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社会の汚物との妥協は人生の唯一の解か

壺斎散人氏のブログから転載。
「ライ麦畑でつかまえて」(正しくは、「ライ麦畑の子供見守り人」という意味での「キャッチャー・イン・ザ・ライ」だろうが)は20歳前後に読んでこの上なく感動した小説で、その感動を守るため、二度と読んでいない。だが、まあ、この小説は女性には好まれないだろうな、という気がする。主人公は社会を拒絶し、大人を拒絶し、おそらく女性をも拒絶するタイプの人間だからだ。社会との、そして他者との和合こそは大人の、そして女性の最大の人生目標なのではないか。昔から、隠者とは男に特有の生き方だったという気がする。それは「愛」が人生の最大の関心事である女性にはありえない生き方だ。
ちなみに、村上春樹の偏愛の小説が「ライ麦畑でつかまえて」「ロング・グッドバイ」「グレート・ギャツビー」「ティファニーで朝食を」で、この四つとも自分でも訳している。これらの小説の特徴は、poetryだ、というのが私の見方であり、村上春樹の小説にもその影響は大きいようだが、私は彼の良い読者ではない。しかし、彼は文章の達人だと思っている。(念のために言えば、詩情には、荒涼の詩情も残酷の詩情もある。たいていの大衆小説に欠けているのが、「詩情」である。)

(以下引用)文中の「コールマン」は「コールフィールド」ではなかったか? 「ホールデン・コールフィールド」は、それ自体が「キャッチャー・イン・ザ・ライ」につながる名前だと思う。



サリンジャー戦記:村上・柴田のサリンジャー談義


サリンジャーの小説「ザ・キャッチャー・イン・ザ・ライ」は、村上春樹にとって特別の小説だったらしい。彼はそれを高校生の頃に野崎孝訳で読んで以来、ずっとこだわり続けてきたというようなことを言っているし、また、できたら翻訳もして見たかったともいっている。その宿願がかなって晴れて翻訳できた。そこで翻訳の協力者柴田元幸と、この小説の不思議な魅力について語り合った。それが「サリンジャー戦記」である。「翻訳夜話」の続編ということになる。

いうまでもなくこの小説は古典である。何しろ今までに全世界で数千万部が売れ、更に毎年数十万部が売れ続けている。こんなすさまじい勢いを保ち続けている古典作品は他には見当たらないのではないか。何が魅力なのだろう。
魅力の感じ方は、読む人によって様々だろう。若い人とある程度年齢のいった人ではとらえ方が当然異なるだろうし、男性と女性でも異なるだろう。だが、これを一つの青春小説と捉えることでは共通しているのではないか。だから、青春のまっただなかを生きているものにとっては、自分の青春と重ね合わせながら読むことが多いだろうし、すでに青春を通過した人にとっては、哀惜のような感情を以て読む人が多いだろう。

筆者の場合には、この小説を読んだのは30歳をだいぶ過ぎた頃だった。だから青春などというものは、遠い記憶のそのまた奥に置き忘れてきた、今の自分とは無縁な事柄だと思っていたのだったが、この小説を読んでみると、その忘れていた自分の青春が昨日のことのようにありありと蘇ってくるような感じがしたものだ。筆者の場合にそうだったように、この小説は色々な年齢層の人々に、彼らなりの青春を感じさせる、あるいは思い出させる、ものなのだと思う。
しかし、青春小説と呼ばれるものが星の数ほどある中で、なぜこの小説だけが爆発的な人気を呼び寄せているのか。その秘密のようなものが、この二人の対談を読むことで、少しはわかってくるような気になる。二人とも何らかの点でこの小説にいかれた読者だからだろう。

この小説の特質として二人は色々な点を挙げているが、その中で筆者が感心したのは二つ、一つはこの小説がイノセンスを礼賛していると指摘している点、もう一つは地獄めぐりのような、魂の遍歴を思わせるところがあると指摘している点である。

