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「大衆小説」と「猪口才」

作家歴が長いわりに、その評価をあまり目にすることが無い作家というものがいて、そういう作家には何かの欠点があるのではないか、と思うのだが、先ほどまで読んでいた小説を読んでいる間思っていたのが、「この作家は何が言いたくてこの作品を書いたのだろうか」ということである。もちろん、大衆小説だから、読者を楽しませることが第一の目的だろうし、その「楽しませる」中には、「泣かせる(感動させる)」こともあるわけだ。
しかし、その作品を読み終わっても、私はこの作者が何のためにその作品を書いたのか、さっぱり理解できなかった。一般的には「上手い」作家だろうし、ベテランだから作品に破綻はない。人間の心理への理解もあるとは思う。しかし、「読む楽しさ」「小説の快感」はまったく無いのである。
時代小説で、それも町人の世界の話なので、出て来る人物は庶民である。そして、その世界には「高貴なもの」細かく言えば「真・善・美」が存在しないのだ。むしろ、小市民の「一見善人である」人物の心の底の悪意を描いている。では、それを読んで、誰が楽しいのか。何が面白くて無名の町人の「リアルな」心理を娯楽小説の中で見たいのだろうか。そんな「純文学性」は純文学に任せておけ、である。
私の頭の中に浮かんだ言葉が「猪口才」という言葉である。破綻なく作品を作る才能は、貴重なものではあるだろうし、一定数のファンがいれば、つまり作品需要があれば作家歴も長くなるだろう。しかし、大衆小説こそ「大きな才能」が必要だ、というのが私の考えだ。
純文学の、たとえば芥川賞作家なら、生涯にその作品一作で終わっても、それが一部の人にしか読まれなくてもいいだろう。しかし、破綻があっても、失敗作をいくら書いてもいいから、生涯にひとつでも「大衆に喝采で迎えられる」傑作を書くことが大衆小説作家の本懐なのではないか。だが、巨大な才能は、けっして一作では終わらない。「面白い」作品を作る才能とは、作者本人がそれを「面白い」と思い、それに全エネルギーを投じるという才能だ。そういうスケールの大きな才能がデュマやバルザックやディッケンズや、日本で言えば松本清張(主に時代小説)である。

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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