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possibility

サイモンとガーファンクルの「冬の散歩道」(原題を正しく訳すれば、「冬の幽かな翳」くらいか)の中に、次のような一節があり、自分自身の若かった頃を振り返ると、まさにそのとおりだったなあ、と思う。若くしてこの歌詞を書いたポール・サイモンは天才だ。

When I looked around my possibility , I was so hard to please,

自分自身の可能性を探す、ということは、現在が満たされていない、ということであり、当然気分は鬱屈しているわけだが、問題は、若いころに自分自身の可能性を探すという行為自体が、成功確率が著しく低い、あまり賢明でない行為ではないか、という点だ。何しろ、自分に何ができるのか、何をやりたいのかを、わずかな人生体験を基にして探さねばならないのだから。

「わたモテ」の主人公が、

「中学生の時は、武器商人とか傭兵とか、夢いっぱいだったのに……
大人になって実現可能な夢と言ったら
小説家になって芥川賞取るか
ラノベ作家になってアニメ化で儲けるくらいしかない……」

と考えるシーンがあるが、まあ、そこまでアホではなくても、中学生や高校生で、将来は漫画家になりたいとか小説家になりたいと思っている奴は多いだろう。なぜそんな妄想をするかと言えば、自分自身が漫画や小説を読んで楽しいからにすぎない。自分が読んで面白いのだから、自分はこれを深く理解できている。つまり、自分にもこうしたものが作れる素質はあるはずだ、と思うわけである。まあ、その中から実際に漫画家や小説家になれる人もいるだろうが、海岸の砂の中から宝石を見つけるくらいの確率だろう。
で、問題を最初に戻すと、「自分の可能性を探す」という課題に対して、中高生の持っている課題解決資料は、そこまでの家庭や学校での体験と授業しか無い。これでどうして社会に適応するための「正解」が導けるだろうか。
社会での生活は、家庭生活や学校生活とは別の世界である。ちょうど、水泳を習わずに、いきなり海に放り込まれるようなものだ。仮に、学校生活の中から自分の適性を見つけるにしても、体育の成績が5だからと言ってプロスポーツ選手になれるわけではないし、絵が上手いからといって画家になれるわけではない。学校の学科の成績と職業能力は別である。
だから、ほとんどの高校生は「とりあえず」大学に行くことにするわけだが、大学でもべつに社会に適応するための知識や能力が教われるわけではない。だから、「コミュニケーション能力が最強のスキル」だという社会になるわけだ。ならば、授業など受けるよりサークル活動でもしたほうがマシだろう、となる。


なお、若いころに自分の可能性を探さないで、どうして社会に出ることができるのか、という当然の疑問に対しては、ごく簡単に「自分のやりたいこと」ではなく「自分にできること」をやれ、で終わりである。「やりたいこと」など、楽で面白い仕事に決まっているし、そんな仕事は上級国民が独占しているに決まっている。そして、「できること」が自分にとって面白い仕事になる可能性はあるのである。


さらに、結婚しない若者が増えているというのも、結婚が「自分の可能性を狭める」という恐怖心や不安からのものだろうと私は見ているが、結婚によって可能性が広がる面もあるのである。「結婚は自分の時間の束縛という意味で自分の可能性を狭める」というのなら、就職以上に自分の時間を束縛するものはない。


いずれにしても、「自分の可能性を探し回る」という行為は、建設的に見えて、実は不毛で徒労な行為であることが多い、というのが私の考えだ。まあ、「可能性」が実際あるにしても、人間の能力にそれほどの違いはないし、どんな職場でも経験を積めば、誰でもそれなりに務まるだろう。要は、可能性を探す、というのが「下手な考え休むに似たり」の一種だろう、ということだ。言い換えれば、無駄に考えるより、何でもいいからやってみろ、である。もっとも、私自身は考えること自体が趣味だから、これは「可能性を探す」という問題についてのことだ。






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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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