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肉の悲しみ

穂村弘、東直子、沢田康彦の「ひとりの夜を短歌と遊ぼう」という本の中で、沢田康彦の


分離帯超えてわかったぼくたちが肉だったこと液体だったこと


という歌に対するねむねむという「猫又」同人の批評が「性の歌としても読める」というものなのだが、実際、交通事故で体が肉になり液体になって飛散する、という本来の歌意よりも、性の悲しみ、肉体の悲しみを詠んだ歌として秀逸だと思う。

「分離帯」は、男女の肉体を隔てる衣服や社会的束縛、さらには皮膚(外貌も含む)そのものであり、普段維持しているアイデンティティや人格である。それらを脱ぎ捨てたら、そこにはただ肉と液体が存在するだけ。ねむねむ嬢はそれを「美しいと感じました」と書いているが、私はむしろ悲しいと感じる。
人間がただの肉と液体に還元された状態を美しいと思うことは私にはできない。そして、それは性交という行為に関して必然的に起こるものであることが、悲しいと思う。

ヴァレリーの「肉は悲し」もそうだが、ショーペンハウエルがある本の冒頭に引用していたインドの「あはれ、リンガ(陽根)はヨーニ(陰門)に入る」という言葉を私はここから連想する。なぜリンガがヨーニに入ることが「あはれ」なのか。この「あはれ」は、まさしく「ああ」という詠嘆なのだろうが、性交の或る瞬間において人格が無意義化され、動物化される(あるいはお互いがただの「物」になる)ことを言ったものだと思う。

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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