私の別ブログの過去記事を読んでみると、我ながら面白いので、その中のひとつを転載する。
つまり、娯楽としての妄想(分析作業)の面白さだ。
描くと同時に消える絵具で描いた名画
という表現は、我ながら好きな表現だ。誰の思考の中にもそういう「消えた名画」が膨大にあるだろう。「水の上に描いた絵」でもいい。
(以下引用)
つまり、娯楽としての妄想(分析作業)の面白さだ。
描くと同時に消える絵具で描いた名画
という表現は、我ながら好きな表現だ。誰の思考の中にもそういう「消えた名画」が膨大にあるだろう。「水の上に描いた絵」でもいい。
(以下引用)
大島弓子が天才であり、漫画界の詩人であることは前に書いたかもしれないが、その作品のタイトルを見ただけでもそれは分かるだろう。
ここでは、彼女の語感(音感)の素晴らしさを示す事例を挙げる。
「雨の音が聞こえる」は、それ自体、素晴らしいタイトルだが、これは八木重吉の詩の題名を借りたものだから、それ自体は措いておく。
ここで紹介するのは、この漫画に副題として付いている「ラ・レッセー・イデン」である。
私は、初読の時に、このフランス語めいた副題の意味は何か、とだいぶ考えたが、フランス語の辞書は持っていないので、調べることもできず、また持っていても綴りを知らないのだから調べられなかっただろう。だが、程なく、私はこれが大島弓子の冗談だと気付いたのである。
いや、私の間違いであるかもしれないが、これは、「劣性遺伝」に、フランス語の冠詞めいた「ラ」をつけてフランス語のように見せたイタズラだったと思う。
実際、この短編の内容は、劣性遺伝(こんな雑文に正確さを求める人はいないと思うが、念のために言えば、生物学的な意味の劣性遺伝ではなく、劣等な能力を遺伝したという意味である。)と、それに起因する劣等感の話なのである。その副題が「劣性遺伝」であるのは当を得ているのではないか。ただ、それが「劣性遺伝」の意味だと理解できた読者が何人いたか。そこが、高度なイタズラだと思う。ネット時代の今とは違い、この「発見」を公にする手段を持つ読者もほとんどいなかったのだから、いわば、描くと同時に消える絵具で描いた名画のようなものだ。誰に伝わらなくてもかまわないわけである。
それはともかく、ここで強調したいのは、大島弓子の音感の素晴らしさだ。日本語は語尾がほとんど母音になる特質がある。その例外の語尾が長音と撥音である。「劣性」の語尾を長音にして「レッセー」としたら、「遺伝」の語尾は撥音であるから、「レッセー・イデン」は日本語らしさを持たない言葉になる。そこに、フランス語の冠詞めいた「ラ」を付ければ、これをフランス語だと思うのは自然の成り行きである。実に高度な言語操作だと思う。
ここでは、彼女の語感(音感)の素晴らしさを示す事例を挙げる。
「雨の音が聞こえる」は、それ自体、素晴らしいタイトルだが、これは八木重吉の詩の題名を借りたものだから、それ自体は措いておく。
ここで紹介するのは、この漫画に副題として付いている「ラ・レッセー・イデン」である。
私は、初読の時に、このフランス語めいた副題の意味は何か、とだいぶ考えたが、フランス語の辞書は持っていないので、調べることもできず、また持っていても綴りを知らないのだから調べられなかっただろう。だが、程なく、私はこれが大島弓子の冗談だと気付いたのである。
いや、私の間違いであるかもしれないが、これは、「劣性遺伝」に、フランス語の冠詞めいた「ラ」をつけてフランス語のように見せたイタズラだったと思う。
実際、この短編の内容は、劣性遺伝(こんな雑文に正確さを求める人はいないと思うが、念のために言えば、生物学的な意味の劣性遺伝ではなく、劣等な能力を遺伝したという意味である。)と、それに起因する劣等感の話なのである。その副題が「劣性遺伝」であるのは当を得ているのではないか。ただ、それが「劣性遺伝」の意味だと理解できた読者が何人いたか。そこが、高度なイタズラだと思う。ネット時代の今とは違い、この「発見」を公にする手段を持つ読者もほとんどいなかったのだから、いわば、描くと同時に消える絵具で描いた名画のようなものだ。誰に伝わらなくてもかまわないわけである。
それはともかく、ここで強調したいのは、大島弓子の音感の素晴らしさだ。日本語は語尾がほとんど母音になる特質がある。その例外の語尾が長音と撥音である。「劣性」の語尾を長音にして「レッセー」としたら、「遺伝」の語尾は撥音であるから、「レッセー・イデン」は日本語らしさを持たない言葉になる。そこに、フランス語の冠詞めいた「ラ」を付ければ、これをフランス語だと思うのは自然の成り行きである。実に高度な言語操作だと思う。
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