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「自己実現」という幻の人参

「シロクマの屑籠」という、或る精神科医のブログの記事の一部だが文中のBOTの意味は知らない。文脈だとロボットと同じような感じに思えるが、それならロボットと書くだろう。ツィッターだと有名人の名言集をbotとしていたような記憶があるが、よく分からないし、それとはこの記事での用法とは違うようだ。
この記事を転載したのは、私も「自己実現」という言葉のうさん臭さを長い間感じていたからである。この筆者はそれを資本主義における「馬(労働者)を走らせる幻の人参」としていて、納得したというか、やっと腑に落ちた。まあ、電通的流行語としてはかなり長期的に機能しているパワーワードだろう。
世界中の潜在的犯罪者やサイコパスが「自己実現」したら世界はどうなるのかねwww

(追記)botとはアプリまで含めた「ロボット」的なもの、と言えばいいようだ。昔なら「組織の歯車」と言ったところだが、今は歯車の現物を見たことのない子供や若者が多いのではないかww


「BOT(ボット)」とは、「ロボット(ROBOT)」から生まれた言葉で、一定のタスクや処理を自動化するためのアプリケーションやプログラムのことを指します。
 
どういうことかというと、人がやると時間がかかる単純な作業をコンピュータが代わって自動でやってくれるということです。
 
ただし、ボットは指定されたことしかできません。
そのため、人と同じように臨機応変な対応や、指定されていない作業をすることはないです。



(以下引用)

自己実現は馬を走らせる幻の人参ではないか

 
まず自己実現、という言葉の定義について。マズローは自己実現について厳密な定義づけはしていないが、おおよそ、以下のような理解で良いのではないかと思われる。
 


 自己実現した人の定義はいぜんとして曖昧であったが、マズローは大まかに次のように記述した。
「自己実現とは、才能・能力・可能性の使用と開発である。そのような人々は、自分の資質を十分に発揮し、なしうる最大限のことをしているように思われる」。
 消極的な基準としては、心理的問題・神経症あるいは精神病への傾向をもたないことがあげられた。自己実現した人は、人類の中の最良の見本、マズローが後に「成長している先端」と名付けられるようになったものの典型である。
『マズローの心理学』より


 
この成長している先端とは、たとえば研究やスポーツなどといったなんらかの分野で先端的技能や先端的業績に辿りつき、さらなる高みを目指している人がそれにあたると思われる。まず、これが難しく、達成したとしても人の一生のなかで先端に居続けること自体が難しい。稀にそうした人生もあるかもしれないが、おおよそ、凡夫が目指せる境地ではない。各方面の秀才ですら、たいていは一時的にしか達成できない状態だろう。
 
"自分の資質を十分に発揮し、なしうる最大限のことをしているように思われる"、というフレーズも厄介だ。この条件を満たすためには、他人と比較して嫉妬するようなキョロキョロしたところがあってはいけない。本当は自分の資質を十分に発揮し、なしうる最大限のこととしてしがないサラリーマンをしている人でも、他人と比較して嫉妬してしまい、自分はもっと伸びたのではないか、などと羨んでいてはこの条件には該当しなくなってしまう。*1
 
まあそれでも一時的にしても自己実現にたどり着いたとしよう。
で、置き換え可能なBOT感がなくなったと本当に言えるのだろうか?
 
自己実現について考えた時、私は、マズローの心理学が産業界に受け入れられ、例の、マズローの欲求段階説ピラミッドが今日でもまだ引用されていることに思わずにいられない。欲求段階説のピラミッドが古い古いと誹りを受けてもなお、繰り返し引用されているのは、産業界との親和性が高いこと、労働者や実業家が生産効率を向上させていくのに都合の良い言説だったからでもある。ドラッカーなどもそうだが、産業界がたびたび引っ張ってくる啓発的な言説は、どれほど人間の可能性を謳っているようにみえても、それは資本主義に適合する詩であり、生産性や効率性に貢献する社畜の歌である。ここでいう社畜とは、文字通り会社の家畜という意味だけでなく、社会の家畜という意味を含んでいると付言しておく。労働者は会社の家畜をとおして社会の家畜をやっているし、資本家や経営者はもっと大きな規模で社会の家畜をやっている。いずれにせよ、マズローやドラッカーのいざなう理想には、資本主義のユニバーサルタグがついている。
 
自己実現。至高体験。
しないよりはしてみたいかもしれない。だけど、それらもまた、生産性や効率性を至上命題とする資本主義の、そして現代社会の掌の上でのワンシーンに過ぎず、レアで、一過性に過ぎないものでしかない。なにより、そうした自己実現や至高体験は、ちょっと深く考えてみれば、別に自分がそうならなくっても構わないことでもあったはずなのだ。たとえば蒸気機関のワットやiPhoneのジョブズはそれぞれにたいした人だとは思うけれども、ワットやジョブズがいなくても蒸気機関やiPhoneに相当するものはやはり世の中に現れただろう。よほどの例外を除いて、偉人や有名人すら置き換え可能なBOTではなかったか。椅子取りゲームのユニットではなかったか。芸能人や研究者はどこまで唯一無二だろう。世の中には、自分自身のことを唯一無二だと思い込めている幸福な人もいる。が、その人がいないならいないで、ほんの少しだけ運の悪かった同僚やほんの少しだけ間に合わなかった後輩がその位置を占めていたはずなのだ。
 


自己実現できていない会社員って置き換え可能なbotでしかないわなぁ。むなしくなる。
無私な毎日だわな、ほんと。宇宙人が見たら、あまりの規則性に驚くと思う。人間がアリの習性に驚くように。


 
だから、かりに自己実現したとしても、そんなのは、ちょっと珍しい役割を引き受けた働きアリの匹でしかないのではないだろうか。
今日の発明発見や創作の相当広い領域は、大局的にみれば、一人で作っているというよりみんなでつくっているのであり、時代がつくっているのでもあり、自分がやらなくても誰かが似たようなものを創りだす可能性が高い、そんな何かだ。そのうえグループによる研究や創作もあるわけだから、自分、というものに拘って発明発見や創作を見つめるのは、自己愛を充たすには適していても、事実からは遠い。そうした諸々を承知のうえで、それでも何かに挑む、何かを創るという行為には喜びが、フロー体験が伴うとは言える。文脈によっては、私はそのフロー体験をありがたがってみることもあるのだけど、今日はそういう気分じゃない。脳汁が出てるだけじゃねえか。ずっと出ているわけでもなし。唯一無二の脳汁であるわけでもなし。
 
自己実現も含め、希少で、ありがたいものを夢見て、結局、目の前にぶら下げられた幻想の人参に向かってダッシュし、生産性や効率性を搾り取られて社会のネズミ車を回しているのが私たちなのだから、どこまで行っても社会の掌の上でしかない。そして社会の内部において私たちは常に群体であり、その生態は、ギトギトの個人主義者が思い込んでいるほど個人主義にそぐうものではない、と私なら思う。
 

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