長く躊躇し、長く沈黙し、そのまま放置することも考えた。
けれども
嫌いな楽屋落ちかも知らないが、ニュースステーション、そして報道ステーションの「かって」スタッフであった自分としてはなんらかのことを言うべきであろう。都合の悪いこともあるが、どうせ死ぬしか選択肢のない老人、文句があるなら告訴でもなんでもしやがれ!!と決断してこのブログを書いている。
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まず
報道ステーションの生放送で古館くんと古賀某がすれ違ったようだ。この「事故?」のことで別にいうことはないが、すでにテレビの時代は終焉に向かっていることがいっそう確信的になったということはいえるだろう。
古館くんは「いちおう」プロでありテレビをよく知っている。知っているだけに報道のキャスターを演じることの無理やストレスは相当なものだろうと思われる。かれがこの番組をやり始めたた頃に夜中の六本木の業界人しか知らないであろうちいさなバーで「ヤケ酒?」を飲んでいる彼に出っくわしたこともあるが、彼の孤独と悩みの表情は番組打ち合わせの時の顔とは違っていて想像するに余りあるとおもわせた。
それでも
なお、テレビの本質(エンタメ)をぎりぎり保ちながらなんとか危うい均衡で彼なりの「発言権」を守ってきた。その彼を支えたのはなんといってもそこそこの、、、そう、その武器は視聴率であった。視聴率という武器は圧倒的に強いのだ。
たとえ
それが電通のねつ造であろうとなかろうと、その数字によって明日のスーパーマーケットのエンドの商品陳列が入れ替わるのだから。つまり全日の視聴率は商品のCMによる販売数の増加の目安になっているのである。
また
民放では基本的にそれによって社員もタレントも飯を喰っているのである。
もとより
東電もテレビ局も独占禁止をすり抜けてけて自由な競争下にはないのだから、政府や行政に阿り気を遣うのは仕方がない。仕方がないけれどNHKではないのだから、視聴率が減ったら飯の種がなくなるのはそれどころではないということにもなる。
それで
すこし危ういが、入念な打ち合わせのをして放送に臨めばそれなりの「成果」も上がるし、一方でスタッフや出演者自分だけの「ひそかな正義感」も満足させられる。このタイトなロープ「虚実皮膜」を渡ってきた古館くんはそれなりに偉いと思わないでもない。ただ個人的には大嫌いだけけれど、、、。
僕だって
もともと反権力でトップが顔をしかめることばかりやっていたが、そこそこの視聴率(つまりシノギ)を稼いでいたのでいくらかでもディレクターをやってこれたのだ。
しかし
今回の報道ステーションの騒動では、一貫して古賀某を推していたプロデューサの松原文枝という子(僕は直接知らない)は、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会から「報道ステーションにおける川内原発の報道は客観性と正確性を欠き、放送倫理に違反している」と指摘され、本人も減給処分を受けたし、すでに人事異動で飛ばされることになっていた。
また
当然社長の早川洋(お互い気に喰わん奴だと感じている)もその他テレビ朝日上層部も苦々しく思いつつ古館の「寸止めテクニック」の期待していやいやこの三月までは件の松原一家の古賀某を使っていたのであろう。
つまり
個人的な正義感や義務感はしばしば暴走することは早川洋だって承知の上であるとおもわれる。早川本人ですら「その昔」若いときは労働組合活動で過激であったこともあるが「スト破り」をやったためにその絶妙なバランス感覚で社長にまで上り詰めたのだから、どこかには反権力の燃えカスが残っている筈である。
それゆえ
彼は御身大切の保守ではあるが「なべつね」にまで転向しきれず、彼にはなりきれないのであろう。
それゆえ
ちょっと危ない松原文枝を首にしないでなお古賀某や恵村順一郎をブツブツいいながらものこしていたのかも知れない。
ただ
彼らとも若すぎて僕は面識がなく、なんともいえないが、「なんとなく」好きにはなれない。なんとならば「報道ステーション」のもっている鼻持ちならない「えせ」ヒューマニズムがむずがゆくて仕方がないのだ。
ただ今回の件で、
古賀某は確かに過激ではあったが、作戦として上手く行ったとは思えない。通産官僚であった彼にはわかっている筈だが、せっかく「発言権」があるのだからもうすこし上手に使わないと元も子もなくなってしまいがちだからである。
たとえば
僕のような根っからの風来坊とは違い田原総一朗さんや鳥越俊太郎さんは結局は排除されてはいるけれど、「掟」は知っていた。この無言の「掟」と説明するのは難しいが、少なくとも視聴者=大衆を味方に付けないで「独善」でありすぎると、たとえそれが絶対的正義であろうと、ただちに、分厚い「保守=既得権益」に潰されてしまうのである。
このことを痛切に感じている古館くんはそうではない、利口だ。だけど嫌いである。それは同じスタッフルームにいてもまったく「知性」とか「矜持」らしいものが感じられなかったせいであろう。
その点
直接会ったことはないが古賀茂明は最後っ屁を深夜岩上安身とぶちまけることを前提で、言いたいことを「すべて」いったのであろが「掟」を破ると言いたいことすらも十分に言うことが出来ない結果になるのだ。その証拠に冒頭のフリップはひっこめさせられるのが早すぎて読めなかったのである。
そこで
僕は先日は出演していなかったし、ネットでの評判はいまいちだが、報道ステーションで慎重な物言いの政治部長・藤岡くんを評価している。個人的にも僕の田舎の高校の後輩でもあるし彼が新卒でニュースステーションに入ったきたときから知っておるので若干贔屓目であることは否めないが、実は彼は硬骨漢でありながら一貫して「社内保守」を守っているように思われる。思われるけれど彼なりの朴訥な正義感は認めている。
もとろん
掟破り、内部告発は重要である僕自身がその類型であると自負しているし、生まれつきなんにでも反発する性分だ。
にもかからわず
すべてが「掟」破りだと何も生まれない。椋梨藤太がいたから「こそ」長州藩がアウフヘーベンできたのだ「とも」思はれる。
とまれ
テレビとは一体何なのか「公共」の電波とはいったいなんのか、、、、という問題提起に古賀茂明は一石を投じたのもまた確かなことである。
(引用2)
小田嶋隆 @tako_ashi ·
私は見てません。「ナマなんだから勝手なことを言う人がいたって不思議ではないよね」というお話をしています。 RT @fa9a81ff4eb84a4 @tako_ashi あんなんが頻発するテレビを見たい人がいるのか
想定外の問答や突発的な放送事故を防止するべく、不規則発言をしそうなゲストや、スタジオの空気を読めないタレントを排除していくと、ひたすらに無難なシャンシャン総会みたいな番組ができあがって、そういう一センチもはみ出さない職人芸みたいなのが、現場では珍重されるのであろうな。
たしかに、言われてみればだけど、「生放送の中でナマの感情が露呈してしまう事態を放送事故としてとらえている現場感覚」の方がむしろ異様なのかもしれない。「出演者全員が予定調和の中で機嫌良くふるまって何の軋轢も感じさせないままに終わる生放送」って、要するにお芝居だからね。