イノセンスといえば幼少期に固有のことであって、青春とは必ずしもストレートに結びつかない、というのが大方の受け取り方だろう。青春期というのは、少年から大人になる通過点であり、社会の規範に抵抗したり、あるいは受け入れたりしながら、少しづつ大人に向けて成長していくことなので、むしろイノセンスからの脱却だといってもよいほどである。ところがそのイノセンスを、この小説の主人公であるコールマンは身にまとっているし、またそれをあくまでも守り抜こうとしている。つまりコールマンは、少なくともダーティな大人にはなりたくないと、拒否しているわけである。そこが普通の青春小説とは大分違う、と二人は指摘する。
普通の青春小説なら、青春期にある青年を目の前の大人の社会と対立させたり、妥協させたりしながら、青年が次第に変容していくさまを描く。その変容とは基本的には少年から大人へと成長することだ。その成長途上の過渡期を描くのが青春小説の本領であるから、そこには最後には救いのようなものが待ち構えているのが普通だ。魂の遍歴の末に、青年は無事大人になりましたという、ある種のハッピーエンドがあるはずなのだ。つまり、物語には終わりがある、いいかえれば出口がきちんと用意されている、ということになっている。そうでなければ、青春小説とはいえない。終わりのない青春、つまり大人にならない青年なんて、形容矛盾だからだ。

ところがこの小説には、その終わりがない。コールマン少年には、大人になれる可能性が保証されていないのだ。この少年はいつまでもぶつぶつと言いながら大人の社会の周辺をうろついているばかりで、大人の社会と正面から向き合おうとしない。だから普通の意味の対立も生まれなければ、まして妥協や価値の内面化も生じないで、少年はいつまでも大人に向けて成長していくことがない。彼はある意味で永遠の少年のまま化石化してしまう可能性を感じさせる。永遠の少年、つまりピーターパンだ。
ピーターパンは大人になることを棚上げした存在だ。大人になることを拒否しているわけではない。だからいつかは大人になるかもしれない。しかしどんな大人になるか、それをとりあえずは棚上げしたいだけなのだ。普通の人にはそんな余裕はないけれど、ピーターパンにだけはある。彼には別な可能性が残されている。

もう一つの点、地獄めぐりについては、村上は次のように言っている。

「ホールデンが自己意識の中を、真っ暗闇の中を、手探りで、あちこちつまずきながら進んでいく。殴られたり、吐いたり、下痢したり、凍えたり、いろいろ大変なんです・・・簡単な言葉で有効に語られる深い、暗い内容というのは、優れた物語にとってのひとつの大きな資格である想うんですよ」

つまりホールデンにとっての地獄とは自分の意識の底にある世界であるようだ。そこに下りて行って、殴られたり、吐いたりする世界でもある。その地獄を遍歴することで、自分が変るというわけでもないけれど、しかし何かが深まることは感じられる。その深まりの底には更なる暗闇が広がっているが、その暗闇の中から魂の叫びのようなものが聞こえて来る。その叫びが物語に陰影を刻む、ということだろうか。

次に筆者が面白いと思ったのは、村上らがこの小説をサリンジャー自身の生き様と関連付けているところだった。それはひとつにはサリンジャーがこの小説に託した思いという側面、もう一つは晩年のサリンジャーがコールマン少年と同じように社会と折り合えず、孤絶した生活を送るようになったという点だ。

サリンジャーは従軍してノルマンディー作戦に参加したりしたが、戦線での経験は一切語らなかった。しかしこの戦争で深く傷つき、深刻なトラウマに取りつかれたらしいと村上は推測する。この小説はそのトラウマから脱出するための、治癒行為としての意味を持っていたのではないか、というのが一点。

それから、晩年のサリンジャーはコネティカットの森の中で孤絶した生活を送るようになったが、それは社会と妥協できなかったという事情もあるだろうけど、もしかしたらサリンジャーがコールマン少年に同化したことの結果だった可能性もある、と村上は推測する。

作家の中には、小説の登場人物に自分自身を投影するタイプの人と、自分自身に登場人物を投影させるタイプの人とがいる、と村上はいう。サリンジャーは後者の典型だったのではないか、というわけである。

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