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愛と正義

前に引用したブログの或る記事タイトルで、記事の内容は忘れたがタイトルが面白いので考察対象にしてみる。

(以下引用)

「愛」は「正義」の代替となるか?(読書メモ:『新版 現代政治理論』)


(引用終わり)

まず、「正義」とは何か、と言えば、「正」は論理的な正しさで、「義」は倫理的な正しさ、そして「正義」は論理的にも倫理的にも正しいということだと定義しておく。
だが、その「正義」と称するものが実にいかがわしいものであり、「自己正当化」の手段にされていることがあまりに多いというのは周知のことだろう。これは子供には「教えてはいけない」、常識ではない「常識」だ。ついでに言えば、「嘘をついてはいけない」と大人は子供に教えるが社会は嘘で成り立っている、というのも常識ではない「常識」だ。それを知らないままに社会に出てひどい目に遭う若者も多いだろう。学校というのは社会とは別のルールの世界で、子供はそこで悪い意味で純粋培養されるから社会に出て苦労するのである。
さて、本題の「愛は正義の代替となるか」だが、この一文だけでは判断不能な問いかけだろう。一般論として「愛は正義の代替になる」と断定できると思う人はあまりいないと思う。つまり、犯罪に対して罰を課したり復讐したりするのではなく、「許す」ことをこれは意味しているかと思う。それどころか、その自分に害を与えた存在である「敵」を愛することを、この命題は意味しており、そんなことができるのはキリストくらいだろう。全人類にそれができるなら、そもそもすべての悪は最初から消滅するわけだ。まあ、事故はあっても犯罪は無い社会になるだろう。
現実社会ではそれが不可能だから法があり警察があり裁判所があり刑罰があるわけだ。
もちろん、特殊な場合として愛が正義の代替になることもあるかもしれない。しかし、それはあくまで「個人的なもの」であって、社会全体にそれを要求することは不可能なはずだ。

ここで、改めて「愛とは何だ?」と考えてみる。古いジャズの歌に「愛とは何でしょう」とあったが、私の考えでは、愛の対象となるものを大事な、大切な存在と思うことである。それが最大に達すると、自分自身の生死より相手を大切に大事に思う場合もあり、それが古来、さまざまな芸術作品のテーマになってきた。ちなみに、世間で誤解されているが、自分の欲望のために相手を支配下に置き、その欲望の対象とすることは愛でなく、ただの我欲であり、性的には獣欲である。愛は対象を大切に思うことが本質だから、それを害する行為はできるはずがない。
さて、愛をそういうものと考えた場合、「愛は正義の代替になるか」という問い自体が無意味化するのではないか。最初から「土俵が違うだろう」という感じだ。たとえで言えば、レスリングや相撲で戦うべき場合に、歌を歌い出すようなものである。正義とは「闘争関係、利害関係の調節指針」であって、「お前に給料をやることはできないが、お前を愛しているから我慢してくれ」という経営者の下で働く労働者はいないだろう。まあ、要するに「愛は正義の代替にはならない」と言えるのではないか。




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