われるが、定義無しにこの言葉を聞いた人間がどう考えるかというと、まず「通俗」が批判的な意味で使われているようだ、ということは感じるだろう。しかし、その「通俗性」の何が悪いのかまでは判断不能なので、結局「道徳」が批判されているのだと思うのではないか。そして、道徳とは「禁止の体系」であるから、これは悪人的性向の強い人間には自分を応援する思想である、と感じるだろう。
では、そうした思想の人間はどういう行動を取るかと言えば、それこそ「手段はどうであれ、勝った者が正義であり、負けた者が悪い」という生き方になるのではないか。まさしく、それは現代の、「ゲームで育った人間」が行き着く場所だろう。
つまり、昔の「勧善懲悪」の大衆小説はつまらないから、悪人が勝利する話をどんどん書け、ということになる。で、子供はそれを「人生の教科書」として育つわけである。
まあ、こんなところが「通俗道徳批判」の起こす影響ではないか、と私は思う。
一応言っておけば、「通俗道徳批判」の論者が言う「通俗道徳」は道徳でも何でもなく、ただの「処世術」にすぎない。「立身出世」のための下等な人生訓である。それを「通俗道徳」と呼ぶことの悪影響を私は書いているわけで、広く言えば「言葉の定義」が曖昧なままに或る種の言葉や議論を拡散することの危険性を言っているのである。


(以下自己引用)
政治的判断での「絶対主義思想」と「比較優位思想」
「混沌堂主人雑記(旧題)」所載の記事だが、元記事は確認していない。
ここには大きな「思考法の危険性」があるかと思うので、考察してみる。
先に注意したいのは、「「統一教会=トランプ派」のカテゴリー設定を提唱する」という提唱自体の持つ危険性である。
これはカテゴリー設定という気取ったものではなく、「レッテル貼り」になる危険性が大きいということだ。なぜなら、この提唱は「トランプ派はすべて統一教会だ」ということを含意しているからだ。それは同時に「民主党(あるいは共和党内の反トランプ派)なら統一教会ではない」ということも含意している。こういう思考法がいかに危険なものかは誰でも分かるだろう。
私は人間としてのトランプは好きでもないし、その政治姿勢や政策のすべてを許容する者ではまったくない。だが、現在のアメリカ政治と世界政治を悪化させているのは主に民主党であり、その政治家たちである。アメリカにおける反トランプの潮流を作ってきたのはユダ金マスコミとその手下(ハリウッドの中心層含む)たちなのである。となれば、最初にDSとの戦いを宣言したトランプの勇気と決断はどれほど称えてもいいと私は思う。もちろん、それは「自分が大統領になるための戦略」にすぎなかっただろうが、それでも歴史的偉業だったのである。
はっきり言って、「かたせ2号」とやらは馬鹿か、でなければDSの工作員だろう。副島を持ち上げることで、学問道場の中での立ち位置を有利にしながら、自分のアジテーション活動をする危険な人物だと思う。それに騙される者も多いかもしれない。

私は、政治家に「聖人性」を求めること、つまり「完全無欠であること」を求めること自体が非常に危険な思想だと思う。それこそが、相手の些細なスキャンダルを利用して政敵を葬るDS支配下政治家とユダ金マスコミの好餌であり、その手法は愚衆支配の基本なのである。
要点を繰り返せば、「大きすぎる括りの命題や絶対主義思想は、味噌も糞も同じにするから気をつけろ」ということだ。
政治家にカネが必要なのは当然だし、トランプが統一教会からカネを貰っているのも自然なことだ。どんな相手であれ、身元を隠してカネを差し出せば、受け取らない政治家のほうが稀だろう。そして「統一教会=勝共連合」なのだから、共産主義嫌いの米国政治家は基本的に「反共思想」で一致する団体からの献金に懐が甘くなるのも当然だろう。カネを貰った感謝のために統一教会の大会にお祝いメッセージを送ったのも、その甘い懐のせいだろう。もともとトランプはカネのために大統領になろうとした冒険者だと私は思っている。だが、それでも比較で言えば、民主党の中心的政治家たちよりはるかにマシなのである。名づけるなら「政治的比較優位思想」だろうか。念のために言えば、リカードの「経済的比較優位思想」はグローバリズムの原点であり、それには私は反対の立場である。
政治における絶対主義の例は、たとえばフランス革命での大量殺人だろうか。「奴は敵だ。敵は殺せ」(埴谷雄高)である。

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