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物語のための物語

19日の「山上問題」の話の枕で書いた「サイコパス」だが、シーズン1は虚淵玄の構想と共同脚本によるもので、虚淵の個性が出ていて面白かったが、シーズン2と3には虚淵は脚本にまったく参加していないようで、単に虚淵の作った(彼単独ではなく、割とヒットメーカーだった映画監督も協力しているようだが)世界観、世界像の上で、「サイコパス」システムを悪用した犯罪者と公安の戦いを描いたハードボイルド小説、あるいはノワール小説的なアニメになっていて、哲学性は失われていた。
一番の問題は、「物語のための物語」になっていることで、ドラマ性を作るために、主人公側(公安側)の行動が馬鹿げた失策だらけになっていたことが欠点だ。その結果、「悪の側」のほうがはるかに賢く見える。
もともとサイコパスシステム(シビュラシステム)というのが、サイコパスシステムの完全性を前提としたものであり、それがシーズン1で不完全さがあることが証明された以上、それ以降の公安の仕事はシジュフォスの神話的な無意味な労働にしかならないのである。
つまり、「サイコパス」はシーズン1で完結した話なのである。言い換えれば、「白い烏が存在することが証明された」世界で、「すべての烏は黒い」という前提ですべての世界のルールが決められたようなものである。そういう世界を守ることが英雄的行為なのか、それとも信じる神が存在しないことを知りながら、人々をその信仰に導く、詐欺師の行為なのか。
まあ、話の前提からして、「サイコパス」というアニメの中には今の統一教会問題など、現実世界の矛盾や混沌を暗示する部分があって、興味深いものではあったが、娯楽作品としては、シーズン2と3はかなりいらいらさせられる作品だった。犯罪(善悪)を扱う話の場合、掘り下げ方が浅いと非常に見ていて気持ちが悪いものなのである。
たとえば、今読みかけの小説で吉川英治の「鳴門秘帳」という古い時代小説があるが、これも主人公側の行動があまりに馬鹿すぎて、読んでいてイライラする。悪人は、悪事を行う以上、徹底的に考えて行動する。しかし、善人側はまったく無警戒、無防備なので、悪人の策略に簡単に陥れられるわけだ。では、そこからどうして助かるかというと、「偶然の助け」しか無いのである。つまり、「デウス・エクス・マキーナ」だ。これでは、主人公がいかに剣の達人で、超絶的美男子でも、「この糞馬鹿が!」としか思えないのは当然だろう。
主人公側(善の側)がやることといったら、その無思慮さのために無関係な周囲の人間に巻き添えの害を与えることだけなのである。主人公を慕うヒロイン(の仲間)ときたら、悪人の捕虜という状態から脱出するために、江戸の半分くらいを火災に遭わせるという失策までするのであり、それよりはお前たちやヒロインひとりが死んだほうが社会のためだろう、と言いたくなる。
しかし、哲学として考えれば、悪は(利を得るには合理的思考が必要なので)思慮深く、善は(悪を想像できないので)思慮が不十分で、しばしば無思慮である、というのは現実世界でもそうだろうと思う。
つまり、モラルの無い人間、感情を冷酷に無視できる人間こそが世界の支配者になるというのは蓋然性が高いということだ。それがDSという存在だろう。もっとも、そういう生き方がけっして幸福なものではありえない、というのが、悪人は究極的には愚かだ、と私が思う所以だ。


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酔生夢人
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男性
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仙人
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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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