古本屋で買った文庫本で宮部みゆきの「過ぎ去りし王国の城」を読了したのだが、途中までは、これはいったいファンタジー小説なのか社会派ミステリーなのか、判別ができず、どう着地させるのかと思いながら読んだのだが、最後まで読むと、さすがに上手く着地させている。それで思ったのは、これはSF小説だということだ。
ファンタジー小説とSF小説の違いは、次のようなものである。ファンタジー小説はその小説世界そのものが現実とは別次元であり、合理性は顧慮しなくてもいい。あるいは、その世界での合理性があればいいのであり、現実世界の合理性とは別だ、ということだ。それに対してSFは、小説の鍵になる非現実的なアイデアだけは許容されるが、それ以外では現実世界の合理性で話は進行するというものだ。代表的な例で言えば「不思議の国のアリス」はファンタジー小説で、「夏への扉」はSF小説である。これは明白だろう。同様に「指輪物語」は明らかにSFではなくファンタジー小説である。妖精が出るからファンタジー、出ないから違うというわけではない。現実世界とはまったく異なることの記号として妖精などが出て来るだけだ。妖精の代わりに怪物でもいいが、現実世界にも怪物的な存在はいるので、現実世界には存在しない怪物を出すのである。ところが、ゴジラは現実世界に怪物を出すわけで、ゴジラ以外はすべて現実だという設定だ。だからSFなのである。
ついでながら、最近うんざりするほど作られる「異世界転生物」のラノベやそれに準拠したアニメが恐ろしくつまらないのは、その異世界の造形がじつにいい加減だからである。まったく頭を使っておらず、異世界に行く意味がほとんどない。単に、現代人の「ここではないどこかへ」行きたい願望に媚びただけの作品群である。
最初に書いた「宮部みゆき」の本だが、例によって「上手だが、読む楽しさはない」作品であり、これはもちろん私にとっては、ということだ。登場人物に好感が持てないし、本質的にユーモアが無い。作者の昔のブログなどを読むとエッセイではユーモアを発揮するのだが、小説ではそれがまったく陰をひそめるのである。登場人物に好感が持てないのも、作者が合理主義者だからだろう。「ありそうな人間」は書けるが、「ありそうにない人間」を書くのをためらってしまうのではないか。つまり、底抜けの善人などは脇役としては書けるが、中心人物だと、ついついその深層心理まで深堀りしてしまい、結果的に好感の持てない人物になるのだろう。この作者には「ドン・キホーテ」や「白痴」のような主人公は書けないと思う。藤沢周平なども同様だ。
山本周五郎などは、作者の人格は別として、それが書ける大衆作家だった。良い意味での馬鹿が書けるというのは、つまり馬鹿を愛し、その人格に敬意を持つことができたわけだ。
ついでに言えば、ユーモアとは「無邪気な幸福感を伴う笑い」である。そこが冷笑や嘲笑とは異なる。