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凡人が自分の手が届かない事柄を支配しようとする愚

政木和三というのは面白い人物で、有益な発明を幾つもしていながらその特許権を放棄して世間に知られない社会奉仕をする一方で、私のような凡俗には信じがたいような神秘主義的思想の持ち主でもある。「大摩邇」に引用された彼の文章の中で、一般人にも大きな便宜である「考え方」をここに転載しておく。
ここに書かれた事例の本質は簡単なことで、(古い事例になるが)ボーリングの球を投げる(転がす)時、はるか彼方のピンの群れを目掛けて投じると、ほぼ必ず失敗する。だが、間近にあるスパット(と言ったと思うが、レーンの途中に描かれた印である)を目標にして投げると、かなり正確に投げられるのである。あるいは、銃の射撃でもいい。遠くの目標を睨みつけ、それを目掛けて撃つのではなく、目標と銃の照準(と言うと思うが、目の近くの目印)と照星(銃の先端の目印)を合わせて撃つのである。見ているのは主に照星と照準だ。つまり、近いところを見ている。
これを大きく言えば、ヴォルテールの「カンディード」の末尾に書かれた人生訓「自分の足元を耕せ」ということになるだろう。
下の事例は、大きなゴルフ場を意識から追放して、自分の足元1平方メートルだけが『自分のゴルフ場』だ、とする発想が非常に面白い。つまり、自分がコントロールできるのはそのわずかな面積の中だけなのである。さらに言えば、自分が支配できるのは自分だけであり、それさえもできない人間は膨大にいる。つまり、精神異常である。ゴルフでミスをするのは「瞬間的な小さな精神異常」であるとも言える。これはプロでも免れない。
もちろん、これ(自己制御可能な範囲の問題)は金力や権力で他者を支配する類の話とはまったく別問題だ。



(以下引用)

 筆者は

 『無欲の大欲』

 の意義をゴルフによって体得した。

 昭和五十二年十月、田辺カントリークラブにおいて実施された関西シニア選手権試合の当日である。

 第一打を打とうとしたとき、インスピレーションの形で頭にひらめいた。

 『なんじのゴルフ場は足許一米(メートル)平方である』

 この言葉である。

 いままでは真ん中へ飛ばそうとか、グリーンの旗の近くへ寄せようとか思って打つために、頭が動いたり、手に力が入ってとんでもない方向に飛んでいったが、この神示、

 『なんじのゴルフ場は足許一米平方』

 と考えれば、飛ばそうと思わなくてもよい。

 方向は最初構える時に決めるだけでよい。

 スパットを見付け、その方向に素振りをする気持ちでクラブを振り、クラブヘッドをボールに当てるだけでよい。

 ボールに当たれば、ボールはその力だけ飛んでゆく、目の前に川があろうと、池があろうと、バンカーがあろうとも、それらは全て地上にあるものであった。

 ボールの飛ぶ空中とは何の関係もない存在である。

 ゴルフをはじめたころは、目の前に大きな池があれば、力んで池の中に何個もボールを打ち込んだものである。

 空中を飛ぶボールにとっては、無関係な川や池を意識したために力がはいり、そのような不首尾な結果を招いたものである。

 自分のゴルフ場が、自分の足許一米平方だけであって、広い草原の上はボールの飛ぶ空間であり、飛んでいるボールには地上は無関係である。

 落下したとき、ボールの近く数平方米だけが必要なゴルフ場となる。

 当日は、第一打の瞬間に頭の中にひらめいた言葉によって、目先の欲望を捨て去ることができて、選手権の二日目を無欲のプレーが続き、そのために状勢が有利に展開し、ついに優勝の栄をになうことになった。

 無欲の大欲。

 この相反するような言葉は、目前の欲望を捨てて、自分のすべきことを黙々とやっておれば、大きな成果が自分のものとなることを教えている。

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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